『教育勅語』 についてちょこっと書いてみる
押し入れの整理をしていたら掛け軸を巻いたのが出てきたので広げてみると、『教育勅語』の原文と現代語訳が麗々しく書かれたものだった。そう言えば大昔、知り合いに「床の間に飾っておくと子どもの教育にいい」とか言われて押しつけられたことを思い出した。
「子どもの教育にいい」なんて言われても、この類いのものを床の間に飾る気には到底なれず、押し入れの奥にしまいっぱなしにしてすっかり忘れていたのである。今回たまたま出てきたので、惜しげもなく捨ててしまった。Yahoo オークションなんかを見ると 4000円ぐらいの値が付くらしいが、この手のものを欲しがるような人とお金のやりとりをしたいとは思わない。
私は九段の辺りで時間の余裕がありさえすれば気軽に靖国神社を参拝するような人間なのだが、教育勅語をことさらにありがたがって掛け軸を飾るほどの「絵に描いたような右側の人」ってわけじゃない。憲法改正問題にしても、今年初めに "当分の間「本籍・改憲派、現住所・護憲派」で行きたい" と表明しているし。
ところでこの教育勅語の内容に関しては、左側の人たちが蛇蝎の如く嫌うほどのものとも思っていない。冷静に読めば、決して邪悪なことが書いてあるわけじゃない。
「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」という箇所がよく問題にされるが、私としては自らの国の存亡が危うくなったら断固戦うぐらいの心づもりはあるので、「当たり前のことじゃないか」とさえ思う。現代においてその余地があるのは、せいぜいゲリラ戦的な抵抗だろうが、ただ、決してそれが必要になるような事態にならないよう祈る。
私が教育勅語を床の間に飾る気になんかならないのは、「邪悪なことが書かれているからではなく、「重要なことが書かれていないからである。「書かれていない重要なこと」とは、「自由」に関することだ。
私は今どき自由を尊重しない教育は、教育の名に値しないとさえ思っているのだが、教育勅語には「自由」という言葉そのものだけでなく、「自由を連想させる記述」すら一言もない。
これは明治 23年当時の時代的制約なのかも知れないから、全否定してしまおうとは思わない。しかし現代の世の中でことさらにありがたがるようなものでもなく、あくまでも「歴史的遺物」であることを確認しておこうと思うのだ。
ところが今の世で、教育勅語を宝物の如くありがたがるようなことを大きな声で言いたがる人が少なからずいる。そしてそうしているうちに、なぜか割と簡単に安倍首相のお友達になれて、学校設立に無茶苦茶な便宜を図ってもらえたりするなんてこともある。そういう類いの人が首相なのである。これは本当に困ったことと思っている。
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コメント
教育勅語の扁額(って言うんですかね)が、母の実家にかかってます。(神道系のお家柄です)
肉筆のオール漢字モードなので、内容にはこだわらず、見た目だけはカッチョエエのであります。
教育勅語の内容は、「無難な物」と思っております。
現代なら、ときどき背筋を伸ばす、襟を正すなんかの「一つの方法」って感じと、当時の教育の歴史として理解していればいいんじゃないのかなぁって思う次第であります。
投稿: 乙痴庵 | 2018年5月10日 16:43
乙痴庵 さん:
「無難な物」 とは、なんだか言い得て妙ですね。
とにかく、蛇蝎の如く嫌うほどのものではないということは確認しておいてもいいと思います。ただ、今の世の中でそんなにあがめ奉ってありがたがるほどのものでもなかろうということです。
投稿: tak | 2018年5月11日 20:05