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2018年9月に作成された投稿

2018年9月30日

私がいないと大雨になる

台風 24号は本日 20時頃に、和歌山県田辺市付近に上陸したようだ。「非常に強い勢力」での上陸は、9月 4日に徳島県付近に上陸した台風 21号に次いで今年 2個目で、これは記録の残る 1977年以降では初めてのことだという。

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休日祝日は関係ないフリーランスの私は、本日も仕事で千葉県に出かけていたが、幸いなことにまともな雨には降られなかった。我ながらありがたい晴れ男である。念のため華奢な折りたたみ傘ではなく、頑丈で大きめの傘を持参したのだが使わずに済んだので、どこかに置き忘れないようにする方が気疲れだった。

昨日付の「和歌ログ」にも書いたように、実は昨日の 29日に九州方面のまだ行ったことのない土地で野外イベント関連の仕事に出張してくれないかという仕事の依頼があり、とても心が動いたのだが、今日、千葉県での仕事があったので、泣く泣く断っていた。だがこうして台風の情報に接すると、断ったのは正解だったようだ。

台風の近付いていた現地ではまともなイベントにならなかったようで、「やっぱり晴れ男の tak さんがいないと、大雨になってしまう」なんていう話になっていたらしい。でも、台風 24号は私のせいじゃないからね。

思えば今年 7月末の台風 12号は、太平洋から北上してダイレクトに関東、東北を狙うかと思われていたのだが、私が福島に出張したために(というもっぱらの話)、急に進路を西に変えて前代未聞の逆走台風になってしまった。このせいで「tak さんの晴れ男ぶりは強烈すぎる」と、さらにハクがついてしまった。(参照 1参照 2

ところが今回はそれだけでなく、「いないと雨になる」ということでも、妙な実績になってしまったようなのである。我ながら本当に、どういう巡り合わせなのだろう。

 

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2018年9月29日

閉店、撤退の続く百貨店業界

三越伊勢丹ホールディングスが、不振店舗の伊勢丹相模原店、伊勢丹府中店、新潟三越の3店舗を閉店すると発表した。今年度初めの決算発表の席での 「構造改革の主なものは 2017年度の段階で終えた」、「店舗閉鎖は当面ない」という社長発言が、あっという間に覆されたわけだ(参照)。

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好意的(?)に見れば今回の 3店舗の閉店は、「構造改革の主なもの」になんか入らない、枝葉末節の話ということなのかもしれない。まあ、とにかく 2011年に三越と伊勢丹が経営統合したことで、この会社の店舗が日本中に多すぎるという結果になったので、店舗閉鎖が連続するのは当然の成り行きだ。

いくらなんでも、不採算店のお守りばかりしているわけにいかないからね。私はずいぶん前から「百貨店の歴史的使命は既に終わった」とみていて、昨年 3月には「百貨店という業態は、既にオワコン」という記事を書いている。

新宿伊勢丹や銀座三越などの都心店は曲がりなりにも「高級店」という差別化ができており、しかもいわゆる「インバウンド需要」にも支えられて堅調に推移しているが、他の地方都市では差別化もできないし、顧客もいないのだから、赤字を垂れ流すしかない。

そもそも、今どきファッションに大金を使う客なんて、そんなに多くない。新潟三越のような店が存続していたのは、「一般庶民」と言われる層がボーナスが出たら一張羅の背広や「およそ行き」を、百貨店の売り場で買っていたいう、高度成長期の名残でしかない。

その「一般庶民」が百貨店で服を買わなくなり、しかもその層が薄くなる一方でもあるのだから、従来の百貨店の商売が存続できるわけがないのだ。試しにいわゆる地方百貨店の売り場に入ってみればそれがよくわかる。フロアは閑散としていて、客の数より店員の数の方が多い。

そして大都市では、アジアからの観光客が従来の「一般庶民」の役割を果たしている。

新宿伊勢丹は一時、「メンズ・ファッション・マーチャンダイジングのお手本」とあがめ奉られていた。しかし私は 「後背地に一大ホストクラブ地帯があるのだから、高級メンズ・スーツが売れるのは当たり前じゃん」と思っていて、上述の昨年 3月の記事に次のように書いている。

フツーじゃない男たちを相手に磨いたマーチャンダイジング手法を、フツーの都市の百貨店に適用したところで、通用しないのである。どうしてそこに気付かないかなあと、私はずっと不思議だった。甘い夢は、よくよくダメになるまで見続けたいもののようなのだ。

ようやく気付いた時には、閉店するしか選択肢がなかったというわけである。百貨店の数は、今の 3割ぐらいでちょうといい。人口 100万人以上の大都市にポツポツあればいいのである。人口がたかだか 30〜40万人程度の商圏では支えきれない。

 

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2018年9月28日

台風一過の 10月 1日は、真夏日か

ウェザーニュースと三菱自動車のコラボ企画は、昨日さんざんディスってしまったが、iPhone アプリの「ウェザーニュースタッチ」は、重宝して使わせてもらっている。下は私の地域の「週間天気」として表示された予報だ。

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今日は久しぶりの上天気で、気温も昨日の肌寒さが信じられないほど上がり、夏日になった。このところの雨続きで自転車にほとんど乗れていなかったので、今日の用足しはすべて自転車で出かけ、60Km をちょっと超える距離を気持ちよく走った。

着ていたのは Tシャツ 1枚と短パン。さすがに日が沈んで家路についた頃には風が肌寒く感じられたが、日のあるうちは本当に快適なポタリングだった。

ペダルをこぎながら、「Tシャツ 1枚と短パンで外出できるのは、今年中にあと何日あるだろう?」と考えたが、帰宅してから ウェザーニュースタッチを開いてみると、ご覧の通り、少なくとも 10月の最初の 3日間は夏日になるようだ。しかも台風一過の 1日は、30度の真夏日というご託宣である。

明日と明後日は所用で自転車には乗れないが、1日はまたしっかり乗って、最近の運動不足を解消しなければならないと思っている。それにしても、一度肌寒いまでの気候に慣れてしまうと、30度はさぞ暑く感じるだろうなあ。

 

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2018年9月27日

「#古典絶景」 という、よくわからない企画

iPhone でお世話になっているお天気情報アプリ「ウェザーニュースタッチ」から「お知らせ」が届いていて、それを読んでみると三菱自動車とのコラボで「#古典絶景」というプロジェクトを展開中だという。

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一見した限りでは、日本文学に詠まれた絶景ポイントに出かけて写真を撮り、「#古典絶景」で Twitter や Instagram に投稿してみようというプロジェクトのように思われる。ところが、このハッシュタグで検索してみても実際の画像投稿はかなり低調で、どうみてもまともなスケールに達していない。

念のため「#古典絶景 NAVI」のサイトに飛んで詳しい内容をみると、こんなことが書いてある。

和歌や俳句で詠まれた絶景スポットを対象に、その風景をできるだけ正確に予測することを目的とした新システムである。
国文学者と協力し、100万種類以上の古典文学作品の中から絶景が詠まれた作品を抽出。その絶景が見られる気象条件を、気象学者と定義した。
また、気象情報会社と協力し、地形データと、気温、湿度、風力、風向き、気圧、月齢アルゴリズムなどの気象データをリアルタイムで解析、日本全国の古典絶景が見られる条件をシミュレートしたうえで、絶景出現確率を弾き出す。
さらに、出発地点を入力すると、そこから一番近い古典絶景までクルマでいくルートをナビゲートする。

はっきり言って悪文で、読むだけで面倒くさくなってしまう内容でもある。古典文学、地理、気象、ドライブという 4つの分野に特別な関心でもないと、まともには付き合いきれない案件としか思われない。私自身、これらの 4つの分野は「嫌いではない」というレベルではあるが、それでも「じゃあ、一丁乗っかってみるか」という気にはさせられない。

要するに「気張りすぎ企画」の典型例だと思う。「私はそこまで暇じゃないけど、お好きな人は、どうぞお楽しみください。ご苦労様」程度のもので、もっとはっきり言わせてもらえば、「かなりスベっちゃってるよね」ということだ。

そもそもウェザーニュースからの「お知らせ」の冒頭は上に掲げた写真だが、「和歌の絶景を堪能しよう」というタイトルに「芭蕉も感動した絶景を見て……」が続くのは、和歌と俳句の区別が付いてないとしか思われない。さらに「#古典絶景」と言いながら、戦後まで生きた「近代俳句」の杉田久女の句がフィーチャーされている。

この統一感のなさは、能書きがご大層なだけで焦点のはっきりしない企画のムードを象徴しているというほかない。広告代理店の軽薄ムード溢れる企画会議の様子が思い浮かんで、「まともに付き合うほどのものじゃないな」と思ってしまうのもしょうがないよね。悪いけど。

 

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2018年9月26日

昨夜、ネットが落っこちていて

昨夜 9時過ぎに帰宅してこのブログの更新をしようと Mac を立ち上げて「ココログ 管理ページ」へのアクセスを試みたのだが、なかなかページが表示されない。「おかしいなあ、よほど混んでるのかなあ」と呟きつつ、他のページにアクセスしてみようとするも、まったく表示されない。

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ここに来て、初めて「何だよ、ネットにつながってないじゃん!」と気付いた。「まったくもう......」と呟きながら、ルーターの電源を抜いて再起動させたが、依然としてつながらない。再び「まったくもう......」と、ONU の電源を抜いて再起動。しかしそれでもネットワークは回復しない。

試しに固定電話の受話器を上げてみても「ツーツーツー」という音が聞こえるだけで、回線につながっていない。ここで初めて、「やべ、問題は家の中のことじゃなくて、家の外の回線が落っこちてるんじゃん!」と気付く。

しかたなく、インターネット接続サービスのない温泉旅館に泊まったみたいに、iPhone の回線経由でネットに接続する。妻に「いつからネットが落ちてた?」と聞くと、「夕方過ぎに iPhone で天気予報を見ようとしてもつながらなかった」と言う。へえ、ずいぶん長く落っこちてるんだ。

電話会社に電話で問い合わせようかとも思ったが、既に夜の 10時を回っているし、埒があかないだろう。こんな場合は、何が何だかわからないまま、なんとか復旧してくれるのを待つしかあるまいと、iPhone の 4G 回線経由で淡々とブログを更新し、風呂に入って寝るしかなかった。

で、今朝確認してみると、インターネット接続は何のことなく回復していて、当然といえば当然だが、「昨夜はごめんなさい」の一言もない。まあ、回復したんだからいいけどさ。

 

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2018年9月25日

中秋の名月と、その手前のイメージ

昨日は中秋の名月で、朝方の天気予報では雨模様で見られないだろうと言われていたが、実際には雲の切れ間が広がって、とても綺麗な月を見ることができた。私の「和歌ログ」でも写真とともに歌を載せている(参照)。

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今回の中秋の名月も、ネット上に多くの印象的な写真が掲載されたので、中でも「いいかも!」と思ってしまった 2点を、上にコラージュさせていただいた。まあ、単純に 2つ並べただけだが。

左は朝日新聞に載せられたもの(参照)で、お台場の観覧車のゴンドラの一つが月の中にすっぽりと収まり、中の家族もまるで影絵のようなシルエットになっている。そして右は、KAGAYA さんという方が Twitter に投稿されたもの(参照)だ。名月の中を飛行機が横切っていく。この飛行機も、よくぞ月の赤道付近に重なるように横切ってくれたもので、KAGAYA さん、よほど日頃の行いがいい。

どちらの写真も、結構なテクニックと機材を使わなければ写せないものだが、根本的には「センス」がものを言っている。私はいつも思うのだが、カメラマン(「フォトグラファー」と言うべきか?)という人たちは、常人には見えない何かを見ていて、そしてそれを「写真」として表現することができる。

上の写真は、同じ日に同じ月を同じ東京から撮っているのに、色合いも陰影もまったく違って見える。つまり 2つの月は、決して「同じもの」ではないのである。写真とはかくも微妙で、「単に写している」というだけのものではない。

そして、話は急に身近すぎるところに落っこちてしまうが、この 2つの写真をみて私は、素人にもでき 「写真の撮り方のコツ」というのを思い出してしまった。

例えば、建物の前に人物を立たせて写真を撮るとき、その建物の全貌も収めたいので、カメラをもった人間がどんどん後ろに下がるというケースがある。しかしそうすると、建物の前の人物が小さくなって、表情がわからなくなってしまう。素人写真にはそんなようなのが多く見受けられる。

建物の全貌も人物の表情も、どちらも写真に収めるにはどうすればいいかというと、単純な話で、映す人が後ろに下がった分、建物の前に立った人にも前に出てきてもらえばいいのである。ところが素人は、こんな単純なことに思いが至らない。

上のコラージュで言えば、左は人物にもグッと前に出てきてもらったものに喩えられる。そして右は、写真を撮る者だけがぐうっと後ろに下がったケースと思えばいい。前後に並ぶ 2つの被写体をどう収めるかが、ものすごく端的に示されてもいる。

 

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2018年9月24日

一見もっともらしい英語の看板

下の画像は、某所で見かけた住宅販売会社の入り口にある大きな看板である。会社のモットーであるらしい文句が英語で表記され、その下にフリーダイヤルの番号が大きく書かれている。

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で、まあ、イチャモンをつけるってわけじゃないのだが、日本の住宅販売会社が、茨城県内の地方都市に社屋を構え、おそらく日本人の顧客を主対象としたビジネスを展開していると考えられるのに、どうしてまたこんな風な英語のテキストを麗々しく玄関の看板に表示してあるのだろう。私は単純に疑問に思ってしまうのである。

しかもその英語が、「ちょっとね」というテキストなので、「何だかなあ」という思いは何倍にも増幅されてしまうというわけだ。まあ、翻訳するとこんな感じだ。

快適で美しい一軒のお住まいは、私たちの職人技の様式です。
優雅さの中で過ごされる時間は、想像力をかき立て、
そしてあなたの心に居住する無限の可能性を刺激します。

とくに 1行目の "abode" という単語なんか、恥ずかしながら私も知らなかったので辞書(Wisdom English Japanese Dictionary)を調べたら、こんな風なことだった。

abode 名詞 1. 可算名詞 ≪かたく・修辞的に/おどけて≫ [通例 a/one's (...) 住居、住まい
  2. 不可算名詞 ≪法≫ 住所

この場合は "a" が付いているので、意図してのことではないのだろうが、まさに「かたく修辞的」か「おどけて」かのどちらか、あるいは両方のニュアンスになってしまうよね(それで、敢えて「お住まい」なんて訳してみた)。まあ、翻訳する前のテキストは、全体を通してものすごくステロタイプで具体性のない日本語だったんだろうから、強いて英語にするとこんなのになりがちってことだ。

妻に言わせると 「どうせ雰囲気のものだから、深く考えなくていいのよ」ってなことらしい。誰もまともになんか読まないし、何となくそれっぽい英語が書いてあるだけでカッコよさげに映るので、「装飾」として充分なのだというのである。ということは、ついちゃんと読んじゃった私が変わり者ってことなのか。

ただ、「なるほど」と納得したのは、この看板の文字が地のデザインの中に溶け込んでいる点だ。きちんと読ませようというテキストなら下の電話番号(チラッと見えるよね)のように 「白抜き文字」で強調するところだろうが、どうせ「装飾」で意味に思い入れなんてないので、こんなに背景に埋もれ気味でも全然平気なわけね。

私だったら、こんなくどくどと要領を得ないテキストなんかより、ただ一言、こんな風に書くがなあ。

A good house enhances your life!
(一軒のいい家が、あなたの生活を高める!)

 

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2018年9月23日

「パスワードを覚えてられない」症候群

世の中には、インターネット関連のアカウントを作るのはいいが、そのパスワードをいつも忘れて往生してしまうという人が少なくない。私はこれを "「パスワードを覚えてられない」症候群" と名付けている。

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「パソコンを新しくしたので、設定を手伝って」と頼まれることがある。依頼の言葉は「手伝って」だが、実際には初期設定はすべてしてあげなければならないということなので、かなり厄介だ。とくに問題なのは、メールの設定である。

メールアドレスなら、こちらも知っているから問題ない。問題があるとすれば、当人がそれを正確に知らないということの方だ。そして自分のメールアドレスをうろ覚えなのだから、ましてパスワードなんて覚えているわけがない。

「前回に設定してあげた時、ちゃんとメモしておくようにアドバイスしたでしょ」と言っても、「どこにメモしたか忘れた」と言う。そう言えば、前回は私の目の前でどうでもいい紙切れにメモしていただけのような気がする。いかにも危なっかしい気はしたのだが。

それどころか、「tak さんが設定してくれたんだから、覚えてくれてると思ってた」なんて言い出す。冗談じゃない。他人のパスワードなんか礼儀としてすぐに忘れる。忘れると言ったら、本当に意識してきれいに忘れる。

というわけで、「パスワードの再設定」などという面倒な手続きまでしてあげなければならないことになる。こうした人の共通点は、「パスワードというのがそれほどまでに重要なものである」ということを全然理解していないということだ。

「家に入る鍵みたいなもんですよ。鍵をなくしちゃったら、家に入れないでしょ」と、口を酸っぱくして言っても、「でも、普段そんなもの打ち込んだことなんてないし」ということになる。こうなるとパスワードの自動入力機能というのは、かなり多くの場合、面倒の元にもなるってことだ。

さらに言えば、Facebook で同じ人が複数のアカウントを持っているケースというのがかなり多い。パスワードを忘れてログインできなくなった時に、軽い気持ちで新しいアカウントを作ってしまうためだ。

「Facebook の中に、〇〇さんが 2人も 3人もいて、初めは同姓同名の他人かと思ってたけど、全部あなた本人じゃないですか。1つのアカウントにまとめてくださいよ」と言うと、「大丈夫、今使ってるのは 1つだけだから」なんて言う。

「そういう問題じゃない。自分は分かってるからいいけど、他から見るとあなたが 2人も 3人もいるってのがややこしすぎるってことなんです!」と言っても、あまりピンと来てくれないのである。

それまで Facebook に 3つもアカウントをもっていた知り合いが、最近ようやくその不都合さを理解して、「わかりました。今使ってる以外のアカウントは削除します」と言ってくれた。しかし後日に確認してみると、それまで 3つだったのが、今度はあろうことか 5つに増えている。

どうしたのか聞いてみると、「忘れてしまったパスワードを再発行してもらうのに失敗して、ふと気付くと新たに 2つ作ってしまっていた」という。これはもう、完全にビョーキである。この類いの人に、あまり余計なことをさせちゃいけないと思い知った。

 

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2018年9月22日

平壌冷麺も、すすらずにもぐもぐ食うもののようだ

韓国の文在寅大統領が北朝鮮を訪問し、金正恩と仲良く平壌冷麺を啜る姿が放映された。あくまでも私個人の感覚でしかないが、それは何となく異様な光景ではあった。

それぞれの国や地域にそれぞれの風習があり、食事のしかたもバリエーションがあるのだから、自分の国だけのスタンダードでモノを言うのがぶしつけとは充分に承知している。しかしながら 2つの国の元首が並んで器に覆い被さるようにして、長いヌードルを黙々と手繰る姿が、何だか冗談みたいに感じられたのは、人情というものである。

ところで、麺類を食うときに音を立ててすすってもいいというのは、どうやら日本だけのことのようなのである。西洋人のみならず、私の経験ではアジア人でも、蕎麦屋に連れていって 「音を立ててすすってもいいんだよ」と説明しても、多くは「本当か? からかってるんじゃないか?」と本気で恐れ、疑う。

「いや、からかってなんかいない。周りを見ろ、みんな音を立ててすすってる」と言って安心させようとしても、彼らの多くは「ツルツルっ」と小気味よくすすることができず、不器用にモグモグと少しずつ口にするのが関の山だ。この件については、11年近く前に「蕎麦は禅的食物かもしれないが」というタイトルで書いている。

彼らの「モグモグ」の様子は、まさに、この金正恩の動画 とか、この文在寅の静止 (少々閲覧注意)にそっくりで、どうしてもこうなってしまうようなのだ。この 2つの画像を強いて比較すると平壌冷麺の食い方に関する限り、金正恩の方に一日の長(あるいは地の利?)があるようだ。ほんの少しすすり気味だし。一方、文在寅はそもそも箸の使い方があまり上手じゃない。

そしてこんなに散々いろんなことを書いてしまってから言うのも恐縮なのだが、それについてどうのこうの余計なことを言ったり笑ったりしてはいけないのである。すすり込んじゃいけないのなら、スパゲッティのようにフォークに巻くようにして食えばいいじゃないかという見方もあるだろうが、それは完全に余計なお世話なのだろうね。

ただ、念のため欧米系のニュースサイトをざっと見たところでは、2人がヌードルとモグモグ格闘している画像はとりあえず 1枚も見つからなかった。彼らとしては、なんとなく「見るに堪えない光景」なのかもしれないね。その気持ち、そこはかとなくわかる。

 

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2018年9月21日

東横インのメルマガが、やたらしつこい

日本中にビジネスホテル展開をしている東横インから、やたらしつこくメルマガが届く。月に平均 2〜3度は出張旅行する私だが、はっきり言って東横インなんてちっともご贔屓じゃなくて、他のホテルが満室の時に仕方なく泊まる程度だし、とくにここ 2〜3年はまったく泊まっていない。

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というわけで、メルマガなんか送られても全然読む気がないので、「メールマガジンの登録・解除・変更」というページに飛び「メールマガジン解除」の手続きを、これまでに何度したか知れない。それでもしつこく送られてくるのだから、この手続きページはまともに機能していないようなのだ。人を馬鹿にした話である。

断っておくが、私はことさらに「東横インのメルマガのみ」を受信拒否しているわけではない。ネットで他のどんなホテルを予約しても、「メルマガ配信を希望しない」という項目にチェックを入れている。こうしておけば、フツーのホテルならメルマガなんか送ってこない。

ところが東横インだけは非常に無神経というか、不誠実というか、何度拒否しても解除しても、しつこく送ってくるのである。この傲慢さはおそらく、企業姿勢から来るものなのだろうと思っている。

というわけで、心の中で思っていてもわざわざ書くほどのことじゃないと思っていたことを、腹立ち紛れに書いてしまう。おそらく多くの人が思っていることで、「今さら感」たっぷりではあるのだが、「東横イン」という名称についてである。

この名称については「東急イン」と紛らわしいと、昔から言われてきた。それに関しては「法律的には何の問題もないし、間違える方が迂闊なだけ」という一見最もらしい擁護論をネットで散見する。確証はまったくないが、この類いの擁護論は、東横イン関係者が書いているのじゃないかと疑っている。

ただ私としては、この擁護論に関しては「そりゃそうだ」と認める。それ以外に言いようがないではないか。私自身、一度も取り違えたことなんてないし。

私が言いたいのは、「紛らわしいからいけない」というのではなく、「よくまあ、恥ずかしげもなくそんな名前にしたものだね」というお話である。昔、「舟本一夫」(舟木一夫じゃない、念のため)とか 「鳥倉千代子」(島倉千代子じゃない、同)とかいうドサ回りの歌手がいたという話があるが、印象としてはそれと同類だ。

というわけで、私はこの名称についてはどうしても「志の低さ」を感じてしまうのだよね。従業員は割ときちんとしているので問題ないのだが、私としては冒頭に書いたように、「仕方なく泊まるホテル」という位置づけでしかないのだ。大浴場もないので、狭苦しいバスに入らなければならないし。

ついでに付け加えると、APA ホテルは、「できるだけ泊まりたくないホテル」である (参照)。

 

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2018年9月20日

「でんでん太鼓理論」は結構な広がりを持つようだ

もう 12年も前のことだから、一廻り前の戌年のことだが、"歩行における「でんでん太鼓理論」" という記事を書いたことがあった。これは女性が急いで歩くときにありがちな、「腰をふりふり、腕をでんでん太鼓のように横に振り回す」歩き方について書いたもので、内容的には今でも十分通用するものだと思っている。

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ちょっとだけ説明させてもらうとこの記事は、朝のラッシュ時などに雑踏の中を歩いていて、前を歩く女性を横から追い越そうとすると、その女性の手がこちらの股間を「コツン」と直撃することが度々あって、「どうしてまた、女性ってあんなに腕を横に振って歩くのだろう」と疑問に思ったことが発端だった。

これに関しては、件の記事のほぼ 1ヶ月前に、"「大手を振って」 歩く女たちへ” というタイトルで書いている。するとこの記事に、江都屋黄金丸 さんが次のようなコメントをくださった。

ちょっと言葉だけでは説明しづらいんですが、たとえば右足を踏み出す時に、骨盤は上から見ると反時計回りに回転して右の足とお尻が一緒に前に出る、と、そんな動きが多いです。歩く時には当然それを左右くり返すので、正中線の振れが大きくなるために腕をでんでん太鼓のように振らざるを得ないということになるようです。

「なるほど!」と私は膝を打ったのである。朝のラッシュ時など、急いで歩くときに女性の多くは、周囲の男性たちとの体格差を補うためなのか、お尻をことさらぷりぷり振るような歩き方になり、その結果として腕がでんでん太鼓のように振り回される。それで股間を直撃されるなんてことが生じるわけだ。男性は腕を小幅に前後に振るタイプが多いので、そんな事態にはなりにくいのだが。

で、あれからずっと、「でんでん太鼓理論」という言葉でググると、私の記事がトップにランクされ続けている(参照)のだが、ほかにもリンクがどんどん増え続けている。新しいページはほとんど 2010年以後のものなので、もしかしたら「でんでん太鼓理論」という言葉は、私の記事からパクられたんじゃないかなんて思ったりもするのだが、まあ、それは深く考えないことにしよう。

「でんでん太鼓理論」という言葉が多く使われているのは、ゴルフの世界のことのようだ。要するに腰の回転が先で、腕は後から付いてくるという話である。もっとも、体の回転を伴うスポーツではこんなのは言わずもがなのお話なのだが、ゴルフ関連でことさら多いというのは、こんな風に説明しないとわからない人も流入してくるようなのだね。

ゴルフだけでなく、慣れない女の子が野球の投球動作やバッティング動作をする時など、腰より先に腕が出がちでどうにもぎこちなかったりする。そんな場合に「でんでん太鼓の動きを思い出してごらん」と言うと、直感的にわかりやすいのかもしれない。

ゴルフに次いで多いのが、太極拳の動きを説明したページだ。ただ、例えば この YouTube 動画 で説明されているような動きは、純粋なでんでん太鼓の動きとは異なっており、言葉的にはちょっと無理があるような気がする。合気道でいう「入り身」に近いよね。

僭越ながら、別の言い方をする方が相応しいんじゃないかなあ。

 

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2018年9月19日

本を読まないとバカになるか?

東北大学加齢研究所の川島隆太教授の指導による研究で、"「本の読み方」で学力は決まる" という結論が得られたのだそうだ。昔から「本を読む子は頭がいい」と言われていることを、最新脳科学による実証的な研究で探ってみたものらしい。(参照

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Diamond Online の記事によると、結論的には本ばかり長時間読んでいてもだめなのだそうだ。その理由は「勉強時間や睡眠時間を削ることになるから」という、言われてみれば当たり前の話である。最も成績がいいのは、小学生、中学生ともに最も 1日に「1~2時間」読書をする子どもたちであるということだ。

おもしろいのは、勉強をしても読書習慣のない子は成績が上がらないというデータである。「勉強 30分~2時間・読書 10~30分」群の子ども達の平均偏差値は「勉強 2時間・読書全くしない」群の子ども達の平均偏差値を超えるのだそうだ。

こんな研究成果が発表されてしまうと、「本ばかり読んでないで、勉強しなさい」と言い続けてきた世の教育ママたちは、掌を返したように「勉強ばかりしてないで、本も読みなさい」なんてことを言い出すんだろうなあ。しかし下手に押しつけると、逆に読書嫌いになってしまいそうだ。

「本の虫」みたいな人間というのは、子どもの頃は「ウチの子は本ばかり読んで、ちっとも勉強しなくて困る」なんて言われていたのが多い。そりゃそうだ。読書の楽しみを知ってしまったら、勉強なんてしてる隙がない。ただ、問題は単に本を読むというだけでなく、「どのように本と向き合うか」なのだと思う。

単に活字を追うだけじゃだめて゛、きちんと考えながら読むことで脳細胞が刺激されるんだろう。私としては、学校の成績は良かったけど、話題が狭くて話していてもちっとも面白くないやつよりも、成績はそこそこでも、いろいろな話題にきちんと自分の考えを織り込めるやつの方が、付き合っていてずっとおもしろいと思う。

 

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2018年9月18日

「LGBT には生産性がない」 という、懲りない感情論

『新潮 45』 が、本日発売の 10月号で、「そんなにおかしいか 『杉田水脈』 論文」という企画を組んでいるらしい。あの時に受けた批判は、「見当外れの大バッシング」だと言っているようなのである。私としてはそれよりも、あんなものを「論文」と言うセンスに驚いているのだが。(参照

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同誌 8月号に掲載された彼女の「『LGBT』支援の度が過ぎる」という寄稿記事について、私は「礼儀として、読んでから批判すべきだろう」と思い、一応書店で買って読んでみた。その時の記事が、どういう巡り合わせか、私の誕生日、7月 26日付の "「LGBT には『生産性』がない」という発言について" という記事である。

せっかく買ったのに、その感想は「買って読むほどのレベルのものじゃない」というものだったが、ただ、せっかく買ったのだからと、彼女の「LGBT には『生産性』 がない」という見当違いの決めつけについて、ごくフツーに(だよね?)批判し、さらに、次のようなことを付け加えた。

頭の硬い保守派は子どもを産む能力に関して「生産性」という言葉を好んで使いたがる。私自身も彼らの口からこうした言葉が発せられるのを度々聞いていて、その度に不愉快になる。この言い方は、実は保守政治の世界の「ステロタイプで悪趣味な決まり文句」になっているのだ。

フツーに考えれば、彼女の発言は「トンデモ」に違いないのだが、彼女の仲間内は「一体何が間違ってるんだ。当たり前の話じゃないか」と擁護する雰囲気に満ち満ちている。それは間違いない。ということは、いくら批判しても彼女は絶対に反省なんかしないということである。

というわけで、今回の「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」という特集が出ることについては、「ほぉら、やっぱりね」 と言うしかない。「いくら批判しても彼女は絶対に反省なんかしない」 と書いたが、正確に言えば 「彼女を含む勢力は、絶対に反省なんかしない」 ってことである。

彼らの偏見は「だって、LGBT、おかしいじゃん!」というプリミティブな「感情論」から発するものでしかない。そして「生産性」という言葉は、感情論をもっともらしく印象づけるために使われているに過ぎないのである。(それに関しては、上述の 7月 26日付で書いているので、くどくど繰り返さない)

「私は LGBT、嫌いだ!」というなら、「まあ、それは好き好きだからしょうがないね」と言うしかないが、無理な理窟とも言えない理屈をまぶして、「客観的意見」みたいな形で主張されても、そもそもが「感情論」に立脚したものなので、まともな議論をするには出発点からかみ合わない。だから先々月の時点でどっと出た批判も、結果として「暖簾に腕押し」気味になってしまった。

というわけでそこでやめておけばよかったのに、反撃に出てきたということのようである。ただ私としては、今回の 10月号は買うつもりがない。そんなもの買って読むほど暇じゃないから。

どうせ、まともな議論は期待できないし。

 

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2018年9月17日

鳥海山と飛島

らむねさんが当ブログのコメント欄に、9月 29日のブラタモリで、私の故郷である「山形・酒田」が放送予定であると書き込んでくれた。さっそく NHK のサイトで確認してみると、なるほど、日本海沖の 「飛島」 まで足を運んで撮影したもののようだ(参照、「あすか」じゃなく、「飛島(とびしま)」ね。念のため)。

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どうでもいいことかもしれないが、この記事、「No.113」じゃなく「#113」となっているのが気に入った。さすがタモリさんである。これについての詳細は、私の 11年前の記事、「"#" は 「シャープ」 じゃないんだって」を参照されたい。

そして、これは決してどうでもいいことじゃないのだが、らむねさんの情報によると、「やまがた 庄内 観光サイト」というサイトの「飛島で満喫!」というページの冒頭の画像の文字が、「鳥海山・飛島ジオパークへ行こう! 飛鳥で満喫」となってしまっている。冒頭で 「鳥海山・飛島」と言ってるのに、続けて「飛鳥(あすか)で満喫」とは、「責任者、出て来い!」と言いたくなってしまう。

さらにややこしいことには、酒田には「飛鳥(あすか)」という地名もちゃんとあるのだよ。「酒田市飛鳥」(さかたしあすか) でググると、最初に「山形県酒田市飛鳥」がランクされるが、2番目に 「飛島 (山形県) - Wikipedia(「とびしま」 ね。念のため)が表示されてしまう(参照)。Google としては(自動的に)気を利かせたつもりなんだろうけど、結果的にややこしさに輪を掛けてしまっている。

「飛島」という名前の由来は、鳥海山の噴火で飛んでいった噴出物の塊が日本海に落ちて島になったからという、ちょっとあり得ない話が伝えられている。子どもの頃に聞いた昔話にこんなのがある。(以下、庄内弁を日本語に翻訳済みだが、庄内の民話の最初と最後のお約束、「昔あったけど/とっぴんからりんねけど」は、オリジナルのまま)

昔あったけど。ある朝、鳥海山が目を覚ますと、隣の月山の方が高くなっていて、「どうだ、俺の方が高いぞ」と威張るのだった。鳥海山はそれに腹を立て、全身に力を込めると大地震になり、さらに噴火して、再び月山より高くなった。その噴火で飛んで行った土の塊が海に落ちて島になったので、「飛島」 と言うんだと。とっぴんからりんねけど。

なにしろ鳥海山という山は、日本海岸からいきなり立ち上がって標高 2236メートルになるという独立峰である(参照)。それでこんな話も生まれたのだろう。

そして飛島(「とびしま」 ね。念のため)というのはなかなかいいところで、私は大昔に 1度しか行ったことがないが、死んだ父は海釣りが好きだったので、何度も渡っていた。最近の飛島がどんなになっているのか知りたいが、なかなか行く機会がないので、ブラタモリを見て確認してみたい。

 

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2018年9月16日

例の「ひき逃げ事故」の動画と文字情報の差

私は例の「ひき逃げ事故」の吉澤ひとみという娘については顔もよくわからないので、特段の興味はなかったのだが、あの尾木ママがブログで 「あれだけひどいひき逃げ事故なのに誰も助けない⁇」と憤慨されており、ビデオもネットで公開されているというので、「どれどれ」と見に行ってみた。

なるほど、誰のドライブ・レコーダーに記録されていたものか知らないが、上のように結構鮮明な動画として公開されている。そして見る限り、目の前でひき逃げ事故が起きているというのに、確かに誰も助けようとしないどころか、駆け寄って声を掛ける者すらない。

ただ、このビデオを冷静に見ると、報道ではわからなかったことがいくつか明らかになる。順を追って挙げてみよう。

まず、吉澤容疑者(敢えてニュースでの呼び方にさせてもらう)は、「交差点に赤信号で進入した」ということになっているが、動画を見る限り、信号は黄色から赤に変わった直後で、事故が起きたのは「右折可」を示す矢印が付いている時だった。

ということは、この状態では右折車が合法的に交差点に進入してくる可能性が残されていたということで、歩行者用信号は赤の状態のままだったはずだ。つまり、まだ渡ってはいけない状態だったにもかかわらず、被害者はいち早く横断歩道を渡り始めている。

このドラレコ動画を撮影したクルマが、信号が黄色に変わったあたりの時点でできちんと停車したものと仮定すると(もし青信号の時からずっとその場に停車していたのならモロに違反だが)、それを見た被害者は見切り発車で横断歩道を渡り始めたのだろう。この推測が事実だとしたら、被害者側にも落ち度がなかったとは言えない。
(注: この私の推測は誤っていた。最下段の 【追記】 を参照されたい)

そこに来た吉澤容疑者のクルマが、信号が黄色から赤に変わったことに気付いていたかどうかは知らないが、気付いていたとしても、「まだ右折矢印が出てる状態だから、えーい、突っ切っちゃえ」 とばかり、交差点に進入したのだろう。こんなようなドライバーは、残念ながら決して珍しくない。

ところが間の悪いことに、この動画を撮影したクルマが左車線に停車していたので、見切り発車で横断歩道を渡り始めていた被害者の姿が見えなかったか、あるいは少なくとも確認しづらかった。これは「情状酌量」の理由にはならないだろうが、少なくとも「運が悪かった」とは言える。

また報道では「ブレーキをかけた痕跡がない」とされていたが、動画を見る限り、ほんの一瞬ではあるが、ブレーキランプが点いている。

そもそもこの時、被害者の後ろから渡ろうとしていた歩行者の意識の片隅には、「まだ赤なのに強引に渡ろうなんてするから、こんなことになっちゃったんでしょうが」という思いがあったんじゃじゃかろうか。ほんの少しだけそう思ったとしても、責められないだろう。

そして被害者は転倒したものの、すぐに起き上がっているので、近くにいた歩行者も安心して、敢えて助けようとしたり、警察に連絡しようとまではしなかったのだと思われる。ただ、いずれにしても薄情な話ではある。

最後のポイント。吉澤容疑者は事故直後には「周囲に車が多くて停車できなかった」と供述していると報道されたが、動画を見る限り、これに関しては完全に「口からでまかせ」のウソだったことが明らかだ。まったく「よく言うよ!」ってなもんだ。

「百聞は一見にしかず」というが、まさに伝聞情報による文字だけの報道というのは、ありのままの事実を伝えにくいものである。ニュースに接する際には、このことをしっかりと前提として認識しておく必要がある。

【追記】

らむね さんのコメントによる情報の確認により(参照)、被害者は信号無視をしていたわけではないと判明した。不十分な考えにより決めつけてしまったことをお詫びしたい。この横断歩道は、交差点の向こう側を横断するもののようだ。

ただそうだとすると、この動画を撮影したクルマはどういうわけか、おそらく交差点内に停車していたことになり、それはそれでかなり問題だと思う。

 

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2018年9月15日

脚気と米あまり

下の写真が何だかおわかりだろうか。団塊の世代よりほんの少しだけ若い私の世代でも、若い頃に 1度か 2度実物を見たことがある者が多いが、若い世代では「何これ?」となってしまうだろう。

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実はこれ、「脚気 (かっけ)」 の検査をするための道具である。検査の仕方は、足が床に着かないように浮かせて椅子に座り、膝のあたりをこの槌で軽くコンと叩く。膝関節が反応してピクッと動けばオーケーで、動かなかったら脚気ということだった。私の年代の人間は大抵、子どもの頃にやってみたことがある。

脚気は結核とともに日本人の国民病とまで言われた病気で、脚がむくんだりしびれたりし、最悪の場合は死に至るが、長い間原因不明とされていた。ビタミン B1(チアミン)の不足によるものと判明したのは 20世紀初頭で、国内の死者が 1000人を下回るようになるには、1950年代まで待たなければならなかった。

この脚気が大問題となったのは、明治以後の軍隊でのことで、とくに長期間の航海をする海軍では、野菜などの副食が足りずに脚気が多発した。当初は脚気の原因がチアミン不足との知見はなかったが、経験則として白米食に問題があるとされ、海軍では脚気患者の少ない西欧式のパン食に切り替えられた時代があった。

精米によってチアミンの豊富な胚芽が失われることが、脚気を引き起こすという推察は正しかったわけだ。この間の事情については、Wikipedia の「日本の脚気史」というページに詳しく載っている。ただ、海軍は英国式医学で経験則を重視したのに対し、頭の硬い陸軍はドイツ式医学で理論偏重だったため、脚気の原因が不明だった時代は、海軍式との対立があったようだ。

そして日本の医学はドイツ式が主流を占めたので、海軍の経験則によるパン食は「非科学的」と批判され、白米食との混用に移行した。その結果、一時はせっかく減っていた脚気が再び増加に転じたというのだから、困ったものである。ちなみに海軍のパン食を批判した陸軍の軍医の中には、森林太郎(文豪、森鴎外の本名)もいたが、ここではあまり触れないでおこう。

これとは別の視点で、私がより興味をもってしまうのは、「白米好きの日本人の兵隊がパンしか食えないのでは、軍艦内でストライキや暴動が起きかねず、仕方なく白米と混用することになった」と、巷間伝えられていることである。日本人の「白いおまんま」への執着を示す話だ。

しかし日本で白米食が本当に広まったのは明治期以後のことで、さらに日本の隅々まで白米が食べられるようになったのは、戦後になってからとされている。つまり明治期における白米は「憧れ」の対象でありこそすれ、決して「馴染んでいた」というわけではなかった。

実のところは、「兵隊に行けば、『白いおまんま』がたっぷり食える」という幻想の部分が大きく、それだからこそ、パンばかり食わせるわけにもいかなかったという側面もあるのだろう。それだからこそ、パワハラの極致のような軍隊式生活にも耐えられたのだ。

というわけで、戦後になって初めて「白いおまんま」がたっぷり食える時代になったわけなのだが、どういうわけか私の小学校時代の学校給食はパン食ばかりだった。それなのに子供たちの中では「白いおまんま食わせろ」という声はほとんど聞かれなかった。

せっかく白米がたっぷり食えるようになったのに、 逆に「白いおまんまへの憧れ」が薄れたので、パン食がたやすく刷り込まれた。そして「米離れ」につながり、さらに「米あまり」の時代となったのである。インスタント食品ばかり食う人間も増えて、再び脚気が増え始めたと伝えられる。

ちなみに我が家は玄米食である。

 

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2018年9月14日

やっぱり酒は体によくないらしい

ちょっと前のニュースだが、「1日缶ビール 1本より多く飲むと寿命は縮む 英研究」というのがある。従来は「適度の飲酒は健康によい」と言われていたが、英国での研究によると 1日に缶ビール 1本分以上のアルコールを摂ると、寿命は縮む傾向があるのだそうだ。

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適度な飲酒は善玉コレステロールを増やして血管が詰まるのを防ぐので、心臓発作のリスクを低下させると言われてきたが、この効果はその他の循環器系疾患を引き起こすリスクと相殺されてしまうらしい。また乳がんや痴呆症との関連も指摘されるという。

私はどうしても長生きしたいからというわけではないが、2007年 8月の「酒との付き合いの変化」という記事で書いたように、若い頃と比べると酒の量が格段に減っている。この記事では、"以前は「週に一度の休肝日」なんて、不可能だと思っていたのだが、最近は週の半分は、一滴の酒も飲まないようになった" と書いている。

そしてこの記事から 11年ちょっと経った今では、週に 1度も飲まないことまである。このブログを始めた頃は、日本酒やウィスキーをちびちび飲みながら書いたりしていたのだから、自分でも信じられないほどの変化だ。

出張先のホテルで、「たまには缶ビール 1本ぐらいいいか」と思い、自動販売機で買ってきて飲み始めても、飲みきらないうちに寝てしまうこともある。それどころか、部屋の冷蔵庫に入れっぱなしのまま、飲むのを忘れて寝てしまうことまである。どうしても飲みたいということがなくなってしまったのだ。

11年前の記事ではさらに、次のように書いている。

「あんなに元気そうだったのに」という人が、急に死んだり、倒れてしまったりということがある。そうした人は、大抵酒好きだという印象がある。ある時期まで、豪快に酒を飲んで陽気に振る舞っていた人が、急に体をこわしてしまうというのをよく聞く。

逆に、年を取ってもしっかりしているのは、あまり深酒をしない人に多い。また私の知り合いの中で、80代半ばになっても脳ミソがボケずに、若い連中と丁々発止のやりとりができるというのは、ほとんど酒を飲まない人ばかりである。

私としては、とくに長生きなんかしなくてもいいが、死ぬまでボケずにこのブログを更新し続けたいので、酒の量はこのまま減るにまかせていこうと思っている。

 

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2018年9月13日

「てさかはちゃ」という魔法の呪文

私が家から出かける時に、いつも唱える魔法の呪文がある。「てさかはちゃ」という呪文だ。これはオカルト的唱え言ではなく、忘れ物をしないための具体的な呪文である。

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これは出かける際の持ち物などの頭文字で、意味は以下のようになる。

て: 定期入れ
さ: 財布
か: 鍵 (キーホルダー)
は: ハンカチ
ちゃ: チャック (ズボンのチャックが閉じてあることを確認)

最後の「ちゃ」がご愛敬だが、私のようなうっかり者には、この確認が欠かせない。この呪文は妻の実家から伝授されたもので、既に亡くなった義母が義父の出勤前に「あなた、『てさかはちゃ』した?」なんて言っていたもののようだ。ということは、義父もかなりのうっかり者なのか?

これは私が受け継いでからしばらくすると、後ろにもっといろいろなものがプラスされ、一時は「てさかはちゃ、とてぃめめてけ」なんて、長ったらしい唱え言になっていた。新たにくっついたのは、「と(腕時計)、てぃ(ティッシュペーパー)、め(眼鏡)、め(名刺入れ)、て(手帳)、け(ケータイ)」である。

いやはや、勤め人をしていた頃は結構な数の必需品を持ち歩いていたものだと、今振り返って我ながら驚く。そして時が移った最近は、付け足された後半が消えて、オリジナルに戻ったというわけだ。

オリジナルに戻ったのは、次の事情による。

腕時計は今や Apple Watch になって、iPhone との連携が不可欠であり、iPhone はもう、手から離れないぐらいの必需品なので、この 2つのアイテムは、わざわざ呪文で唱えなくても忘れようがなくなった。さらにティッシュペーパーも、鼻のアレルギーが昔ほどひどくなくなったので、必需品というほどでもなくなった。

眼鏡に関しては、老眼気味になり始めた昔はデスクワークの時だけに必要で、普段はかけなかったので、呪文にして唱えないと忘れがちだったが、今では常にかけているので忘れようがない。2つめの「め の名刺入れは、最近は名刺交換をあまりしなくなったためバッグの奥に入れっぱなしなので、これも忘れようがない。

さらにメモやスケジュール管理、住所録などはすべて iPhone で済ませているので、紙の手帳(システム手帳と "「超」 整理手帳" を長年使っていた)は持たなくなった。ケータイは iPhone になったので、前述の通り忘れる方が難しい。というわけで、私のポケットは昔ほど膨らまなくてよくなったのである。

さらに「定期入れ」というアイテムも、昔は文字通り「定期券」というものを入れていたのだが、今は Suica を iPhone に登録してあるので、「定期入れ」というより 「運転免許と各種メンバーカード入れ」 になってしまった。そのうち運転免許やその他のカードもすべて iPhone に登録できるようになったら、これも要らなくなる。

キャッシュレスが当たり前になってクレジットカードなども iPhone に登録するようになってしまえば、ご大層な財布も要らなくなるだろう。「立派な長財布を持つようでないと、金持ちになれないよ」なんて言う人もいるが、「金持ちになるより、身軽になる方がいい」と言うばかりである。

 

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2018年9月12日

私のブログ作法

今回はちょっと「企業秘密」っぽいテーマになってしまうが、私がこのブログの記事を書くときに気をつけている「ブログ作法」みたいなことに触れてみようと思う。

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最もこだわるのは、実は「字数」である。このブログみたいに「毎日更新」というスタイルだと、「ほんのたまにアクセスして、じっくり読む」というよりも、毎日ではないにしろ、「頻繁にアクセスしてさっと読んでくれる」人を「メイン読者」と想定してしまう。長時間かけてじっくり読み込む覚悟を決めて来てくれる人のことは、あまり考えていないのだ。

かく言う私も、しょっちゅう読みに行くブログは、あまり長文でないものが多く、せいぜい 1,500文字が限度だ。そのくらいだと、2〜3本まとめ読みしてもそうは疲れないが、それを大きく超える長文はよほど退屈させない内容でない限り、正直言って根負けしてしまう。「後で読もう」なんて思っているうちに忘れてしまうのが関の山である。

というわけで、私のブログもできるだけ 1,200〜1,500文字程度の分量に抑えてある。20世紀的な言い方だと、400字詰原稿用紙でぜいぜい 3〜4枚というところだ。

書いているうちに興が乗りすぎて、つい長くなってしまうこともあるが、そんな場合は公開する前に推敲して、徹底的に文章を削る。ということは、つい長文を書いてしまうとそれだけで時間がかかり、さらに推敲に倍ぐらいの時間がかかるので、初めから「できるだけ簡潔に」を心がけて時間の節約をしている。何しろ毎日のことなのでね。

そして、これはブログの世界ではごくフツーのスタイルになっているが、パラグラフごとにほぼ 1行分ぐらいのスペースを空ける。そして 1パラグラフはできれば 2〜3センテンスにとどめ、PC の標準画面で 7〜8行以上にわたる長いパラグラフには絶対にしない。

これは、50歳を過ぎてやや老眼気味になってからブログを始めた私の特殊事情かも知れない。とにかく細かい字が長々と連なるパラグラフで、しかも全体がだらだらと長文だったりするテキストを PC 画面で読まされるのは、目が疲れて付き合いきれないのだよ。自分が「堪らんなあ」と思う苦行は、読者にも強いたくない。

文体としては硬からず柔らかからず。これは「中間的」という意味じゃなく、硬軟両方の文体を意識してない交ぜにする「折衷主義」で、ちょくちょく口語体を交えちゃったりもする(こんな具合にね)。これはモロに私自身のパーソナリティから来ることなので、そんなヤツと思って付き合っていただきたい。

それから内容だが、これはもう、親サイトが「庄内拓明の知のヴァーリトゥード」というぐらいだから、「禁じ手なし」で、興味が向けばどんなことでも書く。だから私のブログには「専門分野」というのがない。強いて言えば、「言葉」にこだわった内容というのが多いかもしれず、時には自分で「アスペルガー 1步手前」と言うほど意固地になったりもしてしまう。

ただ、「我ながらやりすぎかな」と思ったりした場合は、翌日か翌々日は解毒剤代わりにごく軽いテーマで書いたりすることも多い。何日にも渡って執念深くこだわりすぎると、何より書いている自分の方が疲れてしまうからね。何度も言うが、何しろ毎日のことなので。

 

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2018年9月11日

機内サービスで「ビール」 は「ミルク」と間違えられやすい

40年近くも前のことだが、当時務めていた会社の上司とヨーロッパに出張した時、その上司がルフトハンザの機内サービスで「ビール」を注文したのに「ミルク」を出されたことがある。

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彼は日本国内でこんな間違いをされたら、確実に「馬鹿にしとるんかい!」と激怒するタイプだったが、ドイツ人スチュワーデスだらけのルフトハンザ機内では一言も文句を言わず、おとなしくミルクを啜っていた。日本国内から一歩出ると、借りてきた猫になってしまうオッサンは結構多い。

そして実は、「機内サービスでのビールとミルクの聞き違い」は、かなりよくあることらしい。ググってみると、結構な数のページがヒットして、複数のスチュワーデスのブログにも、「聞き違いの定番」として書かれていたりする(参照 1参照 2)。

日本人スチュワーデスは聞き違いの理由として、「ビールください (ビー ルク ダサイ)」と「ミルクください(ミ ルクク ダサイ)」が紛らわしいなんて書いたりしている。しかし外国人スチュワーデスには "Beer, please." みたいに言う("please" を付けることを知らないぶっきらぼうな日本人も多い)ので、聞き違いの理由は別にある。そしてその理由は、私には前述の 40年近く前の段階で既にわかっていた。

その上司は英語がまったく苦手で、自信なげに恐る恐る小声で「ビア」と言う。すると「ビ」が明確な破裂音にならず、常にエンジン音の響く機内では、まろやかな「ミ」に聞こえてしまう。さらにまともに口を開かずボソボソ言うので、当人は「ビア」と伝えたつもりが、「ミウ」に近い音としてしか聞こえないのだ。

そして "milk" をカタカナ英語の「ミルク」 でない、ちゃんとした英語発音で言うと、最後の "k" は普段は「聞こえない音」になりがちなので、日本人の耳には「ミウ」みたいな音にこえる。 (最後の子音はフランス語ほどじゃないがあまり明確には発音されず、後に母音が続くとリエゾンされることが多い)

つまり英語の苦手な日本人のオッサンが恐る恐る言う「ビア」は、客観的にはほとんど「ミウ」という音に聞こえてしまい、その音を欧米人スチュワーデスが "milk" に脳内変換してしまうのは、ほとんど自動的なメカニズムなのだよ。あまり自然なプロセスだから、聞き直そうという発想すら浮かばない。

欧米人にカタカナ英語の「ミルク」は通じず、「ビア」の言いそこないの「ミウ」の方がずっと "milk" と思われるのは、「アップル」と言っても全然通じなくて、「アボゥ」と言えば "Apple" に聞こえるのと同じようなことだ。彼らはカタカナで音を聞くカラダになってないからね。

ちなみにスチュワーデスのブログを検索しても、こうした「聞き違いのメカニズム」を的確に指摘しているページは見当たらない。私の知る限り、日本人スチュワーデスってほぼ全員が「カタカナ英語」(あるいはもっとスゴい「ひらがな英語」)だから、このことに気付かないのも無理もないのだろうね。

結論。日本人のオッサンは妙に緊張して恐る恐る「ビア」なんていうより、思いっきり開き直って「ビール!!」という方が、通じる可能性はずっと高い。

【付記】

ここでは、あえて political correctness を無視して「スチュワーデス」と書かせていただいた。何しろ 40年前のエピソードから入ったので。

というわけで、「CA と言うべきでは」 みたいなコメントは不要なのでよろしく。(CA って和製英語だし)

 

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2018年9月10日

「消すやつ」でいいよね

1ヶ月近くも前の話で恐縮だが、emi さんのブログに「消すやつ」という記事がある。「板書を消すやつ」を何と称するかというお話だ。

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日本語では長らく「黒板消し」と言い習わしてきたが、最近はホワイトボードが多くなったので、その名称が面倒くさいことになっている。

「黒板消し」をそのまま踏襲する人も結構多いが、それじゃおかしいってわけで、「白板消し」と言ったり「ホワイトボード消し」と言ったり「ボード消し」と言ったり、はたまた「クリーナー」なんて言う人もいたりする。

私はといえば、その辺の使い分けがたまらなく面倒なので、昔から単に「消すやつ」で通してきた。板書していて間違えた時なんか、「あれ、『消すやつ』どこ?」 なんてつぶやいたりする。黒板を消すジェスチャーをしながら「消すやつ」と言えば、一目瞭然だ。

そして emi さんのブログ記事のタイトルがまさに「消すやつ」だったので、何となく嬉しくなってしまったわけだ。

この「消すやつ」というのを、まんま英語に直訳してしまうと "eraser" となって、和英辞書的には「消しゴム」の英訳としてこの言葉が表示されることが多い。一節には、英国では "rubber"(「ゴム」 のことね)と呼ぶ人が多いらしいが、まあ、米国では大抵 "eraser"(イレイサー)だよね。

で、ここからが emi さんの「思わず膝打つ」指摘なのだが、"事の発端は、「消しゴム」だろうな。/あそこで 「ゴム」方面に行ってしまったことが、後々こうして厄介な問題を生んだ。/なんでそんなに素材を言いたくなっちゃったかなぁ" ということになる。

なるほど、英語なら 「消しゴム」だろうが「黒板消し」だろうが「ホワイトボード消し」だろうが、単純に "eraser" —「消すやつ」で済んで、面倒がないのだ。

英国では「消しゴム」が "rubber" なら、板書を消すやつは "felt" だったりするのかなんて思ったが、調べてみるとやっぱり "rubber" でいいんだそうだ。

そうか "rub" という動詞は 「こする」ってことで、そこから「ゴム」が "rubber" になったんだったよね。だから、黒板消しも "rubber"(こするやつ)でいいのか。

いずれにしても、日本でもこの「消すやつ」を非公認のポジションから解放して、広く認証してしまえばありがたいよね。私なんかも堂々と胸を張って使えるようになる。

さらにここからが私の庄内生まれの血が騒ぎ出すところなのだが、本当は「消すやつ」なんて言うより「消すな」(「な」 にビミョーなアクセントをおく)と言う方が、個人的にはしっくりくるのである。これは庄内弁で「消すモノ」という意味で、"Don't erase." (消してはいけない) ではない。

この「な」は、とても汎用性がある。「あんめな」と言えば「甘いモノ」ということで、主に飴ちゃんのことだし、「はっこな」と言えば「冷たい(ひやっこい)モノ」 ということで、夏に嬉しいアイスクリームとか、かき氷とか冷たいお茶などを指す。

極めると「あだまあっちぇな」なんて用例があり、「頭の熱いやつ」ということだ。ただ、庄内弁の「頭が熱い」は、ハードボイルドではなく、常にトンチンカンな人のことを指す。「冷静」の反対だが、中途半端に「ほろアツい」のだね。

 

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2018年9月 9日

「即心即佛」と「非心非佛」

本当に本当に久しぶりの『無門関』ネタ。今回は第三十則の「即心即佛」と、三十三則の「非心非佛」について書いてみる。

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「即心即佛」(心がそのまま仏である)も 「非心非佛」(心も仏もない)も、馬祖大師という唐代の名僧が説いた言葉である。フツーの理窟で考えれば、よくまあ、こんな矛盾したことを同一人物がいけしゃあしゃあと言えたものだということになるが、そのあたりが禅の禅たるところなのだ。

第三十則は、大梅という僧に「如何なるか是れ佛」(佛ってどんなの?)と問われた馬祖大師が「即心即佛」と答えたという、単にそれだけのことだ。馬祖大師という人はわかりやすく禅を説いた人と伝えられているが、まあ、何しろ禅のことだから、わかりやすいといってもせいぜいこんなものである。

ちょっと翻訳してみれば、「佛を他にあるものと思って探し求めても見つからないよ。佛は己の心そのものじゃ」と言っているみたいなのだが、いきなりそんなこと言われてもうろたえてしまうだろう。それを「なるほどね」と受け入れるためには、結構な修行を積まなければならない。

とはいえ「そのままの心がそのまま佛」ってことは、実は修行なんて積まなくても、元から「心が佛そのもの」に変わりはなくて、それを迷うことなく認めることができれば OK なのだ。「元からそうなんだよ」というのは、「後になってやっと悟る」もののようなのである。でもまあ、悟ろうが悟るまいが、「元々そうなんだよ」ってことだから、嬉しいっちゃ嬉しいわな。

ところが第三十三則では、「非心非佛」という強烈なアンチテーゼを食らわされる。「何だよ、さっき『元々が佛そのもの』って言ってくれてたじゃん!」なんて駄々をこねても、禅というのは厳しいもので、警策でぶっ飛ばされるのがオチだ。

そこで、「はいはい、わかりましたよ。心も佛もないものなのよね。はいはい。さっきは『そのまま佛』って言ってたくせに、ブツブツ」と、渋々座禅しているうちに、いつになるかわからないけど、「心も佛もないけど、そのまま佛なのよね」という悟りが湧いてくるのだろう。

ところで、Google で画像検索すると、世の中では「即心即佛」の方が人気があって、書にもよくされているが、「非心非佛」の方はあまりポピュラーじゃないようなのだ。

私としては、「即心即佛」のテーゼと「非心非佛」のアンチテーゼがワンセットになって、あっと驚く「悟りのアウフヘーベン」に飛躍するような気がしていたのだが、どうも禅の世界というのは単純な弁証法を超越しているみたいで、「どっちから入っても、悟る時は悟るさ」ってなもののようなのだ。

まあ、その悟りにもいろいろなレベルがあるのは、11年前に「十牛図解釈」で触れたとおりである。(十牛図のビジュアルは、こちら

 

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2018年9月 8日

私が e スポーツのオリンピック種目化に反対する理由

e スポーツ」がオリンピック種目として採用されることに関して、賛成・反対の論議が盛んになっている(参照)。昨日だったか一昨日だったか、ちらっと見たテレビ番組でもタレントやスポーツ選手がそれぞれの意見を述べていた。

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驚いたのは、何とかいう元プロ野球選手が「反対」を表明していたことである。彼が反対なのは、「そもそもその言葉、今日初めて知ったし、そんなのスポーツじゃない」からだという。今日初めて知ったことについて、テレビで賛成だの反対だの、よく言えるものだと啞然とした。

こうした、いわば「好きか/嫌いか」だけで物事を判断するタイプというのは、飲み会では楽しいだろうが、議論の場にはいて欲しくない。真摯な態度としては、「知ったばかりのことなので、現時点では賛成か反対かを表明できない」と言うべきだったろう。自分の好き嫌いは、脇に置いといて。

で、私の意見を述べるとすれば「反対」である。その理由は「e スポーツがオリンピック種目としてふさわしくない」というようなことではなく、オリンピックはこれ以上際限なく種目を増やし続けるべきではないということだ。それには「貴金属の確保」という問題も含まれる。

これ以上「いいわ、いいわ」で種目を増やし続けたら際限がない。幸いなことに e スポーツは、これまでのコンベンショナル・スポーツとは明確に一線が引けるから、オリンピックとは別の次元のものとして、勝手に発展すればいいと思う。自動車レース(F1、ラリーなど)はずっとその路線で独自のステイタスを作り上げているし、e スポーツもその方向性でいけるはずだ。

貴金属の確保という問題に関しては、2020年の東京オリンピックでも、銀の確保の見通しがまだ立っていないと報じられている(参照)。銀は金メダルの地金(金メダルは、銀にメッキしたもの)としても使われるので、桁違いの量が必要になるのだ。この上まだ種目が増え続けたら、資源の確保にも関わる問題になりかねない。

いずれにしても、昨今のオリンピックの過度の商業主義化は、規模の拡大によって必然的にもたらされたものだ。規模をさらに拡大し続け、さらに e スポーツなんかが加わったりしたら、どんなにケバいものになるか想像もつかない。

あるいは、オリンピックがとてつもなく大規模でケバケバしいものになりすぎて、制御不能に陥り、自滅してしまうのを待つという手もあるかもしれないけど、そこに至るまでのプロセスが鬱陶しすぎる。

 

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2018年9月 7日

"LED" と「発光ダイオード」が、頭の中で結びついてなかった

我が家は省エネにはかなり気を使っていて、屋根には太陽光発電パネルを載せているし、照明もいち早くすべて LED に置き換えた(参照 1参照 2)。ところが私としたことが迂闊にも、”LED” というのが何という言葉の省略形なのか、ずっと無頓着でいたのである。

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なにしろ頭の中が極端な文系なもので、「えぇと、”longlife Electrical Device" か何かかなあ、いや、そんなわけないか」なんて思いつつ、今さらのようにお気軽にググってみて愕然とした。”Light Emitting Diode" とあるではないか。思わず「え、LED って、発光ダイオードのことだったの!?」と、小さく叫んでしまったよ。

「発光ダイオード」というものについては、言葉として知ってはいた。2014年に 3人の日本人科学者(ごめん、名前忘れた)が、「青色発光ダイオード」の開発でノーベル物理学賞を受賞したというニュースもちゃんと知っていた。しかしそれは、「何だか知らないけど、工業分野で画期的なことなんだろうなあ」ぐらいに思っていただけで、自分の家で毎日使っている照明にリンクしているなんて、考えもしなかったのである。

こんなこと、知っている人にとっては当たり前すぎるほど当たり前のことで、知らない者がいることの方が信じられないぐらいのものなのだろう。しかし私ときたら、日頃、周りには「tak さん、すごく物知りね」なんて言われているくせに、理工方面のことについては、かくの如くの無知蒙昧なのだ。

友人に家電メーカーでずっと製品開発を担当してきた人間がいるが、彼と話をしていると、その理詰めのアプローチに新鮮な驚きを感じることがが多い。彼にとっては当たり前の論理展開に私がいちいち感動するものだから、彼は時々戸惑ってしまうことすらようなのだ。

しかし彼は彼で、私の文系的な話を「そんな考え方は初めて聞いた」なんて感動するので、お互い様である。

 

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2018年9月 6日

災害列島と化した日本

昨日は新幹線を乗り継いで熊本に着き、ホテルの天然温泉で疲れをいやして気持ちよく眠りについた。そして早朝に起きてニュースと天気予報を確認しようとテレビを点けると、何やら異様な光景が映し出されている。北海道だという。

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初めは台風 21号崩れの低気圧が大雨をもたらしたのかと思ったが、どうやら様子が違う。しばらく聞いて、ようやく大地震があったのだと知った。反射的に「今日の現場が九州でよかった」などと身勝手なことを思ってしまったことをお許しいただきたい。北海道が一刻も早く災害から立ち直ることを祈る。

近頃の日本列島は災害列島と化してしまっている。昨年暮れからのことを思い出してみても、冬には記録的な低温と豪雪被害が相次いだ。東京のレインボーブリッジで多くの車が立ち往生したことは、もう忘れられているかもしれないが、前代未聞のことだった。

さらに島根や大阪で大きな地震が起き、夏は「天災」としか言いようのない猛暑となった。その真っ最中に西日本豪雨で 200名以上の死者が出て、さらに今回続けて起きた台風 21号と北海道の地震である。

今年はまだほぼ 4ヶ月が残っているのだから、人々はこの先、さらに何が起きるかわからないという不安を抱いている。本当に今度の冬まで豪雪になって交通が麻痺したりしたら、目も当てられない。さらに噂の「南海トラフ巨大地震」も、そう遠くないうちにほぼ確実に現実化するのだろうから、不安の収まる隙がない。

人間というのは、災害が来ることなんて普段は忘れているからフツーに生活できる。こんなにちょくちょく災害が報じられると、「正常性バイアス」のレベルが低くなって、用心だけはできるかもしれないが、その前にストレスは確実に溜まってしまう。ささやかな願いとして、少しは間隔を開けてもらいたいものだ。

 

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2018年9月 5日

台風 21号で、関空がエラいことになって

一昨日の記事(参照)でも書いたように、仕事の本番は明日なのだが、移動日の今日は新幹線を乗り継いで熊本までやってきた。当初の予報では、台風 21号は今日の 5日が危ないということだったので、初めから飛行機便を避け JR の切符を手配していたのだ。

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実のところは、台風のピークが今日だったりしたら、いずれにしても新幹線だって動かなかっただろうが、まあ、台風が通り過ぎても今さら飛行機便を手配してもお高く付いちゃうだろうから、当初の予定を変えず、はるばる陸路でやってきたわけだ。長旅は疲れたけど。

というわけで、私は初めから羽田空港から飛行機が飛ぶなんてことを当てにしていなかった。しかし台風の進路により近い(というか、モロに進路上の)関西方面では、現実にあんなにまで大荒れになって、「暴風雨と高潮」に最大限の警戒が呼びかけられていたというのに、わざわざ空港まで行っちゃって缶詰状態になった人が何千人もいたというのである。当事者の方々には悪いけど、ちょっと信じられない思いがした。

まあ、全員があの海の上の細長い橋を渡って行ったというわけじゃなく、他の空港から関空着の便で来て降ろされちゃったという人もいるのだろうが、いずれにしても着陸すら危険なんだから、それは少数だったろうと思う。

Twitter でも「あんな日に空港に行っても、飛行機が飛ぶわけないじゃん!」と、かなり批判的な書き込みが多いのだが、私としては、関空が早いうちに「空港閉鎖」という措置を取らなかったのが、より大きな問題だと思っている。

要するに、関空は「最強台風」を甘く見ていたとしか思われないのである。「通り過ぎてしまえば離発着も可能だろう」とか、「運休が多発したら、莫大な損害になる」とか、ゼニカネ問題の思惑が働いて「何とかなるだろう」と考えてしまい、対応が遅れたのだろう。

先日の西日本豪雨でも、「ほとんどの住民は避難指示が出ても逃げない」ことが問題になった。これは「正常性の偏見(normalcy bias)」——私は今後、これを「正常性バイアス」と呼ぶことにしたい —— に邪魔され、最後まで避難をためらって被害に遭ったケースが多かった。

この正常性バイアスが、空港運営者にもあったのだろう。これは抜本的に考え直さなければならない問題だと思う。外国だったら「飛行機が飛ばないことが明らかなのに、安易に旅行客を受け入れて缶詰状態に追い込み、多大なる苦痛を与えた」として損害賠償訴訟を起こされても不思議じゃないケースだと思う。

まあ、「飛行機が飛ばないことが明らかなのに」という点を強調しすぎると、結局「両刃の剣」になっちゃうのだけどね。

 

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2018年9月 4日

「もっともらしく聞こえるけど実はアブない」という話

よく「ストレスが多いと白髪になる」なんてことが言われて、66歳になっても白髪がほとんどない私なんか、「よっぽどお気楽に生きてるんでしょ」なんて言われたりする。

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そんなわけで先々月の Livedoor News にあった「白髪とストレスに因果関係なし!」というニュースは、ある意味歓迎したくなるストーリーではある。「俺だって、少しは苦労してるんだよ」と言いやすくなるからね。

しかしこのニュース、公平に見れば、「おい、それってちょっと迂闊な断定じゃないか?」と言いたくなってしまうのだ。この記事は、ストレスによって白髪が増えるという考えを、以下のように真っ向否定している。


これは真っ赤な嘘である。理由は単純明快で、白髪とストレスには因果関係がないからだ。毛髪や肌を色づかせる物質はメラニン色素だが、白髪はそれを生み出すメラサイトが減少することによって起きる。ストレスとは何の関係もないのだ。

まず「理由は単純明快で、白髪とストレスには因果関係がないからだ」というフレーズが、論理的に幼稚すぎる。「因果関係がないから」ということを「理由」とするには、「本当に因果関係がない」ことを事実をもって証明しなければならないが、この記事はそんなことにはまったく無頓着だ。

「白髪はストレスではなく『それを生み出すメラサイトが減少することによって起きる』と書いてあるではないか」といわれるかもしれないが、その「メラサイトの減少」がどうして起きるかという、「それこそまさに知りたい」という情報については、まったく言及されていない。もしかしたら、メラサイトが減少する要因の一つとして、ストレスが挙げられるかもしれないのに。

「よく『退屈な話を聞いていると眠くなる』というが、睡眠とは視床下部睡眠中枢が働くことによって起きるのであり、『話の退屈さ』とは関係がない」なんて言うのと同列の乱暴な論理である。近年、心と体の密接な関係について研究が進み、多くの病気がストレスなどの心的要因と関係があるとわかってきているのだから、メラサイトの減少がストレスと無関係と言い切るのは、早計すぎる。

もちろん、「ストレスが必ず白髪を生じさせる(ストレスと白髪は 100%の因果関係がある)」というわけではないだろう。それは「ストレスが必ずガンを発生させる」ってわけじゃないのと同様である。しかしだからといって、両者に「何の関係もない」と言い切るのは、医学を専門的に学んだわけじゃない私でも、怖くてできない。「関係ない」ということを証明するほど難しいことはないのだ。

そもそもこんな専門的領域に属するテーマを、大衆週刊誌(元記事は『週刊実話』に掲載されたらしい)が、署名も取材源のクレジットもなく取り上げること自体、「はあ?」というお話だと言うほかない。本来なら多くの臨床例から導き出されなければならない話だが、白髪如きで医者にかかる人は極々少数だろうし、ストレスの数値化も難しいだろうから、データ不足で「よくわからない」と言うべきことなのだろう。

「アヤシ過ぎる話」を信じちゃいけないのは当然だが、「一見もっともらしい話」も、軽はずみに信じちゃいけない。最近は「アヤシい話」が 「もっともらしい体裁」を取ることが珍しくない。

【追記】
「白髪 ストレス」のキーワードでググってみたところ、「ストレスで白髪が増えるは本当だった。 ストレスホルモンを制御する遺伝子が色を作る毛包を変化させる(米研究)」という記事が見つかった。少なくとも論理展開の仕方は、上述の乱暴な記事よりはずっとまともという印象だ。

 

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2018年9月 3日

私は自分で思っているより、さらに強力な晴れ男のようだ

日本に上陸するのが確実な「非常に強い」台風 21号が、4日から急にスピードを上げて、その日のうちに日本海に抜け、5日の朝には北海道の西辺りまで遠ざかるらしい。

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一昨日の当欄で書いたように、私は 5日に仕事で九州に行く予定があり、台風に直撃されたら飛行機が飛ばないだろうからと、念のために東海道新幹線の「のぞみ」と、九州新幹線の「さくら」を乗り継ぎ、8時間近くかけて熊本まで行くことにして、特急券も購入済みだ。ところが 5日未明のうちに台風が抜けてしまうのなら、飛行機が運休になる心配はなくなったとみていいだろう。

「なんだ、これなら飛行機で行くんだった」と拍子抜けしているのだが、今さら新たに航空券を予約してもお高く付いちゃうだろうし、所要時間を調べても熊本市内まで 2時間足らずの違いしかないので、予定通り陸路で行くことにした。2時間足らずの違いしかないというのは、熊本空港から市内までのバスが、結構時間がかかるということもあるのだろう。

それにしても新幹線 2本を乗り継いで、6時間近くも座りっぱなしというのは、ちょっと堪えそうだ。周りからは、「晴れ男のあんたが飛行機で行くんだから、台風も気を利かせてさっさと通り過ぎてくれることぐらい、わかってたでしょうが」なんて言われているが、いやいや、そこまではいくら何でも予測できなかったよ。

まあ、私の晴れ男振りは知る人ぞ知るところのもので、8月 28日付(参照)でも書いたように、本当に自分でも褒めたくなってしまうほどのものなのだが、実は自分で思っているよりも、さらにずっと強力な晴れ男のようなのだ。そう言えば、7月末に福島に出張した時も、台風が急に西に向かうという見たこともない進路を辿ってくれたおかげで晴れたしね(参照)。

いずれにしても仕事の本番の 6日の熊本は、台風もすっかり通り過ぎていい天気になるようである。

 

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2018年9月 2日

「好きな季節は夏!」という子が激減したんじゃあるまいか

関東の学校の夏休みは例年 8月 31日までということだが、今年は 9月 1日、2日が土曜、日曜に当たるので、今日が実質的に夏休み最後の日となったようだ。ただ 8月 31日も含め、夏休み最後の 3日間は雨模様となった。

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「好きな季節は?」と聞かれて反射的に「夏!」と答える子どもの数が、今年は激減したんじゃないかと思っている。例年この時期は行く夏を惜しむメランコリックな気持ちが湧いてきて、それは大人になってもあまり変わらないものだったが、今年に限ってはそんな感傷は微塵もない。「さっさと本格的な秋になってくれ!」と思うばかりである。

この夏の暑さは、本当に「体に悪い」ものだった。熱中症で亡くなる人が半端な数じゃなかったことをみても、それは確実である。2011年の東日本大震災の後、2013年の夏が来るまでの 2年以上、「原発停止で電力不足だなんていうなら、エアコンなんて使わんわ!」と、エアコンのコンセントを抜きっぱなしにしていた私が、何とまあ、この夏は朝からずっとエアコンのスイッチを入れっぱなしだった。

我が家の屋根には 3年前に太陽光発電パネルが乗っかったので、日中の暑い時にはしっかりとエアコンを使ってもまだ売電できる余裕がある。そんなわけで、「自分ちの屋根で作ってる電気なんだから、文句あるか!」ってなもので、省エネ的にはあまり後ろめたさを感じないで済んだ。エアコン使わなきゃ命に関わる暑さだったのだからしょうがない。

中長期予報によれば、9月上旬の気温は最高でも 30度程度で、「猛暑は収まった」ということのようだが、「それって、昔の真夏ぐらいの気温じゃないか!」と言いたくなってしまう。30度がしのぎやすいと感じる体になってしまったというのは、かなり複雑な気持ちのするところである。

 

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2018年9月 1日

茨城県は 2日連続の猛烈な雷雨

茨城県は昨日に続いて、午後に猛烈な雷雨に見舞われている。下の写真は昨日の「和歌ログ」にも使った(参照)ものだが、午後 4時過ぎの、普段ならまだ明るくて見通しもいい時間帯に、クルマのライトを点け、ワイパーをフル回転させて運転した時のものだ。

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近所の奥さんがこの時間帯にスーパーに買い物に出かけていて、あまりの豪雨の恐ろしさに店のすぐ前の駐車場に停めた自分のクルマに戻ることができず、1時間近くも店内をウロウロしたと言っていた。その気持ちよくわかる。私もこの時間帯には、クルマのドアを開けて外に出ようなんて発想すらできなかった。

私の地元ではこの時、落雷で 300軒が停電したといい、この時の雨量が、1時間で 50mm というレベルだったそうである。ちなみに今年の夏は各地で「1時間に 100mm を超える」という雨量が観測されたというが、現場にいたらどんなにすごい雨だったか、想像を絶する。

既に何度も書いたことだが、近頃の天気は極端すぎる。この夏は 40度を超える気温が何度も記録されたし、雨も降らないと言ったら水不足になるまで降らず、降ると言ったら水害になるまで降る。「ほどよいお天気」というのが少なくなってしまった。

来週の 5日頃には、「猛烈な」レベルに発達した台風 21号が上陸しそうだという。実は私は、5日に仕事で九州に移動しなければならず、台風の影響で飛行機が飛ばなかったりしたら一大事なので、念のために早めに新幹線を予約した。東海道新幹線と九州新幹線を乗り継ぎ、8時間以上もかけて移動することになる。

仕事本番の 6日には、「台風一過」で天気の心配はないだろうから、無事に仕事を終えたら飛行機で帰って来ようと思っているが、前日の移動は「じっとガマン」ということになるのだろうなあ。

 

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