正統派よりもイケちゃってるアウトサイダー
久しぶりで『無門関』ネタ。今日は第三十二則の「外道問佛」という公案である。「外道がお釈迦様に、仏について質問した」という話だ。
お釈迦様が座禅しているところに、外道(仏弟子以外の者)がやってきて、「有言(うごん)を問はず、無言を問はず」という、摩訶不思議な質問をした。これ、「仏」つまり「覚者(悟りを得た者)」とは何か? と問うたのだが、「言葉による説明なんて聞きたくないし、言葉以外のごまかしも受け付けないからね」と、かなり生意気に出たのである。
こんな風な聞き方をされたら、生半可のことでは答えようがない。しかしそこはさすがにお釈迦様である。ただ慈悲深く座っておられた。すると質問した外道は「世尊大慈大悲、我が迷雲を開いて我をして得入せしむ」(お釈迦様の大きな慈悲のおかげで、私の迷いの雲が晴れ、悟りを得ることができました)と、感謝して去ったというのである。
例によってわかったようなわからないような話だが、そこはそれ、禅の公案だから理窟じゃなくインスピレーションで受け取るしかない。つまり、お釈迦様のただ座っておられる姿は、一見すると単なる「無言」のようにしか見えないが、実は「有言無言」を超えた次元の悟りを現していたので、質問した外道はそれを受け取ることができたというわけなのである。
そこへやってきた仏弟子の阿難は、「あいつ、何でまたあんなに感動して行ってしまったんでしょうかね」なんて、ちょっと低次元の質問をした。するとお釈迦様は「良馬は鞭の影を見ただけで走り出すものだよ」と答えたという。
阿難というのは、お釈迦様の説法をすべて記憶して「多聞第一」と言われたほどの優秀な弟子だったが、いかんせん、言葉によらない教えまではピンと来ない男だった。つまり理窟は理解できても、悲しいことにインスピレーションに欠けていたのだね。
そんなわけで、無門和尚は「阿難すなわち仏弟子、あたかも外道の見解に如かず」(阿難は仏弟子なのに、外道の理解に及ばない)と解説している。正統派よりもアウトサイダーの方がイケちゃってることがあるってわけだ。
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