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2017年4月に作成された投稿

2017年4月30日

関西の暑い日が暮れた

出張で大阪に来ていて、夜の 8時過ぎになってホテルに入ったところだ。大阪市内のホテルは連休だけに軒並み満杯だったので、郊外のホテルである。窓の外には団地の灯が見える。

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それにしても暑い一日だった。朝の 8時半頃に家を出る時には涼しかったのだが、昼過ぎに新大阪駅のホームに降り立った時にはまるで夏のような暑さで、日の当たるところを歩いているとかなり汗ばんだ。

今日のニュースをみると、大阪は最高気温が 25.7度の夏日だったらしい。感覚的には 「25.7度しかなかったの?」 と言いたくなるほどの暑さだったが、大阪はまだましな方だったようだ。

日本経済新聞によると、今日の最高気温は兵庫県豊岡市で 31.1度に達し、そのほかでも鳥取市で 30.0度、富山市で 29.1度、福岡市で 28.2度になるなど、西日本は軒並み暑い日になったらしい(参照)。どうやら、暑いところを選んで来てしまったようだ。

予報では明日の気温は大阪でも 24度ぐらいに止まるようだが、それにしても涼しいというわけではない気温である。思えば関東にしても、これから暑い夏に突入する。そろそろ覚悟しておこう。

 

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2017年4月29日

イノシシの北限が岩手県に入ったらしい

昨日、仙台在住の友人と会ったら、近年は仙台市内でもイノシシが出没し初め、農作物の被害が出始めたと言っていた。さらに宮城県北部を越えて、岩手県にも確実に進出しているという。

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私は長らく「イノシシの北限は宮城県南部」と信じていたが、昨年の今頃「温暖化の最近は岩手県まで進出したという説もある」と半信半疑で書いている(参照)。しかし今回、「説がある」どころではなく現実に被害が出始めて困っていると聞き、びっくりである。

宮城県の地方紙「河北新報」の記事によると、イノシシの北上は、地球温暖化という自然要因のほか、高齢化による狩猟者の減少、耕作放棄地の増加という人為的要因も絡んでいるという。さらに東日本大震災による原発事故の影響も大きいという。

捕獲されたイノシシ肉の放射性セシウム濃度が国の基準値(1kg当たり 100ベクレル)を超える例が続き、出荷制限がかかっているので、狩猟がさらに下火になっているというのである。イノシシの北限に狩猟や耕作放棄地といった人為的要因が影響しているとは知らなかった。

上述の昨年の記事では、私は山形県生まれのため「子供の頃はイノシシなんてまったく縁遠い存在で、想像上の動物ぐらいに思っていた」と書いている。とにかく私は、茨城県に住み着いて長い今でも、ナマ・イノシシは見たことがない。動物園でも見たことがないので、個人的には、十二支の中の辰とイノシシは今でも神秘的な存在だ。

仙台の友人は 「岩手県まで進出してるんだから、おそらく山形県にも行ってるんじゃないの」 と言っていたが、さてどうだろう。冬は大雪で覆われる奥羽山脈を、足の短いイノシシが越えるだろうか。

 

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2017年4月28日

腕時計だけはスマホに置き換えられない

近頃はいろいろな道具をどんどんスマホ(iPhone)で置き換えているのだが、腕時計だけは相変わらず手放せない。昔何度もみた映画、"Easy Rider" では、ピーター・フォンダとデニス・ホッパーの演じる 2人の男が旅に出る前に腕時計を捨て去るのだが、これだけは真似できない。

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思えば、カメラもムービーも写真アルバムも、カレンダーもスケジュール帳もメモ帳も、辞書も地図もカーナビも、ラジオも音楽プレーヤーも、スキャナーもその他モロモロも、どんどんスマホに置き換えた。おかげで仕事に行く時の持ち物がすっかり減った。

ところがどういうわけか、時計だけはスマホに置き換えられない。そりゃあ、出張先のホテルでの目覚ましはスマホで設定する。私の腕時計には目覚まし機能なんか付いてないしね。しかし移動中や仕事中に、ひょいと時刻を確かめたい時などは、やはり腕時計を見てしまうのだ。そこでポケットから iPhone を取り出す気にはなれない。

カメラや辞書、地図、メモ帳などは、使う時にはポケットから取り出す。だから、iPhone を取り出すのも同じ動作だから苦にはならない。しかし腕時計だけはポケットから取り出す動作を伴わない。左手首をひょいと上げればいい。それが iPhone では及ばないところだ。

時間に追われる仕事を離れて隠居してしまうまでは、やはり腕時計は手放せないだろうと思う。何の因果かは知らないが。

 

続きを読む "腕時計だけはスマホに置き換えられない"

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2017年4月27日

「ぜひぜひ」 に関する考察

数年前に、「言葉のインフレ」 ということを問題にする記事を複数書いた (参照 1参照 2)。とくに言いたかったのは、「是非是非」という繰り返しと、すすり泣き程度で「号泣」と表現する風潮への違和感である。とくに最近の話し言葉では「是非」の一言でさえ大げさに感じるような話でも、「是非是非」と繰り返すのがほとんどお約束のようになっている。

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「号泣」という言葉の本来の意味は、「大声を上げて泣き叫ぶこと」、つまり「大泣きすること」である。ところが最近は、声を上げたわけでもないのに「号泣」と伝えられることが多くあって、まさに「言葉のインフレ」そのものだ。

これに関しては、7年前の ”「号泣」 という言葉がインフレを起こしてる” という記事で触れたように、近頃は「号泣」を「声を押し殺し大量の涙を流して泣くこと」 と誤解している人が増えたことによるもののようだ。要するに「感極まった」という条件さえあれば、実際にはすすり泣き程度でも「号泣」と言われてしまいがちになっている。

で、思ったのは、「是非是非」の方も、本来の「是非」という言葉を知らずに使われてしまっているんじゃなかろうかということだ。なにしろ Yahoo 知恵袋に "「是非お願いします」ってどういう意味ですか?" なんて信じられない質問が寄せられる世の中だから。

この質問をした人にとっては、多分「是非」と「ぜひぜひ」(敢えてかな表記にする)は別の言葉なのだ。テレビなどで 「ぜひぜひご応募下さい」と言われても全然疑問を感じないのだろうし、自分でも「ぜひぜひ来てね」なんて言っているかもしれない。ところが「是非お願いします」と改めて漢字表記されると、「それ何?」と思ってしまうのだろう。これはちょっとすごいことだね。

ネットの表記をググってみると、「是非是非」という漢字表記が「ぜひぜひ」のかな表記よりも多くなっているが、これはきっと、打鍵時に漢字変換システムが勝手に変換してしまったことによるのだろうと思われる。書いた人の頭の中では、多くの場合「是非」と「ぜひぜひ」は別の単語なのだ。きっとそうだ。

ちなみに私自身は、「ぜひぜひ」 というのは気持ち悪くて使えない。

 

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2017年4月26日

「業の深さ」 を感じさせる今村復興相の辞任

今村雅弘復興相が、つまらない失言問題で辞任するという。つい先日の記者会見では大荒れ発言などもあって、「つい、いろいろ口走っちゃいやすい人」みたいだから、気をつけなきゃまたやるだろうなあと思ってはいたが、もうやっちゃった。

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あの東日本大震災の問題を 「まだ東北で、あっちの方だったからよかった」なんて言ったというのだが、所詮は他愛もない軽口ではある。ただ、私の住む茨城県南部もれっきとした被災地であり、しかも私は東北出身でもあるので、「他愛もない軽口」とは思っても、正直なところ、ムッとくるところはある。

この人、昨年の熊本の地震に関しては「九州の方だからよかった」なんて、絶対に言わないだろう。何しろすぐ近くの佐賀県出身で、選挙区も佐賀県だしね。あの発言の趣旨は「首都圏に近かったら莫大な被害があった」ということらしいが、九州よりは東北の方が明らかに「首都圏に近い」し、現実に東京都区内でも被害があったことを忘れているようだ。

まあ、やっぱり心の底では東北を軽く見ているってことで、そうした意識がポロッと漏れてしまったのだろう。でも、フツーはこうしたことがつい口をついて出てしまいそうになっても、ギリギリのところで心の中のアラームが鳴るよね。

この人、東大法学部出身だというから、決してお馬鹿ってわけじゃないのだろうが、まるで魅せられたようにお馬鹿な失言を繰り返す。そしてこの人だけじゃなく、政治家というのはなぜか好んで失言をしてしまう「業」みたいなものを背負っているようなのだ。

この件に関しては、4年前に "政治家の失言問題と、「上品なジョーク」がウケない風土" という記事で、「下世話な、あるいはレベルの低すぎるレトリックが問題」と指摘している。

政治家は地元や支持者の集まりの講演会などで、つい「リップサービス」をしてしまうところがある。「私は結構ジョークの通じる、くだけた人間なんですよ」とばかり、「身近なオッサン」であることをアピールしたがったりするのだ。これについて、私は次のように書いている。

リップ・サービスしたかったら、少しは上品なジョークを多用すればいいという気もするのだが、私の経験から言わせてもらうと、日本のオッサンたちには上品なジョークって、全然受けないのである。受けないどころか、下手すると「気取ってる」なんて受け取られかねない。ウケを狙うとどうしても、下世話に落とさなければいけないというようなところがある。

つまり、我が国の大衆は下世話を欲しながら、まともに下世話で応えられると「けしからん」といきり立つ傾向があるのだよね。これはもう、なかなか困ったことなのである。こんな状況だから政治家の方でも、なかなか上品なジョークが上手にならない。

つまり政治家に失言が多いのは、支持者たちが下世話な話を好むからでもあって、こればかりは「どっちもどっち」というところがあるのだよね。話し手は基本的に聴衆に合わせて話するわけだから。

 

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2017年4月25日

休みたい!

いやはや疲れ気味、というより、正真正銘疲れている。さすがに還暦越えて休日もなくあちこち飛び回りすぎると、疲れが溜まってしまうようだ。

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今月 17日に 「春はとにかく眠い Part II」 という記事を書いている。事実、不規則な生活が続いて睡眠不足気味だった。その眠いところにもってきて、19日から 2泊 3日で 2カ所を廻る強行軍の出張に突入した。そして帰ってみると、ぐったりと疲れているのである。

これほどまでの 「疲れた感」は、生まれて初めてかも知れない。出張から帰った翌日は、疲労と筋肉痛で驚いたが、「まあ、1日経てば回復するさ」 と思っていた。しかし翌々日になると筋肉痛はますますひどくなった。翌々日に筋肉痛というのは、年を取った証拠なんて言われるが、まあ、当人としてもショックである。

とにかく足が重いのである。できれば 1日しっかりと休養を取りたいが、スケジュールが詰まっていてそれが許されない。徐々に疲れを抜いていくしかない。

季節の変わり目に、体力を過信してハードワークを続けると、結構こたえる年になってしまったようなので、これからは気をつけようと思う。とにかく 1日でいいから、何もしないでゴロゴロできる日がほしいと思うのだが、明日から 1泊 2日が 3回連続で続く。

自分で組んだスケジュールなのだから文句を言わずにこなすしかないが、ああ、考えるだに恐ろしい。

 

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2017年4月24日

A3 サイズ対応の FAX 兼用プリンターの使用を止めた

今月 18日の記事で書いたように、デスクサイドにあった馬鹿でかい FAX を取り外した。おかげでデスク回りに余裕ができた。これで、使用プリンターは Brother のモノクロ・レーザー・プリンター と、カラー印刷用の Epson インクジェット・プリンター (スキャナ兼用) の 2台だけになった。いずれも A4 サイズまでの対応である。

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取り外したのは Brother の FAX 兼用インクジェット・プリンターで、A3 サイズまでの印刷と受発信が可能なタイプである。なんでまた、こんなに大きなものを設置していたのかといえば、かつては必要だったからなのである。

まず、FAX 機としてだが、B4 サイズ以上の書類のやり取りが、昔は実際にあった。通常の A4 サイズまでのマシンだと、送り手が B4 サイズ以上のものを送った場合、縮小印刷で対応する。しかし縮小されてしまうと、字が小さすぎて読めなかったりする場合もあり、業務で使う場合には A3 サイズの受発信可能なタイプが必要だった。

さらにプリンターとしても、袋とじ印刷を行う場合は A3、B4 サイズの対応が必要だった。役所に提出する書類は、この袋とじというのが求められたのである。袋とじで A4 サイズにするには、その倍の A3 サイズで印刷しなければならない。

しかし近頃は、役所に提出する書類を作るなんて仕事からは遠ざかった。はっきり言って、そんな仕事はしたくない。役人とつきあうなんて、もうまっぴらだ。

さらに思い起こしてみると、この 2年ぐらい FAX の受発信そのものをしたことがない。すべてメールで済ませる世の中になった。今の世の中で、FAX での情報のやり取りにしか対応できない相手とは、仕事したくない。よって、FAX 機も必要ない。

この 21世紀の世の中になっても、芸能人の結婚や離婚の発表は、マスコミ各社に FAX で送付されるらしい。妙な風習である (参照)。私はそんな世界とは関係がないから、とっくに FAX 機を取り外してもいいはずなのだった。今頃になって取り外すのは遅いぐらいだと気付いた。

 

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2017年4月23日

「石パン」 という食べ物

「堅い食い物」と言えばいろいろある。まず思いつくのがフランスパンとか、堅焼きせんべいとかで、これらは表現するとすれば 「カチカチ系」 だ。

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「歯ごたえ系」とでも表現したくなるのが、たくあんなどの漬物で。酢昆布などもその流れだろう。コチコチに堅いわけじゃないが、噛み切ろうとすると、その繊維が難敵になる。その他に「もっちり系」と表現されるものがあり、歯ごたえのある餅などが挙げられる。

しかし多くの場合、「堅くて噛めない」というほどのことはない。そもそも「堅くて噛めない」というほどのものが食品として存続するのは難しい。多くの食品は、そのままでは堅くて食いにくいものを煮炊きするなりして、食べやすくしたものだ。

しかし世の中には、その常識を打ち破る食い物がある。上の写真は、讃岐の善通寺参道にある熊岡菓子店の販売する「石パン」というものだ。先日讃岐に行った時、「金比羅さんは何年か前に行ったし、今回はそこまで足を伸ばす時間がないから、善通寺参りをするか」と、軽い気持ちで寄ってみたのである。

善通寺は四国八十八箇所霊場の第七十五番で、真言宗善通寺派の総本山としても名高い。行ってみると大変立派なお寺で、参拝客も大勢いた。そして帰りに寄って軽い気持ちで買ったのが、この「石パン」である。

熊岡商店は、葛飾柴又の商店街を思い出させるような、昭和の雰囲気溢れる店作り(参照)で、結構人気店らしく、客が列をなしている。私もいろいろな種類のお菓子を買ったのだが、最も衝撃的なのがこれだった。

何しろ、堅くて噛めない。本当に噛めない。まさに「石」である。あまりの堅さに、しばらくは口の中でしゃぶっているしかない。5分ぐらいしゃぶるうちに、少しは唾液でふやけて噛めるようになる。

話のタネにと友人知人にも食べさせたが、「堅い!」と言う人はあっても(というか、100% そう言うのだが)、「まずい」という人はいない。「おいしい、クセになる」という。しかしとにかく堅くて噛めないので、いくらクセになっても量は食べられない。だから太る心配もあまりない。

この食べ物の発祥は、兵隊の非常食料として作られたものであるらしい。なにしろカチカチで水分が少ないから、日持ちがする。1ヶ月は常温でも大丈夫らしい。

「これはパンと思うからいけない。アメ玉と思えばいい」という人もいた。アメ玉のつもりでしゃぶっているうちに、最後にはなんとか食えるようになる。確かにそう思えば、一粒で長く楽しめる。

とにかく、私がこれまで食べた食い物の中では、最高に堅いものだった。

 

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2017年4月22日

将来の「夢」を語ったことがない

よく「夢を語れ」とか言うが、私はそれについて一度もピンときたことがない。「青春時代に、友と夢を語り合った」などと思い出話をする人もいるが、私にはそんな経験がない。

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実感としては、「夢を語るほど暇じゃなかった」というのが本音だ。若い頃からいろいろな文化活動に関わったりしていて、とにかく目の前にある「おもしろいこと」に取り組むのに没頭していた。先のことまで考える暇なんてなかったのである。

「その関わっていた分野を、自分の『夢』とはしなかったのか?」と聞かれることもあるが、「そんなことを『夢』としていいなんて思わなかった」と言うしかない。熱しやすく冷めやすかったのである。一時的に夢中になっても、それに人生賭けるというほどの発想はなかった。もっと夢中になれるものが出てきたら、いつでも乗り換えるつもりでいた。

それに、何しろ情報不足だったのである。人生を賭けてもいいと思えるものを探してはいたような気がするが、いつも見つからなかった。なにしろ高度経済成長期だったので、世の中がどんどん変わる。そのどんどん変わる世の中をキャッチアップするだけの情報基盤が、その当時はなかった。

田舎育ちの若造には、何もわかっていなかった。何もわからないで「夢」を語るほどの無鉄砲でもなかったのである。だから、「今」しか見ていなかった。とにかく目の前に現れたものに取り組むだけで精一杯だった。そのままずっと、目の前のものとじゃれ合い、取っ組み合いしながら、還暦を過ぎてしまった。

そしてここまで来ると、過ぎ去ったすべてが「夢」のような気がするのである。私にとって、「夢」は未来に置いて語るものではなく、過去として振り返るもののようなのだ。そして今でも、目の前のものとガチンコで取り組みっぱなしでいるというのが、我ながらおもしろい。

 

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2017年4月21日

都会への親和性を失ってしまった

讃岐と京都への二泊三日強行軍出張を終え、夜も更けてから帰宅した。歩きの行程も長く、荷物もかなりの重量だったので、体力を使う旅だった。新幹線で東京に降り立ち、つくばエクスプレスへの乗り換えのために秋葉原の街に出た時には、そのあまりの雑踏に「うわぁ、こりゃダメだ!」と思った。

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関西では案外すいすい移動できたのに、東京の秋葉原の街が、もうダメなのである。大学入学以来、40年も東京の空気を吸い続けた自分が信じられない。もう東京では暮らせない体になってしまったことを、しみじみと実感する。

思えば、高校を出て 18歳で、単身上京したのである。田舎の街を出て、東京で暮らしたくてたまらなかったのである。そして30歳手前まで都内に生息し、それから茨城県のつくばの地に家を買って移り住んだ。しかしそれからもずっと、鉄道の定期券をもって都心に通い続けたのである。

ところが今となっては、自分でも信じられないほど東京という都会への親和性を失ってしまった。今回大急ぎで旅した四国と関西の街では、土地の人たちと濃密に接してもあんなにしっくり来ていたのに。

自分は東京という都会からは卒業したのだと思う。もう東京は、乗り継ぎか、美術館や劇場に行くという用事しかない。都会は人間の暮らすところではなく、時々出かければいいところである。

空があり、土があり、山があり、川の流れる土地に住居を構えて、本当によかったと思っている。

 

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2017年4月20日

禁煙を「健康視点」で語るのは不毛だ

Biglobe ニュースが、"スモーカーに甘い自民党に言いたい 「他人の受動喫煙で病気になってたまるか!」" という「週刊女性 Prime」の記事を紹介している。この問題に関しては私も、今月 15日の「飲食店内禁煙に、自民党内で反発が大きいらしい」という記事で触れている。

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まずはっきりさせておこう。私自身は飲食店内禁煙に関して、「健康視点」というまどろっこしい話をキーワードにしていない。早く言えば、「臭くて、おえっとなるから煙草の煙が漂う中には入りたくない」ということに尽きるのである。理屈で「健康に悪い」だのなんだのいうよりも、とにかく、臭くて生理的に耐えられないということが第一なのだ。

上述の Biglobe ニュースでも、次のように日本たばこ産業(JT)の見解を一応紹介する。もっとも「お笑いぐさの見解」として紹介しているようなんだけどね。

日本たばこ産業(JT)は 「私たちは受動喫煙というのは喫煙しない人の迷惑になるという点で考える。受動喫煙が身体の害になるという医学的な見解は十分ではない」(広報)とまでも言い切る。

私としても、この見解は確かにお笑いぐさだとは思うけれど、「受動喫煙というのは喫煙しない人の迷惑になるという点で考える」という点に関しては賛同する。ただ、彼らの「迷惑さ加減の考え方」に関しては、「まったく不十分」と思うのだが。

で、さらに、iRONNNA というサイトで、漫画家の黒鉄ヒロシ氏の "タバコが健康に悪いかどうかという議論は 「もはや、これまで!」" という記事を見つけた。これは「愛煙家通信」No.8(2014 冬号)に紹介されたものというから、結構古いといえば古くて、まあ、典型的な喫煙者の立場での主張である。

彼は「喫煙が健康に悪いというのは、ヒトラーの誤解から始まっている」と主張している。要するに、確固たる根拠はないというのだ。だから「健康に悪いから煙草を止めろ」というのは、ナンセンスという議論である。あの『バカの壁』の養老孟司氏も「禁煙はナチズム」「喫煙の害に根拠なし」と主張していて、これは喫煙者の言い訳の主流であるらしい。

なんとまあ、要するに近年は喫煙者までが煙草を「健康」のキーワードで語り始めているのである。もちろん、禁煙論者とは裏返しの視点ではあるのだが、要するに「そんなに健康に悪いってわけじゃないんだから、吸ってもいいじゃないか。ごじゃごじゃ言わんといてくれ」というわけだ。

これは、ことの本質をまったくわかっていない主張である。だからずっと言ってんじゃん! 煙草が嫌なのは、健康云々より、まずとりあえず「臭くてたまらないから」だって。喫煙者は自分がいかに不愉快な臭いを垂れ流しているか、全然自覚していないようなのだ。

イヤフォンから垂れ流される大ボリュームの音楽の「シャカシャカ音」を迷惑がる人が、自分の垂れ流すタバコ臭さに無頓着なのは、喫煙習慣のせいで鼻がバカになっているからである。耳がバカになっているのと同じで、まさに「バカの壁」を構築しているようなのだ。

ここまで来ると、「オメー、臭えんだよ!」とはっきり言ってやらなければ、わからないんじゃなかろうかとまで思っている。「みんなで一緒にバカになれば大丈夫」というのは、バカそのもののゴーマンな主張である。

 

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2017年4月19日

瀬戸大橋 Revisited

四国の香川県に来ている。四国にはこれまでも何度か来ているが、たった一度を除いてすべて飛行機で来ていた。一度だけの例外は、大阪で別の仕事をこなしてから、仲間の車に乗せてもらって、「明石海峡大橋」「大鳴門橋」(神戸〜鳴門ルート)を渡ってきたものだ。帰りは徳島空港から飛行機に乗ったので、片道のみの体験である。

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今回は丸亀が目的地で、高松空港に降りてもどうせまたバスか鉄道で移動しなければならないので、すべて陸路を選択した。岡山まで新幹線で来て、特急南風に乗り換えて瀬戸大橋を渡ったのである。これがなかなか良い眺めだった。瀬戸内海の天気も申し分なかったし。

ただ実は、瀬戸大橋を渡ったのは今日が初めてではない。4年前の 10月に高松から鉄道で丸亀に向かう際に、朝早く出発しすぎたので各駅停車で坂出まで行き、そこから快速に乗り換えて丸亀入りしようとしたのだが、坂出で乗る列車を間違えて、なんと瀬戸大橋を渡って本州の児島まで行ってしまったのである。

「せっかく飛行機で四国に渡ってるのに、間違えて本州に渡り返すとは、何たるドジ!」と我ながら呆れたが、児島で降りて逆方向の列車に飛び乗り、辛うじて約束の時間に間に合ったのを覚えている。あの時も台風一過で天気はよかったはずだが、何しろ焦っていたので、景色のことなんかほとんど覚えていない。今回改めて特急列車の窓から眺めて、「こんなにいい景色だったのか」 と思った次第である。

というわけで、今回は図らずも「瀬戸大橋 Revisited(再訪)」ということになった。本州と四国を結ぶ 3本の吊り橋ルートのうちで、残すは 「しまなみ海道」 (尾道〜今治ルート) のみとなった。ただ、これも因島までは昨年暮れに高速バスで渡っているので、完全制覇していないというだけである。因島は住所としては四国じゃなく広島県だしね。

しまなみ海道は是非、自転車で渡ってみたいと思っている (参照)。

 

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2017年4月18日

昔の PC の裏側は 「縄のれん」 状態だった

今日、久しぶりで机回りを整理し、ごちゃっと溜まった要らない書類などをバンバン捨てまくったら、嘘のようにすっきりした。今までずいぶん要りもしないものを机の上に積み重ねていたわけだと、ちょっと反省した。この手の反省は何度しても実際には活かされないのだけれど。

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で、いくら整理しても PC 回りのケーブル類はこれ以上減らしようがない。今も愛用の MacBook Pro の左側には、(写真上から)電源コード、iPhone の同期用ケーブル、ヘッドフォン用ケーブルの 3本のコードがつながっている。

これらがすべてケーブルレスで接続できたら、どんなにすっきりするかと思う。まあ、iPhone の同期は Wifi ベースでも OK なのだが、やっぱり直接繋ぐ方が手っ取り早いし、ケーブルレスのヘッドフォンもあるようだが、いざ買おうとするとやたら高い。

ここまで考えて、「いやしかし、昔はこんなものじゃなかった」 と思い当たった。Mac に変える前までは、Let's Note の裏側はいろいろなケーブルがダラダラとぶら下がっていたし、その前のデスクトップ PC 時代はもっとひどかった。

何をそんなに繋いでいたのだろうと考えてみると、まず電源ケーブルが「なんでそんなに……」と思うほど、やたらとぶっとかった。それから本体とディスプレイ、キーボードをそれぞれ結ぶケーブルが 2本。これもまた、今から思えば信じられないほど太かった。これだけで、ぶっといケーブルが 3本である。

ああ、忘れていた。昔はマウスも有線だったから、馬鹿馬鹿しいようなケーブルで繋いでいたなあ。これだけで合計 4本になる。これがないと PC が用をなさないのだから仕方がない。しかし、これは最低必要限であって、まともに使おうと思ったらさらなる接続が必要だ。

とりあえずどうしても必要なのが、プリンターとの接続ケーブルである。これがまたやたらとぶっとい。やや時代を下ると USB 接続で OK となったが、初期には大げさな規格の端子があって、専用の口に繋いでやらなければならなかった。今は Wifi 接続が当たり前になったのがありがたい。

さらにモデムとの接続ケーブルがある。昔は Wifi なんてなかったから、これまたぶっといケーブルで繋いでいた。さらにバックアップ用の外付けハードディスクに、SCSI なんていう、今の若い人はヘビーユーザーでも知らないような規格で繋いでいたので、さらにまたやたらぶっといケーブルが必要だった。

そうそう、そう言えば「MD ディスク」なんてものでデータのやりとりをしていた時代もあったので、それ専用のドライブも繋いでいたし、ずっと時代が下っても「フロッピー・ディスクでないとデータが読めない」なんていう化石人類も生き残っていたので、それ用のドライブまで繋いでいたなあ。

なんだよ、これだけでケーブルが 9本じゃないか。それにヘッドフォンを加えたら、めでたく 2桁になる。私はあの頃、「PC の裏側は縄のれん状態」なんて言っていた(参照)が、それは大げさな話じゃなかった。自分のブログ記事を検索してみて、「縄のれん状態」の時代からまだ 10年と経過していないと知って、唖然としてしまった。

で、改めて部屋の端を見ると、何やら細いケーブルが這っている。このケーブルは何年もその存在すら忘れていたが、FAX 兼用インクジェット・プリンターの電話線だった。先月末に、FAX なんてここ 2年近く使ったことがないと書いている(参照)ぐらいだから、明日からの出張から帰宅したら、この電話線も取っちゃおうと思う。

この馬鹿でかい FAX 兼用機を処分したら、部屋がずいぶん広くなりそうだ。

 

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2017年4月17日

春はとにかく眠い Part Ⅱ

今日、仕事で都内にでかけた。守谷駅からつくばエクスプレスに乗り、秋葉原で地下鉄日比谷線に乗り換えるルートだったが、座席に座るとつい眠り込んでしまい、ふと気付いた時には終点の秋葉原から折り返して発車してしまうところだった。ギリギリで飛び降りることができたが、とにかく春は眠いのである。

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こんなに眠いのは年を取ったせいかと思っていたが、思い立って自分のブログ記事を 「眠い」というキーワードで検索してみると、出てくるわ、出てくるわ、とくに春と秋に多い。昔から季節の変わり目になると、とにかく眠くなる性分のようなのだ。

一番古いところでは 2006年 3月 16日付の「春はとにかく眠い」というのがあり、「電車で座席に座ってしまうと、覚醒は 5分と続かない。ちょっと目を閉じただけで、次の瞬間には眠ってしまっている」と書いている。昨日や今日の話じゃない。こんな昔から眠たがっていたのだから、まんざら年のせいというわけではないらしい。

ちょっと安心したので、堂々と眠たがることにしようと思った次第である。とにかく眠いので、今日のところはこれにて失礼。

 

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2017年4月16日

秋田女性は 「秋田美人」 と呼ばれるのがプレッシャーらしい

HuffingtonPost の記事によると、37% の秋田女性が 「秋田美人」 と呼ばれることにプレッシャーを感じるのだそうだ(参照)。これ、心理学的に言えば、少なからず美人を意識しているからこその反応と言える。事実、秋田には掛け値なしに美人が多い。

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私は 3年半ほど前に「秋田美人考」という記事の中で、秋田の街を歩いた時の印象として、"すれ違う女性がことごとく「十人並み以上」の器量" と書いている。秋田出身の知人も、「秋田では、美人が標準」と当然のように言うだけでは収まらず、「茨城県は気の毒だねえ」と、余計なことまで付け加える。まあ、私は茨城県プロパーじゃないからいいけど。

秋田女性が「秋田美人」と呼ばれることにプレッシャーを感じるのは、それなりに意識しているからに違いない。意識していなかったら「冗談ポイよ」と笑い飛ばしていればいいのだが、事実「そこそこの美人」として、周囲の期待を裏切るわけにいかないぐらいに思っているからこそのプレッシャーである。

おもしろいのは、「嬉しく思う」とか「自慢に思う」とかではなく、「プレッシャーを感じる」という点である。結構控えめというか、奥ゆかしいというか、少なくともゴーマンな反応とはならないというのが、いかにも秋田県民らしい。私もすぐ南隣の山形県出身で、東北日本海側のメンタリティを共有しているから、その辺りの心理はなんとなくわかる。

というわけで、私もこんな記事なんか書いて秋田女性にプレッシャーをかけてしまっていることになり、その点については、誠に申し訳なく思う次第である。あまり気にしないでいただきたい。

 

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2017年4月15日

飲食店内禁煙に、自民党内で反発が大きいらしい

下の写真は、「たばこと塩の博物館」で見つけた、昭和 23年大蔵省専売局のポスターである(参照)。若き日の三船敏郎がフィーチャーされ、キャッチ・コピーが今となっては異様なほどだ。なお、ここでは下手なコラージュ的試みとして、「明るく吸おう」に「?」マークを加え、「ヤミたばこ」の「ヤミ」を線で消させてもらった。

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「受動喫煙対策を強化する健康増進法改正に関し、自民党は、小規模なバーなどを除き原則禁煙とする厚生労働省案を認めない方針を固めた」と報じられている (参照)。自民党内では「飲食店が廃業に追い込まれかねない」との異論が根強いのだそうだよ。

要するに自民党のおっさん連中が、飲み食いしながら煙草を吸いたいというだけのことなんだろう。WHO などの調査では、飲食店で全面禁煙にしても売り上げに大きな影響はないというのが、一応の定説になっているのだが (いろいろ異論はあるみたいだけど)。

思い切り個人的な視点で言わせてもらえば、それぞれの飲食店が独自の判断で「喫煙 OK」ということにしたいなら、そうすればいいと思う。ただし店頭に「喫煙できます」などの表示を明確にすることが条件だ。

この表示は、いわば「ウチの店は空気悪いよ」という自己申告である。そのくらいのことはしてもらわなければ困る。それさえ叶えば、あとは話は簡単だ。非喫煙者としては、そんな店をボイコットすればいいだけの話である。

今どき分煙すらしない飲食店なんて、喫煙者しか入らないだろうから、店のドアを開けただけでそのタバコ臭さに「おえっ」となっちゃうだろう。軽い喫煙者すら入りたくはなくなると思う。いずれにしても売り上げが落ちるか、店内の雰囲気が最低になるかのどちらかだ。

以前、名古屋に行った時に「コメダコーヒーのシロノワールを食ってみろ」と薦められていたので、名古屋駅地下の店に入ろうとしたが、あまりのタバコ臭さで一歩も足を踏み入れることができなかった(参照)。コメダ・ファンには悪いけど、入り口で「おえっ」となってきびすを返すのは、私だけじゃないと思う。

これをマーケティング用語では、店にとっての「売り上げ機会損失」という。自民党のオッサン連中の反発は、言い換えれば飲食店の売り上げ機会損失を推進しているようなものだ。だから 「店のため」 なんかではなく、「自分たちが飲み食いしながら煙草を吸いたいだけ」なんだろうと言いたくなるのである。

早い話が、「めっちゃ臭くてもいいなら、どうぞお入り下さい」というハイリスク・ローリターンの方針でやっていく勇気があるなら、どうぞ「喫煙可」の店作りをしてくださいってことだ。

 

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2017年4月14日

日本の音楽市場はガラパゴス状態らしい

NewSpere の記事によると、日本の音楽市場はガラパゴス状態なのだそうだ。世界の音楽ソフト販売の傾向が圧倒的にストリーミング・サービスに移行しているのに、日本では相変わらず CD での売り上げが 51.4%(2016年)を占めているという(参照)。へえ! 知らなかった。ずいぶん面倒な市場であり続けているわけだ。

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私自身はもう、音楽 CD は滅多に買うことがない。Apple Music で、妻と 2人のファミリーメンバーシップ会費(¥1,480/月)を払えば、Apple がカバーしてくれている曲のすべてをストリーミングで聞くことができる。念のため説明すると、自分のローカル・デバイス (PC や iPhone など) にダウンロードすることなく、いつでもインターネット経由で聞けるのである。

もっともインターネット経由だから、飛行機に乗っている時やトンネルを通過している時などは無理だが、それ以外はほぼいつでも OK だ。 最近は東海道新幹線のトンネルだとインターネット接続可能で、飛行機でも Wifi 付きがあるらしいので、ますます便利になりつつある。そして iPhone 本体にダウンロードしてある曲なら、もちろんどこでも聴ける。念のため。

ちょっと前までは、若い頃に買いまくった LP (あの直径 30cm ぐらいあるアナログ音源ね) を、手間暇かけてデジタル変換しなければなんて思っていたが、今思えば、そんな無駄な努力は先延ばしにしておいてよかった。Bob Dylan の ”Freewheelin'” でも Neil Young の ”After The Glod Rush” でも、Apple Music のストリーミングで聞き放題の世の中になったのだから嬉しい。

古い曲ばかりじゃない。最近は Sia という歌手の ”This Is Acting” というのがご贔屓で、娘に 「へえ、お父さんも案外新しい曲聞くんだ!」 なんて妙に感心されたりしている。ただこれも、CD だったら買っていたかどうかわからない。定額のストリーミング・サービスならではの新し物好きである。

だからたまに CD で買うのは、例えば沖縄に行った時に現地の音楽ショップで、マイナーだけどほれぼれするような島唄のコレクションを買うとか、かなりレアなケースになっている。それにしたって、帰ったらすぐに PC に取り込んでしまい、CD で聞くことなんてないのだが。

日本でまだ CD の売上比率が大きいのは、NewSphere によれば 「邦楽優勢でしかもアイドル歌手やグループの売上が大きく、関連するレーベルや音楽事務所は CD 以外の配信を好まない傾向がある」 ためであるらしい。へえ、日本の音楽市場って、消費者志向してないんだ。

そんなわけで、若い子たちは TSUTAYA なんかのレンタル CD からスマホに取り込んだりしてるわけね。今どきは 「宅配レンタル CD」 なんてサービスもあるらしいが、ストリーミングにしてしまえばわけないのに。

もっともストリーミングにしたところで、あの特殊なアイドル市場が拡大するわけじゃないだろうから (私はそんなの聞かないし)、日本の音楽業界の売り上げはかえって激減してしまうんだろうね。ということは、当面ガラパゴス状態を維持するしかないのだろう。かといって何も手を打たないと、そのうち市場崩壊の日がくるかもしれない。

 

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2017年4月13日

「浅田真央現象」についての考察

昨日の昼過ぎに電話で話した仕事関係の友人が、「今、テレビ見てるんだけどさあ、スゴいよ!どのチャンネルも浅田真央引退の話ばっかりで、異様だよ!」と言っていたので、「どれどれ」とスイッチを入れてみると、まさに彼の言った通りだった。ほとんどすべてのチャンネルが 「真央ちゃん、感動をありがとう!」で染め上げられ、しかもそれが延々と続いている。

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そして毎日新聞の夕刊トップまで大きな写真入りの 「浅田真央 引退会見」で、異様度をさらに高めている。

誤解のないように言っておくが、私は浅田真央が嫌いでもなんでもない。だから彼女のファンが引退を惜しむことを揶揄するつもりもない。ただ、テレビの(地上波に限るが)ほとんどすべてのチャンネルのニュースショーが「真央ちゃん、感動をありがとう」の大合唱になることに、ちょっとした違和感を覚えたのだ。

考えてみれば、日本人のほとんどすべてが浅田真央の大ファンで、彼女の演技に心底魅了され、引退を心の底から惜しんでいるというわけじゃなかろう。だからテレビのどのチャンネルも延々と浅田真央特集みたいな状態になっていることに関して、「他に話題はないのかよ!」と不満を覚えた視聴者も少なくないはずだ。

しかし実際はあの通り、どのチャンネルも延々と「真央ちゃん、感動をありがとう!」なのである。なんでああなるのかを考えてみると、昼からテレビを見たがる層の多くが、あれを見たい人たちだからなんだろう。そうとしか思えない。

それに「真央ちゃん、ありがとう!」をやらないテレビ局には、「なんでお前んとこは、真央ちゃんを大きく取り上げないんだ!」と了見違いの抗議電話を寄こすやつもいるんだろう。うん、きっといる。いないはずがない。

人間という生き物の多くは、「皆と同じことで感動したい」という欲求を多かれ少なかれ持っているんだと思う。感動の対象なんて実は何でもいいのだが、できれば誰もが知っていて、反感を覚える人がとても少なくて、ちょっとだけ悲劇的要素のスパイスが加わっているというのが望ましい。今回の浅田真央引退は、その意味でも「感動の共有」に最高の素材だった。

というわけで浅田真央ちゃんには全然興味ないけど、テレビを見るのは大好きという極めて少数派の人にとっては、昨日のテレビはとても不満の大きなもので、さぞかし苦行を強いられたのだろうと思う。ご苦労様でした。

 

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2017年4月12日

洗濯槽クリーナー 「洗濯槽快」 の使用レポート

近頃、ラジオショッピングで(テレビでもかな?)盛んに取り上げられている「洗濯爽快」というのを我が家でも使い始めて、多分 1年以上経過したと思う。そろそろ使用レポートを書いてもいい頃だ。私は案外「家事をする夫」で、洗濯もほとんど引き受けているので、書く資格はあるはずだ。

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我が家でも大方と同じように全自動洗濯機というのを使っているのだが、これはドラムの外側(ファイバースコープなんて持ってないから、直接には見えないのだが)にカビが発生するという欠点があるらしい。確かに定期的に専用の洗浄剤でカビ取りしないと、洗濯物に黒いカビが付いてしまう。

そこで妻がラジオで知った「洗濯槽快」というのをネットショッピングで買ったのが、1年ちょっと前だった。これはホタテ貝の貝殻成分で、洗濯槽内の水をアルカリ化し、カビの発生を防ぐだけでなく室内干しの際の悪臭も抑えるという。それに天然成分 100%だから、環境にも優しいというのだ。

写真のように小さなパックに入ったものを洗濯槽に放り込んで、洗濯物と一緒に回していればそれで OK というので、ことさら面倒な作業もいらない。面倒くさがりの私も、「それならいいや」と使い始めた。

そして 1年以上経ってからの結論だが、手っ取り早く言えば「我が家の場合、効き目がないこともないが、カビはやっぱり発生する」ということだ。

「効き目がないこともない」というのは、カビの発生は確かに抑えられるという意味である。以前に比べれば、白い洗濯物に黒いカビがこびりつくことはかなり減った。もう一つの室内干しの際の悪臭を抑えるということに関しては、ウチでは元々臭いがほとんど気にならないレベルだったから、効果があるんだかどうだか、はっきり言えない。

カビの発生が皆無にはならないので、やはり時々は専用の洗浄剤を入れた水を回し、時間をかけてカビ落としをすることになる。どうしてカビがすっかり抑えられないのかというと、これは私の推定で明確なデータがあるわけじゃないのだが、多分、毎回の洗濯に使う水量が少ないからだと思う。

我が家は子供たちが全員独立して、今は夫婦 2人の生活なので、毎日の洗濯物が少ない。だから全自動洗濯機の機能として、水量も自動で調節し、低水位で洗うことになる。ということは、この 「ホタテ貝由来の成分の効果も、下の方の半分ぐらいまでしか及ばず、上の方はほったらかしになる。

それで時々洗濯物の量が多めになり、水位も上の方まで達する時に、洗濯層の上の方で発生していたと思われるカビが、洗濯物に移っちゃうのだ。これ、考えてみれば当たり前のことだが、使い始める前はほとんど想定していなかったよね。というわけで、我が家の使い方では 「効き目はないこともない」 ぐらいの言い方しかできない。

家族が大勢いて毎回たっぷりの洗濯をするというなら、多分満足できるんじゃなかろうか。保証はしないけど。

 

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2017年4月11日

指導要領での 「銃剣道」 の扱い

先月末に公示された小中学校の新しい学習指導要領で、中学校で教える武道の例に「銃剣道」が加わったことで騒々しい議論になっている。あくまで一般的な話としては、「銃剣道」というのは競技を前提とした「武道」であり、実践を想定した「銃剣術」とは一線を画す。

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中学校で「銃剣道」を教えるのに反対する人の中には、いかにも子供たちに「戦争での殺し合い」を教えるもののように言っている人もいるが、それは明らかに正しくない。「剣道」が刀による斬り合いを教えるのではないのと同様である。

武道、格闘技大好きな私としては、ビデオで銃剣道を眺めると、正直言って「おもしろそうだな」と思ってしまう。還暦を過ぎて新たに習い始めようという気にはならないが、若い頃に身近にいい指導者がいたら、習っていたかもしれない。

ただ、現実的には銃剣道の指導者の数はものすごく限られているだろうから、いくら指導要領に載ったとしても、現場で採用されることは極々少なく、影響はなきに等しいとみて間違いない。実際に銃剣道の指導ができるのは、自衛隊出身者ぐらいのものだろうと思う。

ただ、今回ことさらに指導要領に載ったのは、将来的に自衛隊出身者の仕事が確保されるかも知れないというのが、実は大きいんじゃないかと思う。自衛隊で学んだ銃剣道が世間に受け入れられれば、学校での指導者として雇ってもらえるかもしれないし、うまく行けば町道場なんかも開けるかもしれない。

その意味で、今回の指導要領改定は自衛隊の声なき声を「ソンタク」したものなんじゃないかとも思われる。文科省は「あくまで表記に加えただけで、授業で必ず銃剣道をしなくてはいけないものではない」としているが、いずれにしても安倍政権は「ソンタク好き」な上に、ずいぶん自衛隊フレンドリーな印象を受ける。

かくいう私も、自衛隊に友人や知り合いが結構いて、はっきり言って警察よりは自衛隊の方が好きだったりするのだが。安倍政権の政策には毎度のごとく「そりゃ、違うだろ」と言いたくなってしまうのだよね。

 

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2017年4月10日

「けんちん汁」を巡る冒険

世の中には「けんちん汁」というものがあり、Google で画像検索してみるとその圧倒的なバラエティが見られる。共通しているのは具だくさんの汁物というだけのことで、体裁は白味噌あり、赤味噌あり、しょう油仕立てあり、豆腐がどっさりフィーチャーされているものあり、豆腐なしのものありと、けんちん汁の定義はかなり難しそうだ。

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Wikipedia で調べてみると、次のようになる。(参照

大根、にんじん、ゴボウ、里芋、蒟蒻、豆腐を胡麻油で炒め、出汁を加えて煮込み、最後に醤油で味を調えたすまし汁である。地域や家庭によって、味噌仕立ての場合もある。

元来は精進料理なので、肉や魚は加えず、出汁も鰹節や煮干ではなく、昆布や椎茸から取ったものを用いた。

というわけで、けんちん汁が元々は精進料理だったのだと初めて知った。さらに語源については次のように説明されている (どうでもいいけど、ちょっと悪文)

「けんちん汁」の語源については、定かではないが、神奈川県鎌倉市にある建長寺の修行僧が作っていたため、「建長汁」がなまって「けんちん汁」になったといわれる説が有力だが、普茶料理の巻繊(ケンチャン - 野菜を刻み、豆腐を混ぜて炒め、油揚げか湯葉で巻いて油で揚げた料理)がアレンジされ、けんちん汁になった説などがある。

なにしろ私は東北の日本海側にある地方都市の出身とて、子どもの頃は家庭で「けんちん汁」などというものを食べさせられたことがない。小学校に入ると、給食で時々「けんちん汁」という献立があったが、きちんと意識して食っていたわけじゃないので、「ああ、あの田舎風の汁物か」程度の認識で、とくに好きでも嫌いでもなかった。

ところが 30歳前にして茨城県つくばの地に引っ越してみると、当地では「けんちん汁」というのが代表的郷土料理と言っていいほどのものなのである。単に食事の際の汁物としてだけでなく、蕎麦でさえもけんちん汁で食すのが定番みたいなのだ。Wikipedia にも、次のように記されている。

茨城県では、特産の蕎麦にけんちん汁をかけ「けんちん蕎麦」としても食されており、また、けんちん汁をつけ汁とした「つけけんちん蕎麦」も存在する。

まだ 20代の頃、町の主催(当時はまだ「市」じゃなく「町」だったのだよ)で催された「蕎麦打ち講習会」というものに、2000円(だったかな?)の会費を払って参加したことがある。ところがその講習会では、蕎麦打ちと同じくらいの時間を 「けんちん汁」 の作り方にも割かれたのである。

この地では、テキトーに太めに打った蕎麦を、具を細かく切ったけんちん汁に絡めて食うのが定番のようなのだ。この「絡めて食う」というのは、まさに文字通りの表現で、熱い「かけ汁」として使うのでもなく、「ぶっかけ」といえばぶっかけなのだが、フツーのぶっかけよりもまだ汁気の少ない、生暖かいものにする。まさに「絡めて食う」のだ。それを自分で作らされて自分で食わされたのである。

「蕎麦打ち講習会」というのだから、てっきりすっきりとした江戸前蕎麦の打ち方を指南してくれるものと思っていたのだが、そのイメージは完全に裏切られた。この「けんちん絡み蕎麦」とも言うべき食い物は、自分が下手な作り手ということもあっただろうが、あまりおいしいと思えなかった。一緒に参加した人たちと、「なんか、だまされたような感じですね」と呟きながら帰って来たのを覚えている。

けんちん汁を暖かいたっぷりのかけ汁として使った、いわゆるフツーの「けんちん蕎麦」ならまだ食えそうだが、あの時の経験がトラウマとなって、一度も注文したことがない。せっかくの蕎麦を、けんちんまみれにする気には、なかなかなれないのだ。

しかし近頃は、蕎麦を離れたフツーの「けんちん汁」なら結構馴染んでしまった。わが家でも時々作って食べている。もっとも庄内風の「芋煮」とほとんど区別付かないものになっているので、出自は争えないわけだが。

 

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2017年4月 9日

「ふりかけ」 を消化する悪戦苦闘が終わった

日本の食文化の中には「ふりかけ」と称するカテゴリーがあって、これがまた、普段はちっとも目立たないようでいながら、いざとなるとかなり強力な存在感を示す。その存在感は時々圧倒的なまでの勢いで迫ってきて、こっちはどうしていいかわからず、うろたえてしまうほどなのだ。

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近頃、この「ふりかけ」の頂き物が連続してしまい、どうしていいか困ってしまったのである。最初は知り合いの葬式に参列した際の引き出物、いや、葬式だから「香典返し」というのかな? とにかくお約束みたいなペーパーバッグの中のあまり重量のないボール紙箱のセットの中にあった。

その箱の中には、お茶と「ふりかけ」のセットが入っていたのである。私としてはお茶は結構飲むからありがたいが、「ふりかけ」なんてものをもらっても、どうしていいかわからない。

さらにその数週間後、いきさつの説明は省くが、上の写真のような 「超豪華ふりかけ詰め合わせセット」が、こちらの意思とは無関係に手に入ってしまった。これはもう、葬式の香典返しの比ではないボリュームで、当初はどう対応していいのか見当もつかなった。

わが家は今、子供たちがそれぞれ独立し、妻と 2人暮らしである。さらにメシの上に「ふりかけ」をパラパラっとやる食習慣が皆無だ。米のメシの弁当を持ち歩くことでもあれば、なんとか消化できるのかもしれないが、その習慣も必要性もない。早く言えば、この「ふりかけ」を「ふりかけ」として食うというモチベーションが皆無なのだ。

近所に配るという解決策も頭に浮かんだが、わが家の周囲はじいさんばあさんの所帯、あるいはそのどちらかの単身所帯ばかりになってしまったし、「ふりかけ」を向こう三軒両隣におすそ分けなんてしまくるのも、違和感そのものである。

かと言って捨ててしまうというのは、ただでさえ食料廃棄の多い日本の世の中で、私としてはとりたくない選択だ。しかし何らかの形で処分してしまわなければ、不要のものがいつまでも残ってしまう。ただでさえ、重量に比してやたら体積が大きくて、めちゃくちゃ邪魔くさいのだ。

仕方ないので、カップにあけてお湯を注ぎ、あたかもインスタントのカップスープのような体裁にして、集中的に飲んだ。朝昼晩、そして間食と、見慣れないスープではあるが、ひたすらぐいぐい飲みまくった。決して不味くはないが、好んで飲みたいというようなものではない。しかし飲まなければ消えてなくならない。

妻はそんなものを口に入れたいなんて決して思わない人だから、孤独で、しかもばかばかしい悪戦苦闘だったが、半月ほどでようやく終わった。

というわけで、後に残ったのは大げさな段ボールパックの「燃えるゴミ」と、それぞれの小袋の「プラスチック・ゴミ」なのであった。とにかく食料としての重量に比して、パッケージが大げさすぎるから、ゴミの量の方がずっと多い。

教訓、こんな超豪華セットが存在するということは、世の中には「ふりかけ大好き」という人もいるのだろう。しかし人を選ばずに贈呈すると、時として妙な苦行を強いることになる。

 

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2017年4月 8日

今村復興大臣のど派手なネクタイ

今村雅弘・復興大臣の「ぶち切れ記者会見」が話題になっているが、昨日になってようやく YouTube で(参照)眺めてみることができた。で、私としては大臣の「ぶち切れ」ぶりよりも、やたらど派手なネクタイにばかり目が行ってしまったよ。

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「なんじゃ、こりゃあ?」と思って拡大して眺めてみると、なにやらアニメのプリントである。ありゃ、これ、ウチの娘が 10代の頃に見ていた 『エヴァンゲリオン』ってやつじゃないか。このオッサン、なかなか独創的(すぎる?)ファッション・センスの持ち主のようだ。

ネットで調べてみると、net geek のサイトに「このネクタイは福島県にあるガイナックス社が 2009年に発売したもの。ガイナックスはエヴァンゲリオンで有名なアニメ制作会社だ」「今村復興大臣は福島県を応援したいという思いでこのネクタイをつけているとインタビューで語っている」とある(参照)。

「へえ、そうだったの」と思って、確認のために「ガイナックス」を Wikipedia で調べてみると、「本社所在地 東京都武蔵野市御殿山云々」 とある(参照)。「なんだ、福島の会社なんかじゃないじゃん」と思ってさらに調べると、「株式会社福島ガイナックス」というのが、滝桜で有名な福島県の三春町にあり、ミュージアムを運営しているらしい(参照)。

まあ、元々の地場産業ってわけじゃないようだが、一応福島にガイナックスの子会社があるのはわかった。で、ネットの一部では、今村大臣のこのネクタイの訳を知って好意的にみる向きもあるようなのだが、私としてはやっぱり「ちょっとねぇ」と苦笑してしまうのだよね。

なんだかんだ言っても、この人、ちょっと変なオッサンには違いない。一方的思いのあふれすぎる人なんだろう。いずれにしても、ネクタイ、ちっとも似合ってないし、それに、その気があるんだったら、利害関係の明白に先立つ東京電力なんかじゃなくて、ガイナックスの株を買えばいい。そうでなくても日東紡とかゼビオとか、福島発祥の上場企業はほかにもいくらでもある。

ちなみに記者会見のいきさつに関しては、あの「フリージャーナリスト」は意図的に挑発する行儀の悪いやり口をさらけ出していて、途中までは場の雰囲気もかなりビミョーだったのが見て取れる。ところが今村大臣が勝手に期待をはるかに上回るぶち切れぶりを見せてくれたので、結果的には「フリージャーナリスト」の方の得点になってしまった。

挑発に乗ってしまったというか、あれじゃあ、乗りすぎである。プレス対応がまずいというより、単にばかばかしいオウン・ゴールでしかない。

ちなみに「フリージャーナリスト」の正体は、YouTube に例の動画を投稿した西中誠一郎氏本人であるらしい。彼は日刊スポーツの取材に答え、今村大臣の「謝罪」に関して「謝るのはそこじゃない」と語っている(参照)。どうしても自分の想定したレールの上で謝らせたいらしい。

私自身も反原発の立場ではあるが、こんな人と同列に思われたりしたら迷惑であると言っておく。

 

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2017年4月 7日

「缶チューハイ」の「どーでもいい」ほどの自由度

昨日、運転しながらカーラジオを聞いていたら、「缶チューハイの 『氷結』 って、ベースはウォッカなんですよ」と言っていた。「なぬ? 『チューハイ』というから焼酎ベースと思っていたのに、そうじゃなかったのか」 と、一瞬驚いた。

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そもそもこの商品、今世紀初めの発売当初は「氷結果汁」と称していたのだが、「制度上、『果汁』というのは 100%果汁でなければならない」というクレームで、「果汁」を取って「氷結」という名称に落ち着いたという、結構安易な経緯がある。そしてさらに、実はウォッカ・ベースだったというトリックスターぶりだ。

そう言えば、商品パッケージには「缶チューハイ」なんて表示は見当たらない。くまなく探せばどこかに書いてあるのかもしれないが、少なくとも目立ったところにはない。ウォッカ・ベースとしたことに関する開発ストーリーは、Wikipedia の「氷結(チューハイ)」の項に詳しく載っているので、敢えてここでは繰り返さない。

ただ、新しい知識として、「酎ハイ」または「チューハイ」と称する商品カテゴリーは、制度上は存在しないということを知った。だから、焼酎を使わない「チューハイ」が存在しても、法律的にはまったく問題がないらしい。ふぅん、ずいぶん紛らわしいご都合主義だけど、酒飲みはそんなことにはこだわらないのかね。

一方、宝の「焼酎ハイボール」の方は、焼酎専門メーカーだけに焼酎ベースとなっているらしいが、Excite Bit の記事には、宝酒造への取材で得られたコメントとして、次のような記載がある (参照)。

「商品によって焼酎にする前の高濃度アルコールを使う場合もあって、その場合表示が変わることはありますが、基本的には同じアルコールを使用していることになります」(宝酒造広報)

ここでも、「へえ!」である。なるほど、そういえば焼酎には「甲類/乙類」の区別があって、乙類というのは原料がイモとか麦とかはっきりさせているみたいだが、甲類はそういうのじゃなくて、単に「高純度のアルコール」ということらしい。要するに、化学物質のアルコールそのものってわけね。

というわけで、「酎ハイ」または「チューハイ」というのは、単なる俗世間の言い習わしに過ぎないのだとわかった。要するに「どーでもいい」というか、よく言えば「自由度がものすごく高い」カテゴリーなわけね。

てことは、商品開発の自由度もめちゃくちゃ高いということになる。ウォッカとトマトジュースで、「ちょっとプシュッとした感じがあるんだから、チューハイであって、決してブラッディマリーじゃないよ」と言い張ることもできそうだと思い、念のためちょっと調べたら、既に『サッポロ 極 ZERO CHU-HI ゴクハイ9』というのがあるのね。油断も隙もありゃしない。

まあ、こっちは最近酒をほとんど飲まないから、まさに「どーでもいい」んだけど。それにしても、このブログを始めた頃は酒飲みながら書いていたんだから、人間変われば変わるものである。

 

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2017年4月 6日

「脱肉食」を巡る冒険

完全な菜食主義というわけじゃないが、肉をありがたがる食生活には、近頃ものすごい違和感を覚えている。「肉パス!、魚でも資源枯渇気味の鰻、マグロなどはパス!」という食生活なので、下の写真のような広告を見るとぞっとして、「うわぁ、勘弁しておくれ!」と言いたくなる。

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別に「好き嫌い」で肉を避けているわけじゃないので、それしか食うものがなければ仕方なく食いもするが、最近はどんな高級肉でもおいしいとは感じられない体になった。「妙なものを口に入れちまったなあ」という気がするだけなので、高い金を払う甲斐がない。

普段は外食するにしても蕎麦、うどん、魚料理などを選択するようにしている。「それじゃ食うものが限られてつまらないだろう」という人もいるが、私としてはあれこれ迷わず、余計なものを食わずに済むので、かえってありがたい。決してやせ我慢じゃなく、しみじみそう思える。食い物に目移りして選択に時間がかかるなんていうのは、最も馬鹿馬鹿しい時間の無駄遣いと思っている。

ただ、問題もある。ところによって、とくに小さな地方都市などに出張すると、ラーメン、焼肉、揚げ物以外の食い物を提供してくれる店がものすごく少なかったりして、食事する店を探し当てるのに一苦労することがあるのだ。こんな状態では、ビーガン(完全菜食主義者)なんかは外食はほとんど不可能だろう。

例えばラーメンなんか、「肉料理」のカテゴリーじゃないと思われがちだが、近頃は必ず大きなチャーシューが入っていたり、豚骨で出汁を取っていたりして、実はかなり肉食のかたまりみたいなメニューなのだ。私としては最近、魚介系出汁の名店でチャーシュー抜きを頼んだりすることがある。

巷では「多様化の時代」なんて言われているが、実は肉食を避けたい者にとっては、ちっとも多様化なんかしていない。 大きな一つの流れの中での小さな差別化で多様化してるつもりになっているだけで、そこから一歩でも外れたら「異端」「希少」扱いなのだ。

まあ、今日のこの記事みたいに「脱肉食」を地道に訴求していって、世の中が変わるのを待つしかない。昔は「禁煙、せめて分煙しよう」なんて言っても、「そんなの無理!」とはねつけられたものだが、今になって、ちゃんと 「喫煙はカッコ悪い」 という風潮の世の中になってきたじゃないか。

「お肉大好き!」なんて、カッコ悪くて言えない世の中だって、そのうちきっと来るさ。

 

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2017年4月 5日

病気への無知が病気をしない秘訣

前に「カタカナ名前の食い物がわからない」と書いた(参照)が、もう一つ、病気の名前にもまったく詳しくない。いろいろな病気の名前を聞かされ、「はあ、そうですか、それは大変ですね」 なんて言っても、申し訳ないが、実は何がどんなに大変なのかさっぱりわかっていないのである。極端な話、風邪と腹痛と花粉症以外の病気は知らないみたいなものだ。

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例えば「クモ膜下出血」という病気に関して、若い頃に「腹の中にある膜なんでしょ」と口走って、「それは横隔膜だ」と笑われて間違いと知ったが、その後ずいぶん長い間、漠然と目の奥あたりの病気と思っていた。最近になって「それは網膜だ」とダメ押しされ、ようやく脳のどこかの内出血と知ったばかりである。

ただ、 「クモ膜」が脳のどの辺りにあるかまでは見当も付かず、興味もないので調べてみる気にもなれない。たとえ知ったところで自分ではどうすることもできないし、カタカナ名前の食い物同様に、すぐに忘れてしまうだろう。とにかく病気に関してはとことん無精である。

これほど病気に無精でいられるのは、自分が健康で、ほとんど病気をしないからこそだろう。病弱でしょっちゅうあちこち具合が悪くなっていたら、無関心では到底いられない。

ただ、病気をしないから無関心でいられるというよりも、その逆に無関心だから病気もしないのだという方が正しいような気もする。病気に興味がないから、「無理したら風邪引いちゃうんじゃないか」とか「こんなものを食ったら、血圧が上がるんじゃないか」とかいう心配をまったくしない。心配しないからストレスもなくて、そのおかげで病気にもかからないのだと思う。

病気になっちゃうんじゃないかという心配をほとんどしない代わりに、病気になっちゃうような生活習慣もない。煙草を止めて 40年近くになるし、近頃は酒を飲むのが億劫だ。肉やコレステロール、脂肪まみれの食い物も、嫌いというわけじゃないが、口に入れるのが面倒くさい。

酒や煙草はストレス解消に役立つという人もいるが、あれは、酒や煙草を嗜まないとストレスが溜まる生活習慣に陥っていることの言い訳と思っている。その状態で無理に禁酒禁煙をしようとしたら、それがさらなるストレスになってしまうだろう。

どんなに忙しかろうが、基本的に心根の奥底では「のほほん」としていられることが、病気をしない秘訣のような気がしている。

 

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2017年4月 4日

「花見」という名のもとに子どもに帰る風習

東京では桜が満開になって、週末には桜吹雪になるそうだが、ここ、つくばの地では今日あたりはまだ下の写真のように、三分咲きになったかならないかという程度である。週末には満開になるだろうが、天気は下り坂で冷たい雨風になりそうだ。

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満開になったばかりの桜は、ちょっとやそっとの雨風には持ちこたえるので、急には「花散らしの雨」にはならない(ちなみに「花散らし」の本当の意味に関しては、私のこの過去記事を参照のこと) だろうが、花見をするには生憎の天気となりそうだ。まあ、自然のことだから、そうそう人間に都合には合わせてもらえない。

ところで今日は、「花より団子」というお話である。自分が満開の桜を意識的に愛でるようになったのは、10歳を過ぎた頃からだったんじゃないかという気がするのだ。それまでは桜が満開になっても、それほどの感慨を覚えた記憶がない。

父が脱サラ前に務めていた会社では 1950年代末まで、桜の満開の頃にバスをチャーターして、家族連れの花見をする習慣があったようで、昔のアルバムをひっくり返すと、隣町の鶴岡市の大山公園で、車座になって派手な花見をしている写真がある。そして私にもそこに参加した記憶が確実に残っている。多分幼稚園に通っていた頃だ。

ところが私の記憶にあるのは、バスでの移動と、車座になってご馳走を食べたこと、そして何よりも会社のオッちゃんたちがやたら酒を飲みまくって、歌を歌ったり大声でわめき散らしたりしている異様な光景だけで、桜がきれいだったなんていう印象は皆無なのだ。

そんなわけで、満開の桜を愛でるようになるのは、こちらの心がそれなりに成熟して、桜というものに何らかの特別な意味を発見するようになってからだった。それ以前は「なんだか咲いてるなあ」というだけの即物的な印象すらない。つまり、満開の桜の美しさというのは、どちらかというと桜そのものよりも、こちらの心の方にあるもののようで、もっと慎重な言い方をすれば、桜そのものと、こちらの心の間にあるようなのだ。

仏教的道歌ででいえば、「鐘が鳴るのか撞木が鳴るか鐘と撞木の間(あい)が鳴る」みたいなことである。鐘だけでは鳴らないし、撞木だけでももちろん鳴らない。両方があって始めて鐘の音が鳴るように、桜の美しさも、こちらの受け取りようがあって始めて成立する。

そんな関係が成立するまでは、単に「花より団子」の世界なのである。そしてたとえ成立したとしても、そんなことは忘れて飲めや歌えに興じる方がいいと、ある意味子どもの時代に戻りたがる大人もかなり多い。桜の下に集まり、花なんか見ないでひたすらどんちゃん騒ぎをするのは、あれは子どもが酒を飲んでいるようなものと考えるとわかりやすい。

「花見」という美名に隠れて、子どもに帰ってしまっているのだ。「花散らし」の方は大人になる儀式なのにね(くどいようだが、過去記事参照)。そして何しろ花見はいわば子どもの仕業だから、後始末までは思いが至らず、圧倒的なゴミの山を残して立ち去ってしまうことが多い。今どきは本当の子どもの方が、まだずっと始末がいいのである。

酒の力で子どもに帰った大人たちの狼藉は、翌朝にボランティアの大人が出てきて掃除することになる。

 

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カタカナ言葉を巡る冒険

3年ちょっと前に「私の苦手なカタカナ言葉」という記事を書いた。カタカナ名前の食べ物がさっぱりわからないのである。「フォンデュ」とか「テリーヌ」とか「カルパッチョ」とか、何度聞いてもすぐに忘れて、名前だけではどんな食べ物かイメージすら浮かばない。

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上の表は、かなり前のものだが、平成 20年度の「国語に関する世論調査」の、カタカナ言葉に関する結果を示したものである。平成 14年に比して、6年後の 20年にはカタカナ言葉の意味がわかる(「なんとなくわかる」 を含む)人がかなり増えていることがわかる。とくに下の表の左側なんかは、日本語としても十分にお馴染みの言葉となっている。

この表に出ている程度なら、右側の言葉でもありがたいことに全部わかる。食い物の名前と違って苦もなくわかるのは、これらはすべて英語由来の言葉だからと気付いた。これでも昔は英語でメシを食っていた時期があるので、英語由来でさえあれば、カタカナで初見でも元の英語がすぐに想像がつき、苦労がない。

カタカナ語の嫌いな人は、「日本語で言え、日本語で!」なんて憤るが、申し訳ないけど、英語圏から入ってきた概念は、そのままカタカナにして使ってくれる方がずっとわかりやすい。下手に漢字を組み合わせて翻訳されると、かえって 「なんじゃ、そりゃ?」になってしまう。「ロックンロール」は「ロックンロール」以外に言いようがないのだ。

だからカタカナ名前の食べ物でも、元が英語なら大丈夫で、わからないのはフランス語とかイタリア語とか、韓国語とかの食べ物だ。とくに焼き肉系の名前は、肉を食わないことにしているせいもあって、カルビとか、ミノとか、ハツとか、さっぱりわからない。魔法の呪文だ。

そこで気付いたのは、もし私が英語が苦手だったら、世の中にあふれるカタカナ言葉の多くがわからないだろうということだ。知り合いにも、「やたらカタカナ言葉を使う最近の傾向は許せない」と憤っている人が少なくないが、彼らの大抵は英語が苦手なのである。

なるほど、彼らにとってはカタカナ言葉の多くが、魔法の呪文になってしまうわけだ。私にとってのイタリア料理や焼き肉のメニューみたいなもので、何度聞いてもすぐに忘れてしまう。食べ物の名前ぐらいわからなくても別に苦労はないが、日常用語が魔法の呪文では、確かにストレスが多いだろうと察せられる。

 

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2017年4月 2日

ハンドソープは無添加フォームタイプがお薦め

近頃は世の中に「ハンドソープ」と称するものがあって、手を洗う際にポンプ式の容器でプシュプシュッとやると、石けん液が出てくる。そもそも私自身はこのタイプの石けんをあまり使うことがなくて、大抵は水洗いで済ませることが多いが、念入りに洗う時には「フォームタイプ」という初めから泡で出てくるのを使っている。

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しかも写真にあるように、無添加タイプのもので、つまり抗菌成分の入ってないやつだ。スーパーやドラッグストアでハンドソープを買おうとすると、ほとんど「抗菌作用」を売り物にしていて、抗菌成分無添加のものは必死に探さないと見つからない。我が家の近くで買おうとすると、やっと 1種類だけ見つかる。

ちょっと前に話題になったが、ハンドソープの「抗菌作用」というのは無意味であるらしく、単なる水洗いやフツーの石けん洗いとの差はほとんどないという。それどころか、トリクロサン、トリクロカルバンなどの殺菌成分は、免疫系に悪影響を及ぼすリスクの方が大きいということで、米国では販売禁止になっているところもある。

というわけで、我が家では抗菌剤フリーのものを使っている。さらにフォームタイプにしているのは、節水効果が期待できるからである。いかにも濃厚な液体タイプの石けんがムニュッと出てきてしまうと、それを洗い流すのに結構な量の水を使う。一方フォームタイプだとあっという間に洗い流せる。

こうした日常的なものを選ぶにも、ちょっとだけ賢くなる必要があると思っている。

 

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2017年4月 1日

「胡散臭い」の「胡散」を煎じてみた

「胡散臭い」という言葉があって、「アヤシい」とか「疑わしい」みたいな意味で使われている。しかしこの言葉の元になった「胡散」というのはそもそも何物で、どんな臭いなのだろう?と疑問に思う人は、案外少ないようなのである。

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この「胡散」というのは、実は煎じ薬で漢方薬の一種である。虫下しに効くと言われ、大正時代までは庶民の間で盛んに用いられたが、寄生虫の激減とともに、今では薬局に行ってもほとんど見ることができなくなった。

そしてこの胡散という薬は、煎じる際にかなりクセのある強い臭いを発生すると伝えられているのである。そのため窓を開け放して換気しないと、いつまでも臭いが残ってしまうので注意が必要とまで言われていた。

さらにこの薬、飲む人の体質との相性問題があって、効く人にはとてもよく効くが、効かない人も少なからずいるというもののようで、「飲んでみなければわからない」ところがあったというのである。それで胡散を煎じる時の臭いは、「効くんだか効かないんだか、信用できない」みたいな意味合いも込めて「胡散臭い」と言われるようになったという。

その臭いを一度でいいから実際に嗅いでみたいものと思っていたが、既に「幻の薬」と化してしまっているので、その願いはなかなか叶えられなかった。しかしこのほど、富山の友人を通じて「日本生薬堂 謹製 漢方調剤 胡散」という貴重な薬を入手することができたのである。

薬袋にはもっともらしく「煎じる際に強い臭いが発生します。換気にご注意下さい」という注意書きがある。なるほど、臭いに特徴があるというのは本当のようだ。袋を開けると、ティーバッグに入った「胡散」が 2袋出てきた。このティーバッグに鼻を近づけて臭いを嗅いでみたが、ちょっと紅茶のような香りがするだけで、とくにどうということはない。

煎じてみるに当たっては、台所に臭いが残っては困るという妻の要望で、キャンプ道具を庭に出し、野外調理用のコッフェルを何年ぶりかで使ってやってみた。キャンプ用ガス・ストーブがゴォーッと勢いのいい音を立て、コッフェルの中はすぐに沸騰する。そして放り込んでおいた「胡散」のティーバッグが湯の中で踊り始めた。

沸騰の前からなんだか妙な香りがすると思っていた。アンモニアを強くしたような、ということは、犬のおしっこに似た感じがしないでもない臭いである。そしてグツグツたぎり始めると、その臭いがどんどん強くなり、鼻の奥を刺すような刺激臭と化した。結構強烈なもので、風下に立つと目に染みる。

煎じる時間は 40分程度と書いてあり、20分を過ぎた頃からだんだんと臭いのピークが過ぎて、40分で火を止める頃には、さすがに目に染みるほどではなくなった。

しかしこれは、かなり飲みにくい。顔を近づけると「オェッ」となっちゃうのだ。昔の人は本当にこんなのを飲んだのだろうか。よほどの忍耐である。こちらは寄生虫がいるわけでもなんでもないので、裏の土手に捨てて、2袋めは決して煎じないことに決めた。

「胡散臭い」というのは、思っていたよりずっと強烈なものだった。

【4月 2日 追記】

恐れ入ります。大方のご想像の通り、毎年恒例のエイプリルフール・ネタですので、本気になさらないでください。

 

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