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2017年9月に作成された投稿

2017年9月30日

「リベラル」ってどの辺のところなのか

HUFFPOST に "小池知事に「排除」を宣告された、民進党リベラル派の憂鬱" という記事がある。私は今月 28日の記事で "リベラル保守のまともな政党が出現してくれれば嬉しいと、ずっと思ってきたのだが、私の長年の「希望」が叶えられるだろうか?" (参照) と書いたのだが、この「リベラル」という言葉の指し示すところの理念が、かなり曖昧という問題があると思う。

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「リベラル」という言葉、使う人によってその意味がかなり違うみたいなのである。例えば小池さんの主導する「希望の党」は、私のイメージでは結構「リベラル」と言っていいような気がするのだが、冒頭に紹介した HUFFPOST の記事は、小池さんは「民進党内のリベラル派を排除する方向」と捉えているようで、次のように報じている。

"踏み絵" を迫られ、出馬のキャスティングボードを小池知事側に完全に握られた民進党。特に「護憲」などを掲げてきたリベラル派の間には動揺が広がっている。

この辺りの言い方、「護憲」さえ掲げればリベラルなのかと、私としてはモヤモヤしてしまう。「キャスティングボード」(元は "casting vote" という英語なんだが)なんて怪しげな言葉を使っているところからして、当てにならない気がしてしまうのだよね。

例えば、米国では民主党がリベラル派の代表扱いになっているが、確かに安倍政権ほど右じゃないとはいえ、日本の中道派よりはずっと右寄りである。で、私の感覚からすると、小池さんが「排除」するとしているのは「リベラル派」ではなく「左派」じゃないかと思うのだよね。辻元さんなんか、十分に「左派」である。

要するに、どの辺が「リベラル」なのかは、人によって捉え方が違うみたいなのだ。このあたりのところも、今回の選挙で少しは整理がつくとありがたいのだが、やっぱり「人による」という混乱状態がしばらく続くんだろうなあ。

 

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2017年9月29日

今は 「希望の党」 の推移を見守るしかないのかなあ

「希望の党」の小池代表が、「民進党との合流ではない」と、盛んに強調している。党としては民進党からの候補者から選別し、政治理念の異なる者は「排除する」と明言した。(参照

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私は昨日の記事で、"リベラル保守のまともなと政党が出現してくれれば嬉しいと、ずっと思ってきたのだが、私の長年の「希望」が叶えられるだろうか?" と書いた。しかし、いわゆる「リベラル保守」とはちょっとイメージが違っちゃうのかなという気がしてきた。

問題は「安部政権と比較してどっちが右か?」ということになりそうだが、小池さんにそんなことをまともに聞いても、例の「微笑答弁」でまともには応えないだろう。この人、質問をはぐらかす名人だ。もっともすべてをはぐらかすわけでもなく、単刀直入に言うところもあるので、「のらりくらりの人」とは思われていない。このあたりの匙加減も名人クラスである。

というわけで、政治姿勢もそんなようなスタイルになるんじゃあるまいかという気がしている。安部さんのように「絵に描いたように単純素朴な右の人」ってわけじゃなく、結構広い間口を開けておきながら、要所要所は妥協しないというか、そんなような政治手法を採るんだろう。

民進党系の候補者すべてを受け入れるわけではなく、明確に「排除する」と言い切っているのも、そんなスタイルを明確に現している。

私は当初、「希望」としても数は欲しいから民進党系を最大限受け入れるんじゃないかと思いつつ、しかしそれでは、後になってから内輪もめで内部崩壊につながる可能性が高いと危惧していたのである。小池さんとしては、初めからその危険性を包含したスタートはしないというわけだ。まあ、「彼女的には賢明」なスタンスだろう。

来月の選挙にあたり、実際の投票行動としては「反安部」で 「共産党も各論的にはいいこと言ってるけど、ちょっとなあ」と思っている有権者にとっては、もう「希望の党」しか選択肢がないという、妙な状況になってしまった。

個人的には日本も二大政党制に近付いてもらいたいと思っていて、理想的には「反自民」の党にはもう少しリベラル寄りでいてもらいたいという気がしているのだが、まあ、今後の推移に注目してみよう。

 

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2017年9月28日

民進党事実上解党にびっくり

ちょっとしたミニ出張であたふたしていた間に、民進党が事実上解体して「希望」に合流するとやらになっていて、夕方にニュースをみて、「一体どうなってるの?」と驚いてしまった。安倍首相の「自分の都合解散」だったはずが、とんでもない流動化現象に突入してしまったようだ。

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私の頭の中の整理も全然ついていない状況なのだが、軽く言ってしまえば「へえ、おもしろくなったんじゃないの?」ということなのかもしれない。安倍首相にしてみれば「とんでもないブーメランが返ってきてしまった」ってなことだろう。

私としてはリンク先の記事で次のように書いていたが、状況は一挙に変わったとみていいだろう。

私の政治的立場は、一言でいえば「リベラル保守」だと思っている。今の日本の政治状況における悲劇は、リベラル保守もウルトラ保守も、自民党という一つの器に集約されていることだ。民進党は「頼りないリベラルと頼りない左翼の寄せ集め」に過ぎないのが悲しい。

リベラル保守のまともな政党が出現してくれれば嬉しいと、ずっと思ってきたのだが、私の長年の「希望」が叶えられるだろうか?

 

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2017年9月27日

ブレインストーミングは、役に立たない

「知識連鎖」 というサイトに、「ブレインストーミングは満足感だけで意味はない 集合知と矛盾?」 という記事がある。内容は「満足感はあり、むしろすごく楽しいものではあるものの、成果というものを冷静に見てみると、全然ダメという話」だ。

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これ、「我が意を得たり!」と言いたくなる記事だ。実際のところ私もブレストは何十回もやったが、役に立ったことは 1度もない。単に大判のケント紙が付箋の山で埋まり、3日経てば忘れ去られてしまうだけの行為に、どうしてあんなに力を注ぎたがるのかわからない。

私は初め、「ブレインストーミングを役に立てられないのは、やり方がまずいか、あるいは単に、こなし方に慣れていないからだろう」と、希望的に考えていた。30歳になる前のことだから、もう 35年も前のことである。あれからこっち、いろいろなケースで経験したが、さんざん盛り上がりはするものの、すべてその場限りである。

ホワイトボードや大きなケント紙を埋めた付箋を、落ち着いてから改めて眺めてみると、ほとんどは当たり前すぎて改めて言う必要もないことと、愚にもつかない戯れ言ばかりである。「こんなどうでもいいことを、よくも堂々と言えたものだ」と思うが、それは「一見下らなそうな考えも歓迎」だの「質より量を重視する」だの「他人のアイデアを批判しない」だの「結論を出さない」だのいう独特のルールのおかげだ。

そんなわけで、ブレストをやっている時間のほとんどは、他愛もない寝言を述べ合い、それをわざわざ付箋に書き出し、「これとこれとは関係がある」なんて言いながら、どうでもいいアイデアをいろいろな塊にまとめ、そんなことをしているうちに、本質的な目的をどんどん忘れて「何かテキトーなことを言いさえすればいい」という雰囲気に傾いていく。

もしかしたら 100 の戯れ言の中にいいアイデアが 1つや 2つはあるかもしれないが、たとえあったとしても、残り 90以上のガラクタに埋没してしまう。翌日には、「あれは一体、何だったんだろう?」ということになり、付箋のどっさり貼られた大判ケント紙は、倉庫の片隅に積まれ、1年間は辛うじて保管されるが、翌年末の大掃除でこっそり捨てられてしまう。

冒頭に紹介した記事は "ブレストは「やった感」以外に意味がない理由" という Diamond Online の記事にリンクしており、そのリンク先には次のような記述がある。Google でチーム・プロセスの改善に取り組んだジェイク・ナップという人の指摘である。


僕は経験上、集団でブレーンストーミングするのではなく、各自がじっくり問題に取り組んだ方がより良い結果が得られることを知っている。

グーグルで何度もワークショップをしたときも、成功したアイデアは、どれもブレストから生まれたものじゃなかった。最良のアイデアは、机に向かっているときやシャワーを浴びているとき、一人で考えたときにこそ生まれていた。その場で考えるのでは、時間が足りなくて深く考えられないのかもしれない。

ブレストで出たアイデアよりも個人で生むアイデアのほうが質が高く独創性に富んでいるということは多くの研究からもはっきりしている。

落ち着いて考えてみれば、「そりゃ、そうだよね」としか言いようがない話ではないか。ブレストにメリットがあるとしたら、参加者が「自分は誰からも押しつけられたわけじゃなく、主体的な話し合いを通じて業務改善に取り組んだのだ」と思い込むことができるということしかないだろう。

ということは、ある種の「ガス抜き効果」(あるいは 「ガス充填効果」か?)のようなものはあるかもしれないので、ブレストで「いい気分」になりさえすれば、それでいい。その雰囲気だけを大事にして、内容なんて忘れ去ってしまえばいいのである。忘れ去ってしまわないと、いつまで経っても「あれは一体、何だったんだろう」と忸怩たる思いにとらわれるからね。

 

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2017年9月26日

安倍首相のスピーチの、妙な 「文節区切り」

@yamabe さんが、Twitter で次のように tweet している (参照)。

安倍首相の国連演説なんだけど、どうして彼は英語なり何なり、国連の公用語で演説をしないのだろう。いや、日本語での演説が上手なら、まぁ日本語でもいいのだけど。あいかわらず文節の切り方とかおかしいし……。

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まあ、オリンピック招致の時のプレゼン(参照)を聞いちゃったから、もう一度彼の英語を聞こうとは思わないけど、彼の日本語も、やっぱり同じくらい聞きたくない。というのは、@yamabe さんがおっしゃるように、おかしな文節の切り方のせいで、聞いててイライラするのである。

で、思わず「ホント、彼の文節区切りはひどい!」とコメントすると、彼はすかさず「ブログでひとつ徹底分析してください(笑)」と返してきた。それはやぶさかではないが、彼の言うように「記事にするとなると、改めて彼のスピーチ動画を何本か見直さなければならず……それも苦痛ですね (笑)」ということになる。そう、まさにそれが苦痛なのだよ。本当に。

それで、えいやと端折っちゃうことにした。彼の文節区切りがおかしいのは、そんなに何本も動画を見直す必要はなく、どれか 1本をちょこっと見ればすぐにわかる。というか、多くの人は既に気付いているはずだ。そんなに詳しく分析する必要もないだろう。

1個だけサンプルを挙げるとすれば、せっかくだから例の 9月 21日の国連演説にしておこう。下に YouTube 動画を埋め込んでおく。

のっけから、文節区切りが小学生みたいなのだよ。

議長.../ご列席の皆様.../本日私はまず.../SDGs.../の実施にかける.../我々の情熱を.../お話ししようと.../思っていました。

ああ、もうちょっと引用しようと思ったけど、やっぱりもうイライラして嫌になってしまった。とにかく文節区切りがおかしいだけでなく、一本調子すぎて口跡も悪すぎる。

「ご列席の皆様」が、下手すると「プレス席の皆様」に聞こえる。さらに "SDGs" (Sustainable Development Goals) が "STGs" としか聞こえない。一瞬、「なんで急に『シューティング・ゲーム』の話になるんだ?」と思ったら、どうやら "SDGs" と言ったつもりのようなのだね。

こればかりでなく、とにかくこの人、例えば「〇〇的な〜」と一息で言えばいいところを、「〇〇.../的な...」なんていう具合に、下手すると文節の途中の妙なところでまで区切りたがるのだ。

そんな具合だから、彼のスピーチというのは、「ゆっくりでわかりやすい」なんていう人もいるけど、なにしろブツ切りだから、単なる印象だけは残るが、具体的な内容としては残りにくい。さらに言えば、具体的内容と言うほどのものなんて、あまり感じられないことの方が多いのである。

で、時々激高すると、「こんな人たちに皆さん.../都政を.../任せるわけに行かないじゃありませんか」と饒舌になる(参照)。いつもの調子なら 「こんな.../人たちに.../皆さん.../都政を.../任せるわけに.../行かないじゃ.../ありませんか」となるところだが、興奮するとついまくし立てちゃうんだよね。

本当に、「普通にしゃべってくれんかなあ」と、いつも思っちゃうのだよ。ちなみに、彼の英語スピーチは、文節区切りよりひどい 「単語区切り」 になりがちだよね (参照)。今回のスピーチが英語でなかったのは、最低限の賢明さだったかもしれない。

 

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2017年9月25日

緊急電報の夜間受け付け廃止

このほど NTT 東日本と西日本が、緊急時の定型電報の夜間受け付けを、来年 1月をめどにやめると発表した(参照)。 緊急時の定型電報というのは、「父危篤、すぐ帰れといった文面の電報だ。

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上の写真は実際の電報ではなく、演劇公演の情報(クリックするとわかる)で、本文がカタカナになっているが、実際はカナ漢字変換をして届けてくれるようになって久しい。

これまでは電話で 24時間いつでも電報を申し込めたが、来年 1月以後は午後 7時~翌午前 8時の間はできなくなるという。電話や電子メールの普及で、緊急連絡に電報を使う人が減ったためだ。なお緊急電報の夜間受付は止めるが、結婚式などに向けた「祝電」の需要はまだあるので、電報サービス自体は続けるらしい。

ただ、参照先の朝日新聞の記事は「緊急時の定型電報の夜間受け付けを来年 1月をめどにやめると発表した」という文面になっていて、ちょっとややこしい。私はテキスト情報を文字通りに解釈する 「アスペルガー 1歩手前」 の人なので、「だったら、『緊急時の定型電報』以外の夜間受け付けは継続してくれるの?」と言いたくなるところだが、まあ、結婚式の祝電を夜中に申し込む人もいないだろうから、そういう意味じゃないのだろうね。

緊急電報の夜中の受付をしてくれなくなっても、今はケータイが普及しているから、それほどの不都合は生じないのだろう。

その昔、1964年 6月の新潟地震の時、私の実家のある山形県庄内地方も死者が 1人出るほど揺れたので、当時北海道に単身赴任していた父から「ブジカ、シラセヨ」という電報が来たのを、子供心に覚えている。これが、私の記憶にある祝電以外の唯一の電報である。そして我が家に電話が導入されたのは、その翌年だった。

ちなみに参照先の記事によると、「2016年度の利用数 717万通のうち、緊急電報は 1%未満」なのだそうだ。ということは、年間約 7万通ぐらいはあったわけだ。私個人としては FAX ですらこの 2年以上使ったことがないので、この春に取り外した(参照)というのに、緊急電報がまだそんなに生きているとは驚きである。

ちなみに、宝くじの 1等賞より、緊急電報の数の方がずっと多いというのだから、宝くじがいかに当たらないものか、わかろうというものだ (参照)。

【2022年 3月 19日 追記】

この記事は「緊急時の定型電報」の「夜間受け付け廃止」に関するものだが、さらに 23年 1月からは「定型電報そのもの」を廃止することになったようだ。(参照

 

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2017年9月24日

原発事故に関する客観的データと、人間の「ご都合主義」

言うまでもないことだが、客観的な調査結果をまとめた「データ」というものに「善悪」はない。ある意図のもとに歪曲されたものでない限り、そこには「善い」も「悪い」もない。そこに「善悪」の区別をくっつけるのは、受け取る人間の方の都合だ。都合のいいデータなら「善いデータ」として 大喜びで使いまくり、都合が悪いと「悪いデータ」として感情的にケチを付けるか、無視するかのどちらかになる。

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最近、保守系の少なからぬサイトが「子どもの放射線被ばくの影響と今後の課題 〜現在の科学的知見を福島で生かすために〜」という日本学術会議の出した報告書について、盛んに触れている。発端の一つとなったのは、決して保守系というわけではないが、9月 21日付の J cast ニュースかもしれない。そこには次のように書かれている。

放射線の専門家が名を連ねた報告書では、被ばく量は 1986年のチェルノブイリ原発事故より 「はるかに低い」、また心配される胎児への影響はないとされた。一方で、大手マスコミのほとんどが報じていない事実に東洋大学の坂村健教授が 2017年 9月 21日、苦言を呈した。

坂上氏は、これほど客観的にまとめられた学術報告を、多くのマスコミがほとんど取り上げず、「甲状腺ガンが異常発生」などの不確かな情報のみが一人歩きしている状況に、毎日新聞紙上で懸念を覚えられたのだろう(参照)。次のように述べておられる。

「一部の専門家といわれる人に、いまだに『フクシマ』などという差別的な表記とともに、単に感覚にすぎない『理論』で不安をあおる人がいるが、そういう説はもはや単なる『デマ』として切って捨てるべき段階に来ている」

坂上氏としては、「ガンの増加や胎児への影響」といった「デマ」で、人々に不要な不安を植え付けるのは間違っているという、学者として当然の態度表明をされたのだろう。

しかし一部に、この報告書の内容と坂上氏の指摘を過大に解釈する向きもある。「学者は『原発事故では人体被害がなかった』と言っているのに、原発反対派はそれを意図的に無視し、『原発は危険』という科学的根拠のないデマで不安を煽っている」と言わんばかりの人もいるのだ。

これもまた、客観的なデータを「自分の都合」で解釈する誤りをおかしている点で、原発反対派が報告書を無視しているのと同じぐらいの誤りと言うほかない。問題の報告書はあくまでも「福島の原発事故」という個別のケースについて言及したもので、「いつどこで原発事故がおきても、胎児への影響なんか発生しない」と結論付けたものではない。

さらに言えば、実際に起きてしまった原発事故の後始末はかくまで難航を極めているが、原発賛成派はこのまぎれもない事実についてはほとんど触れない。原発反対派が件の報告書をあまり論じないのと、ベクトルは正反対だが、本質的にそれほど変わらない「ご都合主義のスタンス」である。

私自身は「反原発」の立場を鮮明にしているが、「福島で甲状腺ガンが多発している」なんてことは一度も言ったことがない。だって、私はその方面では門外漢だし、それを立証する確かなデータもないんだから、そんなことは怖くて言えない。

しかし事故から 2年後の 2013年 3月 13日の当ブログで、「福島で健康被害が出る恐れは極めて小さい」という WHO の報告書や、環境省からの「子供の甲状腺調査結果でも福島県で他県と比べて異常な結果は出ていない」という報告に関連して、次のように書いている。

原発推進派の中には、「こんな事故が起きても、健康被害なんてなかったんだから、原発はそんなに危険なものじゃない」なんて言いたそうな人もいるように見受けられるが、それは乱暴すぎる。だって、一番危ない地域には、今は人が住んでいないのだから、その地域のデータは存在しないのである。

これは、この記事を書いた時点からさらに 4年経った今でも、変わらず主張したいことである。一番危ない地域で被ばくし続けたというケースのデータはないのだから、『原発は危険じゃない』という言い方は、それこそが危なすぎる」のだ。

つまり、「原発事故に関するデマで不安を煽るのは間違いだが、だからと言って楽観的すぎる見解も、同様に間違いである」というごく当然のことを確認しなければならない。そして一番確かで、重く見なければならないのは、事故ってしまった福島の原発では、今でも出口の見当たらない処理作業が継続していて、この危険な作業に莫大なコストと労力が投下されているという、紛れもない事実である。

【追記】

坂上氏は 「いまだに『フクシマ』などという差別的な表記とともに......」 と書かれているが、私個人は「フクシマ」という表記が差別的とは認識していないことを付け加えておく。福島の原発事故が「国際的イシュー」であることを強調する意味で、カタカナ表記にする意味はあると思っている。

 

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2017年9月23日

もっともらしい体裁だが、要するに広告

先日届いたマールマガジンに 「スマホ上級者なら入れてて当たり前。定番アプリランキング TOP 10」 というのがあったので、それほど定番というなら、自分はそのうちいくつインストールしてあるだろうと、ちょっとだけ興味があったので行ってみた。「今日のスマホ情報」というページである。

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自分は少なくとも初心者なんかじゃないと意識しているから、「上級者なら入れてて当たり前」という 10個のうち、少なくとも 2〜3個ぐらいはインストールしてあるだろうと、そこはかとなく思っていた。さらに、他にもいいアプリがあれば入れてみてもいいかなという気もしていたのである。

ところが行ってみると、私はその 10個のうちの 1つもインストールしていない。それらの 10個をここでつぶさに挙げようとは思わないが、「そんなの、インストールしても使わないだろう」というのが 5個と、「同じようなことができる別のアプリを、既に使ってるし」というのが 5個で、要するに、「そんなの要らない」 というものばかりである。

「なんじゃ、こりゃ?」と思いつつよく見ると、そのページの上の方には "Sponsored" という表示がある。なんだ、広告じゃないか。こういうの、その世界では「記事広告」なんていう。客観記事のような体裁を取りつつ、実は広告なのだ。世の中にはこの手のものが多いんだよなあ。

こうした記事広告は、「そんなの要らない」と見極めがつく上級者にはあまり効果がないが、「上級者になりたい」と思っている層にはある程度の訴求効果があるのだろう。ただ、このページに行ってみて、「これ、いいかも」と思っていくつかインストールしても、申し訳ないけど、あんまり使わないんじゃないかなあ。

 

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2017年9月22日

"COIN WASHER" というのは、ちょっとなあ

「コインランドリー」というのは和製英語といわれている(下の【追記】参照)が、これに関しては、私はつべこべ言わずに認めてもいいと思っている。"Coin laundry" と言えば、外国人にも通じてしまいそうだし。

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先日泊まったビジネスホテルは大浴場(天然温泉)付きで、しかもガラガラにすいていたので、気持ちよくゆったりと暖まることができた。大浴場の隣にはコインランドリーがあり、温泉に浸かっている間に、楽々洗濯できたのも嬉しかった。しかしこのコインランドリーの洗濯機と乾燥機をみて、ちょっとカックリきてしまった。

設置してある洗濯機には "COIN WASHER"、乾燥機には "COIN DRYER" と表示されていたのだよね。うーん、"COIN LAUNDRY" なら認めるけど、申し訳ないが、これはやっぱり認めにくい。

これでは「小銭洗い機」「小銭乾燥機」(「小銭を洗う機械」「小銭を乾かす機械」ってことね。念のため)ということになってしまう。"Car washer" が 「クルマを洗う機械」で、"hair dryer" が「髪を乾かす機械」であるのと同様なのは、言うまでもないよね。下手したらマネーローンダリングの機械と思われちゃいそうだが、小銭を洗うぐらいでは、その目的には全然足りないだろうし。

「小銭洗い機」の方には、「AQUA 洗濯機 5kg」とあり、ちょっと調べてみたところ、この "AQUA" というのはコインランドリーの業務用機器で国内トップシェアを誇る会社であるらしい(参照)。国内の市場をよほど大切に考えているんだろうね。

【追記】

よく調べてみたところ、”Coin laundry" は、和製英語というわけでもなさそうだとわかった。"Coin Laundry" というタイトルの歌があり、Wikipedia に、次のように述べられている。(参照


"Coin Laundry" is a song performed and written by Australian singer–songwriter Lisa Mitchell from her first studio album, Wonder (2009).

("Coin Laundry" は、オーストラリアのシンガー・ソングライター、リサ・ミッチェルによって書かれ、演奏される歌で、彼女の最初のスタジオ・アルバム "Wonder" に収められている)

少なくとも、オーストラリアでは "coin laundry" で通じるようだ。

 

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2017年9月21日

安室奈美恵の引退というニュース

昨日から愛媛県に出張している。移動の途中、スマホの速報で、「安室奈美恵、引退表明」というニュースを知ったが、それほど大ニュースとは思わなかった。「ふぅん、そうなの?」程度の印象である。

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ところが今朝、ビジネスホテルのテレビのスイッチを入れて驚いた。いつもはニュースを聞くのにラジオを聞くのだが、ホテルの部屋にはラジオがないので、ごく自然にテレビを見てしまう。するといきなり「安室奈美恵引退」でギンギンに盛り上がるスタジオの光景が映し出された。「へえ、案外大変なニュースなんだね」と思いつつ、リモコンのボタンを押してチャンネルを変える。

すると、次のチャンネルも「安室、安室」の大合唱である。「まあ、それはいいから」と、もう一度リモコンのボタンを押す。するとまたしても「安室、安室」である。結局、民放の朝のニュースショーは、全局「安室、安室」だったのだ。

「こりゃ、ダメだ」と思い、NHK に変える。すると画面は「赤羽特集」である。東京下町、赤羽の大特集で、「1000円でベロベロに酔える」という「センベロ」が売り物の飲み屋が登場している。まったくの別世界。そして民放が束になって、NHK の「センベロ」に襲いかかっている。

BS なら多少まともなニュースショーを流してくれているかもしれないと思ったが、このホテルでは BS が映らない。結局、「センベロ」か「安室」かの選択肢しかない。しばらく「センベロ」に付き合ったが、やっぱり厭きてしまい、再び民放に帰ったが、何分待ってもどの局も、「安室賛歌」の大合唱が続いている。とにかく延々と続いている。

登場するタレントたちが、「自分はいかに安室奈美恵を愛しているか、いかに青春を安室奈美恵に捧げたか、いかに安室奈美恵のファッションを真似しまくったか」を、これ以上ないほど熱っぽく語っている。すごいものだ。

ここに至って、さすがに降参した。もう認めるしかない。安室奈美恵の引退は、確かに大ニュースなんだろう。言われてみれば、私としても「下らん!」 なんて全然思わない。悪くないと思う。彼女はグレートなんだろう。確かにそうなんだろう。

はい、認めました。素直に認めました。

 

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2017年9月20日

宝くじは「夢を買う」のだという大衆心理

世の中には「宝くじ」というものがあり、とくに「年末ジャンボ」とかいうのを毎年楽しみにしている人もいる。「そんなもの、当たりゃしないよ」というと、「いいんだよ。宝くじというのは、『夢』を買ってるんだから」などと、発売元の宣伝文句を素朴に信じているようなことを言う。

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「同じ金を出すなら、夢なんかより現実を買いたい」と、至極当然のことを言うと、「あんたは、夢がないなあ」なんてなことをのたまう。いや、それは完全に逆だろう。私は夢ならちゃんと持っているから、金で買う必要なんかない。そっちこそまともな夢がないから、金で買おうとしているんだろうに。

その昔、知り合いの男がものすごく分厚い宝くじの束を持っていた。「どうしたのか」と聞くと、「年末ジャンボを 10万円分買った」と言う。なんとまあ馬鹿なことをするものかと思っていたところ、そいつは正月早々、会社の金を使い込んでいたのがバレてクビになり、その年の暮れには刑務所送りになった。

使い込んだのは、2000万円あまりだという。彼は使い込みがバレる前に年末ジャンボで使い込んだ分の金額(あるいはそれ以上)を当てて、こっそり返そうとしていたのだろう。しかし、1000円分買えば 20万円当たるというならともかく、10万円で 2000万円がチャラになるなんてことはまずない。そんなこともわからない頭の構造だから、会社の金も平気で使い込む。

それにしても、宝くじというのは本当に当たらない。私も若い頃にほんの数回だけ買ったことがあり、1度だけ 1000円で 2万円(だったかな?)当たったが、すぐに「宝くじは当たらないもの」と悟り、それ以後は手を出したことがない。ということは、私の宝くじ収支は非常に稀なことに、少しだけ黒字のはずだが、それは「ほんの数回」で止めたからだろう。長く続けたら、大抵大赤字になる。

宝くじファンは「買わなきゃ当たらない」と言うが、「買ってもまず当たらない」という確率論と経験則を信じようとしない。これだけ当たらないというのは、相当高い寺銭(正式には「控除率」というらしい)を取っているのだろうと思っていたが、最近急に思い立って、ネットで調べてみたところ、驚異的な数字と知った。控除率はこんな具合だ。(参照

日本の地方公共団体が運営する宝くじ - 55%

スポーツ振興くじ(toto) - 50%
 (中略)
日本の公営競技 - 20%〜30%前後

「日本の公営競技」 というのは、要するに競馬や競輪のことだ。作家の安部譲二氏が「中央競馬の寺銭はヤクザよりひどい」みたいなことを言ったと聞いたことがあるが、それと比べても、宝くじの寺銭はひどすぎる。

要するに、宝くじを 1000円買ったら、平均して 450円しか戻ってこないということだ。たまに数万円ぐらい当たってウハウハ言ったとしても、続けているうちに半額以下しか回収できない。「夢を買う」という宣伝文句の実体は、「はかない夢しか買えませんよ」ということである。

宝くじを買い続ける人というのは、「自分だけは特別」で、平均的確率とは別の次元で生きているから、「いつかは当たる」と信じているのだろう。「自分だけは交通事故に遭わない」などと信じるのを「正常化の偏見(normalcy bias)」というが、実際は宝くじで一等賞に当たるよりも交通事故で死ぬ確率の方が高い。

 

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2017年9月19日

「自分の都合解散」 と名付けたい

安倍首相が今月末の臨時国会冒頭での衆院解散を行う意向と報道された。決して唐突というわけではなく、前からするだろうとは言われていたが、「なんでまた、こんな時に?」と、大方と同じ疑問を抱いていた。しかしまさに単純素朴に解散するとなって、「要するに自分の都合で解散するわけね」と、納得した。それ以外の理由は考えられないものね。

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というわけで、個人的には「自分の都合解散」と名付けたいわけなのである。

人間というのはなかなか勝手なもので、権力を握ってしまうといくら周囲に不都合が生じようとも、自分の都合の方を優先させてしまうものだと、今回の解散報道でよくわかった。多少なりともエレガントさがあれば、こうした傲慢さは引っ込められるのだろうが、安倍首相にそれを期待しても無理のようだ。

私の政治的立場は、一言でいえば「リベラル保守」だと思っている。今の日本の政治状況における悲劇は、リベラル保守もウルトラ保守も、自民党という一つの器に集約されていることだ。民進党は「頼りないリベラルと頼りない左翼の寄せ集め」に過ぎないのが悲しい。

自民党の中にはちゃんとリベラル保守もいるというのに、ウルトラ保守と一緒になって選挙する方が当選できると思っているので、これまた「自分の都合」でやっている。要するに政治というのは、大義名分よりも自分の都合で動くのだね。

本来ならそうした勝手な人たちにはお引き取り願いたいのだが、金輪際そうはならない。政治家たちの都合と自分の都合が一致する少数の人たち(いわゆる「支持層」ってやつね)が積極的に投票し、一致しない人たちはシラけて投票しないから、こうした状況がずっと続いている。

まったくもって、困った話である。

 

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2017年9月18日

私も敬われていいらしい 「敬老の日」

今日は「敬老の日」なのだそうだ。上天気になったが、夜明け頃までは台風 18号の影響で大変な風だったから、関東でも三連休を目一杯楽しんだ人はごく少ないだろう。それどころか、九州や四国ではかなりの被害が出ているようだ。

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ちなみに、今でも「敬老の日」は 9月 15日と思っている人がいるが、9月 15日は「老人の日」で、15日からの 1週間を「老人週間」といって、ということは、今も老人週間に含まれている。これは「敬老の日」とは別に定められているのだが、まったく別というわけでもない。この間の事情は、私の 2年前の記事に詳しい。

総務省統計局によると、今年 9月 15日時点の日本の高齢者(65歳以上)人口は 3515万人で、総人口比は27.7%であるらしい。「ふ〜ん」と思った途端に、「あ、そうか、俺もこの中に入るんだ」ということを思い出した。今年 7月 26日の誕生日を期して、私は名誉ある「高齢者」の称号を得たのだった(参照)。

世の中には「高齢者」と呼ばれるのを嫌がる人が多いが、私はまったく抵抗がない。それどころか「高齢者」という名目を楽しんですらいるところがあって、そのうち自分のクルマに、「もみじマークと若葉マークの 2枚貼り」をしたいと思っているほどだ。これって、最強の交通安全ツールになるだろう(参照)。

昔から「〜らしく」というのが性に合わなくて(参照)、何かにつけて「〇〇らしくない tak さん」と言われ続けてきた。名目と実体は異なるのが当然で、歳の話も例によって「65歳らしくない tak さん」ってことになっている。10年も経てば「75歳らしく」なれるだろうか。

とりあえず今日になっても、娘たちからの「敬老の日」のプレゼントなんてものは、まったく届かない。家族にしても、私が「敬老の日」の「敬い対象」になったとはまだ気付いていないみたいなのだ。当人も含めて、まったく認識が甘いことである。名目で敬われるという経験をこれまでしたことがないので、少しは経験してみたいという気もするのだが。

ものの試しにネットで「敬老の日プレゼント」というのを検索してみたら、上の写真のような、お茶だの和菓子だのみたいなのがざくざく出てきた。うーん、こういうの、あまりいらないなあ。

 

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2017年9月17日

大磯町の給食問題に見る 「食べ残しの集団心理」

神奈川県大磯町の中学校の学校給食で、食べ残し率が異常に高いというのが問題になっている。下のリンクは日テレのニュースへのリンクだ。確かに画像で見ると、めちゃくちゃ食べ残されている。中学生たちは質問に答えて「おいしいとは言えない」とか 「冷めていたり、味のバランスがダメだったり」などと言っている。「残して当然」と言わんばかりの口調だ(参照)。

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育ち盛りの中学生時代、常に腹を空かしていた自分の感覚からして、多少まずいぐらいで給食をあんなにも食べ残すとは信じられない。そもそも給食なんてまずいと相場が決まってるんだから、つべこべ言わずに食うしかないのである。そうでなくても日本はフード・ロスが異常に多くて、世界に対して顔向けができないほどなのだ(参照)。

私なんかつい、満足に食うものがない飢餓地域の子たちに思いを馳せてしまうので、せっかくの食べ物を残して捨てるなんて論外と思っていて、とにかく米粒 1つ残さずきれいに完食する主義なのである。その方が、自分と他人を問わず、食器を洗うにも楽だし。(参照 1参照 2

というわけで、育ち盛り、食い盛りのはずの中学生が給食を食べ残すなんて、「まずい」という表面上の理由とは別の事情があるはずと思っていたところ、昨日、「昨年 1月以降、虫や髪の毛、ビニール片などの異物が計約 100回見つかっていたことが町の調査でわかった」と報じられた(参照)。これで 「食べ残し問題」の底流が少し見えてきた。

生徒たちの「食欲減退」の底にある要因は、多分この「異物混入問題」だろう。実際にはこれ、大多数の生徒にとっては「事実」というより「それらしき伝聞情報」に過ぎないのだろうが (「計約 100回」 なんていうキリがいいようなテキトーなような数字からして、ちょっとアヤシいし)、多感な年頃の中学生のことだから、見るからにチープなプラスチック製弁当箱の中身に、必要以上の不信感を抱くのも不思議ではない。

さらに「みんな残してるのに、自分だけ全部食べるのは恥ずかしい」なんていうメンタリティもある。「そんなの考えすぎ」という人もいるだろうが、これはとくにこの年頃の子たちには、絶対に「大あり」だ。もしかしたら、これが一番大きなファクターかもしれないとまで、私は疑っている。もはや「食べ残しの集団心理」と呼んでもいい現象だ。

大磯町としては生徒たちの健康を考えて、「塩分を控え、細菌繁殖を抑える温度で配送している」というのだが、こんなにまで妙な集団心理が発生しやすい給食では、配慮が完全に裏目に出ている。一番の問題は、「作ってくれた人たちに感謝して、ありがたく戴く」という、食事で最も大切な要素を、行政も生徒たちもすっかり忘れてしまっているように思われることだ。私は食い物に関してはかなりストイックなのである。

私としては、そんな弁当でも気にせずきちんと完食するタイプの子(クラスで 3人しかいないらしいが)を、「見所あるやつ」と褒めたいと思う。

 

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2017年9月16日

カメムシの話

一昨日の和歌ログは、カメムシについての歌だった(参照)。外出先から帰宅したら、クルマのボンネットにカメムシがひっついていたのである。どこかから飛んできたのか、あるいはクルマの移動中にひっついて、そのまま連れて来てしまったのか、とにかく、久しぶりでカメムシに遭遇したのである。

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カメムシという虫に出会ったことのない人は幸いである。というのは、邪険に追い払ったりすると、突然ものすごく臭い体液を放出するのだ。ましてや、間違えて踏んづけちゃったりしたら大変だ。「ヘッピリムシ」という異名まであるのだから、その嫌な臭いが想像されるだろう。

だから、ちょっと「怒り肩」風の茶色や緑色の小さな虫を見かけたら、あまり強引に追い払ったり潰したりしない方がいい。一昨日は放っておいたところ、いつの間にかどこかに飛び去ってくれたので安心した。

というわけで、私の中では「カメムシって、嫌な奴」と思い込んでいたのだが、徳島博物館の「カメムシのはなし」というページを読んで、認識を新たにした。カメムシには、「よいカメムシ・わるいカメムシ・ただのカメムシ」があるのだそうだ。

ちなみに、この写真のカメムシは「クサギカメムシ」といって、豆類を食い荒らす害虫だそうだ。逆に「ハナカメムシ」の仲間は害虫を補食してくれる益虫らしい。そして意外なことに、セミやタガメもカメムシの仲間なんだそうだ。確かに、似ていると言えば似ている。そして彼らは「ただのカメムシ」ということになっているのがおもしろい。

とはいえ「よいカメムシ・わるいカメムシ・ただのカメムシ」と色分けしても、それはひたすら人間の都合で言ってるだけだ。人間というのはかくも勝手なもので、当のカメムシにすれば余計なお世話なんだろう。かまわず放っといてもらうのが一番と思っているはずだ。

人間でも「いい人」と「悪い人」というのがいて、お隣の半島の北側の太った人は、世界有数の「悪い人」扱いされている。カメムシと違うのは、世界中から かまってもらいたがっているらしいという点だ。最もうっとうしいタイプである。

 

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2017年9月15日

新しい iPhone の発表で思ったこと

日本時間の 13日深夜、Apple が iPhone 8 と 8 Plus、そして iPhone X、その他モロモロ(参照)を一挙に発表した。この発表でちょっと興味深かったのは、"iPhone X" の読み方で、"X" は「エックス」じゃなくて「テン」と読むのだそうだ。ティム・クック CEO が自らそう発音したというのだから、そうなのだろう。これって、ローマ数字だったのね。それじゃ、この次の iPhone 9 の、そのまた次はどうなるんだろう?

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何となくずっと昔から iPhone を使い続けているような気がしていたが、自分のブログで確認してみると、最初に買ったのは 2009年 8月で、iPhone 3GS というモデルだった(参照)。それから iPhone 4、5、6 と機種交換して、今は 7 Plus というのを使っているが、自分でも意外なことに、iPhone ユーザーになってまだ 8年ちょっとしか経っていないのだね。

そして PC は MacBook Pro を使っていて、今や「忠実な Apple 信者」みたいに見えるだろうが、これも自分のブログを遡って調べてみると、Windows から Mac に乗り換えたのは、2014年の 1月(参照)だ。iPhone ユーザーになってから、Mac ユーザーになるまで、なんと 5年近くかかっている。

それまで Windows PC を使いながらずっと、「自分は本来なら Mac ユーザーであるべきだった」と忸怩たる思いを抱き続けて、ようやく「本来の自分」に戻って、まだ 3年半を経過したに過ぎない。今使っている MacBook Pro も、自分にとっての「初代 Mac」なのだから、まだ新参者である。

というわけだが、今回の新しい iPhone の記事を読んでも、それほどワクワクしない。というのは、今の Mac と iPhone の連携で、十分満足しているからである。

ユーザーとしての感覚で言うと、個々のデバイスを使っているというより、iCloud に蓄積したデータを Mac と iPhone という「窓口」で編集しているという感じで、それがいかにも自然なので、「IT を使っている」ということさらな気がしないのである。Windows とスマホをクラウドで連携させる手もあるが、それって、iCloud ほどさりげなくはいかないみたいだよね。

私は 20年も前に「コンピュータは脳みその大腸菌」というコラムを書いた。Windows 3.1 から 95 に移行中という大昔である。そのコピーを自分の本宅サイトに収録してある(参照)のだが、当時は「大腸菌」(外部生命だが、それがないとフツーに生きられない)だったものが、今では、「脳みその外付け記憶媒体」みたいなものになってしまっているのを感じる。

で、今回の新しい iPhone の発表は、「脳みその外付け記憶媒体」の性能が、またまたアップしたなという印象で、それはそれでありがたいのだが、とりたててワクワクするほどのことでもない。なにしろ、まだ「自分の OS」は自分の中にあるのでね。確実に言えるのは、自分の OS と Mac OS、 iOS の相性が悪くないということだ。

 

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2017年9月14日

今年の 8月の天気は、散々だったのだ

下の写真は、我が家の太陽光発電の、今年 8月の記録だ。オレンジ色の線が発電量の推移で、ブルーの線が消費量の推移。オレンジ色で塗りつぶされている日は発電量が消費量を上回り(つまり「黒字」)、ブルーで塗りつぶされていれば消費量が上回っている(つまり「赤字」)ことを示す。

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我が家は一昨年の 4月に太陽光発電パネルを設置したので、それ以来、夏を 3回経験したことになる。経験からして最も効率よく発電してくれるのは、日照時間が長く、気温も高すぎない (高すぎると発電効率が落ちるらしい) 5月で、過去 2年間は、7月、8月がそれに次ぐ実績を上げていた。

ところが今年の 8月の関東の天気はぐずつきっぱなしで、ご覧の通り、ブルーの部分が多かった。とくに月の中頃はひどいもので、天気が悪いためにエアコンもあまり使わなかったので、ブルーの部分がそれほど目立たずに済んでいるが、発電量に注目すれば惨憺たる結果である。

月間の数字は、発電量が 248.2 kWh で、消費量の 236.0 kWh を辛うじて上回り、黒字を確保できた。しかし一昨年の 8月の発電量は 282.9 kWh、去年の 8月なんて 305.9 kWh で、余裕の黒字だったのである。

それどころか、248.2 kW という数字は、今年 1月、2月の発電量の、273.3 kWh、279.7 kWh という数字をも大きく下回る。真夏の太陽光発電量が、真冬のそれに遠く及ばなかったのだから、今年の 8月はとんでもない月だったとわかる。

それでなくても、最近は台風の進路がちょっと変わって来ていて、南海上からやってきたのが、強い勢力のままいきなり関東や東北、それどころか北海道に上陸するというのが増えてきている。米国でも超大型ハリケーンが相次いで上陸するし、これまでの気象の常識がかかりにくくなっている。

ここ 20年ぐらいでこんなに大きな変化を見せているのだから、これから 20年はもっと大変なことになるだろう。気象災害にいかに備えるかが大きな問題になってきている。

 

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2017年9月13日

不倫報道を巡る、週刊誌とワイドショーのアヤシい関係

一昨日の「政治家の不倫という話題に群がる大衆心理」という記事で私は、政治家の不倫報道には興味がないが、「この種の話題に群がりたがる大衆心理ということだったら、かなり興味がある」と書いた。というわけで、今日はその続編である。

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この記事に、ハマッコーさんから「政治家やタレントの不倫という話題に群がるのはテレビ局や週刊誌であって一般大衆ではないと思いますよ」というコメントがついた。これは鋭い指摘で、実は私もそんなような気はしていた。

ハマッコーさんは、「個人的には政治家やタレントの不倫の記事が載っているからと言って週刊誌に 400円も払う気は全くありません」と書かれている。確かにその通りで、週刊文春の発行部数は公称 68万部とされており、この数字を素朴に信じたとしても、日本人の約 175人に 1人しか読まない。号によって多少の変動はあっても、読んでいるのはどんなにオマケしてみても、人口の 1%以下だろう。

では、どうしてそんなにまでマスコミは、スキャンダルのスクープ合戦にしのぎを削るのか。

多くの日本人は、この種のニュースをテレビのワイドショーで知ることになる。まともなニュースでは、あまり取り上げないからね。ということは週刊誌にとって、テレビのワイドショーで「今週の 『週刊〇〇』 によりますと……」という枕詞で取り上げられることは、我々が思っている以上に重要な意味をもつのだろうと思われる。

要するにこれって、結構な宣伝効果があるはずなのだ。広告費を一銭も払わなくても、テレビが勝手に、しかも大々的に宣伝してくれるのだから、政治家やタレントのスキャンダルのスクープは、文春や新潮にとって、ものすごく 「おいしい」。

その証拠に、スキャンダル・ネタを重視する文春、新潮は、ワイドショーが盛んに宣伝してくれるおかげで、週刊朝日、サンデー毎日などよりずっと発行部数が多くなっている。読売ウィークリーなんて、とっくの昔に廃刊に追い込まれてるし。つまりこの種のスクープ合戦は、読者の関心に応えるという以上に、提供する側の都合が優先している。

芸能ネタ専門みたいな女性週刊誌は、タレントの不倫を報じてワイドショーに乗り、宣伝効果を上げられるが、文春や新潮などは媒体の性格上、ちょっとつつけばいくらでも湧いて出てくるタレントのスキャンダルをのべつ報じるわけにもいかないので、代わりに政治家のスキャンダルを報じることになる。(タレントのスキャンダルも全然報じないわけでもないようだが)

一方、テレビ局が週刊誌に載ったネタをワイドショーで取り上げるのは、コストをかけずに、もっともらしい、しかも小難しい政治経済ネタなんかより圧倒的に 「わかりやすい」 ネタで、放送の時間帯を埋められるからだ。つまり業界内の都合で、互いにもちつもたれつのメリットがある。それだけのことなのだろう

スキャンダル・ネタが週刊誌とワイドショーに、読者や視聴者の「知りたい」というニーズを遙かに上回る勢いで、というか、まったく別の次元のパワーでばかすか飛び交うのは、こうした事情からとしか思われない。

中には不倫の当事者の政治家やタレントをもっともらしく非難することで、いかにも「自分は清く正しい日本の庶民」と思い込んで自己満足したり、TV カメラに向って深々と頭を下げられると、自分に向って頭を下げられたと勘違いして溜飲下げたりする人もいるのかもしれない。でも、それって具体的には何の得にもなっていないよね。

その昔「指三本」 の宇野宗佑首相の辞任につながる不倫を大々的にスクープしたのは「サンデー毎日」で、その当時の編集長を務めていたのは鳥越俊太郎氏だった。その鳥越氏が東京都知事選に出馬して、「女子大生との不適切な関係」なんてスキャンダルを書かれたのだから世話はない。

まことにもって「因果は巡る」である。

 

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2017年9月12日

「女性に成り済ました女子中生」という見出しで、目が点になった

今日のネット・ニュースの見出しをザッピングしていて、「徳島県警が 21歳女性を誤認逮捕、19日間勾留 「公演チケット売る」と女性に成り済ました女子中生を書類送検」 という見出しに、一瞬目が点になった。「女性に成り済ました女子中生」って、一体どういうことだ?

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「女装した女子中生」の姿を思い浮かべたが、それは「フツーの女子中生」にすぎない。記事を読んでみて確認したところ、既に知ってる人は知ってるだろうが、ざっと次のようなことだったので、要点だけ記しておく。

徳島県警は、SNS でコンサートチケットを売るとうそをつき、現金をだまし取ったとして、5月15日に愛知県豊田市の専門学校生の女性(21)を詐欺容疑で逮捕し、19日間勾留したが、実際の犯人は京都市に住む女子中学生(15)だったことがわかり、書類送検した。

なるほど、よく読めば、「誤認逮捕されたところの、その女性に成り済ましていた女子中生を書類送検」したということだとわかる。しかしやっぱり、「女性に成り済ました女子中生」という言い回しは素っ頓狂に感じられて、私だったら、こんな見出しは気持ち悪くてつけられないけどなあ。

ちなみにこの事件の具体的な流れを図にすると、以下のようになる(産経 WEST より転載)らしいのだが、これを考えた女子中生、もしかして産経新聞の編集者より頭がいいかもしれない。

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2017年9月11日

政治家の不倫という話題に群がる大衆心理

近頃、政治家やタレントの「不倫」騒動が花盛りのようだ。個人的には他人の色恋沙汰に首を突っ込むなんて、面倒くさい思っているのだが、週刊誌がこぞって取り上げたがり、それが大きな話題になったりするのだから、世間というのは有名人の色恋沙汰に少なからぬ興味を持っているらしいと察せられる。

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そんな中で、HUFFPOST に吉川慧さんというエディターが 「不倫疑惑」が報じられた政治家は? 山尾志桜里氏への『文春砲』で振り返る  総理大臣から野党のリーダーまで、みんなスクープされていた」という記事を寄せている。

「みんなスクープされていた」というタイトルが、そこはかとなくおもしろい。とにかく政治の世界では、この種のネタに事欠かないようなのだ。

記事にはこんなことが書かれている。

多数の女性と関係を持つことは、永田町では「男の甲斐性」とされていました。政治家の番記者は、担当政治家の女性関係を知りつつ、書かないことは当然だったといわれます。

とにかく政治家というのは、芸者などを妾にするのが当然で、三木武吉などは「妾が6人いるそうだが」と指摘され、「事実は7人だ」と切り返したというのが有名な話だが、決してニュースにはならなかった。こうした「常識」が覆されたのは、1989年の宇野宗佑首相(当時)の「指三本」事件に端を発する。

「サンデー毎日」が「指三本を握られて『これ(月 30万円)でどうだ』 といわれた」という神楽坂芸者の証言をスクープし、これを首相の「買春」と報じた。これが大問題となって、宇野首相の在任期間はわずか 69日で幕を閉じた。

確かにこの報道を機に、政治家の色恋沙汰に世論が厳しく当たるようになったような気がする。

とはいいながら今でも週刊誌がちょっと「その気」になれば、この種の話題がいくらでも出てくるということから、相変わらず政治家の多くは「いろいろある」のだねというのがわかる。そして脇の甘さとネームバリューのからみで、取り上げて金になりやすい順にスクープされる。

ただ、政治家だけじゃなく、まあ、芸能界も大変なものだし、ごくフツーの庶民だって結構「いろいろある」のだろう。そんなこともあって、アーサー・ホランドという自称「不良牧師」が、「罪なき者のみが石もて打て」と聖書の言葉を引用したことで話題になっている。

これ、実はかなり鋭い指摘だと思う。少なくとも、「女に縁の無い俺は、石臼を投げ付けてヤル!!!!」(参照)なんていう次元の話じゃないことは、聖書をきちんと読めばわかるはずだ。

いずれにしても、個人的にはこの種の話題にはあまり興味がない。一昨日の記事から「興味がない」の三連発で恐縮だが、どちらかといえば、政治家の不倫そのものではなく、この種の話題に群がりたがる大衆心理ということだったら、かなり興味がある。

【追記】

つい「この種の話題に群がりたがる大衆心理」と書いたが、実は「この種の話題に群がりたがる週刊誌とワイドショーのアヤシい関係」こそがこの問題の核心と気付いたので、9月 13日付でその辺のところを書いた (参照)。

 

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2017年9月10日

プリッツとプレッツェル

妻がどこからかタイ土産の「トムヤムクン味プリッツ」というのをもらってきた。江崎グリコ純正だが、タイ国限定発売なのだという。これをみて、「まがい物じゃないの? だって、アルファベット表記の読みが『プレッツ』になってるじゃん」と言ったら、「プリッツ」の表記は元々 "PRETZ" であって、 "PRITZ" じゃないのだという。

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というわけで、これは本当に、日本の江崎グリコ純正で、間違いなくタイ国限定発売の品物らしい。私はこの類いのスナック菓子をほとんど口にしないので、表記が正式に "PRETZ" だったとは、ちっとも知らなかった。「プリッツ」なんだから、当然 "PRITZ" だろうと思い込んでいたのである。

なんで「プリッツ」が "PRETZ" なのか、気になって調べてみると、Wikipedia に次のように書いてあった。

プリッツはプレッツェルに由来する商品名であり、「プレッツェル菓子」に分類されるが、いわゆる一般的なプレッツェル形ではなくストレートなスティックタイプである。

プリッツが「プレッツェル」に由来するものだとは、これまた、ちっとも知らなかった。念のため他のページにもあたってみたが、同様の説明ばかりだからきっと本当なのだろう。これまた念のため、プレッツェルとは下に示すようなスナック菓子で、欧米ではごく一般的なものだと思う。

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だったら素直に「プレッツ」にすればよかったのに、どうして一ひねりして「プリッツ」にしちゃったんだろう。形状はひねらずにストレートなのに。

この件についてはウェブで調べてみても、「ドイツ語由来だから、最後が "Z" なのか」なんてのはあるが、母音の読みについて疑問を呈したページはついぞ見当たらない。どう考えてもこっちの方こそ不思議なのにね。

でも、まあ、そこまではあんまり興味ないから、昨日の ”STP” 同様、どうでもいいや。どうせ雰囲気のものなんだろうし。

 

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2017年9月 9日

"STP" のステッカーというもの

ボディに "STP" と書かれたステッカーを貼っている車をよく見かけるが、基本的にそっち方面に興味がまったくないので、何十年にもわたってこれを "STOP"(止まれ)と見間違えていた。追突防止のための過度なメッセージぐらいに思っていたのである。

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ところが最近、白内障の手術をして視界がよくなったせいか、「ありゃ、あれって "STOP" じゃなくて "STP" じゃん」と、今さらながら気付いた。気付いてみると、「"STP" って、一体どういう意味なの?」となってしまう。どうでもいいところが気になってしまう性分なのである。

先日、目の前を走るトラックの後ろに、この "STP" ステッカーが貼ってあったので、ついに「気になる臨界点」に達してしまい、赤信号で停車中に iPhone を起動させてググってみた。すると検索結果の上位はステッカーの通販サイトばかりがズラリと並ぶ。

ことほど左様に人気のあるステッカーということなんだろうが、肝心の意味はさっぱりわからず、そうなるとますます気になる。目的地についてようやくゆっくり検索してみたのだが、「STP ステッカー 意味」という 3語で検索しても、やっぱり通販サイトばかり表示される。

辛うじて Amazon のサイトに 「STP 『Sustains Top Performance』ステッカー。『変わらないトップ・パフォーマンスを』的な意味です」とあるのを見つけたが、なんだかこじつけっぽくて "STP" の元々の意味ではなさそうだ。

それならばと「STP 意味」の 2語で検索してみると、マーケティング理論でおなじみの "「セグメンテーション」「ターゲティング」「ポジショニング」 の3つの頭文字" なんていうのが出てくる(参照)が、これもちょっと別の話だろう。

かと思うと、「フランス語で "please" の意味」なんてのも出てくる。フランス語には弱いので、これは初めて知った。"S'il vous plaît" のカジュアル版が "s'il te plaît" ってことなんだろうが、やっぱりこれも目指す意味ではなさそうだ。

ようやく探り当てたのが、アメリカのモーターオイル会社のロゴらしいということである。日本語のサイトでは結局わけがわからず、英語版の Wikipedia まで飛んで、ようやくわかった(参照)。道理で車のボディに貼ってあるのが目立つわけだ。

知ってる人は当然知っていて、知らない人にはどうでもいいことなので、「"STP" とは何か」を説き明かすページなんて、必要ないんだろう。

このページでようやくわかった "STP" の意味は、こんなことである。ここまでは、ステッカーを車のボディに貼っていても、ちゃんと知っている人は少ないだろう。

The name began as an abbreviation of Scientifically Treated Petroleum.

直訳すれば、「この名称は『科学処理された石油』の短縮形として始まった」ということなのだが、「科学処理された石油」って何なのかまでは、力尽きてしまって調べる気がしない。まあ、そんなようなものなのだろうと、ゴニョゴニョで済ませておく。

そのゴニョゴニョが "Sustains Top Performance" というこじつけにまで発展したわけね。

それにしてもこのステッカー、結構な人気があるらしくて、デッドストックだったものがヴィンテージ商品扱いになって、プレミアム価格が付いていたりする。私如きにはよくわからない世界を形成しているようなのだ。

まあ、いずれにしてもちっとも興味がないから、そのあたりのことはどうでもいいや。私が知りたかったのは、あくまでも「"STP" の意味」ってことだったのでね。

 

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2017年9月 8日

そろそろ捕鯨を止めようじゃないか

先月末、「反捕鯨団体シー・シェパード、今年は妨害を中止」というニュースが報じられた。「日本の監視技術に太刀打ちできないのが中止の理由」ということだった。

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シー・シェパードは、「日本は軍事監視技術を使い、衛星からリアルタイムでシー・シェパードの船の動きを見ている。もし彼らが我々の船の位置をいつでも知ることができれば、簡単に我々を避けることができる」と述べたという。へえ、知らなかった。日本の南氷洋捕鯨は、そんなにもハイテクを駆使するコストをかけてまで継続していたのか。こりゃ完全に「お上の御用」だね。

私は数年前までは捕鯨そのものには反対していなかった。「日本文化の一部」と認識していたためである。また、反捕鯨団体の活動は「偏狭な動物保護」なのではないかという疑問もあった(参照)。しかし最近になって考えを変えた。やっぱり捕鯨なんてしなくていい。というか、止める方向に進むべきだろう。

そもそも「捕鯨は日本文化の一部」というのも、和歌山県の「イルカ漁」などがあるとはいえ、南氷洋まで出て行って捕鯨をするというのまで「日本文化の一部」とは到底言いがたい。それに、今の日本人はクジラ肉なんて食わない。食わなくても栄養には困らない。

それに私はここ数年、「肉食」を避けている。絶対に食わないというわけではなく、鶏肉はほんのたまに食うし、牛や豚も、会食などで出てきてしまったらつべこべ言う方が面倒なので仕方なく食うが、自分で選んでまで食うということはまったくなくなった。

だから昔は大好きだったラーメンや餃子なども、肉が付きものなのでここ数年食っていない。ましてや強いて探さなければ口にはいらない鯨肉となったら、ここ 30年以上食ってないし、探してまで食おうという気もない。

個人的には食いたくもないし、日本人全体にしても、少なくともクジラを食わなくても困らない。そもそも一般的には食う機会すら滅多になくなってしまっても、別に飢えてしまうわけでもなんでもないクジラを、世界中からの非難を浴びながら、わざわざ南氷洋まで出かけていって捕ってくるのは、私の感覚では「面倒でしょうがない」ってことになる。

ましてや「軍事監視技術」なんてものまで使ってまで継続しなければならないものとは、到底思われないのである。ここまで来たら、裏にきっと何かある。何しろ「お上の御用」的な臭いがプンプンする。

必要があるとも思われない「捕鯨」という行為を、日本はなぜ継続しているのかという問題を、かなりクールな目で説いたテキストがある。BBC の Rupert Wingfield-Hayes という人が書いた「日本とクジラ なぜ日本は捕鯨をするのか」(原文は "Japan and the whale")という記事だ。

「日本が捕鯨を続ける決意が固いのは、捕鯨関係者が多い選挙区から選出された数人の国会議員と、予算を失いたくない数百人の官僚たちのせいと言えるかもしれないのだ」という文で結ばれるこの記事を読めば、少なくとも捕鯨を続けることに積極的な意味がないと、客観的にも理解される。

 

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2017年9月 7日

手書きの重要性

現代は PC などのデジタル機器で作成した文書が全盛で、このブログもほとんどは MacBook Pro(以前は Windows マシンだったが)のキーボードを叩いて作成している。

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世の中の会議や研修会と称する集まりで、ごく稀に手書きのレジュメなんかが配布されることがあるが、結構上手な字でも読みにくく感じて、「人に読ませるテキストは、PC で打ってよね」と言いたくなってしまう。

「若いうちに快速でタッチ・タイピングができる技術を身につけておいてよかった」と、しみじみ思う。一時期は会議のメモを取るにもキーボードを使っていて、サラリーマンをしていた頃は、会議終了後 1分以内に議事録をプリント・アウトできるというのを「ウリ」にしていたこともある。

「ワープロ専用機」というのが世に出始めた頃、業界の大先輩が定年を迎えるに当たって、最新型のワープロを購入し、「定年後はキーボードを打ちまくって、脳が衰えないようにする。指先を使うと、脳が活性化するというからね」と話していたのを思い出す。

しかし実は、キーボードを使ってテキストを入力するという作業では、脳はそんなに活性化しないんだそうだ。手書きの方がずっと頭が働くらしい。ウェブを検索すると、それについて論じた記事がいくつも見つかる。その中から 2つの記事へのリンクを挙げておこう。

あなどれない「手書き」の学習効果  「書く」というプロセスが情報を記憶に深く焼き付ける

手書きとキーボード、脳の働きに違い?

これを知って私は 「メモは手書きに切り替えてよかった!」と安心している。20年ぐらい前に、どういうきっかけだったか忘れたが、メモを取るにあたってはキーボードを一切止めて、手書きに切り替えたのだ。私は業界紙の記者をしていたこともあって、手書きもかなり速い。字はメチャクチャだが。

手書きメモに問題があるとすれば、速く書きすぎてぐちゃぐちゃになってしまい、自分の字が自分で判読できなくなることがあるということぐらいだろう。最近は手書きはメモにしか使わないので、きちんとした楷書で書くことができない体になってしまった。

最近はノートにメモを取ったり、考えを整理したりする時には、3色ボールペンで、黒、青、赤の文字や印を使い分けている。重要事項を赤い丸で囲んだり、線でつないで考えをまとめたりするのは、PC でもできないことはないが、手書きの手軽さとダイナミズムには遠く及ばない。

そんなわけで、最近は必需品のボールペンをどこかに置き忘れても平気なように、バッグの中に常に 4〜5本の 3色ボールペンを忍ばせている。オススメはゼブラの "Clip-on Slim" という定番品だ。ちょうどいい太さで書きやすいし、クリップが破損しにくい。

 

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2017年9月 6日

何と書いてあるか読めない看板

先日は 「キャッシュ・アンド・キャリー タジマヤ」 のラジオ CM という、「何と言ってるかわからない CM」について書いたが、一方で「何と書いてあるかわからない看板」というのもある。その一つが、時々通る丁字路の交差点にあり、赤信号で停まっている時に真正面近くに見えて、かなりモヤモヤしていたのである。

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いや、実は読み方の答えはわかる。というか、下の方にローマ字で "ENYA" と書いてあるので、「えんや」という店なのだろうということまでは想像がつく。しかし、この大きなロゴは、なんだか桜の花びらが散らばったようなイメージで、「無理矢理読んだら『くん'ロ人ヒや』かなあ?」なんて思うばかりだ。どんなウルトラ C を使えば「えんや」と読めるのか、さっぱりわからなかったのである。

しかし最近、白内障の手術をして遠くがはっきり見えるようになったおかげで、長年の疑問が解決した。看板の下の方に小さく「炭火焼肉弁当 炎や」と書いてあるのが判読できたのである。そうか、このわけのわからないのは「炎」という字のつもりだったのか! 「炎や」で「えんや」だったのか!

と、驚いたのが、先月の終わり頃だった。ところが今月初めに通りかかった時には、それをすっかり忘れてしまっていて、「ありゃ、一体何と読むんだっけ?」と焦ってしまった。その時は赤信号でずっと後ろの方に停まっていて、下の方の小さな字が判別できなかったのだ。

恐ろしいことに、一度は「なんだ、そうか!」と納得したはずの読み方が思い出せないのである。これ、年のせいだとしたらショックだなあ。青信号になってそろそろと前進しながら、ようやく小さな字を読むことができて、「そうそう、『炎や』だったんだよね」と思い出した。

しかしことほど左様に、この看板の字は読めない。これでは看板として十分に機能しているとは言えないだろう。あるいは、「読めない看板」 ということで印象づける戦略だとしたら、肉を食わない私なんかが取り上げるほどだから、成功と言えるかもしれない。

 

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2017年9月 5日

600万アクセス達成で 「書くことの意味」 を考える

一昨日の 「連続 5,000日更新」 に続く自慢げな記事になって恐縮だが、今朝見ると、当ブログ "Today's Crack" のアクセス・カウンターが、600万を越えていた。500万超えを報告したのが一昨年の 7月 5日 (参照) だから、2年 2ヶ月で 100万アクセスを稼いだことになる。

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最近はブログというもの全体に一時ほどの勢いがなく、当ブログもアクセス・カウンターの回るペースが結構落ちている。ブログに代わるものとして SNS が全盛といわれ、しかも文章よりも Instagram などの画像 SNS が伸びている。私の嫌いな LINE (参照) でも、「スタンプ」とかいう絵だけのやりとりが多いらしい。

こんな時代に毎日毎日、それなりの分量のテキストを書き続けているのだから、我ながらよっぽど書くのが好きなのだろう。好きじゃなかったら、こんな酔狂なことはできないし、好きだからこそそれほど負担に感じることもなく、ちゃちゃっと書き終えることができて、結果として長年続いている。

長年ブログを書き続けることにメリットというのがあるとしたら、それは「行動が意識的になる」ということだと思う。「何だか知らないけど、単なる流れでなんとなくやっちゃった」みたいなことが、なくなるとはいわないが、だんだん少なくなる。

人間というのは「自分でもよくわからないけど、なぜかやっちゃう」という、無意識の行動が案外多く、それはフロイトの『精神分析入門』を読めばよくわかる。私はそういうのが気持ち悪く思われてしまう性分なので、できれば無意識の代償行為の元となる自分の意識下のモヤモヤを突き止めてチャラにしちゃいたい。

自分の行動のすべてを完全に意識化するなんてもとより不可能だが、一見どうでもいいように見えることにもそれなりの意味があると知り、それについてあちこちから探りを入れていく作業で、人生は結構すっきりする。

「単なる流れ」で無意識な行動ばかりしていると、その行動に「責任を取れ」といわれても、うろたえてしまうだろう。その意味で自分の行動の意味をできるだけ意識化するということは、行動に責任を取ることでもある。「責任取れ」なんてことは、そうしょっちゅう言われることじゃないが、そうなった時に「はあ?」なんてことになりたくはないからね。

その意味で「書く」という行為は、いざという時に「はあ?」と言わずに済ませるための保険みたいなものかもしれない。毎日書き続けるというのは、毎日新しい保険を無料でかけているようなものだ。保険といっても、「責任を引き受けるため」 のものだから、損得勘定で言ったらむしろ損になるはずだが、そのくらいはしなきゃならんと思うのである。

単純計算だと、1,000万アクセスまであと 400万だから、このペースが続くとすれば、あと 8年 8ヶ月かかることになる。その頃には 73歳だから、十分イケそうな気もするが、まあ、人生何があるかわからないから、「行けるところまで行く」とだけ言っておこう。損得勘定抜きで。

 

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2017年9月 4日

政治家に失言の絶えない土壌

麻生さんがまたまた「失言」問題を引き起こして、「不適切な表現だった」と撤回した。これ、ニュースでは「祭りにのめり込む人を精神障害者に対する差別的な言葉使い表現」なんて伝えられたが、はっきりいって「きちがい」と言ったのだろう。これについて「行きすぎた言葉狩り」と、疑問を呈する人も少なくない。

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私自身としても「精神障害者に対する差別的な言葉」なんて、妙にもってまわった表現の方がより気持ち悪いと感じる。この言葉は精神障害とは別の意味で、気軽に使われるカジュアルな言葉になっている部分があるだろう。講演の行われた愛媛県西条市のお祭りの熱狂をたまたま知っているだけに、この土地の人は「お祭りきちがい」と言われても、気を悪くすることなんてないと思うし。

ただ、プライベートな場で あいつはお祭りきちがいだから」とか「野球きちがい」とか、「釣りキチ」とか言うのと、公式の場で「きちがい」という言葉を使うのとは、ちょっとわけが違うと考えざるを得ない。とくに講演会などの場では「禁句」としておく方がいいだろう。

それは言葉の深い意味とかいう話とは関係なく、「つい言っちゃったら、あとできっと面倒が起こる要注意単語」だからである。「君子危うきに近寄らず」だ。

この類いの問題に関しては、4年前に「政治家の失言という宿業」というタイトルで書いているが、これについて、ちょっとだけ視点を変えて書いてみようと思う。まあ、煎じ詰めれば同じようなことなのだが。

過去のニュースを振り返ると、政治家の「失言」の多くは、支持者を集めた「講演会」で発生するようだ。これ、講演を行う政治家のメンタリティと、政治家と支持者の関係性のアヤで生じる現象だろう。政治家はこうした「講演会」というのを、「純粋に公式な集まり」とは認識しておらず、ある意味「身内に対するサービス会」みたいなものと思っているフシがある。

そうした場では、「公式の場では危険な単語」も、つい気を許して使っちゃう。「いいじゃないか、身内同士なんだし」ってなわけだ。しかしその「身内同士」の中にも、地元マスコミとか、反対派などの「異質分子」が混じり込んでいて、「口がすべって言っちゃった」みたいなことをチクって大問題にすることがある。

問題は、政治家が「公の場」と「身内同士」を全然別のものとして区別しすぎて、その「中間地帯」の認識が薄いことである。ローカルな講演会みたいな「中間地帯」だって 公式の場」に違いないのに、なぜかチヤホヤしてくれる身内が近くに陣取って、どうでもいいところでウケたりするし、終わってからはダハダハの「交歓会」なんてのが控えていたりするので、つい「身内ばかり」と勘違いして口が滑るのだろう。

「フツーは憚りのある言い方だけど、皆さん、わかってくれるよね。何しろ仲間内なんだからさ」なんていう、都合のいい「共犯関係構築」みたいな意識でしゃべっちゃう。この「共犯関係」というのが、ローカルな政治の支持層構築に絶大なる効果を発揮するのが、また問題だ。

政治に限らずビジネスの場でも、古いタイプのオッサンほど一緒に酒飲んで尾籠な話をし、共犯関係に引きずり込みたがる。オッサンたちが大勢集まると、こうしたメンタリティが幅をきかせていて、滅多に近付きたくないほど異質な世界を現出している。

 

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2017年9月 3日

「キャッシュ&キャリー タジマヤ」 のラジオ CM

普通の人は全然気にならないことがものすごく気になってしまうという、面倒な性分である。その私が何十年も気になっているラジオ CM があり、心に引っかかっちゃってたまらないので、いっそここでぶちまけてすっきりしてしまおうと思う。何かといえば、「キャッシュ&キャリー タジマヤ」という現金卸問屋の CM である。下の画像をクリックして聞いてみていただきたい。

関東在住でラジオをよく聞く人なら、少なくとも一度は耳にしたことがあるだろう。タジマヤというのは、東京台東区根岸に本社を置くお菓子、食品、日用雑貨の現金問屋で、TBS ラジオなどで長年にわたって CM を打っている。ナレーションは私の大好きな大沢悠里さんで、こうして YouTube で聞いてみるとずいぶん若い頃の声である。

で、何が気になるのかというと、この CM のジングル部分が、「ちゃっしゃいむちゃりー タジマヤ」としか聞こえないのだ。本当に、何十年も聞いているのだが、そうとしか聞こえないい。

中にはもっとモヤモヤしちゃってる人がいるようで、Yahoo 質問箱に "CM の最後の 「やっしゃいらりー、たじまや!」 とかなんとかいう歌が、一体全体なんと歌っているのか分からず、毎回悶々としています" と聞いてきている人までいる (参照)。なるほど、「やっしゃいらりー」 とも確かに聞こえる。人騒がせな歌だ。

"Cash-and-carry" というれっきとした英語(「現金卸」という意味)を知っている私が気になってしょうがないのだから、知らなかったらまるで「魔法の呪文」でしかなかろう。とくに "and" に相当する部分の発音が どう聞いても 「あん」 じゃなく 「あいむ」 とか 「あい」 とかにしか聞き取れないのは、最初の録音時に歌う方も録音する側もわかってなかったんじゃないかとしか思われない。

こんなような魔法の呪文が、よくまあ、こんなに長い間続いてきたものだと、感心するばかりである。ちなみに「現金卸」というのは、小売業者が直接店頭に行って、スーパーで買い物するように商品を選び、その場で現金払いして持ち帰るという卸売りの形態である。

小規模な小売店にとっては、かなり便利でありがたいビジネスだと思う。私が昔専門にしていたアパレル業界では 「エトワール海渡」 というのが結構有名だったが、もう誰も知らないだろうなあ。

 

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2017年9月 2日

連続 5,000日更新記録達成

突然で恐縮だが、当ブログ ”Today's Crack" は、本日で「連続 5,000日更新」を達成したことを報告させていただく。まだココログを始める前、「庄内拓明の知のヴァーリトゥード」サイト内でコラムを書き始め、平成 15年(2003年)12月 26日から「毎日更新」ということにした。以来、本日が 5,000日目である。

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正直なところ、13年以上のことだからイレギュラー更新はいくらでもある。電波の届かない田舎の山奥に旅行して、下界に戻ってから 2日分まとめてアップロードしたこともある。LAN サービスのないホテルや旅館でもスマホ経由で更新できるが、数年前まではケータイ電波さえ届かないところが、日本中に結構あったのだ。

あるいは、その日のうちの更新が間に合わなくて、午前 0時を過ぎてから日付をちょこっと調整して更新したことも少なくない。流行りの 「25時制」 みたいなものだね。それどころか、うっかり「公開」ボタンを押し忘れて、翌日の午前中まで「下書き」状態のまま放っておいてしまったこともある。

米国への出張では時差のため日付がわからなくなりかけたが、帰国して指折り確認したら、帳尻が合っていて安心した。いろいろなことはあったが、まあ、5,000日分は確かに更新したので、細かいところは大目に見て頂きたい。

「毎日更新」以前の分も合わせて 5,000本以上も記事を書くと、自分でも忘れてしまっている内容もある。何かを検索した拍子に自分が昔書いた記事が出てきて、「そうそう、そういえばそうだったんだよね」 なんて改めて思い出すことも度々だ。忘れていなければ、検索する必要もなかったのに。

この調子で健康さえ維持すれば、80歳前には「連続 10,000日更新」となりそうだが、その頃になっても、繰り言のように毎日同じことばかり書いたりしないように、心と体のアンテナを磨きたいと思っている。

 

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2017年9月 1日

本当に「結果がすべて」なのか?

昨日は "「動機が正しくても……」を身を以て示した麻生さん" という記事を書いた。「政治家は結果がすべて」ということを強調したいという動機は彼なりに正しかったかもしれないが、方法論と論理展開がメチャクチャだったため、結果的に完全に逆効果となり、まさに「いくら動機が正しくてもダメだ」という主張を、身を以て立証する形となったというストーリーである。

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するとこの記事に、山辺響さんからとても鋭いコメントが寄せられた。次のようなものだ。

「結果を出すことがすべてであることを強調する」ならば、どちらかといえば、「動機は不純だったけど結果が良かったので高く評価されている政治家」を例に挙げた方がよかったような気がします。

ええと、誰がいるかな……。

これ、麻生さんの論理からすればまさにその通りと言うべき指摘で、「ヒトラーの動機は正しかった」みたいな受け取られ方をされるような話の展開より、ずっと明快な趣旨を表現できたはずだ。なるほど、なるほど。私もそこまでは考えが至らなかった。

ただ、山辺響さんも最後には「ええと、誰がいるかな……」となっちゃってるように、実際に例を挙げようとすると、ちょっとゴニョゴニョにならざるを得ない。もし挙げちゃったりしたら、「○○の業績は高く評価されてるけど、その動機は不純なものだった」という逆の印象で受け止められて、遺族に名誉毀損で訴えられそうだ。

それを避けるために「実例は控えるが……」なんてことにすると、今度は「結果オーライのご都合主義」 なんてことで炎上しちゃうだろう。ここまで考えると、「結果がすべて」というテーゼ自体に問題ありと言わざるを得ない。それで、昨日の記事でも慎重に次のような書き方をしておいた。

異論はあるだろうが、じゃあまず「政治家にとって結果を出すことがすべてであることを強調する」というテーゼを、仮に「正しい」としておこう。

そしてそのテーゼを強調したいというのが、例の発言の「動機」とみられるわけだが、いくらその「動機」が正しいとしても、結果として周囲からこんなにまで責められてしまっては、まったくの逆効果だった。なにしろ 「政治家にとってのすべて」 である 「結果」 が出せなかったわけだからね。

とまあ、昨日は 「仮に『正しい』としておこう」と書いたが、実は私自身は「結果がすべて」なんて思っていなくて、それよりも「プロセスが大切」という考えである。そもそも、今日の結果は明日に向けたプロセスなのだから、「結果がすべて」という考えはあまりにも短絡的だ。

いずれにしても世間では、麻生批判も麻生擁護も「ヒトラー」という「言葉のアヤ(と言うにはちょっと重すぎるかもしれないが)」に目を奪われすぎて、本質的議論に至ってないよね。

私としては、批判のための批判や擁護のための擁護には付き合う気がまったくないので、よろしく。それにしても世間というのは、どうしてこんなに美味しいネタに、面白くもなんともないステロタイプの反応ばかりするんだろう。

 

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