「フツーの愛国心」 を表現しづらい国
当ブログが 1週間前に「若い兄ちゃんたちの変な歌」というタイトルで論じた曲が、どういうわけか大問題になっているようで、RADWIMPS という当事者バンドのライブ会場前で抗議集会を行うなんて話まで持ち上がっているらしい。おいおい、それって、いくら何でも騒ぎ過ぎだろうよ。
J-CAST ニュース(参照)によると、この動きの主催者は「(RADWIMPSは)絶対に許されない歌を出してしまいました」と訴えていて、次の 3点を求めているらしい。
- 「HINOMARU」 シングルを回収し、廃盤にすること
- ライブなどで2度と歌わない事
- 「HINOMARU」 の内容と、これまでの釈明が間違っていたと早急に表明すること
いやはや、驚いた。何が「絶対に許されない」のかわからないが、廃盤にしろだの、ライブで歌うなだの、謝罪しろだのというのは、明らかに行きすぎである。RADWIMPS というバンドは憲法で認められた「表現の自由」を行使しているだけだが、それに対して上述のことを求めるのは、「表現の自由の否定」であり、その方がずっと「許されない」ことだ。
私は上述の 6月 9日の記事で確かにこの 「HINOMARU」 という歌を思いっきりディスったが、もっぱら「歌のできばえ」、とくに歌詞の拙さについて批判したのである。一方、この歌で表現されている、というか、作詞者当人が表現したと思っているらしい「ある種の思い入れ」については、表現スタイルがだいぶエキセントリックすぎる気はするが、否定するつもりはさらさらない。
この歌の当事者は「みんなが一つになれるような歌が作りたかった」などと、結構ナイーブ(元々の意味の「幼稚な」という意味で言っている)なことを述べていて、一方それについて騒ぎすぎている勢力は、単なる「変な歌」の背後に誇大妄想的なまでに邪悪な思想を想定している。この「どうしようもない行き違い」のかなりの部分は、表現する側と受け取る側の、両方の「拙さ」から生じている。つまり、両方ともナイーブすぎるのだ。
多くの国の価値感では、「愛国心をもつなんて、ごく当たり前」のことで、それが非難の対象になることの方がどうかしている。ところがどうやらこの国は、「フツーの愛国心」を表現しづらい国であるようなのだ。それは、戦前戦中戦後の歴史がごちゃごちゃしちゃったせいで、「フツーの愛国心が成熟する機会を持たなかった」という特殊事情からくるのだろうね。
逆にみれば、この問題を感情的にならずに理性的に論じることができれば、もしかしたらこの国は「新時代にふさわしい高次元でインターナショナルな愛国心」のモデルになれる可能性だってあるのだが、今のままでは、ぶっちゃけ到底無理だろう。
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コメント
愛国心は、当然持ち合わせております。
「持ってる」と言い切らない微妙な態度は、政治利用回避のためです。
今「愛国心」を看板に掲げると、右側の人たちって言うよりも「政権に与する」感じが出て嫌なんです。(どちらかと言えば真ん中よりちょい右側です)
道徳の教科書で作られる「画一的な愛国心」を、憂いております。
作るではなく醸さなきゃね。
投稿: 乙痴庵 | 2018年6月17日 08:20
乙痴庵 さん:
>作るではなく醸さなきゃね。
まさに。
投稿: tak | 2018年6月17日 16:22