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2017年5月10日

三味線やギターを手にすると、縄文人の血が騒ぐ

学生時代に、今は亡き武智鉄二氏が 2年間にわたって伝統演劇に関する講義をしたことがあって、私はそれを結構熱心に受講した。内容はちっともアカデミックではなかったが、縦横無尽の展開で心が躍った。

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武智氏の講義の中で妙に印象に残っているのは、「三味線の盛んな土地の人は歌がうまい」という話である。日本の三味線は、まず沖縄に入ってきて、彼の地では今でも 三線(サンシン)として盛んに演奏されている。それが九州以北で三味線に改良され、大阪や江戸でも盛んになったが、新潟や津軽などのひなびた土地でも不思議なほど定着した。

武智氏もおっしゃっていたが、NHK の「素人のど自慢」という番組を見ていても、沖縄、そして新潟を中心とした北陸から津軽にかけての土地の人たちは、歌のうまさの平均点が高い。一方、山陽路から東海道だと、申し訳ないがどうもレベルが落ちる。

東海道でも京阪、江戸はいろいろなところから人が集まるので、文楽や長唄などの隆盛に伴って三味線が盛んで、レベルが高くなるのは当然だが、沖縄、北陸、津軽というのは、人口の割に歌の上手な人が多すぎる。

弥生人の音楽の代表は能楽である。そしてこの能楽の「謡い」というのは、基本的にまともなメロディがない。一本調子で延々と続き、苦手な人にとっては死ぬほど退屈だ。実は私も、文楽は好きだが能楽はやや苦手である。

弥生人はどうやら、メロディが苦手のようで、それと対照的に三味線で自由自在にメロディをかき鳴らすのは縄文人の系譜だ。どうも同じ日本人でも「血が違う」と言ってもいいようなのである。

日本では古くから伝わる琵琶や箏などの楽器は、演奏できる階層が決まっていた。誰でも自由に弾けるようなものではなかったのである。そんな中で、中世以降に入って来た三味線という楽器は、身分に縛られなかった。日本の音楽は、誰でも楽しめる三味線によって一気に大衆化したと考えていい。

三味線という楽器は、現代のロックンローラーにとってのギターのようなものだったに違いない。ギター、バンジョー、三味線、シタールの系譜というのは、同じ弦楽器でも弓でこすって弾くバイオリンのようなお上品なものと違って、かなりアナーキーな性格を持つ。

この三味線という楽器を取り入れることによって、日本の音楽は新しい次元に入った。その三味線を抵抗なく取り入れることのできる血をもっていたのが、縄文人の系譜ということのようなのである。

かく言う私も北陸から津軽につながる「縄文ベルト地帯」の出身だから、ギターは誰にも習わずに見様見真似でいつの間にか弾けるようになったし、一昨年の沖縄出張で衝動買いしてしまった三線も、その日のうちにまねごとぐらいはできるようになった。これも血のなせる技なのかもしれない。

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