「リアルなもの」 と 「リアルに感じられるもの」
世の中で、一体何がリアルで、何がフェイクなのだろうかと考える時がある。現実にしかと存在するものがリアルであるとは、全然限らない。その反対に、作り物でしかないはずなのに、妙にリアルに感じられるものもあったりする。
この写真は、かの有名な、と言ってしまうと、その存在すら知らない人があまりにも多すぎることにビックリしてしまうこともあるのだが、まあ、私の中では十分に有名な、上野公園のシロナガスクジラである。公園内の国立科学博物館のシンボルみたいになっている。
この写真、実は撮影した時にはごく平凡に全身を写していた。こんな具合である。修学旅行で来た高校生なんかも、多分こんなような構図で撮影しちゃうだろう。
で、この写真を改めて PC 画面上で見た時、「我ながらつまんねえ写真、撮っちまったなあ!」 と思ったのである。まあ、それは私だけじゃないみたいで、「上野公園 シロナガスクジラ」 というキーワードで画像検索すると、こう言っちゃ悪いが、ほとんどはつまらなすぎる構図だ(参照)。
で、ちょっとだけ細工しちゃおうということになり、落ち着いたのが、上の方の写真だ。この方が、少なくとも私にはリアルに感じられる。とくに、口元に辛うじて存在するちっこい目が、なんともいい。
こんなのは、同じ写真の一部を切り取って拡大しただけなのだから、大した加工を施したわけじゃない。ただそれだけのことなのに、「つまらなすぎる写真」だったもののリアルさが、ちょっとだけ増したような気がするのである。
多分、「何をリアルと感じるか」というのは、各人の脳内プログラムによるのだろう。それぞれの人が生まれた時から、いや、生まれる前からの経験で脳内に形成したプログラムによって、あるものをリアルと感じ、あるものをフェイクと感じる。
まあ、同じ人間だから、その感じ方には一定の法則みたいなものもあるんだろうが、細かいことを言えば人によってかなり違う。ある人が感動するほどリアリティを感じているのに、別の人はちっとも心を動かされないなんてことはいくらでもある。
卑近な例で言えば、団塊の世代より上の多くのおっさんたちが「これぞ心の音楽」と感じてしまう「ズンチャチャ、ズンチャ」リズムの演歌を、最近の若い連中は「自分たちとは全く無関係の音」と感じる。コンビニの店先に小さな音で演歌を流すと、ウンコ座りでたむろするヤンキーたちが自然にいなくなるというほどのものである。
逆に最近の「ピコピコ音楽」は、団塊の世代には音楽とも感じられない奇異なものにしか受け取られない。同じ日本人でも、脳内プログラムがかなり違ってしまっているのである。
何が言いたいのかというと、世の中には「リアルなものがある」というより、「リアルと感じられるものがあるだけ」なんじゃないかということだ。本当にリアルなものは、多分現実世界ではなく、別の世界にあるのだ。
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