日本人の独特すぎる宗教観
NewSphere が「日本人の宗教観、海外と違うけど変じゃない? 米メディアが探る日本人の心根」という記事を報じている。米国のメディアが「宗教と信仰が大部分において乖離している日本の状況について論じた記事」を紹介したものだ。
クリスチャン・サイエンス・モニター紙(CSM)は、日本人の 62%が無宗教としているのに、多くの人が寺社仏閣などに参拝している日本の状況を、ある参拝者の「神社にお詣りするのは、宗教を信じているのとは別」というコメントを切り口にして、日本では「宗教が生活の慣習の一部として存在」し、「聖と俗が分かちがたい状況にある」と説明している。これ、なかなかいいところを突いた指摘だと思う。
米公共ラジオ放送(PRI)は、東京渋谷の金王八幡宮の田所克敏宮司の言を紹介している。彼は「ある日、仏陀と呼ばれる神がアジア大陸からやってきた。その後、キリストと呼ばれる神が船でやってきた。すでにいた八百万の神にもう 2つ加わった、というだけのこと」と、かなり乱暴なことを言っているのだが、まあ、ある意味日本人の宗教観が実際に乱暴だということだ。
田所宮司はこのあたりのことを、「人々は宗教を、何を信仰しているのかという観点ではなく、儀式の観点から見ている」と説明する。そのため、子どもが生まれれば神社にお宮参りし、結婚式はキリスト教スタイルにし、葬式は仏教の形式で執り行う。西欧的な常識からすれば乱暴極まりなく、冒涜的ですらあるが、日本ではそれを誰もとがめない。
別のアメリカのメディア PBS(Public Broadcasting Service)は、東日本大震災の被災地の人々が見せた忍耐強さを、「荒ぶる神」の視点から論じている。ケンタッキー州ベリア大学のジェフリー・リチー准教授は「日本の神は善いものも悪いものもさまざまおり、その心も行いもとりどりであり、人の小さな知恵では計り知れないもの」とする。
「聖」と「俗」を明確に区別している西洋的な宗教観からすると、日本人のそれは、かなり異質と言わなければならない。日本人は「聖なる絶対的存在」である神に「宗教的導き」を求めるわけではなく、ただひたすら「受け入れる」のである。現世利益を求めながら、時には「荒ぶる神」さえも、ひたすら受け入れるのだ。
早稲田小劇場を主宰していた鈴木忠志氏は、活動の場を東京から富山の山奥に移すにあたり、「これは『信心』からきたものだ。自分は神仏に対する態度を『信仰』ではなく『信心』と言いたい」と語っていた。彼はこのあたりの日本的心根をかなりよく理解していたのである。
私は、日本人にとっての神は「気配」なのだと思っている。絶対的なものじゃないのだ。宗教的には非常にプリミティブである。こんなにプリミティブな人たちが高度な文明の中で暮らしているのは、西欧的視点からは確かに驚き以外の何物でもないのだが、当の日本人はこの点について、まったくあっけらかんと全然無頓着なのだよね。
この無頓着さに関しては、日本人の私でさえ時々呆気にとられる。
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コメント
山奥……
いや、確かに旧利賀村は山奥以外の何物でもないですけども、
流石に隠者が庵を構える秘境みたいな言い方をされるとちょっと複雑なものがあります……
投稿: 柘榴 | 2017年12月11日 04:58
友人に勧められて、いま松山洋平『イスラーム思想を読みとく』(ちくま新書)を読んでいるのですが、「術の体系」(行為)としての宗教/「信条」(信仰)としての宗教という区分で、このへんのことを解説していて、なるほどと思いました。
前者(たぶん日本における大方の宗教)においては、ある「行為」によって御利益を得るシステムで、あり、その行為の実践が、その宗教の信者であることの証である。だから、初詣に行く限りにおいて神道の信者でもあるし、葬式を仏式でやる限りにおいて仏教徒であるし、クリスマスを祝う限りにおいてキリスト教徒である。行為相互に矛盾がないかぎり、複数の宗教の信者にもなりうる(神社仏閣のハシゴですな)。
後者(イスラーム教や、たぶんキリスト教もそうなのでしょう)においては、行為と信仰とは直接にリンクしない。戒律的に禁じられていることをやっても、あるいは義務付けられていることをやらなくても、その宗教の世界観を信じている限りにおいて信者であることには変わりなく、悔い改めれば赦される可能性がある(だから酒を飲んだり豚肉を食べたり、逆に礼拝も巡礼も行わない「ムスリム」もいる、とのこと)。ただし、世界観は本質的に並立不可能だから、同時に複数の宗教の信者であることは難しい。
投稿: 山辺響 | 2017年12月11日 14:12
柘榴 さん:
いや、決して 「隠者が庵を構える秘境」 とまでは…… ^^;)
軽い気持ちで 「山奥」 と言ってしまって、失礼しました。鈴木忠志氏自らがそう言っていたもので…… ^^;)
投稿: tak | 2017年12月11日 23:10
山辺響 さん:
>世界観は本質的に並立不可能だから、同時に複数の宗教の信者であることは難しい。
なるほど。
この点で日本人は、「世界観」 というものを自律的に確立することを避け、ただひたすら 「受け入れるともなく受け入れる」 ことに驚くほど無自覚に専念しているので、結果として 「信者」 となることを巧妙に避けつつ、「宗教的行為」 に関しては 「何でもあり」 の姿勢をあっけらかんと貫いていられるということかも。
投稿: tak | 2017年12月11日 23:15
とある新興宗教(仏教系の教えを学問スタイルで尊ぶ)の方が、地元神社のお札を破り捨てる場面に遭遇したことがあります。
そのとき「罰当たりな!」と言う憤りなぞ全く感じず、「もったいない。買えば安くても500円くらいはするのに。」と言う認識しか持ちませんでした。
無頓着?いいじゃないか。
って言うアタクシは、八百万の神様仏様に、都合のいいとき派です。
(感謝と反省)
投稿: 乙痴庵 | 2017年12月12日 09:40
乙痴庵 さん:
破り捨てるぐらいなら、入手しなけりゃいいのにね。
投稿: tak | 2017年12月12日 19:58