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2018年7月 4日

「潜伏キリシタン」 ということ その2

6月 30日の記事 "「潜伏キリシタン」 ということ" の続編である。

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私は 6月 30日の記事で、次のように書いた。

(世界遺産に)登録する価値があるとすれば、「禁教期」において、250年もの間、カソリックなのにバチカンの指導から隔離された信仰を継続してきたという、極めて特異な点だ。こうした状況では、日本独自のフォークロアリスティックなものに変化しないはずがないじゃないか。

私は長崎に旅行した際に隠れキリシタン関連の遺跡を結構訪問している。その印象から湧いたのは、「隠れキリシタンの信仰は、正当なカソリックとはかなり違っているんじゃあるまいか。そのあたりを、どうやって折り合いつけるんだろう」という疑問だ。

そして、この辺りを明らかにした宗教学者、宮崎賢太郎さんの『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』という本があることを知り、さっそく Amazon で購入申込みをした。この記事は「本が届いて読んでみてから、改めて書こうと思う」と結んでいる。

で、早速詠んでみたのである。引き込まれるように読めた。この本の特徴は、第一章の 3ページ目に結論が書かれていて、それ以後はその論拠が丁寧に説明されていることだ。だから上に述べた私の疑問は、のっけから解けた。

いわゆる「隠れキリシタン」のほとんどは、自らの意思でキリスト教信仰を始めたのではなく、領主である「キリシタン大名」たちによって、強制的に洗礼を受けさせられ、改宗したことにされてしまったというのが本当のところのようなのだ。したがって彼らは、キリスト教の教義についてはほとんど何も理解していなかった。

彼らが守り通してきたものは、キリスト教信仰ではなく、日本的「先祖崇拝」と習合した信仰形態であり、先祖が大切にしてきたものを、自分の代で捨てるわけにはいかないという考えが、これほどまで長く続いてきた要因だった。

「神と子と聖霊の三位一体」を根本教義とする西欧的に論理一貫したキリスト教は、潜伏キリシタンたちにはついぞ伝わらなかったもののようだ。日本にキリスト教を伝えたとされるフランシスコ・ザビエルはまったく日本語ができず、教義を具体的に伝える術を持たなかった。さらにそれを受け入れる側の日本の農民の教育水準も、ほとんど字を読めなかったので、教義を正確に理解することなど不可能だった。

彼らの理解のレベルでは、「新しい南蛮渡りの神様の御利益が大きいらしい」という程度のもので、私としては、日本の民衆史の中で何度か繰り返された「流行神」の一つぐらいに捉えられたと考えると、理解しやすいのではないかと思う。。

だから、"「隠れキリシタン」たちは当時の厳しい弾圧に耐えながら、純粋なキリスト教信仰を守り通した" というのは、ロマンに彩られた「幻想」で、実際には日本的な信心と習合しつつ、キリスト教本来の祈りの言葉も「オラショ」と呼ばれる具体的な意味のわからない呪文のような言葉に変わり、「よくわからない民間信仰」となって受け継がれてきたというのが実際のところらしい。

つまり、「お稲荷さん信仰」とか「お地蔵様信仰」というのと、本質的な違いはないようなのである。「そんなバカな」と思われるかもしれないが、仏教にしても「南無阿弥陀仏」や「仏教とは四無量心これなり」という言葉の本来の意味を理解している日本人がどれほどいるかと考えれば、「そんなものか」と納得がいく。いずれにしても、かなり「雰囲気のもの」なのである。「雰囲気のもの」だけに正面切って捨てにくいのだ。

幕末の開国直後に日本にやってきたプチジャン神父が長崎に創建した大浦天主堂で、長い弾圧に耐えてキリスト教信仰を守り通してきた浦上の信徒たちと感動の「再会」を果たしたという逸話も、「飛躍しすぎ」と断じられている。日本の信徒がプチジャンに「吾らの胸、あなたの胸と同じ」と告白したというのは、よく考えるとあり得ない。

実際には、日本の隠れキリシタンたちは、「自分たちが先祖から伝えられた信心の本家本元」が、突然日本に来たプチジャン神父であるとは、急には認識できなかっただったろう。事実に基づいて推理すると、プチジャン神父が本国に感動的に報告するために、昔からある「貴種流離譚伝説」になぞらえて創作したとみるのが自然のようだ。

現代になって信教の自由が認められても、教会に戻らない「カクレキリシタン」(もはや「隠れ」る必要がないから、宮崎氏はカタカナで表記している)がいくらでもいる。それは、宮崎氏に言わせれば「隠れてもいなければキリシタンでもないから」で、「クリスチャンでもない人に『なぜ教会に行かないのですか』と問いかける」ようなものだという。

宮崎氏は、「隠れキリシタンのロマン」がいかに幻想であるかを、実証的に示してくれているが、これら「幻想」の元は、我々現代の日本人がキリスト教に対して抱く幻想によるものなのだろう。確かに現代の日本人は、キリスト教はお洒落でロマンチックな宗教と思っていて、そのイメージを「隠れキリシタン」にも投影してきてしまったようだ。

こうした「幻想」は、日本に本当のキリスト教が根付きにくい原因にもなっているようである。クリスマスを受け入れ、ミッション系の大学の学生は多いのに、キリスト教信者は、人口の 1%にも満たない。

キリスト教は、中世日本においては「御利益の多い南蛮渡来の神様」と受け取られ、現代では「お洒落な小道具」程度に思われているようなのである。

 

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コメント

う~む、これは歴史的認識を覆すようなことですね。えらいこっちゃ。
と同時に、「ああ、やっぱり日本人だね」と妙に納得してしまう私です。なんか、すっきりした、いい気分です(^-^)
http://nousagimario.m.blog.jp/

投稿: なるほど!のうさぎ君 | 2018年7月 5日 04:35

他力本願の末席で、ありがたく。

そうなると、大友宗麟や細川ガラシャ、伊達政宗のヨメさんなんかは先生がいて識字もあって、キリスト教の系統と言うかなんらかの大筋はご存知で、そこらの「カクレキリシタン」たちとはまったく違う信仰だったってことですね。

投稿: 乙痴庵 | 2018年7月 5日 13:12

訂正します!

伊達政宗のヨメさん×
伊達政宗のムスメ◯

失礼いたしまして。

投稿: 乙痴庵 | 2018年7月 5日 14:19

乙痴庵 さん:

まあ、キリシタン大名と言われた人たちの多くは (全員というわけでもなさそう)、ある程度の教義理解はしていたようです。当時はポルトガルなどからきちんとした司教も来日して、指導していたし。

ただ、彼らの「改宗」 の動機も結構不順なところがなきにしもあらずで、南蛮貿易による利益を得るために、キリシタンになっておく方が、何かと便利だったという事情もあるようです。

そして領民に 「洗礼」 を矯正したのも、貿易を有利に運ぶための 「点数稼ぎ」 的なものがあったようで、領民としては、「なんだかよくわからないけど、南蛮渡りの 『デウス様』 というのは、御利益があるらしい」 ということで受け入れたようです。

ただ、日本の多神教の風土の中で受け入れたので、仏様とデウス様を一緒に祀ることに抵抗はなかったということのようですね。

フツーの家庭でも仏壇と神棚があったりするのと、そんなに変わらない感覚だったようです。

投稿: tak | 2018年7月 5日 14:29

なるほど!のうさぎ君 さん:

確かに、私としては 「隠れキリシタンのの信仰というのは、本来のキリスト教からかなる変容していたんじゃあるまいか」 と思っていたのですが、実際は 「変容」 どころか、「そもそも、きちんと理解してなかった」 というのが本当のところのようなのです。

投稿: tak | 2018年7月 5日 14:31

私も詳しいわけじゃないですが、仏教のことだって日本人はそれほど理解してないですよね。
高校の時日本史のテストで、「次の宗派の念仏を選べ」のような出題でその中に日蓮宗があり、選択肢に南無妙法蓮華経はあったのですが空白で出し、あとで「念仏ではなく題目なので、正解無しじゃないですか」と言ったら「屁理屈だ」と怒られました。
今でも納得がいっていません(笑)

投稿: らむね | 2018年7月10日 01:30

らむね さん:

>「念仏ではなく題目なので、正解無しじゃないですか」

あなたが正しいです!

「狭義の念仏」 は、浄土宗系の 「南無阿弥陀仏」 のみですので、出題自体に問題があります。そして「南無妙法蓮華経」 は、「仏を念じて帰依する」 というのではなく、「お経のタイトルを唱えて、その教えに帰依する」 のですから、「広義の念仏」 にも含めにくいです。

法華経系の人だったら、逆に怒ります。

投稿: tak | 2018年7月10日 10:04

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