何事も諦めが肝心
昨年秋の「東洋経済」の記事だが、"不安に強い人は「諦める」を習慣にしている" というのがある。慈眼寺住職で大阿闍梨のお坊さんの文章だ。
私の座右の銘の一つに「何事も諦めが肝心」というのがあって、自分でも諦めのいい方だと思っていたのだが、大阿闍梨というまでの偉いお坊さんの身に余るお墨付きをもらったような気がして、かえって「それで本当にいいの?」 不安になった。こんなことで喜んじゃいけない。こりゃちょっと、どこかに落とし穴がありそうだ。
件の文章を読んで見ると、まず「四苦八苦」の話が出てくる。「四苦」とは仏教でいうところの「生老病死」(「しょうろうびょうし」と読んでね)の 4つの苦しみで、これらは「どうあがいても、誰も決して逃れることのできない必然的な定め」であるという。そして「八苦」とは 四苦に以下の 4つの苦しみを足したものだ。
「求不得苦(ぐふとくく))」欲しいものが手に入らない苦しみ
「愛別離苦(あいべつりく)」愛する者と別れなければならない苦しみ
「怨憎会苦(おんぞうえく)」嫌な人と出会ってしまう苦しみ
「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」世の中はままならないものだという苦しみ
これらは、四苦と違って、避けられないものではなく、自分の心でコントロールすることができるものだという。つまり、心次第で「八苦」のうちの半分はなくすことができるのだ。イラッとしたりムッとした時などに、「心の針」をプラスに戻すことによって、苦しみはなくすことができるのだと説かれている。
うむ、これなら、特別難しいことじゃない。それどころか、「生老病死」の四苦だって、私はことさら耐えられないほど苦痛だと思ったことがないから、根っから「プラス志向」で生きてきたものらしい。
既に還暦を 5年も過ぎているから、これからどんどん「老いの苦しみ」というのが出てくるのかもしれないが、私としては、「年取るのも結構楽しいしね」なんて思っている。安倍首相は「高齢者と言われるのは嫌だ」なんて言って、名称見直しを言い出しているらしいが、もっと他にやることあるだろうに。
私は早く「後期高齢者」と呼ばれる年になりたいとまで思っているほどだし、なんなら「末期高齢者」と言われてもいい。このことについては、6年近く前に "「後期高齢者」 という呼称を巡る冒険" という記事で書いているが、この記事、今読み返しても、我ながらなかなかいいことを言ってる。
安倍首相はどうでもいい呼称問題に国民の目を向けさせて、肝心の高齢者医療制度をウヤムヤにしたいんじゃなかろうかと、私なんか疑っているのだよ。
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コメント
安倍さんの言う「高齢者と呼ばれるのはいやだ」なんて高齢者に対する侮辱と感じますね。高齢者というさらっとした言い方でいいと思います。
人生百年時代に65歳以上で高齢者というのはおかしいだろうという考えからのようですが、そもそも人生百年時代なんて避けなければならない。それはおそろしい社会になりますね。
高齢者の代わりにどんな呼称が出てくるのか楽しみですね。
投稿: ハマッコー | 2018年6月 3日 12:10
ハマッコー さん:
安倍首相が「高齢者」 と呼ばれるのがいやというなら、「年寄り」 と呼んでやりましょう。
それも嫌というなら、「じじい」 と。
投稿: tak | 2018年6月 3日 19:42
今の政府(ってか国会議員の偉い人たち)自体、老害一直線な構図ですよ。
「ワシらの(政党の)名前を書いておけば生活は安泰、キチンと働いていれば、なんも困ることはない。」
と言ってた時代のお陰で、国会議員は「センセイ」と呼ばれてまるで鼻高々の職業ですもんね。
世襲議員が未だにいなくならないってことは、その証左です。
(中には気骨ある、いい意味で融通聞かない若手もいらっしゃいますが…。)
そんなのが「猿山のボス」しているんだから、「ネイションステイト」の実現に命懸けで奔走した志士の思想は、同郷のおっさんによって粉砕されている最中でしょう。
あ、こりゃお猿さんに対して失礼を申し上げた。
失敬。
投稿: 乙痴庵 | 2018年6月 4日 18:30
乙痴庵 さん:
サル以下ってことですね ^^;)
投稿: tak | 2018年6月 5日 03:24