憲法記念日に思う
今日は憲法記念日。このブログを始めて(「ココログ」を使用する前の 2年間を含め)15年になるが、5月 3日にまともに憲法問題を論じたことがない。わずかに「知のヴァーリトゥード」のサイトを始めた 平成 14年の 5月 3日にほんのちょびっとだけ書いている。(参照 写真の下に引用する)
今日は憲法記念日。テレビニュースは毎年のように護憲派と改憲派の両方の集会の様子を伝え、お茶を濁す。
以前は改憲派の方が危ないタカ派のイメージだったが、最近では護憲派の方がカチンカチンの時代遅れというイメージに変わってきた。これについては、本日更新のコラムをご覧いただきたい。
この「本日更新のコラム」というのは、「知のヴァーリトゥード 内の「知の格闘技」というサブサイトに納めてある "「何が何でも護憲」 の論理に首をかしげる" という一文だ。私がブログで憲法改正について論じたことがないのは、15年前にこのコラムで 「言いたいことは言っちゃった」 と思っているからである。
どんなことを書いたのかというと、日本国憲法の前文の英文で書かれたオリジナル(元々は英語で草案が作られた)を、作家の池澤夏樹氏が翻訳し直したものについて論評したのである。
現行憲法の前文は次の通りである。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
これに対して、池沢訳は次のようになる。
私たち日本人はいつまでも平和を求める。世界の人々が仲よく暮らすためには高い理想は欠かせないから、私たちは常にこの理想を頭においてことを決める。この国の存続、この国の安全は、私たち同様に平和を大事にする世界の人々の正義感と信念に委ねよう。
これは当時の毎日新聞の『余録』で紹介されていたのだが、余録子はこの池沢訳を褒めちぎっているのである。しかし私には違和感の大きすぎる訳だったので、自分のコラムで次のように書いている。
池澤訳によると、現行憲法では「この国の存続、この国の安全」を、「世界の人々の正義感と信念」という極めて漠然としたものに「委ね」てしまっているのだ。(中略)
しかし、冷静に考えると、相当に怖い話ではないか。「期待」ならば大いにすべきだろうが、「委ねる」なんていうのは、どう考えても非常識だ。
私だって人一倍平和を大事にし、正義感だってないわけではないと思っているので、世界の国々の存続と安全を願わないではない。しかしある特定の国から、その国の「存続と安全」を勝手に「委ね」られたりしたら、はっきり言って大迷惑というものだ。「世界の人々」だって、きっとそう思うだろう。 そんなものを勝手に委ねられても、責任の取りようがない。責任の取りようのないところに委ねるというのも、ずいぶん乱暴な話である。
これまでの護憲主義、とくに第 9条に関する主張は、究極的には「自国の存続と安全を、責任の取りようのない他国の人たちに委ねる」という精神で語られてきたもののように思われるのである。私にはそれは、あまりにもロマンチックすぎる論理に思われる。
国民の大多数が、「このロマンチックな理想のためなら、死んでも本望」と覚悟を決めているなら憲法は今のままでもいいが、実際には「いざとなったら、自衛隊さん、よろしくね」と思っているみたいなので、それなら憲法にもそれなりに明記しておくべきじゃないかと思うのだ。ごく単純な理屈である。
ただ、誤解されると困るので付け加えておくが、私は安倍政権の提唱する「集団的自衛権」なるものには反対の立場である。そんなものを振りかざさなくても、国は守れるだろうよ。あれは戦争したくてたまらない人の言うことのように思われてしょうがない。
私は平和主義者である。ただ、この世から戦争がなくならないのは、「平和は総論で語られ、戦争は各論で説かれるから」だと思っている(参照)。美しすぎる総論は、いざと言う時にはいつもセコい各論に負けるのだ。だから平和を守る総論も、ある程度の「セコさ」を担保しておいて、セコすぎる各論に負けないようにしておかなければならない。
| 固定リンク
「経済・政治・国際」カテゴリの記事
- メキシコのバンドがビザ差し止めで米公演キャンセル(2025.06.06)
- トランプは ”TACO”(タコじじい?)という一幕(2025.05.30)
- 「コメ買ったことない」なんてネタはヤバいよ、江藤さん(2025.05.20)
- 米国の「サマーキャンプ」というもの(2025.05.15)
- NHK から国民を守る党・立花孝志の「選挙ハック」(2025.05.11)
コメント
どう考えても、9条ベースの安全保障の方が手間がかかって大変なんですよ。「委ねる」というような他人任せのものではない。その意味で、松竹伸幸『憲法九条の軍事戦略』(平凡社新書)は一読に値します。護憲派の私でさえ、「こんな大変なら九条ない方が楽かも」と思ってしまいます(汗)
さはさりながら、私は、「普通の国」とか、右派諸兄が使う「普通の日本人」とかいう言葉を目にするたびに、「偏差値50くらい」と読み替えることにしています。別にそれでもいいけど、もう少し努力してもいいんじゃないか、と。
投稿: 山辺響 | 2017年5月 8日 10:30
山辺響 さん:
>「普通の国」とか、右派諸兄が使う「普通の日本人」とかいう言葉を目にするたびに、「偏差値50くらい」と読み替えることにしています。
彼らは 「今が 偏差値 38ぐらいなので ......」 ぐらいに思ってるのかもしれませんね。見くびられたものです。
投稿: tak | 2017年5月 8日 18:28
しまった、そっちか(笑)>今が偏差値38
投稿: 山辺響 | 2017年5月 9日 19:05
山辺響 さん:
実は私は、偏差値なるものの意味が、今でもよくわからんのです。
高校時代は気にしたこともありませんでした。
投稿: tak | 2017年5月 9日 20:13