「疑う(うたがう)」と「疑る(うたぐる)」
『鬢のほつれ』 という端唄がある。通称「びんほつ」と言われ、江戸末期から明治にかけて大流行したものという。今でも『梅は咲いたか』や『木遣りくずし』などとともに、端唄のスタンダードの地位を保っている。
歌詞はこんな感じ。
鬢のほつれは 枕のとがよ
それをお前に疑られ
つとめじゃえ 苦界じゃ 許しゃんせ
木村菊太郎氏の解説によれば、「深川かどこかの岡場所の女となり、情夫に鬢の毛が乱れているよ、大方俺のほかにいいのができたんだろうと皮肉られ、始めは枕のせいにするするが、身に覚えのある身の、努めの身じゃ、苦界じゃ、許しゃんせと男の膝にふす所を唄ったもの」という。なかなかの風情である。
ただ、今回問題にしたいのはこの歌そのものではなく、例によって「言葉」にこだわった話である。上の歌詞の 2行目、「疑られ」(読みは 「うたぐられ」)という部分だ。「疑われ」ではなく「疑られ」なのである。
今どきは 「疑る(うたぐる)」 なんて言い方をする人は滅多にいなくなったが、昭和 30年代ぐらいまでは案外ポピュラーな言い方だったと記憶している。とくに東京下町あたりではよく使われたんじゃあるまいか。
『大辞林』によれば【「疑る」 は「うたがう」よりも俗な言い方】となっていて「疑るような目つきをする」「疑りなんすならなんでもしいせう」(洒落本 『傾城買二筋道』)という用例が紹介され、可能を表す場合には「うたぐれる」になるとされている。受け身の「うたぐら(れ)る」とは別の形になるのだね。
『大辞林』は「俗な言い方」としているが、実は文豪・夏目漱石だって堂々とこの言い方を繰り返している。
私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。 (『こころ』より)
してみると、漱石の頃は 「疑る」 という言い方はかなり一般的だったようで、むしろ粋な言い方のようにも感じられる。「疑う」と「疑る」の間には意味の違いはほとんどなくて、あるのはニュアンスの違いのみのようだ。強いて言えば、「疑う」の方が即物的なニュアンスがやや強いのかもしれない。
『鬢のほつれ』 の歌詞も、「それをお前に疑われ」と歌ってしまっては、ちょっと風情がなくなってしまうだろう。言葉というのは、本当に生き物のようなところがある。
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コメント
聴いてみると、何と粋な唄かと感じた。
そして聴いてみてこれは「疑られ」でなければならないなと直感しました。なぜかと言われてもうまく説明できませんが。
投稿: ハマッコー | 2017年7月31日 02:17
ハマッコー さん:
端唄って、なかなかいいものですよ。
よろしければ 『さのさ』 もどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=C8pKBD97e-M
投稿: tak | 2017年7月31日 06:01
そういえば、動詞として「疑る」はほとんど使わないような気がしますが、「疑り深い」という形容詞はときどき見るような。
投稿: 山辺響 | 2017年7月31日 10:10
山辺響 さん:
>「疑り深い」という形容詞はときどき見るような。
まさにその通りですね。原型は滅びたけど、複合語として生き延びていると。
投稿: tak | 2017年7月31日 18:05