排泄物のシンボリズム
ゴールデンウィーク最後の記事として、「巻きグソ」なんていうテーマはいかがなものかとかなり躊躇したのだが、ちょっとした比較民俗学的考察になるとも思うので、「えーい、ままよ」と書いてしまうことにする。
「オモコロ」 というサイトに「外国人に巻きグソの概念はあるのか調べた」という企画がある。上の写真の絵にある、ある種シンボリックな絵を日本人の多くは「巻きグソ」と理解するが、果たして外国人はどうなのかという疑問について、街行く外国人に片っ端から絵を見せて反応を調べ、解決しようとしたものだ。これ、ある意味ちょっとした「勇気」である。
結論から言うと、欧米人の圧倒的多数(と要っても、何百人にも聞いたわけじゃないが)が、「アイスクリームだろ」と答えたのだった。ブラウンに着色でもしてあれば、また別の反応があったのだろうが、とにかくこの絵を見る限りでは、断然「アイスクリーム」なのである。ただしかし、タイ人はちゃんと「ウ・ン・チ」と理解したというのだから面白い。
東洋人は着色なんかしなくてもちゃんと「巻きグソ」と理解するのに、欧米人はそうではないというのが、とても興味深い。サンプルが少なすぎるので軽々に断言はできないが、これは「日本人と欧米人の民族的差異」というよりも、「東洋と西洋の差異」と言った方がいいのかもしれない。
私が 15年近く前に書いた記事に「和式と洋式 便器の形の考察」というのがある。これは当時開設していた BBS への書き込みに端を発したものだが、ある高校の先生が、和式便器があのような形なのは、「日本人は性質上自分のしでかしたことを確認する傾向がある」からだと言ったというのである。私はこれに対して次のように異議を述べている。
和式トイレで「自分のしでかしたモノ」を確認できるようになったのは、水洗式が普及して以降のことだ。それ以前は「ボットン式」だったので、少なくとも「確認しやすい」ということはなかったはずだ。そして、和式の基本的な形は「ボットン式」の頃からほぼ確立されていたのである。
こう考えると、「自分のしでかしたこと云々」は、面白い視点ではあるが、ちょっと違うようだ。
「自分のしでかしたモノ」を容易に確認できるのは、「和式水洗トイレ」を別とすれば、「野グソ」の時である。今の日本人は相当登山者の少ない山を登るときでもなければ、野グソなんかする機会はほとんどないのに、あのアイスクリームのような「アイコン」を「巻きグソ」と理解するのは、これはもう本当に文化的、象徴的な事項としか言えないだろう。
誤解を恐れずに言ってしまえば、おそらく日本人を含む多くの東洋民族は、「ウンコ」 についてかなりシンボリックに捉えることができるのだと思う。なにしろ「アイスクリーム」にしか見えない線画を「巻きグソ」と捉える共通理解の文化をもっているのだから、これはかなり確実なことだ。
その背景には人間の排泄物を肥料として利用してきた圧倒的な歴史があるではなかろうか。自分の排泄物で育てた農産物を食ってしまうのだから、それ自体、かなり「シンボリック」なことと言うほかない。少なくとも「リアル」なものとして捉えるよりは精神衛生にもいい。
そこには「シンボリックに理解することによる浄化」という精神作用があるように思われるのである。これができずに、「いやーん、汚〜い」なんて言うのは、「中途半端で不器用なリアリスト」でしかなく、メタフィジカルな思考とは縁遠い人である。それについて語り出すと制限がなくなるので、今日のところはこれにて。
【2022年 1月 29日 追記】
今さらながらの追記で恐縮だが、この記事の 1週間後に「茶色に着色してあれば、アイスクリームとは思われなかった」という実証的な記事を書いているので、合わせてよろしく。
| 固定リンク
「比較文化・フォークロア」カテゴリの記事
- 小さな祠まで入れると、神社の数はコンビニの 5倍(2025.11.09)
- 「三隣亡(さんりんぼう)」を巡る冒険(2025.10.20)
- 銭湯の混浴がフツーだった江戸の庶民感覚の不思議(2025.06.08)
- どうしてそれほどまでに夫婦同姓にこだわるのか(2025.05.13)
- 鯉のぼりは一匹から群れに変化しているらしい(2025.05.10)








コメント
え、そうなの?と思ってちょいとWikipediaを覗いてみたら、なるほど人糞を肥料として使うのは東アジア地域を除くと一般的ではない、と解説されていました……。
ちなみに私は「落ちた」経験があります(片足の足首くらいまでなので、「落ちた」というより「踏み入れた」程度ですが…) いや、何にって、その……。
投稿: 山辺響 | 2018年5月 9日 13:39
アタクシの小学校低学年時代において、学校近隣の畑ゾーンにありました。
山辺さんおっしゃる「踏み入れた」スポット。
当地方の大人は、地面の一部が周囲と違う状態を「かさぶた」と表現しておりましたが、アタクシどもにとっては、近接から大き目の石を投げ入れてスリルを味わう「遊び」の場でした。
「事態」が「自体」だけに、「クッソ迷惑な」遊びだったと反省しております。
投稿: 乙痴庵 | 2018年5月 9日 18:42
山辺響 さん:
それ、昔はよくありましたね (^o^)
ちなみに、私の友人はすっぽり落っこちました。あれ、そんなに深いものではないんでしょうが (とはいえ、計測したことはありませんけど ^^;)、小学校低学年ぐらいだと全身はまりますね。
落ちる時って、傍目には一瞬にして 「消えた」 ように見えます。シュールなものです。
助け出すまでに、アンモニアだかガスだか知りませんが、完全に酔っちゃってたようで、トロンとなってました。家でしっかり洗い落としたんでしょうが、あれはスゴいもので、3日間以上臭ってました。
それにしても、西洋では人糞を肥料にしようという発想がないんですかね。フランスなんか、溜めておかずに、その辺にムダにポイ捨てしてきたようで、そのせいか、私は 「フランス人は妙にウンコ強い」 と思ってます。パリの街は犬のウンコだらけですが、パリっ子たちは全然気にしてませんね。
投稿: tak | 2018年5月 9日 20:56
乙痴庵 さん:
「かさぶた」 とは、なんとなく言い得て妙 (^o^)
私も子どもの頃は石を投げ入れる遊び、しましたね。
できるだけ大きな石を投げ入れて、しぶきがかからないように急いで逃げるんですが、農家のおっちゃんに見つかると、本気で怒られました。
そりゃそうですね。せっかく掘った穴を少しずつ埋められるみたいなものですから。
時々、学校に苦情が入って、朝礼で「お前たち、一体何を考えてるんだ? 肥だめに石を投げ入れてどうするんだ。二度としないように!」 と、厳重注意されてました。
投稿: tak | 2018年5月 9日 21:04
私の場合、子どもの頃はほとんどご縁がなかったのですが(ちょっと歩いたところに田畑はあったので、たぶん存在はしていたのでしょうけど)、高校の頃、競技オリエンテーリグをやっていて、確かあぜ道のようなところを走っていて、ショートカットしようとしたのか、踏み外したのだったか…(首都圏の郊外農村地域だったと思います。埼玉、千葉、群馬あたり)。
でも、上述のように見聞がなかったので、泥濘にハマったくらいの意識でそのまま走り続けてゴールし、水道で洗っているときに、「妙に臭うな、さてはさっきのアレは…!!!」みたいな感じでした。
投稿: 山辺響 | 2018年5月10日 11:43
山辺響 さん:
落ちたときには別に意識しなくて済んだというのは、それはまさに不幸中の幸いです (^o^)
投稿: tak | 2018年5月11日 20:01