「リアル」 と 「バーチャル」
6月 30日の記事で、私はオーディオや映像のデバイスにやたら高い金をかけることについての疑問を呈しておいた。(参照)

オーディオに関して言えば、記事の中で「慎ましい音を聞きながらでも、脳内ではオリジナルの素晴らしい音に変換されている。要は、時々ちゃんとしたナマの音楽を聴くことで、想像力を鍛えればいいのだ」と書いている。オーディオ機器に何十万円もかけるより、1度の「本物」のコンサートを聞く方が財産になると思うのだ。
これに関して、山辺響さんが、次のような示唆的でおもしろいコメントをしてくださった。
去年、私の唄三線の師匠がハイレゾ・レコーディング(?)でアルバムを出したのですが(当然ながら CD の容量には収まらないデータ量のため、ダウンロード販売)、弟子どもにとっては、ありがたさがよく分からず……。
確かに「すぐそこで師匠が歌っているようではある」とは思うのですが、ふだんから「すぐそこで師匠が歌っている」状況に慣れているので、それに比べて音がいいわけもなく。
それどころか、稽古のときにちょっとした IC レコーダーで録音したものでも十分じゃないかと思うのは、さすがに耳が上等でないのかもしれませんが (笑)
これに関して、私はとても共感できたので、次のようなレスを付けた。
その気分、よくわかります。
聞く専門じゃなくて、自分でも演奏する立場だと、「音」を聞いてるんじゃなくて、「演奏の方法論」を聞き取ってるんですよね。
一流のギタリストのコピーをしようとする時、音を何度も繰り返して聞くが、その際に「音質」はあんまり関係なかったりする。こちらとしてはそのプレイヤーの「指使い」や「息づかい」までこちらの中に取り入れてしまいたいと思っているので、「即物的な音の良さ」に関しては忘れてしまっているのだ。まさに、「ちょっとした IC レコーダー」の音でも十分だったりする。
そもそも「何がリアルなのか」を考えてみれば、それはわかる。人間の認識は人それぞれの感覚器官を通じたものだから、人の数だけの「リアル」があると言っていい。それぞれの人の認識した「リアル」も、実はそれぞれの人の感覚器官を通じて脳内に構築した「バーチャル」なのだ。
本当の自然の素晴らしさを知っている人にとっては、ある山の小さな写真 1枚で、その素晴らしい光景が再現され、吹く風の心地よさまで感じることができたりする。そうなると、写真というのは完成形ではなく、いかに素晴らしい入り口を提供できるかという作業だったりすることもあるとわかる。
その「人それぞれのリアル、あるいはバーチャル」の奥の奥に、「真実」のようなものを見出せるかどうかは、その人の感性と経験を通じた訓練によるとしか言いようがない。そして芸術は「単なる模倣」ではないので、バーチャルをリアルに近づけることだけを目的とする営みは、あまりおもしろくなかったりする。
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コメント
コメントを取り上げていただいてありがとうございます。
先日来、久しぶりに哲学史の復習をしていまして(中公新書『物語 哲学の歴史』)、↑この投稿を読んで、「物自体」という言葉が浮かんできました。我々は別に「物自体」を直接認識しているわけではない、みたいな。
投稿: 山辺響 | 2017年7月 7日 10:19
山辺響 さん:
>我々は別に「物自体」を直接認識しているわけではない、
般若心経の世界に行きたくなってしまいます。
色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識亦復如是
投稿: tak | 2017年7月 7日 15:34