左も右も、情念の劣化から迷走が始まる
昨日の「柴山文科相の「教育勅語発言」 の土壌」という記事で、柴山氏を散々くさしてしまったわけだが、まあ、彼も仮にも東大を出て司法試験にも合格しているわけだから、まんざらバカでもないはずなのだ。まんざらバカでもないおっさんが、こと「教育勅語」の話になるとあんなにまでおバカになってしまうのは、そこに何か特別な構造があるとしか思われないのである。
まず思い当たるのは、この類いの話になると、人間は「論理」ではなく「情念」が先走るということだ。上の YouTube 動画は大昔も大昔、1969年 5月に東大教養学部(駒場キャンパス) 行われた、三島由紀夫と東大全共闘による伝説の討論会『討論 三島由紀夫 vs. 東大全共闘 ― 美と共同体と東大闘争』の模様だ。
この動画では、全共闘側は徹底して空疎な論理(のようなこと)をまくし立て、一方で三島は情念ほとばしる発言を繰り返す。三島の「天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐ」という発言は今も語り草だ。彼がこの発言の前に「これはあなた方に論理的に負けたということを意味しない」と言っているのは重要なポイントだと思う。
つまり彼の中で情念は論理に優先しているのだ。そして 2011年にこの動画が YouTube で公開されると、全共闘側の言辞に関して 「口先だけ」 「小賢しい理窟だけ」 するコメントが付けられまくっているのはご覧の通りで(参照)、あれから半世紀経った今日、勝利したのは三島の情念の方だったようにさえ見える。
上の画像は、この討論会の前年、1968年に開催された第19回駒場祭のポスターである。「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」というのは、横尾忠則によるポスターのコピーフレーズだが、今はこれが「テーマ」だったと受け止められている。こんなにまで情念迸っていたと思いきや、そのわずか半年後の討論会の場では、あんなに上滑りになる以外の現実的な方法論がなかったのだね。東大全共闘は。
で、私が大学に入ったのは 1971年(東大じゃなくてワセダだったんだけどね)。この討論会の 2年後で、三島自決の半年後だった。何度か書いているが、私が入学した頃には左翼運動は早くも論理的にも劣化していて、「こいつらと議論していたら、こっちまでバカになってしまう」としか思われなかった。
そしてさらに言えば、今の日本会議系のお歴々の口走ることを聞くと、やっぱりかなり劣化してしまっているのである。皆ステロタイプの決まり文句を繰り返すばかりで、仲間内だけでいい気持ちになっているのは、私が大学に入った頃の左翼と同じだ。志(こころざし)低すぎで、三島的情念は薄れてしまった。
で、例の柴山文科相の「教育勅語発言」も、お友達同士だけで通じて「そうだよね、よくぞ言ってくださった」と、右側サークルの中での点数稼ぎになっているだけとしか思われないのである。単なる「点数稼ぎ」発言だから、論理的であろうはずがなく、その上、情念的にも救いがたいほどに劣化している。
ちょっと前の稲田朋美議員や今回の杉田水脈議員など、女性議員にこうした発言が目立つのは、趣味の悪いオッサンたちに可愛がられて、よほど「点数稼ぎ」が身についてしまってるんじゃないかと思ってしまう。ちょっとセクハラじみた言い方になってしまったが、女性全般が点数稼ぎ体質と言ってるわけじゃないからね。その意味では、今回の柴山文科相もその体質に変わりない。
左も右も、情念の劣化から迷走は始まるのだ。そして私としては、その迷走が不健康な方向に進まないように常にチェックしなければならないと思っている。「不健康な」というのは、端的に言えば「ナチスのような」という意味である。ナチスのプロパガンダは、論理よりも感情に訴えることを優先させた。
経験則からすると、一番威勢のいい時期をちょっと越えてしまうと、情念の劣化が目立ち、不健康さも露わになる。そして安倍政権は、既に「不健康」の度を増しつつある。
【追記】
この記事は結果的に、前日の "柴山文科相の 「教育勅語発言」 の土壌" から翌日の "天皇のあり方に関する自家撞着があるか、ないか" まで、3日連続の 1シリーズとなったので、時間があれば通して読んでいただきたい。
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