本当に「結果がすべて」なのか?
昨日は "「動機が正しくても……」を身を以て示した麻生さん" という記事を書いた。「政治家は結果がすべて」ということを強調したいという動機は彼なりに正しかったかもしれないが、方法論と論理展開がメチャクチャだったため、結果的に完全に逆効果となり、まさに「いくら動機が正しくてもダメだ」という主張を、身を以て立証する形となったというストーリーである。
するとこの記事に、山辺響さんからとても鋭いコメントが寄せられた。次のようなものだ。
「結果を出すことがすべてであることを強調する」ならば、どちらかといえば、「動機は不純だったけど結果が良かったので高く評価されている政治家」を例に挙げた方がよかったような気がします。
ええと、誰がいるかな……。
これ、麻生さんの論理からすればまさにその通りと言うべき指摘で、「ヒトラーの動機は正しかった」みたいな受け取られ方をされるような話の展開より、ずっと明快な趣旨を表現できたはずだ。なるほど、なるほど。私もそこまでは考えが至らなかった。
ただ、山辺響さんも最後には「ええと、誰がいるかな……」となっちゃってるように、実際に例を挙げようとすると、ちょっとゴニョゴニョにならざるを得ない。もし挙げちゃったりしたら、「○○の業績は高く評価されてるけど、その動機は不純なものだった」という逆の印象で受け止められて、遺族に名誉毀損で訴えられそうだ。
それを避けるために「実例は控えるが……」なんてことにすると、今度は「結果オーライのご都合主義」 なんてことで炎上しちゃうだろう。ここまで考えると、「結果がすべて」というテーゼ自体に問題ありと言わざるを得ない。それで、昨日の記事でも慎重に次のような書き方をしておいた。
異論はあるだろうが、じゃあまず「政治家にとって結果を出すことがすべてであることを強調する」というテーゼを、仮に「正しい」としておこう。
そしてそのテーゼを強調したいというのが、例の発言の「動機」とみられるわけだが、いくらその「動機」が正しいとしても、結果として周囲からこんなにまで責められてしまっては、まったくの逆効果だった。なにしろ 「政治家にとってのすべて」 である 「結果」 が出せなかったわけだからね。
とまあ、昨日は 「仮に『正しい』としておこう」と書いたが、実は私自身は「結果がすべて」なんて思っていなくて、それよりも「プロセスが大切」という考えである。そもそも、今日の結果は明日に向けたプロセスなのだから、「結果がすべて」という考えはあまりにも短絡的だ。
いずれにしても世間では、麻生批判も麻生擁護も「ヒトラー」という「言葉のアヤ(と言うにはちょっと重すぎるかもしれないが)」に目を奪われすぎて、本質的議論に至ってないよね。
私としては、批判のための批判や擁護のための擁護には付き合う気がまったくないので、よろしく。それにしても世間というのは、どうしてこんなに美味しいネタに、面白くもなんともないステロタイプの反応ばかりするんだろう。
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