西部邁氏に関する最近の報道から
西部邁氏の「自殺」に協力したという人物が 2名いて、自殺ほう助容疑で逮捕されているのだという(参照)。「なんだかなあ」と思ってしまう話である。自らの死生観に沿って自分で命を絶つのは、まあ勝手にすればいいことだが、複数の人間に自殺を手伝わせて警察沙汰にしてしまったことで、その美学の価値は損なわれてしまったと思うのだ。
逮捕された 2人は、西部氏の「信者」と言われているらしい。こうなるともう、宗教みたいな言い方である。そんなことで他人まで巻き添えにしてしまうのは、いかがなものか。自分で死を選ぶなら、最後まで自分の責任で完遂すべきだった。
西部邁という人には、実はほとんど関心がない。その昔、「新しい歴史教科書を作る会」という団体の肝いりで出版された「国民の道徳」という本を買ったが、内容的に賛成とか反対とかいう以前にあまりの退屈さに匙を投げて、3分の 1も読み進まないうちに古本屋に売ってしまった覚えがある。多分、思考の回路の波長が合わないんだろう。
西部氏は「経済学者」という経歴をもつが、 「正統的経済学」には批判的で、Wikipedia によると次のような思想をもっていたという。(参照)
人間の社会的行動とは、合理的な面と不合理的な面の二重性を本質的に保持し、この不安定な二重性を均衡させる力を、西部は「慣習」または「伝統」と名付けた。
というわけで、この「慣習」「伝統」という要素への積極的信頼が、彼をして「保守思想家」たらしめたんだろう。しかし私の感覚からすると、こうした思考そのものが、彼なりの「合理主義への忠義立て」みたいに思えるのだよね。
彼の著書を読んで退屈でたまらなくなった要因の一つは、「伝統」という要素を「合理」と「不合理」の緩衝材みたいに位置付けているのを感じてしまったことだと思う。私なんか「伝統」というのはかなりラジカルな側面をもつと信じているのでね。
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