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2018年10月に作成された投稿

2018年10月31日

精神年齢の他に「主観年齢」ってものがあるらしい

今年の夏の誕生日で 66歳になったが、他人からは「実年齢より 10歳は若く見える」と言われることがある。まんざらお世辞というわけでもない証拠に、10歳以上年下のオッサンにタメ口聞かれるのはしょっちゅうで、実年齢がバレた途端に「えっ、そんなに先輩だったんですか?」なんて恐縮されたりする。私としてはちっとも気にしてないのだが。

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同年代の連中に比べると体力的にも無理は効く方で、結構重い物でもヒョイヒョイ運ぶし、頭の働きもそんなにはジジ臭くなっていないんじゃないかと思っている。「いつまで丈夫でいられるか」を案じるより、「このままだと、いつまで生きちゃうか、知れたものではない」なんてことの方が心配になったりしている。

とはいえ近頃は体力の衰えが少しは気になり始めていて、自転車でヒルクライムをして「今日はかなり調子よく登れたな」なんていい気分でタイムを確認した途端に、「えっ、こんなにかかっちゃってたの?」とがっかりすることもある。真夏の草刈りなど、一日中肉体労働をすると、夕方過ぎには気絶の如き眠りに落ちている。

「きっと精神年齢が若いんですね」なんて言われたりすることもあるが、あながちそういうわけでもない。そもそも年齢はあまり気にしたことがないし、ということは当然ながら、自分の「精神年齢」なんてものも考えたこともない。

そんな風に考えていたところ、"老化を左右するのは実年齢より 「主観年齢」、 健康にも影響か" という記事に目が止まった。「主観年齢」 という言葉は初めて聞いたが、「精神年齢」は気にしたことがないので、「主観年齢」という言葉の方がしっくりくる。

この種の話題は往々にして「気持ちの持ち方が大切」「ポジティブに生きよう」なんて、単なる精神論みたいなものに陥りがちで、科学的な実証は問題外ということが多いが、この記事はデータに基づいたものという印象だ。筆者もちゃんとした科学ライターのようだし。

研究によると、大半の子どもや若者は、実年齢よりも主観年齢の方が高いが、この傾向は25歳前後で逆転し、主観年齢が実年齢よりも低くなる。そして 30歳までに全体の7割が実年齢よりも若いと感じるようになり、それ以降は差異が広がる。

「ふぅん」と思うばかりである。確かに私も、実年齢よりは若いと感じてはいるが、「じゃあ、自分では何歳ぐらいに思ってるんだ?」と聞かれても答えようがない。時には 25歳ぐらいのような気がする一方で、きちんと還暦過ぎという気がすることもある。

記事は「一部の心理学者は、低い主観年齢は自己防御力の一例で、加齢の否定的なステレオタイプから自分を守ろうとしているのだと言う」としている。ふぅむ、なるほどね。「主観」と言っても、自己意識というのはなかなか一筋縄ではいかない。

 

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2018年10月30日

皇室の「西暦使用」について

朝日新聞が今さらのように "出会いは「2012年…」眞子さま会見に保守派が衝撃" という記事を伝えている。昨年 9月の眞子様の婚約発表記者会見で、出会いの日付を西暦のみで語られたことに、保守派が衝撃を受けているのだそうだ。

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これに関連して「知識連鎖」の 10月 18日付でも触れられていて、保守派の加地伸行氏が 『月刊 Hanada』で "「これには、老生 (ろうせい)、ショックを受けた」 としていました" とある (参照)。天皇陛下は日付を表現するのに、元号のみか、元号と西暦の両方を使うかされているが、西暦だけで語られたことが衝撃だったようなのである。

「知識連鎖」 のこの記事で注目すべきなのは、保守派による皇室批判が珍しくないとしている次の件である。

ただ、保守らしさというところで不思議なのが、皇室にケチつけるのが問題ないということ。冒頭の記事を読む限り、今回は一応皇室を強く批判しなかった加地伸行さんですけど、特に保守派にとって皇室批判はタブーというわけではないのです。例えば、最近ですと、日本会議の小堀邦夫代表委員が、天皇陛下の慰霊の旅は意味がないし、靖国神社を潰すための行為だと批判しています。

この辺のことについては、半世紀近くも前の三島由紀夫の発言と、靖国神社宮司の最近の発言が、同じ根っこをもつと感じられ、私も今月 9日の「天皇のあり方に関する自家撞着があるか、ないか」という記事で次のように触れた。

右側の少なからぬ人たちは、口では 「天皇、天皇」とあがめ奉りながら、その実、天皇に非常な不満を抱いている。上述の靖国神社宮司の発言は、それを象徴するものだ。

いわば天皇論に関して自家撞着に陥っているわけだが、この自家撞着は戦前の価値感に立ち返れば一挙に解決する。「教育勅語」問題に代表されるような彼らの「戦前回帰欲求」は、根本的にはここに由来するとみて間違いない。

元号使用ということに関して言えば、このブログの親サイトである 『庄内拓明の知のヴァーリトゥード』 にブログの目次を載せているが、私だって結構な伝統派だから、しっかりと元号をメインに表示している(参照)。文句あるかってなものである。ただ、西暦の使用に関していちゃもん付けるつもりはないので、安心していただきたい。

当サイトでの元号使用に関しては、10年近く前に「ハンコ・元号・縦書きについて」という記事で詳しく書いている。

 

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2018年10月29日

ハロウィーンのバカ騒ぎと 1970年頃までのクリスマス

本来のハロウィーンは毎年 10月 31日なのだが、日本ではそのことはあまり認識されておらず、雑貨ショップに赤いカボチャが並ぶようになるとだんだん盛り上がって、10月の最終日曜日あたりで爆発するということになってしまったようだ。そして渋谷では爆発しすぎて大問題になっている。(参照

181029私はこれまで、ハロウィーンについて何度か書いている。ざっと挙げてみよう。

ハロウィーンの換骨奪胎 (2007/10/29)
ハロウィーンが、どうやら日本に定着してしまったらしい (2014/10/31)
日本語ウェブページの 5件に 1件以上が "Hallo Ween" と誤記 (2015/10/12)
まだまだ多い "Hallo Ween" という誤記 (2016/10/31)
"Halloween" の語源は "Hallow E'en" であるらしい (2016/11/1)

こうしてみると、ハロウィーンは 10年ちょっと前ぐらいから日本に受け入れられ始め、「よくわからないけど、カボチャの飾りとコスプレのイベントらしい」ということで、近頃ではずいぶん盛り上がるようになった。ただ、本当の趣旨が理解されているとは到底言いがたい。

思い起こせば、クリスマスだってそうだった。戦後になってアメリカ文化がどっと入って来たついでにどんちゃん騒ぎするようになったが、1970年頃までは単にプレゼント商戦とバカ騒ぎの日という位置づけで、クリスマス・イブはいい年した大人がキャバレーで三角帽子をかぶって酔っ払いまくる夜ということになっていたと思う。

その後、クリスマスというものの本来の意義が説き起こされて、「決してバカ騒ぎする日ってわけじゃない」という理解が広がり、少しは落ちついて今の状態になっている。ハロウィーンも、日本におけるクリスマス定着の道筋を繰り返すのかもしれない。

とにかくキリスト教文化がちっとも定着していない土壌で、「なんでもいいから盛り上がっちゃう理由になるイベントの日」ということで採り入れられてしまったので、初めは「よくわからん」ということでしょうがないのだろう。そのうちにだんだん本当のあり方がわかるようになる。

それまでは、渋谷のど真ん中でトラックをぶっ倒してその上に乗っかって騒ぐなんて、「乗りすぎ」のケースも出てくる。そして数年経つと、「あの頃は、わけもわからず、ただ騒ぐだけだったよね」と、ちょっと悔悛の情を交えながら思い出すことになるのだろう。

 

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2018年10月28日

「団塊の世代の年寄り」を否定的教訓として

昔から態度が大きくて迷惑な存在というのは、「年寄り」と相場が決まっていた。東洋経済の 2016年 3月 14日付記事は "「横暴すぎる老人」 のなんとも呆れ果てる実態  暴力、セクハラ、万引き…社会は耐えきれるか" というタイトルで、年末の忘年会で酔っ払ったために帰りの電車を乗り間違え、とんでもない駅に着いてしまった老人が駅員に 「タクシー代を出せ、ホテル代を出せ」 と怒鳴りまくる姿を伝えている。

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態度が大きいことでは老人と双璧と見なされてきたのが、「団塊の世代」である。Yahoo 知恵袋に "団塊の世代ってなぜ 「まわりに迷惑なことをする人」 が集中して存在するのでしょうか?" という相談が寄せられていて、相談者は「お店にくるお客で『面倒なことをする人』『困った人』は団塊の世代が圧倒的に多いです。(その次は高齢者です)」と嘆いている。

注目すべきは、面倒な客のトップは 「団塊の世代」で、次が「高齢者」という指摘である。上の図は、2016年の人口ピラミッドだが、オレンジ色で示された団塊の世代が今は 2年分上に上がり、すっかり 70代に到達した。ということは、団塊の世代と高齢者はついに重なり合ってしまい、「史上最強の迷惑世代」 を形成してしまったことになる。

私は 1952年生まれで「団塊の世代」からは外れるが、いつも彼らの直後を歩んで来たので、自分を「団塊の尻尾世代」と位置付けている。まあ、団塊の世代の「数にまかせた横暴」を一番間近で受け続けてきた世代というわけだ。

文春オンラインに、"内田樹が語る高齢者問題――「いい年してガキ」なぜ日本の老人は幼稚なのか?" という記事があり、その中で次のように語られている。

団塊の世代はとにかく数が多い上に、同質性が高くて、かつ態度がでかいんですよね(笑)。(中略) 僕らの世代に受けたらビッグビジネスになるんですから。だから、どうしてもわがままになる。自分たちのやりたいことをやっていると、世間がついてきてくれる。他の世代との協調性がなくて、自分勝手な集団がそのまま後期高齢者になるわけですからね、介護・医療の現場の方々に多大なご苦労ご迷惑をかけることになるのではないかと心配です。

これは当然の心配事である。若い頃からさんざんわがままでガキっぽかった世代なのだから、老人になったらどんなわがままを言い出すか、知れたものではない。いや、もうそうした現象は世の中に溢れ始めている。

「団塊の尻尾世代」 の私は、これまでは「団塊の世代」の割を食ってかなり損を強いられた世代だと思っていたが、これからは立場が逆になるかもしれないと期待している。今後は、団塊の世代の真似をしないように生きていけばいいのだ。否定的教訓の宝庫がすぐ上にいるのだから、我が身を振り返りやすい。これは案外ありがたいことである。

 

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2018年10月27日

大麻合法化の動きがあるようだが

NewSpere が「カナダに続くか、大麻合法化の可能性のある 6ヶ国」という記事を載せている。2013年、ウルグアイが世界で初めて大麻を合法化し、今年 10月 17日にカナダがそれに次いだ。カナダぐらいの規模の国が合法化したとなると、「他の国々がその流れに乗ることも起こり得る」 というわけだ。

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1960年代後半から 70年代前半ぐらいまでの「ヒッピー文化」最盛期だったら、私も大麻合法化をかなり羨ましく思ったかもしれないが、禁煙して 40年近く経過した今となっては、「煙でムセちゃうだろうしなあ」なんて気がして、ちっともそそられない。そんなものに金を使うのは馬鹿馬鹿しい気がしてしまうほど、枯れてしまった。

逆にいえば、あの頃からおよそ半世紀経った今、世界的な潮流として大麻は、メディカル的にもカルチャー的にも「毒気を抜かれた嗜好品」とみられるようになり、「まあ、個人的に楽しむぐらいはいいんじゃないの」ぐらいの位置付けになりつつあるということなのかもしれない。タバコに関しては妙に甘い日本では、どういうわけか大麻は相変わらず「麻薬扱い」で、結構厳しく取り締まられているが。

上述の記事では、「カナダに続く可能性のある国」として、ニュージーランド、メキシコ、オランダ、南アフリカ共和国、イタリア、アメリカ合衆国の 6カ国が挙げられている。アメリカ合衆国が 6番目というのは、州単位では合法扱いというところもあるものの、国全体としては可能性が薄いとみられているようだ。なにしろ大統領があの男なのでね。

というわけで、私としては例え合法化された国に旅行するにしても、「別にいいわ」という感じなのである。実際問題として、現地でも「俺、ノン・スモーカーだからいらんわ」ってな人が結構多いと思うのだよね。

まあ、大麻を吸うと「ハイになる」なんてことがあると言われているわけなのだが、それって案外「幻想」の部分が大きいと思う。きちんと「ハイになりたい」というなら、大麻に頼るよりちゃんとしたメソッドの瞑想をする方がいい。

 

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2018年10月26日

「にわとりの日」と「鶏の日」

2月 8日は「にわとりの日」ということになっているらしい。Wikipedia によると、「ふだん何気なく食べている鶏肉も命をいただいているという意識を持ち、鶏に感謝することを目的として」制定されたもので、制定主体は「一般財団法人日本記念日協会」となっている(参照)。そんな団体があるとは初めて知った。

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ただそれだけでなく、上述の Wikipedia ページによると、毎月 28日も「鶏の日」ということになっているらしい。日本養鶏協会等が 1978年 6月に制定したもので、こちらの方は鶏肉・鶏卵の消費拡大を目的としているもののようだ。

2月 8日の「にわとりの日」の趣旨は一応もっともらしい気もするが、毎月 28日の「鶏の日」の方は商売優先の臭いがかなり強い。そしてこの Wikipedia ページ自体も、「この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください」との但し書きが付いていて、「何だかなあ」という気がしてしまう。

上の画像は、「トサカモミジ柏店」という店が、「毎月28日はニワトリの日♪唐揚げを1個28円の大特価で販売♪10個食べても280円!」というキャンペーンをしているというニュースだ(参照)。「毎月28日はニワトリの日♪」としているが、Wikipedia によると表記は「鶏の日」になっているんだがなあ。まあ、どうせ「複数の問題」のあるページだから、いいか。

とにかく、「食って食って食いまくれ!」と言わんばかりの「鶏の日」では、にわとりが気の毒になってしまうほどだ。それだから、年に 1度は「にわとりの日」ということにして、感謝・供養をするってことなんだろうか。

私は近頃、鶏肉も含めて肉を食わないことにしているから、何となく遠い世界のことのような気がしてしまうのである。

 

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2018年10月25日

「利休七則」というもの

茨城県の常総市というところにある「いおり庵」という和菓子屋の煎餅と最中が、地元ではやや注目されているようで、最近立て続けに頂き物として舞い込んでくる。これがなかなかおいしい。

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有り体に言ってしまえば、和菓子のおいしさなんていうのは大抵決まり切っていて、きちんと作れば大体みんな同じような味になるもののようだ。ただ、その「きちんと」というのが問題で、いい加減に作るとそれなりのものにしかならない。

で、このいおり庵という店のお菓子は、なるほど「きちんと」作ってあるものという気がする。最中の甘さにしつこさがなく、煎餅もぱりぱりとあっさりかじれる。この「頃合い」というのが大切だ。

「頃合い」の見極めというのは、実はなかなか哲学的なものである。この店の包装紙はシンプルな真っ白な紙に、次のような文句が印刷してある。

茶は服のよきように点し
炭は湯の沸くように置き
花は野にあるように
夏は涼しく冬は暖かに
刻限は早めに
降らぬとも傘の用意
相客に真心を

うぅむ、このシンプルさがいいではないか。これは「利休七則」 というもので、千利休が残した茶道のおもてなしにおける心得の究極であるらしい。

ちょっと浅薄なことを言うが、私は有名な晴れ男のくせに、出かける時は折り畳み傘をいつも用意しているので、この 「降らぬとも傘の用意」 というのは、ちょっと泣ける。あとは、自分のためだけでなく人のためにもさりげなく傘の用意ができるようになれば OK なのだろうが、これって案外難しいのだよね。

幸せになるための哲学とは、ほんのちょっとしたことなのだが、これがなかなか難しい。ただ、難しいと思っているうちは単なる凡人で、これをさりげなくできるようになってしまうと、人生の達人ということになる。

 

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2018年10月24日

「ハピネスの総量は一定」という幻想

私の 10月 19日付の記事 "「夫婦別姓 は、保守派にもメリットがあるだろうに" に、山辺響さんが注目すべきコメントをつけてくれた。「どうもゼロサムゲーム的な発想というか、『誰かが今よりも幸せになることは自分がそれだけ不幸になることだ』と思ってしまう人がけっこういるんじゃないかと思います」というのである。

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これ、鋭い指摘だと思う。仮に明日から夫婦別姓が可能な制度になったとしても、伝統的保守派に具体的な損害が及ぶわけではない。せいぜい慣れるまで違和感がつきまとうというだけの話だ。こんなことで「精神的苦痛への慰謝料」なんて請求する訴訟を起こしたとしても、到底勝ち目なんかない。

ところがこうした問題では、誰かの希望が叶ってハッピーになると、自分はその分だけアンハッピーになってしまうという考えをしてしまう傾向があるようなのだ。世の中の「ハピネス」の総量は一定で、人々はその取り合いをしているかのような発想が確かにある。これはもちろん無意識の産物、つまり「幻想」でしかないのだが、それだけに理性による解決が難しい。

たまたま東洋経済の本日付記事で、"地方を滅ぼす 「成功者への妬み」 のひどい構造  「3つのネチネチ」 で成功者はつぶされていく」 というのを読んだ。「まちビジネス事業家」 の木下斉氏が、地方の 「まちづくり」 ビジネスを滅ぼすのは、次の 「3つのネチネチ」 だと主張しているのである。

  • 事業に予算をいれて潰す

  • 事業を横取りして奪って潰す

  • 風説の流布で人格否定をして潰す

ここではそれぞれの項目の説明をするスペースがないので、具体的な内容を知りたかったら、リンク先に飛んでもらうほかない。ただ、ざっと言ってしまえば、地方では成功しかけた者への「妬み」が生じやすく、その成功を広く共有するためにという「一見美しい名目」でスポイルしてしまうことがあるということだ。

行政が予算を付けて介入し、事業そのものを骨抜きにしてしまったり、「地域の共同事業化」という名目で横取りしたり、甚だしくは、事業を始めた人に関する根も葉もない噂を流して人格否定してしまったりする。案外よく聞く話で、その結果、誰もハッピーにならない。

これらは根っこの部分から説き明かせば、「ハピネスの総量は一定だから、あいつの取り分が増えるだけこっちの取り分が減る」というような、狭い了見から発することである。「これをきっかけにハピネスの総量を拡大させちゃおう」という発想ができないために、その地域ではハピネスの総量が激減してしまうという結果を生じる。

今の世の中で必要なのは、「他者の幸福を祝福する」という度量なのかもしれない。他者の幸福を祝福できるということは、自分の幸福でもあるのだ。米国の大統領のやり方なんかをみていると、その正反対の姿勢を感じてしまう。

 

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2018年10月23日

自分のパスワードが記されたスパム・メール

不意に届いたスパムメールのタイトルに、自分が実際に使っているパスワードが記載されていて、ビットコインを遅れなんて脅迫的内容だったりしたら、かなり気持ち悪い。JPCERT/CC は、実際にそのようなスパムを確認したとして、注意を呼びかけている (参照)。

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実は私の知り合いにもこのスパム・メール (英文) が届いて、かなり焦ったようだ。英語が苦手だったりしたら、「一体何だろう?」 なんてことで、そのまま済んでしまったかもしれないが、彼は英語ペラペラなもので、一気にざっと読めてしまい、"Oh, my God!" ってなことになったらしい。それで自分で必死に調べて、上に紹介したページに辿り着いたわけだ。

対策としては、要するに相手の要求するままにビットコインなんて送っちゃいけないってことと、自分のアカウントに不審なログインがないかを確認すること、そしてパスワードを安全なものに変更することだ。

それにしても、パスワードが外部に漏れてしまうってことは、案外あり得ることなのだね。困ったものだ。定期的にパスワードを変えるという対策は、実際に必要なのだと実感する話である。

 

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2018年10月22日

カボチャはおかずになるか

近頃は日本でもハロウィーンが盛んになっていて、街のあちこちでカボチャの飾り物を見かける。それで思い出したが、先日ラジオを聞いていたら、「カボチャはおかずになるか?」という投書が紹介されて、その番組のキャスター、久米宏は、即座に「カボチャはおかずになりません!」と断言していた。

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彼は、「昭和 20年代生まれは、カボチャとジャガイモはダメなんです!」と続ける。「戦後しばらく食料事情が悪くて、カボチャとジャガイモばかり食べさせられたから、それをおかずにメシを食えと言われてもダメ」なのだそうだ。

そんな決めつけ方をされても、私は昭和 27年生まれで、立派な 「昭和 20年代生まれ」 だが、カボチャとジャガイモをおかずにして、ちゃんとメシが食える。一緒にしないでもらいたいと思って、久米宏の生年月日を Wikipedia で調べたら、「久米 宏 (くめ ひろし、1944年 7月 14日 - )」とある(参照)。念のため複数のサイトに当たっても、そのように表示される。パリ祭の日に生まれたのだね。

ちなみに 1944年といったら、昭和 19年だ。なんだ、「昭和 20年代生まれ」じゃないじゃないか。どうしてこんなところでサバ読まなければならないんだ。もしかして私が聞き違えたのかなあ。いや、そんなことはないと思うが。

まあ、私としても「カボチャは大好きなおかずです」とは言わない。「ないよりマシだから、出されたら喜んで食べる」程度のことだ。私は 「嫌いな食べ物」というのがないのである。「とくに好きってわけじゃない食べ物」なら少しはあるが、大抵のものなら喜んで食べる。ただ、メロンだけはアレルギーがあるので遠慮しているが(参照)。

カボチャやイモ系をおかずにしたくない人というのは、概して「早食い」の傾向がある。とにかくどんどん口に入れては飲み下したがるから、「ほくほく」した食感で水分の少ないものは敬遠しがちのようだ。終戦直後に生まれ育った人というのは、とにかく早く食ってしまいたいという、半ば強迫観念みたいなものがあるみたいで、ああした早食いしにくいものは苦手なのだろうと思う。

私としても、カボチャの煮物が食卓に出ると、食べるスピードがやや落ちる気がする。

 

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2018年10月21日

雪を戴いた富士の姿

今日、甲府方面から中央本線で帰宅する途中、綺麗に冠雪した富士山の姿が見えた。何だかんだ言っても、やっぱり富士山は雪を戴いた姿が一番美しい。

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東海道新幹線に乗っても、天候に恵まれれば綺麗な富士山が見られる。一番見事なのは、三島付近を通過している時に見える姿だ。ただ、夏の間の雪のない富士山は、いくら見事に見えたとしても、やはり「最高の眺め」とは言えない。やはり富士山には雪がなければならない。

昨日、中央本線から見えた富士山は、雪は戴いているものの、上の方の 30% ぐらいの部分なのではなかろうか。頭の辺りがちょこんと見えている程度なので、残念ながらやっぱり「最高の眺め」ではない。

ただ、三島方面からの眺めは南斜面になるので、これほど見事な冠雪ではなかったかもしれず、頭のあたりがちょこちょこっと白くなっているだけだったという可能性もある。さらにあの辺りは手前に工場の煙突が林立しているのが興醒めだし、どこから眺めるのが一番なのか、難しい議論になる。

一節には、1000円札の裏側に描かれている富士山が一番見事だと言われていて、これは「中ノ倉峠展望地」という所からの眺めらしく、本栖湖の近くにあるらしい。私はそこには行ったことがないが、確かに富士山は北の方から眺める方が、ずっと迫力がある気がする。

いずれにしても、人それぞれに ”My best Fuji" というのがあるのかも知れない。何しろ、かなり遠くからでも見える山で、我がつくば周辺からもしっかり見えるので、本当にいろいろな見え方がある。

 

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2018年10月20日

クルマの照明の「ハイ/ロー切り替え」について

読売新聞が "夜間ハイビーム 54%どまり…「他の車に迷惑」" という記事を伝えている。夜間走行する場合、クルマのライトを「原則ハイビーム」にするというのが、なかなか徹底していないのだそうだ。

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私なんぞはつくばのど田舎に住んでいるので、夜の運転はハイビーム(いわゆる「上向き」)をよく使う。そうしないと、行き先が真っ暗でよく見えないのだから、自然そうなる。しかし栃木県警の調査によると、以下のようになる。

栃木県警が、夜間運転でのヘッドライトの上向き使用(ハイビーム)についてドライバーに行った意識調査で、「原則ハイビーム使用」を「知っている」との回答が 7割を超えたにもかかわらず、実際に行っている人が 5割あまりにとどまっていることがわかった。実践しない理由では「まぶしくて他の車に迷惑をかけるから」との回答が多かった。

栃木県警では昨年 4月から「ハイビーム大作戦」という、まるでアニメのタイトルみたいな取り組みをしているのだが、今回の 9月下旬から 10月上旬の調査では、こんな結果が出たという。

調査の結果、先行車も対向車もない状態で走行した車 1129台のうち、ハイビームを使用していたのは 116台。ハイビーム使用率は 10.3%で、今年 4月の前回調査(7.9%)から 2.4ポイント上昇し、過去 4回の調査で最も高かった。特に、県道氏家・宇都宮線 (通称・白沢街道)では、昨年 4月の調査では 0%だったが、今回は 11.0%まで上昇した。

栃木県にしたって、茨城県のつくば周辺同様、夜間は真っ暗になる道路が多いだろうに、ハイビームで走るのはこの程度のようなのだ。真っ暗でカーブの多い道を走る時には、ハイビームを使うと対向車の姿が見えなくても明かりで予測できることが多いので、安全につながる。ただ、目の前に来てもハイビームのままだと眩しくてしょうがないので、こまめな切り替えは必要だ。

実際には、この「こまめな切り替え」が面倒なので、ロービームのまま走っている人が多いのだろうと思う。ハイビームのままだと対向車からパッシングされたりするので、「対向車に迷惑」だからロービームのまま走るという回答が多くなりがちと思われるが、実際には「切り替えが面倒」という意識が大きいはずだ。

「自動運転」なんてことが注目されているが、この「ハイ/ロー」の切り替え程度は、割と簡単に自動化できるだろうと思うがなあ。いかがなものなんだろう。

 

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2018年10月19日

「夫婦別姓」 は、保守派にもメリットがあるだろうに

夫婦別姓ということに関する議論が、ようやく普通に行われるようになってきた。いや、「なってきた」というより「なりかける兆しが見えている」程度のことかもしれないが。下図は、「カイカイ ch」 というサイトの 「夫婦別姓についてどう思う?」 というページからお借りした年代別調査結果で、若い層ほど夫婦別姓に肯定的だが、20〜30代は積極的な賛成がやや少ないという面白い傾向が見て取れる。

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私はこれについては、「一応賛成」だ。8年前には "「夫婦別姓」には消極的反対の私" という記事を書いているが、社会的な変化もあって、ほんのちょっとだけスタンスが変わったのである。「消極的反対」と「一応賛成」の差はそれほど大きくないという実感がある。

ただ「夫婦別姓に賛成」というと、「全ての夫婦が別の姓を名乗らなければならない」という押しつけのように受け取っちゃう極端な解釈の人もいるので、かなりアブない。これは「夫婦が別の姓を名乗るってこともあっていいよね」という程度の、ユルい話なのである。現状の「夫婦は同姓でなければならない」というシバリの方が、ずっとキツい。

言うまでもなく、これまでの制度で決められていたように「同じ姓」を名乗りたければ、そうすればいいのであって、そうでないケースも認めるというだけのことだ。慣れるまでは違和感をもつ人もいるだろうが、慣れてしまえばどうってことのないお話だと思う。

思えば、「夫婦別姓」ならぬ「親子別姓」というケースがある。今の世の中では、親が離婚して、母親が旧姓に戻ったために、子どもと姓が違うという場合が多いだろう。しかし昔は、そうではない理由での「親子別姓」というのがあった。

それは一人娘が結婚して姓が変わってしまったために、「家督相続」する者がいなくなり、どうしても「家」というものを継続させたいがために、生まれてきた子の 1人を母親の両親の養子として縁組してしまい、それによって母方の「家」を継がせるというものだ。大方は子どもの知らないうちに養子縁組を成立させてしまうので、子どもが幼いうちは、当事者ながらよくわからない事情であっただろう。

保守派は「夫婦別姓では、親と子の姓が違ってしまい、家族の一体感が阻害される」などといって反対するが、その昔の「子どもが知らないうちに、祖父母の家に養子縁組されてしまっている」というケースに関しては、「親と子の姓が違ってしまい…云々」 みたいなことは言わない。これは甚だ不公正な態度と言えるだろう。

私が小学校の時にも、クラスにそうしたケースに当てはまる子がいた。その子は、祖父母の家の姓を名乗り、実の親の姓とは違っていたのである。クラスの子たちは、その辺りのビミョーな事情を嗅ぎ取って、その問題には触れないように気を使っていたが、当人としては何となく割り切れない思いがあったようだ。

もし夫婦別姓が認められれば、こうしたケースもかなりオープンにすることができるようになる。ってことは、保守派にとってもメリットがあるじゃないかということだ。どうしてそんなに頑なに反対するのか、よくわからないのである。

【2023年 10月 13日 追記】

この後、2020年 12月 17日付 "「選択的夫婦別姓」は、はっきり「賛成」と言っておく" の記事で、一層「積極的賛成」の態度を明確化している。

 

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2018年10月18日

”ZOOM ZOOM” その 2 (無念無想で「プサプサ」に遊ぼう篇)

3日前の「プサプサって何かと思っていたよ」という記事が想定とは別方向の反応を呼んでしまって、ちょっと戸惑っている。世の中には「マツキチ」と呼ばれるマツダ・ファンがかなりいるようで、あの CM のキャッチ、”ZOOM ZOOM" が「プサプサ」なんていう軽薄で無意味な音に聞こえてしまうなんて言うと、ずいぶん心外に思われてしまうことがあるようなのだ。

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私としてはマツダのクルマをけなすつもりなんて毛頭なく、ただあの CM の "ZOOM ZOOM" という無声音の囁き声が「プサプサ」に聞こえてしまうという、単に音韻上の話を展開しただけなのである。クルマの良さとかいう話とはまったく無関係なのだ。

ところが世の中の多くの人は、あれが「プサプサ」に聞こえるなんて思いもよらず、額面通り "ZOOM ZOOM" と受け取っているようなのである。記事に付けられたコメントをみると、意外なことに「ネイティブスピーカーによる正しい英語の発音」の問題みたいに受け取られたフシがある。こんな具合である。

ネイティブスピーカーとは意思疎通が困難な者として、「プサプサ」って聞こえること自体、「へーそうなんやー!」と思うばかり

多分ネイティブが言っていると思うし、自分の耳の悪さを嘆きこそすれ、発音にケチをつけようなどとは夢にも思いませんでした。

わたしは 「ズーン・ズーン」 と聞こえます。。
少なくともプサプサの P の音も、S の音も入っているように感じないんですよね

とまあ、こんな感じで、私としては TV 画面に表示される "ZOOM ZOOM" の文字に、皆さんかなり引きずられてしまっておいでだなあと感じるのである。予断が入ってしまうと、人間の感覚というのは簡単に裏切られる。

実は「正しい英語」も「ネイティブスピーカー」もへったくれもない。あれは単に「プサプサ」に聞こえるというだけの話なのだ。ネイティブスピーカーと区別が付かない発音ぐらい、私がいつでもしてあげる。

同じように「プサプサ」に聞こえて気になってる人が他にもいないかと思い、ググってみたのだが、3日前には探し当てられず、記事中で 「みんな気にならないのかなあ?」 と書いてしまったが、沖縄県30代男 さんが、1つだけ見つけて知らせてくれた。Yahoo 知恵袋に次のような質問がある(参照)。

マツダ車 「アテンザ」 の TV CM の冒頭に女性の声で何と言っているのか理解できません。画面上「ZOOM」と言う単語と共に、何語で何と発音しているのですか。私には 「プサン プサン」 としか聞こえないのですが。

この人、画面上の ”ZOOM ZOOM" の文字をちゃんと見ているのに、それと気付かないのは、率直に言って「ちょっとなあ」と思ってしまうのだが、逆に言えば下手に気付かなかったからこそ、文字に引きずられずに、素直に耳に入った通りの音として認識したのだろう。私には「プサプサ」だが、この人には「プサン プサン」だったわけだ。確かにそうも聞こえる。

さらに「マツダ CM プサ」というキーサードでググると、「美貌録(備忘録) ZOOM ZOOM プサン プサン」というページも見つかった。なんだ、他にもちゃんと「プサ音」の聞こえてる人がいるじゃないか。

こんなこと、敢えて詳しく説明しなくても一目瞭然(いや 「一耳瞭然?」)と思っていたのだが、よほど文字に引きずられて耳に入った通りの音を認識しきれない人が多いみたいなので、前の記事のコメント欄で書いたことの繰り返しだが、無声音の囁き声による "ZOOM ZOOM" が「プサプサ」に聞こえるメカニズムを、改めてきちんと説明しておこう。こんな具合だ。

  1. "ZOOM ZOOM" が「プサプサ」 になってしまった最大の要因は、囁くような無声音(声帯を震わせない、息だけの音)を要求されたからだと思う。最初の "Z" 音を発音する際に、ことさら明瞭さを求められたためなのか、唇を閉じた状態から開くときに思わず僅かに息が漏れ、その瞬間に破裂音の無声音 ”P" が生じてしまっている。

    これはあくまでも微かな子音のみの ”p” なので、母音を伴う ”pu” (プ) という音として認識しようとしても絶対に無理。それで、 「プ」の音は聞こえないなどと反応してしまう人が多い。カタカナの「プ」という文字にとらわれてしまうのだろうね。もう一度言うが、母音を伴う「プ」じゃなくて、微かな "p" という破裂音なのだ。

  2. それに続く "ZOOM" だが、無声音なので、”z" 音にはなりようがなく、あれで 「ズー」 に聞こえるというのは、論理的にあり得ない。よほど文字にとらわれているのだろう。同じ発音のメカニズムで声帯を震わせる有声音は "z" で、息だけの無声音は "s" になり、このケースは徹頭徹尾無声音なのだから、必然的に "z " ではなく "s" の音になる。

  3. 2番目の "z" 音も、口を閉じた ”m" から移行するために、最初同様に微かな破裂音の ”P" が発生し、”z" が ”s” 音になるという繰り返しで、その結果、続けて聞くと "psahmpsahm" (「プサプサ」 あるいは 「プサン プサン」) になる。念のため付け加えるが、ずべて息だけの無声音で、"a" も "m" も声帯は震わせない。

”ZOOM ZOOM” という意味のある文字の刷り込みから自由になって、初耳のつもりで無心に聞いてみればわかる。なんてことなくフツーに「プサプサ」(あるいは「プサン プサン」)なのだ。

あまり一生懸命に聞くと、つい無意識的に左脳による 「意味づけ欲求」 が働いて、聴覚から入ったナマの音で満足できずに、”ZOOM ZOOM” と聞こえたつもりになって安心してしまう。視覚で言えば、頭の中で余計な操作をしたせいで、実際の画像通りに見えない 「錯覚」 のようなものだ。

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上図は有名な錯覚パターンだ。左右のパターンの真ん中の円は同じ大きさなのに、違って見える。目がこんなに簡単に騙されるのだから、耳だって騙されるのだね。

意味にとらわれずに無心に右脳で聞けば、「プサプサ」がわかる。それがわからなかったら、無心になりきれてないのだ。どうでもいいことに浮世の意味を求めすぎると、神経症になってしまうよ。ここは無念無想で「プサプサ」の世界に遊んでみよう。

 

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2018年10月17日

ゴロゴロ(キャスター付スーツケース)の扱いについて

先日「一番やりたくないことは何ですか?」と質問されて、即座に「人の邪魔になること」と答えた。ということは、自分自身が、他人に邪魔されることを一番苦痛に感じるということなのだろう。それだからこそ、他人の邪魔もしたくないというわけだ。

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今日も 2泊 3日の出張から戻ってきたばかりなのだが、旅行中に駅のホームなどの混雑したところを歩いていて、他人が目の前に立ち塞がってしまうのには本当にいらいらする。まあ、大抵は旅慣れていないオバサンの団体だったりするのだが、通路一杯に広がって立ち話に花を咲かせ、自分たちが通行の邪魔になっていることをちっとも意識していない。

団体で通路一杯に広がるだけでなく、人の歩いている前に急に横から現れていきなり立ち止まったりするのも、それほど混雑しているわけでもないのに人の目の前スレスレをぶつかりそうになりながら横切ったりするのも、大抵オバサンだ。

ホテルのビュッフェスタイル(ホントの発音は、「バフェイ・スタイル」、いわゆる「バイキング形式」のこと)の朝食で、多くの人が食材を自分の皿に取るために列に並んでいるのに、4〜5人で「まあ、サラダもいろいろあるのね、どれにしようかしら」とか、「目移りするわねえ」なんてキャアキャア言いながらちっとも前に進んでくれないのもオバサン連である。

そして散々迷いながら目一杯のおかずを皿に盛り付け、結局食い切れなくてどっさり残飯入れに捨てるのもまた、オバサンたちである。まあ、それはもう、今さらどうこう言っても直りようががないので、じっと耐えているわけなのだが、たった一つ、本当に気をつけてもらいたいことがある。

それはキャスター付きのスーツケース(いわゆる 「ゴロゴロ」)を、ずいぶん体から離して後ろ手に引きずって歩くことだ。混んでいるところでこれをやられると、目の前を横切ったオバサンの後ろに引きずられているゴロゴロにつまづいたり、蹴飛ばしたりしてしまう。これ、案外危ないのだよ。

混雑したところでは、お願いだから、体の横にぴったりと付けて(つまり、斜め後ろに引きずらずに、自分の横に真っ直ぐ立てて) 転がしてもらいたいのである。それから、エスカレーターに乗るときは、大きなゴロゴロを自分の横においてステップの両側を塞いでしまわずに、自分の直前のステップにおいてもらいたいものだ。

この「ゴロゴロの扱い」だけは気をつけていただきたい。本当に危ないから。

旅慣れなくて人の邪魔にばっかりなってしまうというのは、多くのオバサンたちのほんの一部なのだろうが、こうした人たちのおかげで、オバサン全体が変な目で見られてしまうのは、ちょっと気の毒なことでもあるのだよね。

 

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2018年10月16日

「こたべ」 という名の京都のお菓子

今日、京都駅のみやげ物売り場でいいものを発見した。京都名物 「生八ツ橋」 の子ども版である。生八つ橋は「おたべ」という商品名で売られていることが多いのだが、その子ども版なので「こたべ」なのだろう。「おたべ」は 2口サイズで、「こたべ」は 1口サイズである。

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実は、私は生八ツ橋が好物なのである。普段の食事では甘いものは避けたいクチなのだが、生八ツ橋ときんつばは好きなのだよね。どういうわけか。

で、これまでは京都土産に生八ツ橋を買っても、土産を持って行く相手の口には入っても、自分の口には入らないのが少々不満だった。「実は俺だって食いたいんだけど」と思ってしまうのである。

ところが、この「こたべ」は値段が 350円と非常に手頃なので、自分用に軽い気持ちで買ってしまえるのだ。それで、人にあげるのはちょっと大きめのを買って、自分はこっちを買って食べることで、これまでの不満解消ができるというわけだ。

調べてみると、2013年から季節限定で販売されているらしい。これまで知らずにいたのがちょっと悔やまれてしまうよ。

 

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2018年10月15日

「プサプサ」 って何かと思ってたよ

ずっと気になっていた CM があって、最近ようやくその謎が解けた。自動車メーカーのマツダの CM で、なんだか知らないが、必ず「プサプサ」という呟きみたいなのが入る。「一体、それ何のこと?」と思っていたのだが、最近まともにテレビの画面を見る機会があって、そこには "ZOOM ZOOM" と表示されているではないか。

「なるほど、そうだったのか」 と合点した。マツダとしては "ZOOM ZOOM" と言ってるつもりなのだが、何しろ気取った調子の無声音なので、画面を見ずによそ見してると「プサプサ」としか聞こえないわけなのだよね。試しに上に貼り付けた動画の最初の音だけ聞いてみてもらいたい。どう聞いても 「プサプサ」、最大限好意的に聞いても 「プサンプサゥン」 がせいぜいだ。

それにしても、同じ無声音で気取って囁くにしても、もう少しちゃんと "ZOOM ZOOM" に聞こえる発音の仕方があるだろうよと言いたくなってしまう。なんでまた、こんなにも 「プサプサ」 になってしまうのだろうか。録音に立ち会ったエンジニアたちは、気持ち悪くなったりしなかったんだろうか。

ところでこの "ZOOM ZOOM" というのは、一体どういう意味合いで使っているのだろうと不思議に思い、ちょっと調べてみると、「日刊英語ライフ」 というサイトの 「マツダの CM の “zoom zoom” ってどんな意味?」 というタイトルのページが見つかった。このページの説明によると、 “zoom zoom” というのは、要するに 「擬音語」 なんだそうだ。

念のために Weblio 辞書にも当たってみると、「ブーンという音を立てる、ブーンと音を立てて走る、急角度で上昇する、急騰する」という意味の動詞で、名詞としては「ブーンという音」という意味になるとわかった。なるほど、要するにクルマのエンジンの「ブーン」という音が、英米人の耳には "zoom" と聞こえるというわけなのだ。

ただ、クルマのエンジン音を表しているというなら、やっぱり「プサプサ」に聞こえてしまう「囁き」はおかしいだろうと思ってしまうのだよね。同じようなことを指摘している人が他にもいないだろうかとググってみたが、驚いたことに、1件も見つからなかった。みんな気にならないのかなあ?

それとも、きちんと画面を見ながら聞いていると、表示された文字の強制力で "ZOOM ZOOM" に聞こえてしまうのだろうか? 人間の五感というのは、本当に当てにならないものである。

【追記】

何だか、私が「英語の発音」について問題にしていると受け取られているような気がするので、誤解防止のために念のため書き添えておくが、これはそういう問題じゃなく、気取って無声音(息だけ)で囁くと「プサプサ」に聞こえるんだから、ちゃんと有声音(声帯を震わして)で "ZOOM ZOOM" って言ったらどう? という話である。

18日付で 「”ZOOM ZOOM” その 2 (無念無想で 「プサプサ」 に遊ぼう篇)」 というのを書いたので、合わせてお読みいただきたい。

 

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2018年10月14日

きのこ狩りの遭難が増える

今年はきのこが豊作らしいのだが、一方できのこ狩りで山に入った人の遭難も増えているらしい。NHK ニュースまで「きのこ狩りで遭難相次ぐ 急斜面などでは注意を」と呼びかけている。

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本当に、今年はちょっと山に入っただけできのこがどっさりなっていることに気付く。きのこ好きの人は大喜びだろう。ただ、私は食べられるきのこと毒きのこの区別がつかないので、いかにもおいしそうなきのこが固まって生えているのを見つけても、採ることもせず、泣く泣くそのままにして帰って来ている。

きのこ狩りで遭難するのは、圧倒的に老人が多いらしい。近頃は団塊の世代が軒並み 70代に突入している。若い頃は足腰が達者だったのだろうが、70代に入ればさすがに衰える。自分の体力を過信して山奥に入ったり、急斜面に踏み込んだりして遭難してしまうケースが増えているのだろう。

地方に行けば行くほど平均年齢が上がり、田舎では子どもの姿がほとんど見えず、年寄りばかりである。ちょっと前までは、「どこから見ても年寄り」という 70代半ば以上の層の下に、段階の世代の分厚い層が存在した。せいぜい 60代の元気なオッサン、オバサンたちである。

ところが、最近は彼らが 70代となり、その下の層は急に手薄になっている。つまり、「田舎は年寄りばかり多い」ということがますます明白になってしまったのだ。こうした老人たちが、若い頃のようなつもりで山に入るのだから、遭難も増えるだろう。本当に気をつけなければならない。

 

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2018年10月13日

「サイレンスタクシー」 という取り組み

京都の都タクシーというタクシー会社が、昨年から「サイレンスタクシー」という試みを実施しているのだそうだ。運転手から客に必要以外の話しかけをすることを控えているという。下は車内の表示だ。

181013先月、九州の某都市に出張した際にタクシーに乗ると、カーラジオで沖縄県知事選に絡めて 「米軍基地の辺野古移転反対運動」 についてのニュースが流れていた。すると中年過ぎの運転手が舌打ちしながら、「お客さん、この問題どう思います?」と話を振ってきたのである。

「やべ、またこのシチュエーションだ!」と私は身構えた。勝手な思い込みかも知れないが、経験則からして、政治的議論をふっかけたがるタクシー運転手のほとんどは「心情右翼」である。単に左翼が嫌いで、心情的に政権側の方にシンパシーを覚えるというタイプだから、「だって、そうでしょ」という言い方しかできず、まともな議論になんかならない。

「今の嘉手納基地の方が人口密集地にあって危ないんだから、辺野古に移す方がいいに決まってるじゃないですか。左翼の連中が反対してるのは、反対のための反対でしかないでしょ。そう思いませんか、お客さん」

「そう思いませんか、お客さん」という言い方は、「そうですよね」という返事を強要する言い方でしかない。何しろこちらの命の安全は向こうの手に握られているのだから、真っ向切って対立的議論なんてしたくない。運転手があんまり熱くなって事故なんか起こされたら最悪だ。

心情右翼の基本的メンタリティというのは、「軟弱な左翼を見下して、自分の優位性を確保したい」ということにに尽きると思っている。ということは、「軟弱な左翼以外の反対論というのもあるのだよ」という当たり前のことを冷静に示すと、彼らはとたんにストレスを感じてうろたえる。こちらの命のリスクが増すってことだ。

仕方なくのらりくらりと相づちを打っているうちに目的地に着いてほっとしたが、あの類いの 10分か 15分という時間を過ごすのは、かなり苦痛だ。タクシーに乗っている間は天気の話とか、他愛のない話題だけにしたいものである。

その意味で、都タクシーの「サイレンスタクシー」という試みはありがたい。「無音タクシー」という言葉はちょっと変だけど。

 

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2018年10月12日

「人間ドック」と「人間犬」

先日夜遅く、カーラジオを聞きながら帰宅する途中、番組に登場した某お笑いコンビが「人間ドッグ」の話題で盛り上がっていた。「人間ドッグって、入ったことある?」「こないだ初めて入ったけど、やっぱり若いうちに入っといた方がいいよ、人間ドッグ」などと続き、聞いていてムズムズしてしまった。

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言うまでもなく「人間ドッグ」では「人間犬」ということになってしまい、正しくは「人間ドック」である。船の点検や修理などをする「ドック(dock)」を、人間の体の総点検に喩えた言い方だ。

しかし私の印象では、日本人の 60%以上は「人間ドッグ」と言っているんじゃないかと思う。Yahoo 知恵袋にも、「人間ドッグの意味を教えて下さい。なぜドッグ(犬?)なのでしょうか」なんて質問が寄せられているぐらいのものだし。

先日のラジオ放送でも、さんざん「人間ドッグ」を連発し続けても、スタッフからのダメ出しがなかったように見受けられる。スタジオには「人間ドッグ」が間違いと知る者がいなかったのだろうか。それとも、単にうっかり気付かなかったのだろうか。

で、ふと思いついて「人間ドッグ」でググってみると、さすが Google で、正しい言い方の「人間ドック」での検索結果もちゃんと気を利かせて表示してくれるが、「人間ドッグ」もかなり多く引っかかる。とにかく日本中の「人間ドッグ」機能のある病院が、いくつも表示されてしまうのだ。

ただ、Google 検索では「人間ドッグ」で引っかかっても、そのページに飛んでみると、ちゃんと「人間ドック」と表示されている場合がほとんどだ。

病院からの発注でウェブサイトを制作したやつが「人間ドッグ」と思い込んでいて、そのように作り込んでしまい、チェックの段階で 「おいおい、ウチは人間犬じゃないよ、ちゃんと『人間ドック』に直しといて」 と言われて慌てて修正したのだろう。ただ、ソースの「ページタイトル」の部分までは修正し忘れがちなので、Google 検索結果では「人間ドッグ」で表示されてしまうのだろうと推察する。

やっぱり定期的に受けた方が良い? 人間ドッグ」なんていう大真面目なページでは、「人間ドッグ」と「人間ドック の表示が混在してしまっていて、かなりの混乱が見て取れる。これは病院の営業用ページじゃないので、ついチェックがいい加減になっちゃったんだろうね。

そうかと思うと、”越谷レイクタウン内科 「人間ドッグについて」” というれっきとした営業用ページは、ソースのページタイトルも、実際のページの表現も「人間ドッグ」で統一されている。大したものだと思いかけたが、URL が "https://laketown-clinic.jp/dock/index.html" となっているために画竜点睛を欠く。一貫性の確保のために "dog" としておけば満点だったのに。

関連業界まで範囲を拡げると 「健診・人間ドッグ向けサプライアイテム セール一覧【AXEL】アズワン」 というページは破綻なく 「ドッグ」 で一貫している。

ちなみに「人間ドック」というのは和製英語(和製半分英語?)で、英語で "human dock" なんて言っても通じない。しかしよく調べてみると、イギリスの口語表現で「彼は入院中だよ」ってことを "He is in dock now." とか言うことがあるみたいなので、もしかしたら、こうしたところから「人間ドック」という言葉ができたのかもしれない。

 

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2018年10月11日

魚の「中骨」って、背骨だったのか!

いやはや、知らないことってあるものだ。還暦を遙かに過ぎて初めて知ったことというのがいくらでもある。そのうちの 1つが、魚の 「中骨」 というヤツだ。

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マルハの缶詰に 「さけ中骨水煮」 というのがある。確かにコリコリした感触の骨が煮込んであるが、全然問題なく食べられる。私はこの「中骨」というのは、「中ぐらいの骨でも、食べられるように柔らかく煮込んだもの」ということなのだと思っていた。なにしろ「なかぼね」と読むのか「ちゅうこつ」と読むのかさえアヤシかったのだから、困ったものである。

ところがふと思い立って調べてみると、「魚の身の中央を通る骨。魚の背骨」であるというではないか (参照)。何ということか、「中ぐらいの骨」なんかではなく、「中央を通る骨」だから「中骨 (なかぼね)」で、要するに「背骨」であるというのである。

「おいおい、だったら初めから『背骨』と言えよ!」ってなものである。しかし考えてみれば、「中ぐらいの骨って、一体どのあたりの骨なんだ?」と聞かれたら返答に窮してしまうのだから、そもそもまともな考えじゃないよね。強いて言えば 「背骨と小骨の中間」 ってことなのかもしれないが、そこだけ選り分けるというのもなかなか厄介だ。

調べてみると、魚の背骨まで柔らかくして食うには、酢など「酸性の食品」を利用する方法と、「加熱」とがあるという。「水煮」缶詰の場合は、ただひたすら加熱して、骨の組織中のコラーゲンを分解しゼラチン化することにより、柔らかくしてまるごと食べられるようにしたものだというのである。

いやはや、驚いたものである。これからは心して「中骨水煮」をいただこう。本日は酒田から 6時間クルマを運転して帰って来て、疲れたのでこれにて失礼。

 

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2018年10月10日

庄内に帰省している

今、妻と一緒に山形県庄内に帰省している。今年は 8月から 9月にかけて大忙しで、盆も彼岸も墓参りができなかったので、いささか季節外れだが戻ってきているわけだ。

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早朝に発って妻の実家のある仙台に寄り、久しぶりに家族に顔を見せて墓参。そして昼過ぎに仙台を発って、今は鶴岡のホテルにいる。本来なら実家のある酒田のホテルに泊まりたかったところだが、どういうわけかどこも満室だったので、隣町の鶴岡にしたわけだ。酒田は何かイベントでもあるのかなあ。

明日は墓参をして、美味しいものを食べたら、早々に帰路につこうと思う。何しろ両親ともにあの世に行ってしまって、実家に寄っても空き家だから、しょうがない。それに、明後日からはまた仕事が入っているので、残念だがゆっくりしてもいられない。

上の写真は、宮城県との県境、笹谷峠から望んだ谷の光景。笹谷峠の最高地点は雲の中で何も見えなかったので、それより少々宮城県側の地点からの眺めである。東北の山ではそろそろ紅葉が始まりかけている。ちなみにさすが東北の山の中で、あちこちに「熊出没注意」の看板がある。

本日は長時間の運転で疲れたので、これにて失礼。

 

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2018年10月 9日

Windows アップデートの不具合

Microsoft は Windows 10 の "October 2018 Update" の配信を一時中止したらしい。アップデートしたらファイルが勝手に削除されてしまったとの苦情が多く寄せられたためだという。(参照

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私自身は 2014年 1月から Mac ユーザーになっているので、ほとんど他人事ぐらいにしか思えないが、Windows ユーザーにとっては由々しき問題だろう。もしかしたらこのブログを読んでくれている人の中にも、いち早くアップデートしてファイルが消えるという被害に遭った人もいるかもしれない。

私は Windows ユーザーだった頃(Windows 3.1 時代から使っていた)から、OS のアップデートには結構慎重だった。元々 Microsoft をそれほど信用していなかったので、アップデートするにあたっては悪いニュースがないことをしっかり確認してから、おもむろに取りかかっていたものである。

今回の不具合は、「マイ ドキュメント の中のファイルが勝手に削除されてしまう(とくに画像ファイルが消えやすいらしい)というのだから、始末が悪い。ニュースによると、ファイルのバックアップをきちんと取っlている人というのはそれほど多くなく、ファイルが消えてしまって途方に暮れてしまうケースがめずらしくないらしい。

Microsoft は消えてしまったファイルの復旧に責任をもつと発表した(参照)というので、最終的には何とかなるだろうが、いずれにしても面倒な話ではある。ローカルの別ドライブと、3種類のクラウドにバックアップを取っている私としては、自分のファイルのバックアップをしないユーザーが多いということに、かなり驚いている。

 

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2018年10月 8日

「新高橋橋」 という橋

昨日まで 3日連続でシリアスなテーマで書いてしまったので、今日は軽い話題である。茨城の地名というか、橋の名前に関する話だ。

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上の写真は Google Map から拝借したものだが、国道 6号線を水戸から土浦方向に南下していて、茨城町(という町があるのだ)で涸沼川(ひぬまがわ)という川を渡る橋に差しかかる直前の光景である。手前左側に橋の名前の看板があって、「新高橋橋 Shintakahashi Bridge」と表示されている。「しんたかはしばし」とはカンじゃいそうなので、通る度に印象に残ってしまう名称だ。

それでつい最近、ふと思い立って橋の名前の由来を調べようとググってみたのだが、「新高橋橋」という橋が見当たらないのである。その代わりに「新高橋」という橋が見つかった。どうやらいつも通っている「新高橋橋」のことらしい。(参照 実際に地図に飛んだら、橋の部分をクリックすると、下の画像のような詳細説明が表示される)

 

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地図によると、この「新高橋」(あるいは 「新高橋橋」)の東(右側)に平行して「水戸街道」(いわゆる「旧水戸街道」あるいは 「旧 6号」)が通っており、いつも通っている国道 6号線は、新しくできた 「6号バイパス」とされている。で、旧道が涸沼川を渡る橋は、下図のように「高橋」ということになっている(参照)。バイパスの方の橋は「新しい高橋」なので「新高橋」ということのようなのだ。

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初めは 「高橋」 という地名があって、そこにかかる橋なので「高橋橋」ということになり、Google などでは紛れてしまって、橋の名前が「高橋」と表示されているのかとも考えた。しかし地名検索してみても、この辺りに「高橋」という地名はない。

「高橋」という地名がないということは、橋の名前を「高橋橋」なんてクドいものにする必要は、まったくないということである。一体どうなっているのか。

さらにググって見ると、「目的地までが目的地」というサイトが見つかった。いながらにしてドライブ気分を味わえるサイトで、本当に主要道路を辿る画像が満載されている。この中に「新高橋」というページもあり、「新高橋橋」という名称表示のある写真に 「『新高橋橋』 と書いて在るが・・・手元にある国土交通省から開示請求して取り寄せた資料だと「新高橋」 とあるので・・・」とのキャプションがある。

国土交通省の資料に「新高橋」とあるというのだから、正式名称はやはり「新高橋」でいいのだろう。で、東側の古い方は「高橋」だ。となると、「じゃあ、『橋』の前の『高』というのは、一体どこからきたのだ?」という疑問が当然湧いてくるが、それに関してはどうにもわからないので、とりあえずこだわらないことにしよう(気になるけど)。

とにかく、茨城県の地名にはわかりにくいのが多い。例えば関東鉄道バスの取手・守谷間を結ぶ路線には「岡」というバス停がある。知らない人は岡の上か麓にあるバス停を想像するだろうが、まったくの平地なのだ。よく調べるとこの辺りは「岡」という地名で、確かにはずれの方にちょっとした岡がある。ただ、バス路線は岡を外れた平地を通るので、違和感の元になっているようなのだ。

ちなみに広島県の JR 呉線には「坂」という名の駅があるのだが、これもまたスゴいと思う。

 

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2018年10月 7日

天皇のあり方に関する自家撞着があるか、ないか

昨日の「左も右も、情念の劣化から迷走が始まる」という記事に貼り付けておいた YouTube 動画「三島由紀夫 vs 東大全共闘(長尺版)」について、今日もまた蒸し返そうと思う。昨日の書き方だけだと、私が三島シンパだなんて誤解されかねないということもあるし。

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この討論会では「天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐ」という三島の発言が世間の注目を浴びた。ところがこの当時、大方はこれを三島の「トンデモ発言」としてしか受け取らず、全共闘側もそれほどシリアスな発言としては考えていなかったと思う。つまり「天皇」は革命における打倒すべきターゲットとしては考えられていなかった。

「打倒」とまでは行かないが、(現在の)天皇の存在というか、あり方を否定する傾向が強いのは、むしろ右側の勢力においてであるだろう。これは注目していいし、実はその傾向は戦前から強かったとも思われるフシがある。

上に貼っておいた画像は、9月 30日付で「News ポストセブン」に載った "「陛下は靖国を潰そうとしてる」 靖国神社トップが「皇室批判」" という記事だ。靖国神社のトップ、小堀邦夫宮司が「教学研究委員会」で「今上陛下は靖国神社を潰そうとしてるんだよ」と語ったと伝えられているのである。充分あり得る発言だ。

これはほぼ半世紀前の三島の発言と重なる要素を多く含んでいる。昨日の記事に貼り付けた動画の、8分 22秒あたりから先に注目してもらいたい。この時の三島発言を以下に引用しておく。

「私が今、天皇、天皇と言うのは、今まさに洞察されたように、今の天皇は非常に私の考える天皇ではいらっしゃらないからこそ言える。そして私の考える天皇にしたいからこそ、私は言っているんであって……」

「……ところが天皇というものはそれほど堂々たるブルジョアじゃないんだ。もし天皇がたらふく食っているような堂々たるブルジョアであったら、革命はもっと容易だったんだ。それでないからこそ、革命は難しいんじゃないか。そしてその難しさの中で諸君は闘い、私も戦っている。それは日本の民衆の底辺にあるものなんだよ」

「それを天皇と呼んでいいかどうかわからない。たまたま僕は天皇という名前をそこに与えるわけだ」

この発言は非常に重要なものであって、戦前だったら完全に不敬罪になってしまうところだ。右側の少なからぬ人たちは、口では「天皇、天皇」とあがめ奉りながら、その実、天皇に非常な不満を抱いている。上述の靖国神社宮司の発言は、それを象徴するものだ。

いわば天皇論に関して自家撞着に陥っているわけだが、この自家撞着は戦前の価値感に立ち返れば一挙に解決する。「教育勅語」問題に代表されるような彼らの「戦前回帰欲求」は、根本的にはここに由来するとみて間違いない。

しかし彼らにとっての最大の問題は、当の天皇陛下ご自身が、戦前の価値感に立ち返るようなお考えは微塵もお持ちでないように見受けられることだ。そして私自身は、こうした今の天皇のあり方についてとても肯定的に捉えている。私は「愛国者」を自負しているが、いわゆる右翼との基本的な違いは、天皇に関する自家撞着のないことだと、最近明確に気付いた。

10月 5日付の "柴山文科相の「教育勅語発言」の土壌" からの 3日連続シリーズは、ひとまずこれで一区切りとする。

 

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2018年10月 6日

左も右も、情念の劣化から迷走が始まる

昨日の「柴山文科相の「教育勅語発言」 の土壌」という記事で、柴山氏を散々くさしてしまったわけだが、まあ、彼も仮にも東大を出て司法試験にも合格しているわけだから、まんざらバカでもないはずなのだ。まんざらバカでもないおっさんが、こと「教育勅語」の話になるとあんなにまでおバカになってしまうのは、そこに何か特別な構造があるとしか思われないのである。

まず思い当たるのは、この類いの話になると、人間は「論理」ではなく「情念」が先走るということだ。上の YouTube 動画は大昔も大昔、1969年 5月に東大教養学部(駒場キャンパス) 行われた、三島由紀夫と東大全共闘による伝説の討論会『討論 三島由紀夫 vs. 東大全共闘 ― 美と共同体と東大闘争』の模様だ。

この動画では、全共闘側は徹底して空疎な論理(のようなこと)をまくし立て、一方で三島は情念ほとばしる発言を繰り返す。三島の「天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐ」という発言は今も語り草だ。彼がこの発言の前に「これはあなた方に論理的に負けたということを意味しない」と言っているのは重要なポイントだと思う。

つまり彼の中で情念は論理に優先しているのだ。そして 2011年にこの動画が YouTube で公開されると、全共闘側の言辞に関して 「口先だけ」 「小賢しい理窟だけ」 するコメントが付けられまくっているのはご覧の通りで(参照)、あれから半世紀経った今日、勝利したのは三島の情念の方だったようにさえ見える。

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上の画像は、この討論会の前年、1968年に開催された第19回駒場祭のポスターである。「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」というのは、横尾忠則によるポスターのコピーフレーズだが、今はこれが「テーマ」だったと受け止められている。こんなにまで情念迸っていたと思いきや、そのわずか半年後の討論会の場では、あんなに上滑りになる以外の現実的な方法論がなかったのだね。東大全共闘は。

で、私が大学に入ったのは 1971年(東大じゃなくてワセダだったんだけどね)。この討論会の 2年後で、三島自決の半年後だった。何度か書いているが、私が入学した頃には左翼運動は早くも論理的にも劣化していて、「こいつらと議論していたら、こっちまでバカになってしまう」としか思われなかった。

そしてさらに言えば、今の日本会議系のお歴々の口走ることを聞くと、やっぱりかなり劣化してしまっているのである。皆ステロタイプの決まり文句を繰り返すばかりで、仲間内だけでいい気持ちになっているのは、私が大学に入った頃の左翼と同じだ。志(こころざし)低すぎで、三島的情念は薄れてしまった。

で、例の柴山文科相の「教育勅語発言」も、お友達同士だけで通じて「そうだよね、よくぞ言ってくださった」と、右側サークルの中での点数稼ぎになっているだけとしか思われないのである。単なる「点数稼ぎ」発言だから、論理的であろうはずがなく、その上、情念的にも救いがたいほどに劣化している。

ちょっと前の稲田朋美議員や今回の杉田水脈議員など、女性議員にこうした発言が目立つのは、趣味の悪いオッサンたちに可愛がられて、よほど「点数稼ぎ」が身についてしまってるんじゃないかと思ってしまう。ちょっとセクハラじみた言い方になってしまったが、女性全般が点数稼ぎ体質と言ってるわけじゃないからね。その意味では、今回の柴山文科相もその体質に変わりない。

左も右も、情念の劣化から迷走は始まるのだ。そして私としては、その迷走が不健康な方向に進まないように常にチェックしなければならないと思っている。「不健康な」というのは、端的に言えば「ナチスのような」という意味である。ナチスのプロパガンダは、論理よりも感情に訴えることを優先させた。

経験則からすると、一番威勢のいい時期をちょっと越えてしまうと、情念の劣化が目立ち、不健康さも露わになる。そして安倍政権は、既に「不健康」の度を増しつつある。

【追記】

この記事は結果的に、前日の "柴山文科相の 「教育勅語発言」 の土壌" から翌日の "天皇のあり方に関する自家撞着があるか、ないか" まで、3日連続の 1シリーズとなったので、時間があれば通して読んでいただきたい。

 

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2018年10月 5日

柴山文科相の「教育勅語発言」の土壌

柴山昌彦文科相が就任早々舞い上がった上にいきり立って口走っちゃった「教育勅語」問題が、もう政治問題というよりも「お笑いの種」みたいなことになってしまっている。これはもう本当に、「舞い上がった上にいきり立った」上での発言としか言いようがない。

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彼の言い草を端的にまとめたのが、上の写真で紹介した BUZZAP の記事の 「教育勅語アレンジしたら今も道徳で使える、普遍性ある」という見出しだ。これはそのまま機械的に言い換えれば、「アレンジしなきゃ使えない、普遍性はあるけど」ということで、フツーは、「はいはい、寝言はそこまで。他に何か?」で、おしまいになるところだ。

そこでおしまいにならないのは、その辺のオッサンの酒飲み話ではなかったからで、さすがに「文科相発言」だと、こんな寝言でもここまで問題になる。まったくうっとうしいことだ。

そもそも「普遍性」云々なら、ふゆひー 9 さんの tweet にあるように、「普遍的な要素であればわざわざ教育勅語を持ち出す必要はなく、歴史的な背景を考えれば有害無益」ということになる(参照)。なにしろ当人も認めているように「アレンジしなきゃ使えない」のだから、一手間も二手間もかける意味がない。

問題はなんでまた彼が、こんなにも舞い上がった上にいきり立たなければいけなかったのかということで、それはもう、「日本会議の皆さんに向けた御礼とご機嫌取り」としか思われないのだよ。

そもそも今回の(今回に限らないが)新内閣の顔ぶれは、President Online でも言っているように「"右寄りのお友達" で固めた」ものだ(参照)。それはもう、すごいもので、顔ぶれの大半が「日本会議国会議員懇談会」とか、「神道政治連盟国会議員懇談会」とか、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」とかに所属している。

なかでも問題の柴山昌彦氏は大したもので、上に挙げた 3団体に加えて、「創生『日本』」、はたまた「国際観光産業振興議員連盟(通称「カジノ議連」)」なんていうのにまで所属している。いわゆる「右方面」に関してはずいぶんマメなお人のようなのだ。

というわけで、彼は初めて大臣なんかになったものだからつい、舞い上り、いきり立ち、「お世話になった」これらの日本会議系の皆様に御礼かたがた、精一杯のリップサービスで喜んでいただこうなんて妙なソンタク意識まで加わって、 「教育勅語云々」の発言になってしまったのだろう。

そして「お世話した方々」としては、「よくぞ言ってくれました!」なんて喜んではみたものの、その 2日後には「国として検討するとか、積極的に推奨する準備を進めているとか、そういうことはみじんも申し上げていない」なんて釈明で一歩(二歩か三歩かな?)後退してしまうのだから、まさにお笑いぐさだ。笑ってばかりもいられないが。

「もう、ホントに、こういうのやめてくれないかなあ!」と、つくづく思ってしまう今日この頃である。

なお教育勅語に関しては、今年 4月 22日付の "『教育勅語』についてちょこっと書いてみる" という記事で触れているので、お暇があれば読み返してみていただきたい。

【追記】

この記事は、結果的に 10月 7日付の「天皇のあり方に関する自家撞着があるか、ないか」まで、3日連続の 1シリーズとなったので、時間があれば通して読んでいただきたい。

 

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2018年10月 4日

まず、見で、聞いでみでくっちゃ (まず、見て、聞いてみてくれ)

私の生まれた町、山形県の酒田市に、阿部彩人さんという青年がいて、とてもおもしろい活動をしている。下に紹介した庄内弁ドラマも、彼のプロデュースによるものであるらしい。2013年制作というので、もう 5年も前になるというのだが、最近初めて知ったというのは、我ながらお恥ずかしい。

タイトルの「んめちゃ」は、「美味しいなあ」という意味である。他の地域の方言でも「〜ちゃ」とか「〜っちゃ」となるのはそれほど珍しくないので、ドラマなんかでは「おいしいっちゃ!」なんてのが、「日本共通方言」みたいになったりしてるよね。

でゅーわげで、上の YouTube 動画、まず、見で、聞いでみでくっちゃ。(というわけで、上の YouTube 動画、まず、見て、聞いてみてくれ)。

何しろ「庄内弁ドラマ」というほどのものなので、他の土地で生まれ育った人にはチンプンカンプンかもしれないが、必要な場面には日本語訳の字幕スーパーも出るので、ストーリーはきちんと理解できるはずだ。津軽から秋田平野、新潟北部ぐらいの人なら、字幕スーパーなしでもいけるかもしれない。

言うまでもなく、私は 100%理解できる。というか、この動画の中で語られる庄内弁すら、私にとっては、ずいぶん新しめの言葉みたいに感じられてしまった。何しろ1971年に酒田の高校を出て上京してしまった私の中に息づいているのは、半世紀前の庄内弁なもので。

というわけで、同じことを私が言うと、「おめさんみでだむがしの庄内弁しゃべる人だの、今、ごんげだとしょりでねばいねでゃ」(お前さんみたいな昔の庄内弁をしゃべる人なんて、今、よほどの年寄りでなければいないってば)と、難解さに輪を掛けた状態になってしまうのだよね。

高校時代の同窓会に出ても、私の庄内弁が同世代の友人たちよりクラシックに聞こえてしまうらしいのは、私が爺さん、婆さんに育てられたせいかもしれない。とくに私の祖母は「はましょ(浜衆)」だったので、私の中にもちょっと荒めの「はましょ言葉」が入っちゃってるようなのだ。

先日、仕事で酒田に帰り、酒田の 85歳過ぎの人たちと庄内弁で会話する機会があった。同行した仕事仲間は「悪いけど、一言も理解できなかった」と言っていて、周りが笑ったら、しょうがなく合わせて笑うしかなかったらしい。

どうやら私の庄内弁は時間軸でいうと、20歳ぐらい年上の人と同レベルのものであるようなのだ。

ともあれ私は、阿部彩人さんがされているような活動を知って、とてもうれしく感じてしまったのであるよ。ちなみにこの動画には第2話もある。こんな具合だ。

 

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2018年10月 3日

「左上右下」と 舞台の「上手/下手」

昨日の 「トイレの上座/下座」の件で、「左上右下(さじょううげ)」 という伝統文化について触れた。東アジア地域では、左が上座で、右が下座であるというコンセプトである。これと舞台の「上手/下手」について、昨日の記事の中で詳しく触れようと思ったのだが、長くなりそうなので分割して今日の記事として書く。

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左が上座で右が下座なら、どうして舞台では右側が上手で左側が下手なのだと問う人がいるが、舞台に関しては見る主体が違うのである。観客の側からは確かに上手が右側に見えるが、実は日本の民俗芸能の考え方では、主体は観客ではなく舞台に立っている役者なのである。

これに関連したことは、10年も前に「黒森歌舞伎による観客論」として書いていて、さらにその 4年前にも「清水の舞台」というタイトルで書いている。私の田舎で真冬に奉納される「黒森歌舞伎」でも、清水の舞台でも、ちゃんとした観客席がない。それは芸能というのは本来、神に奉納されるもので、人間の観客はそのご相伴にあずかって見ている「余計者」だからだ。

それ故に、神と役者の視点により、左側が上手、右側が下手になるのである。観客からの視点では逆になってしまうが、観客は本来的には想定外の存在なので、この際問題にならないのだ。

日本の伝統芸能では、舞台上の立ち位置も原則的に「上手/下手」のコンセプトで決定されていて、上に掲げた役者絵でも、上手に関守の富樫がいて、中央に弁慶、下手に判官(源義経)が配置される。おもしろいのは判官の位置で、安宅の関を通過するために身をやつしている間は、徹底して下手にいる。

しかし関所を通り過ぎてしまうと、弁慶の上手という本来の立ち位置に移る。そうでないと「判官、御手を取り給ひ〜」で、判官が弁慶の機転を誉めるというくだりが成立しないのだ。

これは歌舞伎ばかりでなく、落語の世界でも同様だ。長屋の大家さんが八っつぁん熊さんの店子と会話するシチュエーションなどでは、咄家が大家さんを演じる時には顔を下手を向け、店子を演じる時には上手をに向ける。つまり一人で演じてはいるが、大家さんは上手、店子は下手にいるというココロでやっているわけだ。

ただ、上座とか下座とかいうのは今の世の中では、伝統芸能や茶の湯などの古典的な世界か、よほど格式張った場以外では、ことさらこだわってもしょうがないというのが、私の考えである。ましてやトイレの序列なんて滑稽ですらある。問題があるとすれば、いい年したオッサンがぞろぞろ連れだって一緒にトイレに行くという妙なメンタリティの方だ。

 

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2018年10月 2日

トイレの「上座/下座」って?

「痛いニュース」で、「若手社員がトイレで上座の便器を使った」という話が話題になっている(参照)。元になったのは、「はてな匿名ダイアリー」の「上座のトイレを使う若手」という記事だ。

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ちょっと鬱陶しいが、元記事を引用してみよう。

先週出張に行った時の話。
グループで出張に行った時にトイレに行こうという事になった。
みんなで一斉にトイレに入ったんだけど、一番の若手が上座の便器を使用していた。
もう2年目なのに。

「痛いニュース」では、「便所に上座とかあったのか」とか「いや、そんなこと気にしてるのはお前だけだ」とか、散々笑いものになってしまっている。しかし私が気になってしまったのは、「トイレの上座って、あるとしたら一体どこなんだ?」ということだった。

で、軽い気持ちでググって見たところ、見つかったのが、上の写真で紹介している Excite ニュースの "訪問先のトイレでは 「一番手前の便器」 を使わなければいけない理由" という記事だった。こんな風なことが書いてある。

男性用便器が並んでいる場合は、一番奥が上座となる。さらに、目上の人と一緒に用を足すのであれば、1席空けなければいけない。というわけで、訪問先では、自分が最も目下になるため、手前で用を足すのが正解ということになる。

この記事では「上座/下座」というコンセプトの元になる考え方は、「左上右下(さじょううげ)」の原則だとしている。左側が上座で、右側が下座なのだ。これに関しては、日本の(だけでなく、東アジアの)伝統文化の常識として正しい。

しかしトイレの 「上座/下座」 となると話は別で、甚だ根拠に乏しくなってしまう。だって、便器が入り口からみて右側の壁に並んでいれば 「一番奥が上座」で問題ないが、左側に並んでいたら、一番奥ではなく手前が最も左、即ち「上座」ということになってしまうではないか。

というわけで、そんなことは気にする方がナンセンスということになる。さらに言えば小便の時は座らないから、「上座/下座」という言葉自体がおかしいよね。

そもそもの話として、一斉にぞろぞろ連れ立ってトイレに行くってこと自体、私としてはあまり美しい光景じゃないと思ってしまうのだよね。そんなシチュエーションで「上座/下座」なんてことにこだわること自体が、滑稽でしかない。

 

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2018年10月 1日

手応えたっぷりの台風だった

台風 24号は沖縄から列島に沿うように北上して、昨日20時過ぎに紀伊半島に上陸した。そこから「非常に強い」勢力のままスピードを上げて東海から東北を縦断し、今朝岩手県を通過して太平洋に抜けるというコースを取った。

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私個人に限っては、昨日付でも書いたように、仕事先への往復でもほとんど雨に降られることなく、問題なく帰って来た。上の写真は午後 5時過ぎの取手駅西口の様子である。ほとんどの店は早仕舞いして暗く、駅前にも人っ子一人いないのだが、パチンコ店だけは皓々と明かりを灯して営業しているのが、そこはかとなく異様なイメージだった。

帰宅してもしばらくは「本当に台風なんて来るの?」と言いたくなるほどの静けさだったが、夜の 11時を過ぎた頃から風の音が大きくなり、締め切った雨戸が大きくガタガタと鳴り出した。さらに 12時を過ぎると、風はさらに強まり、ゴウッという大きな音がする度に家がユサユサ揺れる。「なかなか手応えたっぷりの台風だなあ」と思っているうちに日付が変わり、1時過ぎに部屋の明かりがフワッと消えた。

一度消えてすぐに点いたが、それも一瞬で、再び消えてしまうとあとは闇である。夜中の停電は怖い。iPhone でニュースを検索すると、あちこちで停電が発生しているという。

ほどなく TEPCO 停電情報というページに、私の住む地域で 1800軒以上が停電になっているとの情報が載った。「複数箇所で停電が発生しており、復旧には時間を要する見込みです」なんて、嬉しくない但し書きまでついている。

私の住む地域は、7年前の東日本大震災の時でも停電せずに済んだので、思い出す限りでは 1984年のいわゆる「五九豪雪」の春先に関東でも結構な雪が降り、電線が付着した雪の重さのために切れて数時間停電した時以来、34年ぶりである。

停電直後は「朝までには復旧するといいなあ」と思いながら眠りについたが、何しろ家が揺れるので熟睡はできない。朝になっても停電のままで、所用で家を出る 12時頃になってもまだダメだ。そしていろいろ用を足して 2時半頃になって帰宅したら、やっと通電していた。12時間ぐらい停電していたようで、つくばの地に移転してきて最長停電記録である。

今年は日本列島が災害列島と化してしまった感があるが、こうしたことは日本だけにとどまらず、世界規模で進んでいる。世界気象機関(WMO)は一連の異常気象が「温暖化ガスの増加による長期的な地球温暖化の傾向と関係している」と分析している (参照)。

地球はちょっと住みにくい星になりつつあるようなのだ。「環境対策より経済成長が優先」なんていうのは、「命を失っても金さえあれば」と言っているようなものだ。そして実際にはいくら経済成長策をとっても、環境悪化と災害による経済損失は成長を上回ってしまうようになるので、いずれにしても愚策である。

 

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