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2018年10月 5日

柴山文科相の「教育勅語発言」の土壌

柴山昌彦文科相が就任早々舞い上がった上にいきり立って口走っちゃった「教育勅語」問題が、もう政治問題というよりも「お笑いの種」みたいなことになってしまっている。これはもう本当に、「舞い上がった上にいきり立った」上での発言としか言いようがない。

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彼の言い草を端的にまとめたのが、上の写真で紹介した BUZZAP の記事の 「教育勅語アレンジしたら今も道徳で使える、普遍性ある」という見出しだ。これはそのまま機械的に言い換えれば、「アレンジしなきゃ使えない、普遍性はあるけど」ということで、フツーは、「はいはい、寝言はそこまで。他に何か?」で、おしまいになるところだ。

そこでおしまいにならないのは、その辺のオッサンの酒飲み話ではなかったからで、さすがに「文科相発言」だと、こんな寝言でもここまで問題になる。まったくうっとうしいことだ。

そもそも「普遍性」云々なら、ふゆひー 9 さんの tweet にあるように、「普遍的な要素であればわざわざ教育勅語を持ち出す必要はなく、歴史的な背景を考えれば有害無益」ということになる(参照)。なにしろ当人も認めているように「アレンジしなきゃ使えない」のだから、一手間も二手間もかける意味がない。

問題はなんでまた彼が、こんなにも舞い上がった上にいきり立たなければいけなかったのかということで、それはもう、「日本会議の皆さんに向けた御礼とご機嫌取り」としか思われないのだよ。

そもそも今回の(今回に限らないが)新内閣の顔ぶれは、President Online でも言っているように「"右寄りのお友達" で固めた」ものだ(参照)。それはもう、すごいもので、顔ぶれの大半が「日本会議国会議員懇談会」とか、「神道政治連盟国会議員懇談会」とか、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」とかに所属している。

なかでも問題の柴山昌彦氏は大したもので、上に挙げた 3団体に加えて、「創生『日本』」、はたまた「国際観光産業振興議員連盟(通称「カジノ議連」)」なんていうのにまで所属している。いわゆる「右方面」に関してはずいぶんマメなお人のようなのだ。

というわけで、彼は初めて大臣なんかになったものだからつい、舞い上り、いきり立ち、「お世話になった」これらの日本会議系の皆様に御礼かたがた、精一杯のリップサービスで喜んでいただこうなんて妙なソンタク意識まで加わって、 「教育勅語云々」の発言になってしまったのだろう。

そして「お世話した方々」としては、「よくぞ言ってくれました!」なんて喜んではみたものの、その 2日後には「国として検討するとか、積極的に推奨する準備を進めているとか、そういうことはみじんも申し上げていない」なんて釈明で一歩(二歩か三歩かな?)後退してしまうのだから、まさにお笑いぐさだ。笑ってばかりもいられないが。

「もう、ホントに、こういうのやめてくれないかなあ!」と、つくづく思ってしまう今日この頃である。

なお教育勅語に関しては、今年 4月 22日付の "『教育勅語』についてちょこっと書いてみる" という記事で触れているので、お暇があれば読み返してみていただきたい。

【追記】

この記事は、結果的に 10月 7日付の「天皇のあり方に関する自家撞着があるか、ないか」まで、3日連続の 1シリーズとなったので、時間があれば通して読んでいただきたい。

 

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コメント

4月22日のころはちょうど我が家のネット環境が壊滅していたので見逃していました。
いままできちんと教育勅語を読んだことが無かったのですが・・・
難解と言われているようですが、漢文の素養があれば簡単に読めますね。ちょっと前の記事にあった「漢文何の役に立つの」の人に教えてあげたいですねw

ああ、今まで右寄りの人達が「部分的には・・・内容的には・・・」と繰り返してきていたのはこういうことですか、と思いました。
そもそもが、天皇が臣民に命じる形式になっていて、そして部分的に良いとされる内容も皇室を守れという結論に収斂されているのですね。

これが教育勅語の根幹なのでしょう。
であるからこそ、たとえアレンジしようと『教育勅語の引用である道徳観念』を使うべきではないと思いました。

職業柄、教育現場での実際の使われ方を想定する癖がついています。思いっきり単純化すると、道徳の授業で先生が
「親孝行をしましょう」と言う場合と
「親孝行をしましょう。これは教育勅語に書いてあります」と言う場合。何が違うか。
10年、20年かけて『教育勅語とは善いものなんだ』という価値観が植え付けられていくことになります。

ゆくゆくは教育勅語の本格的な復活でしょうか。
つまりそういう方向に国を持っていきたい、右寄りのお仲間を増やしたいと。
それが彼らの目的なのでしょう。

投稿: らむね | 2018年10月 6日 16:19

らむね さん:

私としては、教育勅語に関しては 「かつてこういうものがあったんだよね」 ということで、単なる歴史遺物としておきたいところです。

今の世の中でわざわざこれを引っ張り出してリバイバルさせたがるのは、「普遍的な要素」 よりも 「特殊な要素」 の復活を狙っているとしか思われません。

ただ、彼らは心の底からそこまでひっくるめて 「普遍的要素」 と思っているのが確実で、そこがますますアブないところです。

投稿: tak | 2018年10月 6日 17:44

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