「即心即佛」と「非心非佛」
本当に本当に久しぶりの『無門関』ネタ。今回は第三十則の「即心即佛」と、三十三則の「非心非佛」について書いてみる。

「即心即佛」(心がそのまま仏である)も 「非心非佛」(心も仏もない)も、馬祖大師という唐代の名僧が説いた言葉である。フツーの理窟で考えれば、よくまあ、こんな矛盾したことを同一人物がいけしゃあしゃあと言えたものだということになるが、そのあたりが禅の禅たるところなのだ。
第三十則は、大梅という僧に「如何なるか是れ佛」(佛ってどんなの?)と問われた馬祖大師が「即心即佛」と答えたという、単にそれだけのことだ。馬祖大師という人はわかりやすく禅を説いた人と伝えられているが、まあ、何しろ禅のことだから、わかりやすいといってもせいぜいこんなものである。
ちょっと翻訳してみれば、「佛を他にあるものと思って探し求めても見つからないよ。佛は己の心そのものじゃ」と言っているみたいなのだが、いきなりそんなこと言われてもうろたえてしまうだろう。それを「なるほどね」と受け入れるためには、結構な修行を積まなければならない。
とはいえ「そのままの心がそのまま佛」ってことは、実は修行なんて積まなくても、元から「心が佛そのもの」に変わりはなくて、それを迷うことなく認めることができれば OK なのだ。「元からそうなんだよ」というのは、「後になってやっと悟る」もののようなのである。でもまあ、悟ろうが悟るまいが、「元々そうなんだよ」ってことだから、嬉しいっちゃ嬉しいわな。
ところが第三十三則では、「非心非佛」という強烈なアンチテーゼを食らわされる。「何だよ、さっき『元々が佛そのもの』って言ってくれてたじゃん!」なんて駄々をこねても、禅というのは厳しいもので、警策でぶっ飛ばされるのがオチだ。
そこで、「はいはい、わかりましたよ。心も佛もないものなのよね。はいはい。さっきは『そのまま佛』って言ってたくせに、ブツブツ」と、渋々座禅しているうちに、いつになるかわからないけど、「心も佛もないけど、そのまま佛なのよね」という悟りが湧いてくるのだろう。
ところで、Google で画像検索すると、世の中では「即心即佛」の方が人気があって、書にもよくされているが、「非心非佛」の方はあまりポピュラーじゃないようなのだ。
私としては、「即心即佛」のテーゼと「非心非佛」のアンチテーゼがワンセットになって、あっと驚く「悟りのアウフヘーベン」に飛躍するような気がしていたのだが、どうも禅の世界というのは単純な弁証法を超越しているみたいで、「どっちから入っても、悟る時は悟るさ」ってなもののようなのだ。
まあ、その悟りにもいろいろなレベルがあるのは、11年前に「十牛図解釈」で触れたとおりである。(十牛図のビジュアルは、こちら)
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