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2019年1月に作成された投稿

2019年1月31日

「雪下ろしの雷」が関東でも鳴った

さっき十時過ぎに「ガラガラ、ドシン!」というものすごい雷がなったので、「こりゃ、『雪下ろしの雷』かな?」と思って外に出てみると、案の定、夜闇の中に白い雪が舞っていた。「今夜は関東の平野でも雪になる」という天気予報がしっかりと当たってしまった。

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1年とちょっと前に「冬の雷、この世の不思議」という記事を書いている。冬の日本海側では冬に雷がよく鳴って、これを「雪下ろしの雷」とか「鱈起こしの雷」とか言う。夏の雷のようにゴロゴロといつまでも長く鳴り続けるということは稀で、まさに「ガラガラ、ドシン!」の一発で終わりになることが多いのだが、まさか関東でも「ガラガラ、ドシン!」で雪になるとは思わなかった。

ちなみに「冬の雷、この世の不思議」というのはマザーグースの短い歌で、原詩は "Winter's thunder is the world's wonder." という。"Thunder" と "wonder" で韻を踏んでいる。

本当に冬の雷というのは、世界的には珍しい現象だそうで、これが関東の平地で発生したというのは、異常気象の一環なんじゃないかという気がしてしまうのだよね。

明日は広島に出張しなければならないのだが、朝の交通は大丈夫だろうか。気を揉んでも仕方がないから、今夜は早めに寝てしまおう。

 

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2019年1月30日

紙の書類の整理と保存にうんざりしながら

ここ 2〜3日、溜まりに溜まった紙の書類と格闘を繰り広げている。最近はデジタル・データでの書類のやりとりが増えたとはいえ、やっぱり紙の書類というのは日に日に増えてしまう。要らないものはバッサリと捨てて、保存する価値のあるものだけをファイルに綴じるのだが、それがなかなか面倒なのだ。

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昔は書類を整理するといえば、こんな写真のような形でずっしりとしたファイルを作っていた。私は団体事務局という因果な職場に勤務した経験があるので、こんな画像を見ると懐かしさとうんざり感の入り交じった不思議な気持ちになる。

ちなみに、上の写真のようなタイプは俗に「フラット・ファイル」と称している。かっちりと平らに綴じてしまうから、こんな名が付いたのだろう。長らく和製英語なんだろうと思っていたが、なんと "flat file" と言えば英語としてもちゃんと通じるのでびっくりしたことがある。

フラット・ファイルは構造が単純なので手軽なのだが、分厚い綴じの中程の書類を取り出そうなんてすると、どえらく面倒なことになる。なにしろ、せっかく綴じた書類のかなりの部分を外してしまわなければならないのだから、うんざりしてしまうのだ。

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そこで、しょっちゅうそんな作業をしなければならないオフィスでは、上の 2つのタイプのファイルをメインに使うことになる。左は「金属パイプ式ファイル」、右は「リング・ファイル」と称している。両者のメリットは、分厚い束の途中からひょいと書類を抜き出すのが手軽なことだ。

フラット・ファイルだと、抜き出した書類をファイルに閉じ直す時に、また必死にやり直さなければならないが、パイプやリングの場合は、基本的に取り出した紙以外はパイプやリングから外れていないので、後始末が格段に楽なのである。

これも英語は ”pipe file" と "ring file" でちゃんと通じる。リング・ファイル の場合は "D-ring file" なんて言うと、かなりいっぱしに聞こえる。

とはいえ、団体事務局みたいな大袈裟なオフィスではなく、せいぜい個人事業程度だと、そんなに分厚いファイルを作ることは稀になるから、いちいち紙に「2つ穴パンチ」と称する道具で穴を 2つ開けてリングやパイプに通すなんてことすら、うんざりするほどうっとうしくなる。

A4 サイズの紙の縦の真ん中に目印の折り目をほんのちょっとだけ付けて、その折り目にパンチの真ん中の出っ張りみたいなシルシを会わせて、「バンッ!」。こうして開けた穴に、ファイルのパイプやリングを通す。これ結構面倒なのだが、面倒すぎて整理を怠ると、それはそれでまた、さらに面倒なことになる。

そこで個人的には、近頃バインダー方式をもっぱらとするようになった。下の写真のように、穴を開けずにクリップ式のバインダーで挟んでしまえばいいので、作業がとても楽だ。個人ビジネスだとそんなにべらぼうに分厚いファイルを作ることもなくなるので、はさんだ紙がバホバホっと外れてしまうこともない。この程度の簡便さは嬉しいことである。

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できることなら、すべての書類がデジタル・データで配布されるようになってくれればありがたいが、なかなかそういうわけにも行かない。まだしばらくは、紙の書類との格闘が続くことになりそうだ。紙の書類は確かに読みやすいけど、保存にスペースが必要だし、持ち運びがうんざりするほど重いのだよね。

 

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2019年1月29日

「練習」と「稽古」と "practice"

今日は「練習」と「稽古」、そしてその英訳の "practice" について書く。そもそも私は、「練習」という言葉が一般的な世界よりも、「稽古」 という方がぴったりくる世界で育ってしまったので、今でも「練習」という言葉を使うと、何だか軽すぎる印象をもってしまう。

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上は下手な草書だが、「稽古」という字である。「稽」という字の音読みは「ケイ」だが、訓読みは「かんがえる、とどめる、とどこおる」と読むらしい。以下は「語源由来辞典」からの引用である。(参照

漢語「稽古」の原義は 「古(いにしえ)を考える」 「昔のことを調べ、今なすべきことは何かを正しく知る」である。そこから「古い書物などを読んで学ぶ」といった意味が派生し、学問する意味で用いられるようになった。

日本では中世以降、芸能や武術を学んだり習うことも「稽古」 が用いられ、学問以外の意味で使われることが多くなった。

というわけで学問の世界からの延長で、日舞や芝居、そして武術の分野では「練習」と言わずに「稽古」という。私は学生時代の専攻が古典芸能などという変わった分野で、さらに合気道の修行なんかもしていたので、もっぱら「稽古」という言葉の方に馴染んでいた。ちょっとお嬢様系の習い事だと、「お」を付けて「お稽古事」なんて言うのだが。

演劇の分野では日本の古典芸能のみならず、西洋演劇でも日本人は「練習」ではなく「稽古」と言い、演劇の練習をする場所はもっぱら「稽古場」という。まるで相撲みたいな言い方だが、「芝居の練習」なんて言うと、詐欺師がペテンにかける練習しているみたいな印象になってしまう。

ただ、西洋系のスポーツは総じて「練習」と言う。黒柳徹子さんが『徹子の部屋』で、ゲストの野球選手に「野球のお稽古は大変なんでしょう?」なんて言うので、ちょっとコケてしまっていた。ちなみに「練習」は文字通り、「練り習う」ということだ。

で、「稽古」も「練習」も、英語ではひっくるめて "practice" と言う。昔、一緒に合気道を習っていた米国人が、「合気道の稽古」を "aikido practice" と言うのを聞いて、「まあ、そりゃ、practice と言えば practice にゃ違いないけどね」 なんて苦笑いしていたのを思い出す。

"Practice" の語源は、「語源英和辞典」には次のように説明してある。(参照

ラテン語 practico (行う) > practikos (実際の) > prasso (実行する) + -tikos (~の) >per- (運ぶ) が語源。「行う; 実際に行うこと」 がこの言葉のコアの意味。practical(実際的な)と同じ語源をもつ。

要するに「実際のようにやってみる」ということのようで、日本語の「古(いにしえ)に学ぶ」とか「練り習う」とかいうニュアンスとはかなり違う。とにかく精神性より実践が重要ということだ。発想からして別物という気がしてしまうのだよね。

 

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2019年1月28日

「ゴルフ場利用税」を廃止する方向なんだそうだ

NHK が 「来年の東京オリンピックに向けて、超党派の議員連盟は、正式競技になったゴルフの振興を図ろうと、『ゴルフ場利用税』を廃止する法案の骨子をまとめ、通常国会への提出を目指す」ことになったと伝えている。(参照

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消費税が今年 10月から 10%に上がると決定しており、今後さらなる増税が必要などと言われているのに、議員の方々、ゴルフに関してはずいぶん物わかりがいいようなのだ。「超党派」というのだから、与党も野党もゴルフ好きが多いんだろうと思うばかりである。

オッサンが多い会議なんかに出席すると、会議が終わればたいていゴルフの話に花が咲いている。なにしろ「ゴルフ好きで当然」という前提で成り立っているような集まりが多いから、当然こちらにも「今度、ご一緒しませんか?」なんて誘いをかけてくる。

「ゴルフはしませんので」とさりげなく断ると、さも意外そうな表情になり、「これを機会に始めませんか? 楽しいですよ」なんて、さらに誘おうとする。「いえ、まったくする気がありません」とはっきり断っても、「いやいや、実は私も昔はそんな風に思ってましたが、やってみると楽しいものですよ」なんて、かなりしつこい。

こうなるとこちらも少しはムッときてしまうから、「実を言えば好き嫌いというより、ポリシーとしてやらないんです。語り出すと長くなるから、ここではこれ以上言いませんが」と、さらにはっきり言う。「しない」と言っている人間に向かってノー天気に「楽しいですよ」なんてしつこく言う相手には、このくらいのことを言わないと通じないことが経験知でわかっているから、多少角が立つぐらいは承知の上だ。

それにしても、ゴルフというのはかなり特殊なスポーツである。世間では「ラグビーしませんか?」なんてことはやたらと言わないし、「空手やりませんか?」というのも同様である。「自転車でヒルクライムしませんか?」なんて言うと、「途方もない!」みたいな反応が返ってくる。しかしゴルフだけは、「ポリシーとしてやらない」なんていう人間がいることは想定外のようなのだ。

私がゴルフをやらない理由はエコロジカルなものだ。プレイヤー 1人当たりの面積がべらぼうに大きく、その分だけ森林を伐採し、除草剤を使いまくっている。それをわかった上で、そんなにやりたきゃやればいい。しかしやるならやるで、環境負荷に対する相応の対価としての税金ぐらい、払ってもいいんじゃないかと思っている。

 

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2019年1月27日

「整理」って、そもそも 「仲間分け」 から始まるんじゃなかったか?

妻が市立図書館から借りてきた雑誌「クロワッサン」(10月10日号)の特集が「仲間分け整理で、かんたん片づけ」というものだったので、驚いてしまった。だってそんなことは改めて言うまでもなく、そもそも「整理」というのは基本的に「仲間分け」(つまり「分類」ね)から始まって、その上に成立するものじゃなかったのか?

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「仲間分け整理で、かんたん片づけ」なんてテーマが今さらのごとく特集されるというのは、多くの人は家の中を片づけるのに「仲間分け」というコンセプトを前提としていなかったからなのだろうか? そこに気付かないまま、部屋の中を整理していた(あるいはしたつもりになっていた)のだろうか?

この特集の中で「仲間分け整理」というのは、次のように説明されている。

  • 使う場所に使うものを集める。
  • 一緒に使うものをセットで収納する。
  • 専用で使うもの同士をセットにする。
  • 使用/未使用の同じものをまとめる。

もっともらしく書かれているが、「当たり前すぎて今さら言うのも馬鹿馬鹿しい」ほどのことだ。しかしこう言っちゃナンだが、家の中の片付けを妻に任せているとどうしようもない状態になる理由が、これで初めてわかった。彼女はモノを片づけるのに「仲間分け」というコンセプトなんてまったく意識していないようなのだね。

同じ類いのものがあちこちに分散しちゃうし、同じものでも「よく使うもの」と「これから使うもの」が全然関係のないところにあったりする。しょっちゅう使うモノが面倒な所に収納されているのに、家の中で最も便利で重宝する収納スペースが、いつの間にかわけのわからないガラクタ (彼女にとっては「宝物」のようなのだが) に占拠されていたりする。

というわけで、年に 1〜2度、妻が不在のうちに家の中の「棚卸し」をすることになる。ほとんどゴチャゴチャになった諸々のモノを分類して、しかるべきところにしかるべき形で収納し直すためだ。

こうした作業に関しては、妻はどうもピンとこないようなのである。今回のクロワッサンの特集にしても、読もうと思っているのは別のページで、「仲間分け」特集がトップにあるなんて、意識すらしていないようなのだ。そのあたりは「さすが」と言うほかない。

 

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2019年1月26日

突然アヤシすぎるページが表示されたら

昨日の記事で紹介した 「キーワードノート」 というサイトを開いて、そのページ上をクリックすると、やたらアヤシいスパムっぽいページが突然表示されてしまう。念のため 「表示されたら下手に反応せず、すぐに閉じることをオススメする」 と記しておいたところ、さくらさんからのコメントで、Javascript の設定でややこしいことにならずに済むと知った。

1901261ちなみに「Yahoo 知恵袋」でも、上のような Q&A が見つかった。これどうやら、かなり出回っているスパムのようだ。私の場合は、「iPhone X が 100円云々」の前に、いきなり下のような紙吹雪が舞うという派手なページが表示された。しかし「あなたは 5億 Google 検索を行いました」なんてわけのわからない日本語だし、どこからどうみてもスパムである。ためらわず証拠のスクリーンショットを撮っておいた。

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で、せっかくだからもう少しほじくってみようと思い、下の 3つのトロフィーのアイコンの 1つをクリックすると、まさに「あなたは iPhone X を特別に 100円で買える権利を手にしました」みたいなページに切り替わる。ここで単純な人なら大喜びで個人情報を書き込んで申し込んでしまうところだろうが、おあいにく様、私は美味しすぎる話を信じやすいタイプじゃないのでね。

さらに上述のページの他のところをクリックすると、「あなたの Mac はウィルスに冒されている」だのなんだのという英語のページが表示されて、対策を講じるように促される。促されるままに妙なプログラムをインストールしちゃったら、逆に面倒なことになるに決まっているから、すぐにそのページを閉じた。

といわけで、私が昨日紹介したページを開いたせいで(注意を呼びかけているにも関わらず)、ややこしいことになってしまう人が出たらヤバいので、念のためにこの記事を書いているわけである。

自分が意図して調べてみたりその類いのサイトに行ったりしたわけでもないのに、突然美味しすぎる話のページが表示されたら、それは間違いなくスパム・ページなので、求められるままに個人情報を書き込んだりしてはいけない。さらに突然 「あなたの PC に 〇〇個の問題が見つかった」 なんてアヤシい表示も、クリックした途端にそんなことがわかるはずがないのだから、信じてはいけない。

で、こうしたややこしいことにならずに済むようにするには、Javascript をブロックすればいいようなのである。試しに件の 「キーワードノート」 というサイトの Javascript をブロックする設定にしてみたところ、妙なページは全然表示されなくなった。めでたし、めでたし。

Google Chrome (バージョン: 71.0.3578.98) での Javascript ブロックの設定は以下の手順。

  • URL の表示されるバーの右端のメニューボタン (縦に点が 3つ並んだボタン) をクリックし、「設定(S)」 をクリック

  • 一番下の「詳細設定▼」をクリック

  • 「コンテンツの設定」をクリック

  • 「Javascript」 の右の ▶ をクリック

  • 表示されたページで、Javascript をブロックしたいサイト名を登録する

    (あるいは、「許可(推奨)」という行のスイッチで全面的にをブロックする)

これで OK。一度 Chrome を終了させ、再度起動させると、突然迷惑なページが表示されることはなくなっている。

 

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2019年1月25日

「トッピング」には「アタマ」という言い方もあるようなのだ

今月 16日に、"日本語になった 「トッピング」 という言葉の意味" という記事で、英語の "topping" と日本語の「トッピング」とは、ビミョーに意味が違ってきてるというようなことを書いた。そしてそのバリエーションには、「アタマ」というのもあるらしく、牛丼チェーンではかなり普及しているらしい (参照)。

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私はここ数年、牛と豚の肉を食わないことにしているので (鶏も 2年近く食っていない)、牛丼チェーン吉野家での 「アタマの大盛り」 という言い方は、上で紹介した 「キーワードノート」 というサイトの記事を読むまで、ちっとも知らなかった。

(ちなみに、私の Mac 上だけの現象かもしれないが、上述のリンク先のページ内をクリックすると、突然いろいろアヤシげなスパムっぽいページが表示されたりするので、ご注意。表示されたら下手に反応せず、すぐに閉じることをオススメする)

「アタマの大盛り」とは、次のように説明されている。

「アタマの大盛り」 は牛丼などの丼物で、ご飯は通常 (並盛り) の量のまま、上に乗せられた具材が多めになっているメニューのことです。

つまり、全体が大盛りになっているというわけではなく、トッピングのみが大盛りになっているというわけだ。元々は裏メニューだったが、テレビや雑誌で紹介されたり、SNS や口コミなどでも広まって、ついに正式メニューに載せられるまでになったらしい。

吉野家以外でも同様のメニューがあり、すき家では並盛りに比べご飯がやや少なめで肉は 6割増しにした「中盛」が実質的に「アタマの大盛り」に相当し、松屋は「牛めし あたま大盛」で、一部店舗では「プレミアム牛めし あたま大盛」が正式メニューとなっているようだ。

考えてみれば、"topping" に相応しい日本語は確かに「アタマ」なのかもしれないという気がする。少なくとも「オプション」なんていうよりずっとしっくりくる。ただ残念なことに、立ち食い蕎麦や讃岐うどんのチェーンで「アタマ」なんて言っても、まだ通じるに至っていないだろうなあ。

 

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2019年1月24日

T カードの顧客情報

HUFFPOST が T カードの個人情報提供をめぐっての国会紛糾のニュースを伝えている(参照)。山尾志桜里議員の「2012年に (T カードの運用主体の) CCC にこのよう (Tカードの個人情報の捜査機関への提供) に要請したのは事実か」 という具体的な質問に、警察庁・田中勝也長官官房審議官は「一般論として協力要請することはあり得る」と言うのみで、まともには答えなかったためだ。
190124T カードといえば、私も 1枚持っている。だいぶ前にとあるホームセンターで買い物をした際に、「お得になります」みたいなことを言われてその場で申込用紙を書かされ、カードが発行された。

それからというもの、そのホームセンターやファミマで買い物をする度に「T カードはお持ちですか?」と聞かれ、「ああ、そういえば持っているな」と思って差し出すと、レジの機械を通して何やら登録している様子である。しかしそれが一体何の意味を持っているのか、そして何が「お得」なのかわからないまま最近まで来ていた。

何しろ、ホームセンターでは大抵クレジットカード、コンビニでは Suica で支払うので、それが T カードと何のつながりがあるのかわからない。ところがつい最近、ファミマでの買い物で Suica で払おうとしたところ、チャージを忘れていたために残高不足だった。

「あ、ゴメンね、現金で払うから」と言ったら、レジのオネエサンが「もしかしたら、T カードで精算できるかもしれませんよ」なんて言い出し、ポイントとやらを調べてもらったら余裕で支払えたのだった。なんだ、買い物する度に貯まるポイントというのは、実際の買い物に使える仮想通貨みたいなものだったのか。

どうやら買い物の度に支払った額の何パーセントかが、T ポイントとして貯まるらしい。妻には「あなた、そんなことも知らなかったの?」と呆れられたが、私はそういうことにはとんと疎いのだよね。

そもそもそんな面倒なことをするぐらいなら、買い物の度にその分割引してくれれば手数が省けると思うのだが、CCC とやらは顧客情報を蓄積することに意味があると考えているので、こんな手のかかることをするのだろう。情報が一人歩きする世の中だ。

そしてその顧客情報というのは、警察が欲しがってしまうほどに意味があるもののようなのだ。私としては、ほんの数パーセントのポイントと引き換えにそんな情報を取られてしまうのは気持ち悪いから、最近は「T カードをお持ちですか?」と聞かれても、「持ってないし、作る気もないよ」と答えている。

 

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2019年1月23日

学校では図書館と図書室の違いは「どーでもいい」ことらしい

何度か書いているように私は「アスペルガー一歩手前」みたいなところがあるから、小学生の頃から「図書館と図書室は別物」と思っていた。だから同級生たちが学校の「図書室」を平気で「図書館」と呼ぶことにかなり抵抗があり、自分自身は必ず律儀に「図書室」と言っていた。

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図書館と図書室の違いは、読んで字の如しである。「図書館」というのは独立した一つの建物で、「図書室」というのは、大きな建物の中の「部屋」 ということのはずだ。

だから私は「学校の建物の中の『部屋』が『図書館』であるはずがないじゃないか」と、小学校 1年生の頃から頑なに考えていて、その考えは今日の今日まで変わらなかった。ところが、この思い込みはどうやら間違いのようなのである。

Wikipedia に「学校図書館」という項目があり、次のように書かれている。

学校図書館法 (昭和28年法律第185号) の第2条において定義がされており、「学校図書館」とは、学校において、図書、視覚聴覚教育の資料その他学校教育に必要な資料(図書館資料)を収集し、整理し、及び保存し、これを児童又は生徒及び教員の利用に供することによって、学校の教育課程の展開に寄与するとともに、児童又は生徒の健全な教養を育成することを目的として設けられる学校の設備とされている。

「学校図書館法」という法律には「学校の設備」と書かれており、「独立した建物」とは一言も書かれていない。つまり、建物の中の一室で、どこからどうみても「図書室」としか言いようがなくても、法律上は「学校図書館」というもののようなのだ。こりゃまた、驚きである。

私が幼いときからこだわってきた「図書館と図書室の違い」というのは、法律的には「どーでもいいこと」とされてしまっているのである。これを知って私は、かなり憮然としてしまったね。これだから、法律の条文というのは反発したくなるところ満載なのだ。

今日の今日というもの、アスペルガーの度がもうちょっと高かったら、神経症になってしまうところだった。

 

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インフルエンザというものにかかった記憶がない

有安伸宏さんという方が、「シーズンイン前の予防接種、オフィスの加湿器は全開、紅茶や緑茶を常飲、人混み避ける、ジム通って体力つける、睡眠と食事両方しっかり」という対策を全てやって、なおかつインフルエンザ A形と診断されたと tweet しておいでだ (参照)。お気の毒に。190123そうかと思うと、本職の医師が 「インフルエンザワクチンは打たないで!」という本を書いていたりする(参照)。著者の母里啓子さんという方はウィルス学の専門家ということだが、インフルエンザワクチンが効かないのは 「ウィルスを学んだものの常識」 で、それでも世間がこぞって薦めるのは、「メーカーにも医者にも儲かるいい商売だから」だと書いておられるらしい。

要するに、ここにもまた 「利権の構造」 というものがあるようなのだ。

まあ、インフルエンザワクチンが本当に効くのか効かないのかというのは、専門外の私がどうのこうの言ってもしょうがない。ただここで単純事実を書くとすれば、私自身は半世紀以上にわたってインフルエンザワクチンなんて打ったことがないが、インフルエンザにかかった記憶がない。こればかりは本当の話なので仕方がない。

中学校まではインフルエンザワクチンを、全員がほとんど強制的に接種されていたような記憶があるが、注射が嫌いな私は「体調が悪い」とか何とか仮病を使って逃げていた。高校からは「希望者だけ」になったように思うが、私は「そんなもの、誰が希望するか!」という態度を通していて、それでもインフルエンザなんて縁がなかったのである。

去年の今頃も、"私は 「インフルエンザにかかりにくい免疫力」をもっているようだ" なんて書いている。なんでそんなに無事でいられるのかといえば、「そういえば、よくうがいをするからかな」ということぐらいしか思い当たらない。確かに私は、本当によくうがいをするのだが、これぐらいのことを金科玉条みたいに言いふらしてもしょうがないから、あまり言わない。どうせ「人による」ことだろうし。

というわけで、今シーズンもこのまま乗り切ってしまおうと思っている。

 

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2019年1月22日

カルロス・ゴーンの保釈問題に関して

昨日、「ゴーン被告、声明で保釈訴え パスポート提出や監視装置の着用提案」と報じられた。要するに保釈してもらえるなら、たいていの要求に素直に応じるという態度表明をしたもののようだが、結果として保釈は叶わなかった。

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個人的には、もう起訴しちゃったんだから保釈してもいいんじゃないか、いや、むしろ保釈すべきじゃないかとさえ思うのだが、どういうわけか日本の検察ってかなりハードライナー揃いのようなのだ。それでゴーン氏としてもさすがに消耗してしまって、「何でも言うこと聞くから、とにかく外に出してよ」ということになっていたんじゃなかろうか。

というわけで、さっさと保釈すべきだろうという考えは表明しておくが、だからと言って、私はゴーン派というわけではない。逆に「決して付き合いたくないタイプ」と思っている。

日産の資金を個人的に流用し放題だったという「汚職」事案については、裁判の過程でいろいろな釈明が出てきて、もしかしたら結果的に、彼の主張通り 「無罪」 なんてことになってしまう可能性だってある。そうなったらそうなったで、法律的観点からはきちんと「はい、無罪放免ね。一丁上がり!」と認めてしまえばいい。

しかし「法律的観点」からちょっと離れた、何と言うべきか、仮に(ちょっと大袈裟かも知れないが)「文学的観点」と称するようなポイントから言うとすれば、「こいつ、ずいぶん金に汚いオッサンだよね」という印象は拭いきれないのである。いろいろな言い訳は用意されているみたいだが、金にきれいな人間ならまずしないだろうというようなことを、うんざりするほどしている (参照この件の魚拓)。

仮にうまく釈明して裁判を切り抜けることができたとしても、日産の幹部としては「もう、あの人とのお付き合いはゴメンです」と言うほかないだろう。要するに判決がどっちに転んでも、実質的にハッピーな結果にはならないということだ。

カルロス・ゴーン的には「法的抜け道」はいくつも用意したつもりだったのだろうが、日本人の「情緒的抵抗」への対策に関しては甘く見て、調子に乗りすぎたってことなんだろうね。彼がもう少し賢明だったらその辺りまできちんと計算していたんだろうけど、残念ながらそこまで頭がいいわけじゃなかったってことだ。

 

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2019年1月21日

松原団地の歴史に関するアーカイブが見つからない

先月 (ということは既に昨年) 23日付の朝日新聞 "「松原団地は歴史遺産」 開智高の研究が全国優秀賞" という記事にちょっと食指が動いていたのだが、この記事に載った以上の情報が見つからないので、ずっと書きそびれていた。

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「東洋一のマンモス団地」 と呼ばれた埼玉県草加市の松原団地の歴史について、開智高校の生徒がデジタル・アーカイブを作成してウェブ上で公開、その活動報告レポートが 第12回全国高校生歴史フォーラム」で優秀賞を獲得したのだという。なかなか面白い試みをしたものだと思う。

どうしてこの記事が目に留まったのかというと、実は私は学生時代(1970年代前半)に、この松原団地にある学習塾で講師のアルバイトを 2年以上続けたことがあったからだ。学習塾は団地の集会所を借りて、週 2回開かれていて、私は中学生に英語、国語、数学の 3教科を教えていた。とくに英語は教科書にとらわれないユニークな教え方をしていて、生徒たちには喜ばれていたと思う。

団地の最寄り駅は、当時は「松原団地前」といって、駅を降りると目の前には広大な団地が広がっていた。当時はこれが「東洋一の規模」とは知らなかったが、とにかく大規模なものという印象は強烈だった。

そして月に 1度ぐらいは、現場の集会所に着くとお通夜とか葬式とかが準備されたりしていて、学習塾は「休講」になることがあった。当時はケータイなんてなかったから、行ってみて初めてそれがわかり、すごすごと帰ったりしていた。団地内で人が死んでしまうとバイトの実入りが減ってしまうので、ちょっとガックリだったのを覚えている。

で、あまりの懐かしさに、開智高校の生徒がウェブ上に公開したという「デジタル・アーカイブ」なるものを見てみたいと思ったのだが、これが見つからないのである。「松原団地 アーカイブ 開智高校」等々、思いつく限りのキーワードで検索したのだが、どうしても見つからない。朝日新聞って、どうして記事上でそのアーカイブの URL を紹介していないんだろうか。ちょっと気が知れない。

さらに開智高校のサイトに行ってみても、それについて触れた記述が見当たらないのである。ウェブ上に公開された研究成果が優秀賞をもらったというのに、それにアクセスできないのでは、意味が半減してしまうではないか。

要するに、「優秀賞受賞」という実績が重要なのであって、その中身なんてどうでもいいと思われてしまっているのだろうか。そうだとしたら、なんだかなあという気がする。

 

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2019年1月20日

『ぐりとぐら』 って、御伽草子のオマージュだったんだね

「来年のことを言うと鬼が笑う」 と言われるが、我ながら気の早いことに、「来年は子年だから、ざっと年賀状用ネズミの画像の目星を付けとくか」 なんていう気になって、ちょっと画像検索してみたところ、おもしろいものが見つかった。子年になるのはずっと先だが、出し惜しみをせずにここで公開してしまおう。

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「ネズミ 浮世絵」のキーワードで画像検索をかけたところ、上に掲げた画像の上半分にある『野鼠の草紙』(「氏」 の下に 「巾」 と書くのは、「紙」 の異体字)というのが見つかった(参照)。一見してどこかで見たことがあると思ったら、そう、あの名作絵本『ぐりとぐら』の表紙とそっくりだったのである。

『野鼠の草紙』 というのは、「洞田創研究室 (Hajime Toda Laboratory)」というブログ・サイトの 2014年 8月 1日付の記事で紹介されているので、説明を少し引用させていただく。

今回ご紹介するのは、明治二年に刊行された『野鼠の草紙 (ノネズミノソウシ)』である。これは、合巻形式の草双紙であるが、文明開化の影響か、紙を横長に使った点に特徴がある。
なお、この 『野鼠の草紙』 の内容は 「根津の国のかくれ里に住む山鼠、小栗忠衛門と小倉屋忠吉が森で卵を見つけて “かすていら” を造る」 というたわいのないものであったが、それゆえに年少の子供に大評判となり、多くの続編が出たという。

『野鼠の草紙』というのは、明治 2年の刊行のようだが、現代の 『ぐりとぐら』 の方も、森の中で大きな卵を見つけ、それで大きな「カステラ」を作ったというストーリーが、まったく共通している。急にタイムトンネルを潜ったような気持ちになってしまうじゃないか。

室町時代から連綿と連なる古典文化の『御伽草子』 の一環として『鼠草子』というものがある。それは 「日本文化と今をつなぐ。Japaaan」 というサイトの "御伽草子 「鼠草子」 はネズミをとことん擬人化させた室町時代の物語" という項でばっちりと紹介されている

ということは、『ぐりとぐら』 って、『御伽草子』、とくに『鼠草紙』へのオマージュとして書かれたという意味合いもあったわけだね。世の中、よく調べてみるとなかなかおもしろい。

【1月 21日追記】

下のコメントをご覧になっていただけばおわかりのように、これはすっかり騙されてしまったようだ。

『野鼠の草紙』 の 「の」 の字が、完全に今のフォントであることに 「???」 という気はしていたのだが、そこにもっとこだわればよかったなあ。

 

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2019年1月19日

Mac ユーザーになって 5年経った

5年前の 2014年 1月 30日の当欄に "Mac を使うことによる 「しっくり感」 " というタイトルの記事を書いている。その 10日前の 1月 20日に Mac (MacBook Pro) を購入し、慎重に 1週間ほどかけてそれまでの Windows PC から Mac に移行したという話だ。ということは、今日は私が Mac ユーザーになって 5年目という記念日である。

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5年目を迎えた今日、「もう 5年も経つのか」という気分と、「まだ 5年目か」という矛盾した気分が相半ばしている。この UX (user experience)は、Windows PC とはビミョーかつ大胆に異なる。

「もう 5年も経つのか」と思うのは、この 5年前のモデルを相変わらず快適に使いこなせているという実感からの驚きである。Mac に乗り換える前は、3代続けて Panasonic の Let's Note を使っていた。こんな経緯である。

2004年 4月〜 2008年 3月  OS は Windows XP
2008年 3月〜 2010年 5月   同 Windows Vista
2010年 5月〜 2014年 1月   同 Windows 7

Windows XP モデルはかなり堅実で、もっと長持ちするかと思っていたが。3年 9ヶ月目で本体の RAM がイカれてオシャカになった。それに続く Vista モデルは、OS の印象同様にハードとしてもダサくて、2年 2ヶ月で HD が動かなくなってしまった。

その後に購入した Windows 7 モデルは結構頑丈で今でも電源を入れれば動くことは動くが、ディスプレイがショボショボで、長く向き合っていられない。

というわけで、先代までの Windows PC は概ね 4年もたずに次のモデルに切り替えていた。これは「新しもの好き」のせいではなく、3年経つと(Vista モデルは 3年もたなかったが)、「ああ、もう 3年使っちゃったなあ」というハード的限界感が濃厚に漂ったためである。

しかしこの Mac は 5年経った今でも、速度的にもディスプレイの見やすさでも完全に OK だ。SSD さえへたらなければ、あと 2年経っても大丈夫だろう。これは新しいモデルだけに性能が総合的に向上したということもあるだろうが、概ね Mac は Windows マシンに比べて高価格だが、コストパフォーマンスもいいってことのような気がしている。

一方で「まだ 5年目か」という感慨があるのは、自分が Mac に完全に馴染んでしまったことによるものだと思う。元々 MS−DOS や Windows マシンを使っていた頃から、「自分は本来 Mac ユーザーであるべきだった」 なんて思っていたぐらいだから、5年どころではなくもっとずっと前から Mac を使い倒していたような気分である。

おかげで周囲の Windows ユーザーからヘルプを頼まれても、今では「あれ、この場合はどうするんだっけ?」なんて迷ってしまうことがある。とくに Windows 10 なんて OS だと、かなり戸惑う。Windows 3.1 の時代から 20年も 使っていた私がビギナー・レベルにたたき落とされるというのは、Windows の暴力という気がする。

Mac ユーザーでも Word や Excel などの MS Office set を使うので、バージョンアップの度に、これまで当たり前にしてきた操作で戸惑いまくる (とくに Word)。Microsoft という会社が、ソフトウェアのバージョンアップの度にユーザー・インターフェイスを大きく変えまくるというのは、ほとんどビョーキと言っていい。

それに比べると、Mac の操作感覚にはしっかりした継続性があるのでありがたい。

 

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2019年1月18日

日本での Subway 不振に見る 「文化の違い」

近所のショッピング・センター内で買い物しながら軽く昼食にしようとフード・コートに立ち寄ると、Subway がクローズしているのに気付いた。たまたま休業の日に当たったのかと思ったが、よく見ると 「事情により営業を中止」 という貼り紙がしてある。

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何となく様子が尋常じゃないので iPhone で検索してみると、Subway の FC 店運営会社が破産してしまったという記事が見つかった。破産宣告の前から、続々と店舗が閉鎖されているらしい(参照)。 いやはや、そんなこととは全然知らなかったよ。

上述の記事によると、日本の Subway 不振の要因としては、価格の高さ、商品提供の遅さ、注文の難しさ、店舗の老朽化が挙げられている。ただ、最近ではショッピング・センターのフード・コートでの展開が増えているので、「店舗の老朽化」は決定的なものじゃないだろう。個人的には Subway の価格は言うほど高くないと思うが、「商品提供の遅さ、注文の難しさ」というのは、案外大きいかもしれない。

昼食をファーストフードであっさり済ませようという日本人の多くは、一言二言で簡単に注文するか、あるいは自動販売機でチケットを買って、サクッと商品を受け取り、後は黙々と食ってしまいたいというニーズなのかもしれない。そこへ行くとパンの種類とその中身、野菜の量、ドレッシングに至るまで多くのチョイスの中から好きな組み合わせを店員に口頭で伝えるという Subway 方式は、かなり異質だ。

讃岐うどんチェーンでも多くのチョイスはあるが、トッピングを無言でチョイスして自分で皿に取り、最後に支払いをする。ところが Subway では「キャベツは多めにね」とか 「パセリは要らない」とか、口頭で細かな好みを伝えるうちに、自分なりのオーダーを確定していくというプロセスを辿る。この辺りの「ハイタッチ(下の注参照)な多様性尊重」が、「おまかせ文化」の日本人にはうっとうしく感じられてしまうのかも知れないね。

日本での Subway の不振というのは、こうした「文化の違い」によるところが大きいと思う。ただ、Subuway の店頭に自動販売機が置かれ、チケットで注文を決めちゃうなんてことになったりしたら興醒めだ。それで馴染んじゃうと、米国の Subway では注文できなくなっちゃうなんてことになるだろうしね。

【注】
「ハイタッチ」 は両手を挙げた者同士で 「ポン」 とやることだと思われているが、これは和製英語で、本来の英語の "high touch" の意味は、「人間的な触れ合い、感性を大切にする」ということに近い。その対極が "high tech" (ハイテク)。

これはちょっと冗談ぽい話だが、私は約 7年前の "「ハートアタックグリル」 という命がけのジャンク" という記事に、ニューヨークの Subway での様子を次のように書いている。

日本でもおなじみのチェーン、Subway でサブマリンスタイルのサンドイッチを注文する時、「ハーフサイズ」(日本の Subway では基本の大きさ) と言うと、カウンターのおねえちゃんがびっくりして目を見開き、"Really?"(本当にそれでいいの?)なんて聞いてくる。

余計なお世話だと思ったが、見ていると、スキニーな若い女の子でも、倍の「ワンフット・サイズ」に、じゅるじゅるの肉をはち切れんばかりにはさみこんだやつを、当然の如く注文しているので、"Really?" と聞きたくなるのももっともな話かもしれないと、妙に納得してしまったりする。

日本では Subway の店員が「本当にそれでいいの?」なんてフレンドリーに聞いてくるってことは、決してないよね。

 

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2019年1月17日

東京オリンピックをきれいに洗っちゃえるか?

世間では今回のフランスでの竹田恒和 JOC 会長の起訴に関して、何だか降って湧いたような話みたいに言われているが、物覚えのいい人なら、2016年 5月頃から持ち上がっていたことを認識しているはずである。私もこのブログの 2016年 5月 17日付で、"「おもてなし」 には、やっぱり裏があった" というタイトルで書いている。

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あの頃、東京オリンピックのプレゼンに「お・も・て・な・し」なんて、自分だけでウケてる馬鹿馬鹿しいフレーズが使われ、ただでさえシラけていたのに、さらに「おもてなしの語源は裏表のないことです」なんてナンセンスな広告まで登場していた(参照)。そんな時に、「東京オリンピック招致委員会が、シンガポールのコンサルティング会社に約 2億 3000万円を支払っていた」という話が判明していたのである。

この事に関して私は、2016年の段階で次のように書いている。

ほかでもない。東京オリンピック招致委員会が、シンガポールのコンサルティング会社に約 2億 3000万円を支払っていたという件だ。招致委員会はこの支出は必要なコンサルティング料だったとシラを切っているが、この会社が国際陸連の前会長と関係が深かったというのだから、まあ、その使い道は賄賂だったのだろうね。

フランスの検察はヨーロッパの国の賄賂だったら、見逃していたかもしれない。しかしフランスに限らず、スポーツの世界の賄賂体質にはむかついていたのだから、アジアの非白人国の賄賂疑惑をこれ幸いと利用して、この世界の正常化を図ろうとしているんじゃないかと、私は踏んでいる。

で、今となっては「フランス、結構本気で取り組んでたんだね」と思っているわけだ。この件を日産の 「ゴーン問題の意趣返し」なんて報じている向きもあるが、2016年 5月は ゴーン逮捕の 1年半ぐらい前のことなんだから、この見方はかなり見当外れである。

とにかく、この「約 2億 3000万円」を支払ったシンガポールのコンサルティング会社 (実際にはペーパー・カンパニーだとか、さらに会社ですらないとかいう話もあるが) の名称が「ブラック・タイディングス」というのだから笑わせる。

どういうわけだか知らないが、「ヒンディー語でブラック・タイディングスとは、『闇マーケティング』や『黒いカネの洗浄』という意味がある」なんて、あの「東洋経済」が報じている(参照)が、これ、どう見ても英語の "Black Tidings" だよね。なんでまたよりによって「ヒンディー語」なんて持ち出さなければならないんだか、さっぱりわからない。

しかも ”Tiding" の原形と思われる ”Tide” というのは、元々は「潮流」とか「潮の干満」という意味だが、米国では有名な洗剤の商品名でもある。上の写真をご覧戴きたい。コストコに行けば、日本でもグロスでバンバン買っちゃえる。ヒンディー語なんて持ち出すまでもなく、あまりにも意味が露骨すぎだ。

というわけで、私としては東京オリンピックには始めからシラけ放題なのである。

 

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2019年1月16日

日本語になった 「トッピング」 という言葉の意味

下の写真は、先日入った立ち食い蕎麦屋のカウンターにあった「トッピングメニュー」というものである。たまご、きつね、コロッケ、わかめの他に「いなり 2ケ」というのがあって驚いた。いなり寿司をどんぶりの蕎麦の上に載せて食うというのか。

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「そんなのありかよ!?」と思いつつふと隣を見ると、お盆の上に蕎麦のどんぶりと「いなり 2ケ」の小皿が乗っかっている。蕎麦の上に載せるのではなく、サイドディッシュ的扱いのようで、一安心した。

それにしても、サイドディッシュとして提供されるものを「トッピング」と称していっしょくたに扱ってしまうのには違和感がある。もしかして "topping" という言葉が「トッピング」というカタカナになったとたんに、元々の「上に載せるもの」という意味を離れてしまったんだろうか。

三省堂大辞林では、「トッピング」 というのは次のように説明されている。(参照

トッピング 【topping】

料理や食品の上にのせたり飾りにかけるもの。ピザにのせる具やアイス-クリームに振りかけるチョコレート-チップなど。また,それを行うこと。

これは読んでホッとするような、まともな解釈である。一安心だ。しかし念のために、Wikipedia にも当たってみると、こんなようなことになっている。(参照

  • ケーキの上飾りなど、料理において仕上げの段階で飾りとなる食品などを盛り付ける調理法。また、その飾り付ける食品などのこと。見た目を良くするためや、味や栄養バランスの調整などのために用いられる。ローソクや人形など食品以外の物を追加する場合もある。

  • レストランなどの料理に用意された追加できる食材のこと。別皿で提供される物、混ぜ込む物、仕込みの段階で入っている物など上飾り以外の物でもトッピングと呼ばれる。食品以外でもオプションの事をトッピングと称している場合もある。

1番目の説明はまともだが、2番目の方はびっくりである。カタカナの「トッピング」は、「別皿」(つまり 「サイドディッシュ」ね)とか「オプション」とか言う意味ももってしまっているようなのである。言葉というのは生き物みたいなところがあるから、ひょっとしたことから別方向への進化を遂げてしまったりすることはあり得る。

例えば山形県の米沢辺りでは、「ありがとう」の意味で 「おしょうしな」(お笑止な) と言ったりする。「笑止千万」みたいなちょっと恥ずかしい気持ちということから転じて、その「くすぐったい気持ち」が「ありがとう」という意味をもってしまったようなのだ。(参照

今後、「サイドディッシュ」 とか 「オプション」 とかいう意味で「トッピング」という言葉が使われることが一般的になってしまうのかと思うと、私の故郷の庄内弁でいうところの 「笑止」 である。(庄内弁の 「笑止」 は 「しょし」 と発音して 「お恥ずかしい」 という意味になる)

 

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2019年1月15日

成人式の日とその翌朝は、警察が忙しい

相変わらず「平成最後のチョメチョメ」が大流行で、昨日は「平成最後の成人式」のニュースで溢れていた。お約束ネタの「大荒れ成人式」もしっかり発生していて、横浜アリーナで壇上に乱入しようとする派手な羽織袴の勘違い成人が YouTube にアップされまくりである。時代だよね。

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この他にも大分県では、屋根を取っ払った定員 5人の改造車に 8人の新成人が乗って成人式会場付近を乗り回したなんてことがあったようで(参照)、何だか成人式というのは「目立ちたがりがいろいろやっちゃう日」ということになってしまったようだ。ただ、数年前まではもっといろいろやっちゃってた印象があるが、最近は少しは分別がついたというか、おとなしくなったもののようである。

多くの自治体では成人式を前日の 13日にやってしまったらしく、茨城県でもそんなところが多かった。で、その翌日の 14日は、前夜に飲み明かしてそのまま運転しちゃうことによる「酒気帯び運転」が多発するようで、昨日、自転車で土浦の「りんりんロード霞ヶ浦コース」を走った時も、途中の道路で決して目立ちはしないが結構な警戒体制が敷かれていた。

朝の 9時過ぎ、繁華街から郊外の自宅に戻るといった道筋に警官がさりげなく立っていて、いかにも飲み明かしたような感じとか、シートベルトを締めていないとか、そんなような運転者を見つけるとすかさず次の交差点で待ち受ける同僚に連絡する。連絡を受けた警察官は、やってくるクルマの前でホイッスルを鋭く鳴らし、旗を振って止まるように促す。

様子をみていると止められちゃうクルマは案外多く、常に 3〜4台がフーセンを膨らまされる順番待ちになっていた。多分県内各所でこんなような取り締まりが行われていたのだろう。警察もなかなか大変である。

それにしても私が 20歳になった 1972年頃というのは「反体制文化」真っ盛りで、成人式なんていう官製イベントにいそいそとでかけるなんてのは「カッコ悪さの極み」ということになっていた。親しい仲間に成人式に出席したなんていうのは 1人もおらず、そんなものに振袖着て参加する女の子なんて、こう言っちゃナンだが「アタマ悪いんじゃねえの?」なんて思っていたものである。

しかし時代は変われば変わるものだ。今や若い連中が抵抗なく成人式イベントに出席するという世の中になったらしく、聞くところによると 「同窓会イベント感覚」なんだそうだ。ふぅん、自治体が開いてくれる「同窓会」に嬉々として、あるいは勘違いしまくりで集まっちゃうわけなんだね。

私なんか、成人式は和服業者の「利権事業」と思っているのだが。

 

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2019年1月14日

トランプは「壁を乗り越えろ」と檄を飛ばしている

米国の Daily Show という番組で流されたというビデオには、笑ってしまった。"Don’t Show Mexico This Video of Trump From 2004 We Found" (我々が見つけたこの 2004年のトランプのビデオを、メキシコに見せちゃいけない) というものである。

このビデオはトランプが、15年前にニューヨークの Wagner College という大学で名誉博士号を授与された際に、卒業する学生たちに向けたスピーチを行った際のものらしい。ビデオそのものは全編が元から YouTube で公開されていたらしいが、とくに注目されていたわけではないようだ。

しかしこのほど Daily Show のスタッフが、スピーチの終盤に聞き捨てならない発言を見出してしまったのである。こんなセリフだ。

Don’t give up.
Don’t allow it to happen.
If there’s a concrete wall in front of you, go through it.
Go over it. Go around it. But get to the other side of that wall.

(つたない翻訳で申し訳ないが、こんな感じかな)

諦めてはいけない。
それが生じるのを許してはいけない。
もし目の前にコンクリートの壁があっても、それをすり抜けろ。
乗り越えろ、迂回しろ、そして壁の向こう側に辿り着きなさい。

Mashable Asia の Nicole Galluncci は、これについての記事の冒頭で、"President Donald Trump is a master at giving mixed signals." (トランプ大統領は混乱したシグナルを出す達人だ)と述べている(参照)。まさに、「壁を乗り越えろ、向こう側に辿り着け」と煽った張本人がその 15年後に、メキシコ国境に壁を作るなんて寝言を言い出して、20日以上も政府機能を麻痺させているのだからね。

トランプの ”mixed signal" の深層意識としては、自らの処世譚をネタにして「諦めるな、壁を乗り越えろ」と言いつつも、「それが実際にできるヤツは多くない。俺はできたけどね」みたいな傲慢な考えなんだろう。「メキシカンにコンクリートの壁を越えられるわけがない」なんて思っているからこそ、壁建設に執拗にこだわっているのだ。

しかし 15年前のこのビデオは、米国を目指す多くのメキシコ人を思いがけなくもエンカレッジしたんじゃあるまいか。壁なんかない方がいいに決まっているが、不幸にして建設されてしまったとしても、なんとか潜り抜けてしまう者が続出するに違いない。

 

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2019年1月13日

「固有の文化」 と、クジラと改憲

古い友人が正月 7日を過ぎてから思い出したようにくれた年賀状に、「今年こそ憲法改正を実現させましょう」とか「これからはまた鯨が食えるのが嬉しいですね」 とかいう文言が添えてあった。彼は私のこのブログの存在を知っているはずなのだが、最近はとんと読んでくれていないらしい。

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憲法に関しては昨年の正月に書いた "当分の間「本籍・改憲派、現住所・護憲派」で行きたい" という記事へのリンクを、上の画像のように本宅サイトのトップ・バナーのすぐ横に置いているし、クジラに関しては "日本政府は IWC 脱退を決めたようだが" という昨年末の記事で疑問を呈している。つまりこの 2つのイシューに関しては、昨年のうちに態度を明らかにしているのだ。

というわけで、彼とはここ数年顔を合わせていないが、今後はますます距離が開いてしまいそうな気がしている。風の噂では日本会議系の団体に入っちゃってるというし、何だか話が合いそうな気がしない。

既に何度か書いていることだが、私は牛肉と豚肉はここ数年避けているし、鶏肉も止めて 2年近く経つ。ましてやクジラに至ってはここ何十年も食べていないのに、IWC を脱退するからといって思い出したように食う気には到底なれない。

捕鯨推進派は「鯨肉食は日本固有の文化」とことさらに主張していて、日本政府は、社説で日本の IWC 脱退を批判したニューヨーク・タイムズに、そうした論拠での反論を掲載したらしい(参照)。確かに「固有の文化」は尊重されなければならないが、それを錦の御旗のごとく掲げて突っ走るのも、何だかビミョーなところがある。

そもそも、日本人の多くが昔から連綿とクジラを食うことに親しんでいて、それなくしては食生活が淋しくてしょうがないというわけでもない。MAG2NEWS は、「約 7割が売れ残る。それでも日本が捕鯨を続けざるを得ない裏事情」 という記事で、次のように報じている。

調査捕鯨の名目で捕獲された鯨の肉は市場でセリにかけても 3分の1しか落札されず、残りは売れ残ってしまうそうです。それが地元の小学校で給食として提供されているそうですが、鯨の肉には大量の水銀が含まれており (参照:鯨由来食品のPCB・水銀の汚染実態調査結果について)、それを成長期の小学生の(ママ)食べさせるのは非常に危険です。

さらに、私も一昨年に "そろそろ捕鯨を止めようじゃないか" という記事で引用した 「日本とクジラ なぜ日本は捕鯨をするのか」(原文は "Japan and the whale")という BBC の記事を紹介し、日本の捕鯨に関する方針は、捕鯨関係者が多い選挙区から選出された数人の国会議員と、予算を失いたくない数百人の官僚たちの意向が大きいとして、次のように書いている。

(行き詰まっている) 原子力発電や(時代遅れの)スパコン事業にも言えると思います。一旦、「国家プロジェクト」としてスタートしてしまうと、作られた特殊法人(=天下り法人)やそのプロジェクトに強く依存する事業者が出来てしまうため、霞が関の担当役人や特殊法人そのものが「辞めましょう」とは言えない空気が出来てしまうのです。

まあ、クジラをどうしても食いたいという人に「絶対に食うな!」とは言わないが、このあたりの事情も理解した上で、自分の食うものを決めても遅くはないだろうと思う。「固有の文化」の尊重という点に関しても、日本は「切腹」や吉原などの「遊郭文化」を、即物的な観点からはとうの昔に捨ててしまっていることだしね。

しかしこれらは、廃止された今でも歌舞伎など(『仮名手本忠臣蔵』 四段目、六段目や、『助六所縁江戸桜』、『曽根崎心中』を見よ) のフィクションの中で脈々と生き延びているし、クジラを実際に生々しく食わなくても、語り継ぐことは十分に可能だろう。文化というのは 「リアルでやめたらすぐに廃れる」 というような、そんなにも即物的で脆弱なものじゃないってことだ。

 

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2019年1月12日

今年の冬は寒いと言われるが

先日、無農薬野菜作りをしている友人の畑に立ち寄ると、冬とはいえ、白菜、ナバナ、パクチーなどが元気に育っていた。帰りに野菜をもらって帰ったが、やはり無農薬で育てたものは確実においしい。

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彼の話によると近頃かなり寒いので、野菜の生育が例年に比べて少し遅れ気味らしい。11月頃に発表された気象庁の季節予報では「この冬は暖冬になる見込み」とのことで、確かに 12月の初旬までは暖かめだったが、中旬から急に気温が下がり始めて、年明けはずっと寒いままだ。

前にも何度か書いたことだが、明日か明後日の天気予報はかなりよく当たるようになったが、3ヶ月予報、いわゆる「季節予報」はなかなか当たらない。ここ数年のことを思い出してみても、当たらない確率の方が高いので、まともに信じない方がいいという印象だ。

ただこの冬は「厳冬」とは言わないまでもかなりの寒さに違いないが、昭和の終わり頃の寒さに比べると、それほどのものではない。私が東京杉並区からこのつくばの地に移転してきたのは 37年前の昭和 57年、つまり1982年のことだったが、あの頃の寒さはこんなものではなかった。

冬になると我が家の裏の川土手には毎朝びっしりと霜柱が立って、それを踏んで歩くと足が 3センチぐらいザクッと沈み込んだものだ。クルマのフロントガラスも真っ白な霜に覆われて、内側からしばらくヒーターの風を当てて溶かしていたものだ。最近ではそんなことになる朝は滅多にない。

家の中も暖房を切るとかなり冷え込んでいたので、引っ越して最初の冬、慌てて見るからに分厚い羽布団を買い込み、それを毎晩かけて寝ていた。しかし近頃ではその特別誂えのような羽布団はあまり使うこともなくなり、とくに冷え込む夜に出してかける程度のことになっている。つくばの冬は確実に暖かくなっている。

地球温暖化の傾向は、夏よりも冬の気温上昇において顕著なのだと言われている。昨年の夏は 40度越えの酷暑を何度か記録したが、冬の場合はしのぎやすい方向への変化だからなのか、あまり話題にはならない。

この程度のことで「今年の冬は寒い」というのは、ちょっと前の感覚からするとちゃんちゃらおかしいことなのかもしれない。

 

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2019年1月11日

ニセ札入り封筒を渡して財布を預かるという詐欺

昨日の昼過ぎにラジオニュースを聴いてたところ、「ニセ札入り封筒を財布と交換し、窃盗か」という「はぁ? 何それ???」というようなニュースが流れた。

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ニュースの詳細を知るには上の画像をクリックすれば拡大表示されるので、それを読めばいい。要するにこの男、「この **万円が入った封筒を、あの人に渡してほしい」 と、ニセ札入りの封筒を預け、「担保としてあんたの財布を預かる」と言って財布を受け取ったまま逃げるという手法で、犯罪を繰り返していたというのである。

見ず知らずの男からそんなことを申し入れられたら、「馬鹿も休み休み言え!」となってしまうに決まっていると思うのだが、世の中にはこんな話で騙される人間もいるらしいのである。

で、ここまで考えて、「そう言えば……」と、自分自身の遠い記憶がおぼろげながら蘇った。実は私も若い頃(20歳前後の頃だと思う)に、路上でアヤシげな男からこんなような話を持ちかけられたことがあった。今回逮捕された 79歳の犯人は 、「20歳すぎ(つまり 60年近く前)からやっていた」と供述しているのだから、もしかしたら、この男だった可能性が十分にある。

あまり詳しくは覚えていないのだが、新宿かどこかの雑踏でいきなり変な男が話しかけてきて、「現金入りの封筒を、ある人に渡してもらいたい」みたいなことを言う。「変なオッサンだなあ、自分で渡しゃいいじゃないかか」と思っていると、「あんたの財布を預かりたい」なんて、わけのわからないことを言い出すではないか。

「何じゃ、そりゃ???」である。当時の私は貧乏学生だったから、財布の中身なんてどうせ大した金額じゃなかったのだが、いくら何でも話が無茶苦茶すぎる。昔から警察は嫌いだったので 110番なんてしなかったが、「馬鹿なこと言ってんじゃないよ!」と、相手にしなかった。

当時、友人に「こんな変なオッサンがいたよ」と話すと、「それ、結構有名な詐欺の手口らしいから、気をつけた方がいい」と忠告された。いや、気をつけるも何も、こんな馬鹿な話に乗って自分の財布を差し出すやつがいるなんて信じられないじゃないか。しかし実はまんざら、いないこともないので 21世紀の今日まで続いているのだね。

というわけで、こんなニュースを聞いて、タイムマシンにでも乗ってしまったような気がしたのだった。それにしても 40数年前の私は、たやすく騙されそうなボンヤリ顔をしていたのかなあ。

 

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2019年1月10日

酒と脳の記憶に関する甘美な考察

本日付の Gigazine に「アルコールが脳の記憶に影響するためアルコール中毒が生じている可能性」というニュースがある。

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「確かに、飲み過ぎて記憶が飛んじゃうってこと、あるもんなあ」と思いながら記事を読み進んだが、結局内容はよくわからなかった。言い訳をすれば、私の読解力が足りなかったわけじゃなく、この研究自体が途中段階にあるために、結論的なことまでは解明されていないということのようなのである。

イリノイ大学のチームによって行われたこの研究では、報酬や回避の記憶を作り出すときに出される信号の仕組みが基本的に人間と同様であるキイロショウジョウバエというハエを使って実験が行われたという。へえ、人間って、そのあたりの心理メカニズムはハエと同じなのか。

その結果、ハエがアルコールを好む原因が、ドーパミン受容体 (D2 様受容体) の発現に関わるシグナル伝達に影響を与える「Notch たんぱく質」にあることが判明したという。その たんぱく質が働くことで「悪い記憶よりも良い記憶の方が保持されやすくなるのではないか」とみられているようなのだ。

ということは、大酒を飲むことで「都合のいい甘美な記憶が優先的に残り、否定的教訓につながる苦い記憶は忘れてしまいがち」になるってことなんじゃないかと、私は自分なりの暫定的翻訳で解釈している。「酒に逃避する」って、脳内のこうしたメカニズムで引き起こされる傾向なのかもしれないね。

酒と記憶という問題に関しては、同じ Gigazine の 昨年 10月 3日付の「アルコールの飲み過ぎによって『記憶が飛ぶ』現象はなぜ起こるのか?」という記事で報じられており、「飲酒による記憶障害は、記録用テープの途中が切れてしまうようなものです」と説明されている。「なんだ、そんなことは昔から体験的にわかってたよ」と言うほかない。

もう一つ、酒と認知症の関連についても、昨年 8月 3日付で「中年期に『お酒を飲まなかった人』は認知症リスクが『高い』という研究結果」という記事で触れられている。

この記事によると、中年期にまったく酒を飲まなかった人の認知症発生リスクは、普通に飲んでいた人より 45%も高いというのである。これは酒をまったく飲まなかった場合に、心血管疾患のリスクが高かったことによるとみられているらしい。

ただし飲めば飲んだで、飲酒量に正比例してリスクが高まり、「週あたりのアルコール消費量が 7ユニット増加するごとに認知症リスクが 17%増加した」と報じられている。この場合の「1ユニット」とは、酒に含まれる純粋なアルコール 10ml を指す。

要するに「お酒はほどほどに」ということのようなのだ。この結論もまた、当たり前すぎて拍子抜けである。人間は神代の昔から酒を飲みつけているので、「酒との付き合い方」は別に学問的研究によらなくても、経験則としてわかっていることが多いようなのだね。

ちなみに私は、最近ではめっきり酒量が減ったが、2000年代の初め頃まで(まさに中年期)は、酒を飲みながらブログを更新することもしょっちゅうだった(参照)。ただ、ブログ更新しながらということは、それほど大酒を煽っていたわけじゃないので、認知症リスクはさほど大きくないと思っていてもいいかもしれないね。人生、何が幸いするかわからない。

 

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2019年1月 9日

楽天カードは、なかなかシュールなカードであるらしい

昨年末に「はぁ?」というような tweet があった。亡くなった父親の楽天カードの解約を電話で申し入れたところ、「ご解約には必ずご本人様からご連絡を頂く必要があります」と言われ、そのまま電話を切られたというのである。(参照

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楽天カードというのは、なかなかシュールなカードであるらしい。よほど見かけ上の会員数を減らしたくないのだろう。まあ、名義人がいなくなったのだから、その後はカードが使われることもなく、支払いも発生しないわけで、放っておいても実害はない。とはいえ、身内としては複雑な気分に違いない。

楽天カードといえば、私にも妙な思い出がある。5年ぐらい前に、「今、楽天クレジットカードを申し込めば、もれなく 1万円分の買物券プレゼント」とかいう店舗でのキャンペーンに不覚にも乗ってしまって、サクサクッと申込書に記入したところ、なんとその場でカードを発行してくれた。買物券は追って郵送されるという。

ところがその買物券というのが、待てど暮らせど送られてこない。どうなっているのかと、一応電話で問い合わせるてみると、「そのキャンペーンは既に終了しました」なんていう返事である。あまり馬鹿馬鹿しいので早々に電話を切った。

ああ、なるほど、その手があったわけね。自分の懐の痛む話は、さっさと終わっちゃえばチャラにしちゃえると思ってるわけね。楽天って、そういう会社だったのね。

というわけで、そんなカードは使う気になれず、決済用の銀行口座登録もせずに鋏で切って捨ててしまった。すると、あれから 5年も経つというのに、「銀行口座をご登録下さい」というメールが毎月律儀に届くのである。こちらは他のカードで十分に用は足りているから、ずっと無視しっぱなしだが、私の名前は楽天カードの会員として登録されっぱなしなのだろう。

もしかすると、らびすけさんの亡くなった父君のメルアドにも、ずっと「今月の決済額は 0円です」というメールが届き続け、遺族によるメルアド解約後は、楽天側に毎月、「メールの宛先不明です」として返送されるのだろう。もとより「本人からの解約通知」は不可能なのだから、この状態は永遠に続くのかもしれない。

 

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2019年1月 8日

サンゴを「移しております」だって?

昨日の NHK テレビ『日曜討論』での安倍首相の発言が、「ウソ連発」と大炎上している。ところが当の本人としては、自分の寝言的発言をまんざらウソとも思っていない風情でノホホンとしているので、ますます馬鹿馬鹿しくなってしまうのだが。

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私自身は昨日、日曜だというのに朝から仕事に出ていたので、『日曜討論』なんて見ていない(仕事でなくてもそんなもの見ないし)ので、LITERA の記事に当たると、安部総理は今回強行した辺野古の埋め立てに関して、こんなことをほざいていたらしい。(参照

「で、いま、土砂が投入されている映像がございましたが、土砂を投入していくにあたってですね、あそこのサンゴについては、移しております」

まるで軽い引っ越し荷物みたいな言い方である。確かに稚拙なアリバイ作りとして、サンゴの移植みたいな作業をしなかったわけではないらしい。それについて LITERA は次のように報じている。

たしかに、昨年7〜8月に沖縄防衛局は辺野古側の埋め立て海域で見つかった絶滅危惧種のオキナワハマサンゴ 9群体を採捕・移植しており、安倍首相もこの件をもって「サンゴは移した」と大見得を切ったのだろう。

しかし、現実には、土砂が投入されている区域付近で移植が必要なサンゴはこれ以外にも見つかっているのだ。

たとえば、K4護岸付近では、準絶滅危惧種であるヒメサンゴが見つかっていた。当初、防衛局はこのヒメサンゴを移植しようと特別採捕許可を申請していたが、移植先の選定が適当ではないとの理由で不許可に。すると、防衛局はこのヒメサンゴを移植対象から外して護岸工事を進めた

まともな知性と感性があったら、この程度のことで「移しております」などとは言えるものではない。家庭菜園のトマトだって、知り合いから株をもらってきて移植したら枯れちゃったなんてことはいくらでもあるのだ。

サンゴが容易に移植できるものなら、そこら中からどんどん集めてきて移植し、「沖縄サンゴ園」みたいなものでも作ればいい。しかし実際にはそれをやろうとしても「白化現象」などが続出して困難極まりないから、絶滅危惧種なのである。ましてやサンゴが自生する海を埋め立てる行為は、中途半端な移植の試みなんかでチャラになるような話じゃない。

つまり、LITERA の記事では 「移植が必要なサンゴはこれ以外にも見つかっている」 とあるが、実際に必要なのは「移植」などではなく、「環境保全」であったはずなのだ。

誰から急作りのレクチャーをされたのか知らないが、安倍首相がこんなデリケートなことを何の疑問も抱かず真に受けて、全国に放送される政治討論番組でいけしゃあしゃあと「移しております」なんて言えるのは、無知蒙昧のなせるワザである。この程度の人で首相が務まるのというのが、日本の不幸なのだとしみじみ思う。

 

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2019年1月 7日

人のグラスに勝手にビールを注ぎ足す 「奇習」

Nifty ニュースが "グラスに注ぎ足しながらビールを飲むのは「奇習と言っていい」  見直して欲しい! 飲み会の妙な習慣" という記事を載せている。

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この記事の発端となったのは、らくからちゃさんというブロガーの 12月 15日の記事らしい。「わたしが苦手なのは、まだ飲みきってもいないのに、ちょっとでも空きがでたもんなら『どうぞどうぞー』と継いでくる(ママ)人の存在」 と書かれている(参照)。

確かにこれ、まことにもって妙な習慣で、私は飲み会に出てもよっぽどのことがない限り他人のグラスにビールを注ぎ足すなんてことはしない。飲みたけりゃ、自分で注げばいいだけのことだと思っている。

社会人になりたての頃 (40年以上前のこと)、会社の飲み会で上司や先輩のグラスのビールがちょっとでも少なくなると、古参のオッサンに 「何をしてるんだ、部長のビール、注がなきゃダメじゃないか!」なんて怒られたものだ。

あれって、当の部長にビミョーに聞こえるように言うのは、「私はこんなにまで上司に気を使って、新人教育を心がけてますから!」というアピールのつもりなんだろうね。仕方がないからその時だけは注ぐが、後はできるだけ気付かぬふりをしていた。まったくもって俗世間とは面倒なものである。

件の Nifty ニュースの記事では、ビールの注ぎ足しを勧めない理由として「これ以上ビールを飲みたくないと思っていても、注ぎ足されたら飲まなければならなくなってしまう」「ビールを継ぎ足すと、せっかく冷えたビールとぬるいビールが混ざってしまい、いつまでたっても鮮度の高いビールが飲めない」などと書かれている。

ただ私としては、「注がれたら飲まなければならない」なんて思ったことはないし、「冷えたビールが一番おいしい」ということにも疑問を抱いている。早く言えば、日本の飲み会で本当に美味しいビールを飲もうなんて、初めから無理な相談なのだ。個人的には本場ドイツ、フランクフルトのバーのように、ビールが多少生ぬるくなるのを構わず、時間をかけて注ぐのがベストだと思っている (参照)。

日本の飲み会では、どうせ単なる付き合いでテキトーな飲み方をするのだから、せめてこちらのペースを無視して無理に注ぎ足されることのストレスからは解放されたい。ところが「過剰な上下関係と同質化要請」が不思議に共存する日本社会は、それを許さないのだ。私が「オッサン同士の飲み会」を避けるのは、このためである。

ただ私も年を重ねて、飲み会の中で最年長みたいなことになる機会が増えてきたので、最近はそれを笠に着て、「今日は原則手酌で自分のペースで飲むことにするから、勝手に人のグラスにビールを注ぐのは禁止!」と最初に宣言してしまう。これ、はっきり言って後輩たちにとても好評だ。

 

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2019年1月 6日

立憲民主党の伊勢神宮参拝 tweet

立憲民主党が枝野代表一行の伊勢神宮参拝を Twitter の公式アカウントで報じたところ、一部の支持者たちから猛反発をくらっていると報道されている。(参照

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反発しているのは主に同党の左派系支持者たちらしく、「自民党と同じことをするなら、支持しない」 「信仰、宗教に関わることはそれぞれの個人アカウントでツイートしたらどうですか?」 「クリスチャンとして御党を応援する立場としては、ケンカを売られた気分だ」 などと、批判的コメントが相次いだらしい。まあ、確かに自民党あたりは公式アカウントではこうした書き込みはしないらしいのだが。

この問題に関しては私の感覚からすると、立民党の方も噛みつく左派系支持者の方も、どちらもややナイーブすぎる気がする。「自民党と同じことをするなら支持しない」 なんて言い出したら、それこそこの国で支持できるのは共産党ぐらいしかなくなってしまう。

「信仰や宗教関連は、個人アカウントで」 というのも、確かに 「政教分離」 の原則からいえば正論だが、実際にはその境目の判断が難しい。立民党としては 「この程度のことは宗教行為というより 『正月の慣例』 に過ぎない」 ぐらいに思って、軽い気持ちで tweet しちゃったんだろうが、こうした問題にとことんこだわりたい人にとっては、譲れない問題ということになってしまう。

「(クリスチャンとして) ケンカを売られた気分だ」 というコメントに至っては、「じゃあ、教会のミサに出るなら OK なのね?」 とツッコみたくなってしまう。これって結局、ことさら過剰反応しなければ、別にどうということのない問題だったんじゃないかなあ。

それからちょっと問題はズレるが、蓮舫さんの参拝姿、どうもこなれてないよね。神仏関連のテーマは似合わない人という印象だ。

 

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2019年1月 5日

Google Chrome ブラウザでキャッシュをクリアする方法

新年を機に、このブログのタイトル・バナーを変更した。これまでは長らく京都大原宝泉院で供されるお茶とお菓子の画像を使っていたが、ちょっと気分を変えようというわけで、昨年 1月に旅した北海道旭川 (思い出すだけで寒くなる) の光景を使うことにした。既に表示させてわかっている人にはわかっていることで、今さらのようだがこんな感じである。

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ところが、ココログ管理ページ上でのタイトル・バナー変更作業は簡単に終了したのだが、なぜか自分のブラウザーに表示されるのは、変更前の宝泉院のお茶とお菓子 (下の画像) のままなのである。何度再読込みしても、それは変わらない。

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いくらなんでもおかしいので、いつもは Google Chrome をデフォルト・ブラウザとして使っているのだが、試しに Safari を起動して表示させてみた。すると何のことなく、森林の雪景色の新しいバナーが表示されるではないか。

それを確認した上で再び Chrome に戻ってみたが、相変わらず宝泉院のお茶と茶菓子である。こうしてみると、Chrome というブラウザは以前に読み込んだキャッシュ・データを、かなり頑固に死守して表示する傾向があるみたいなのだ。お茶と菓子も悪くはないが、せっかく変更したのだから、さっさと新しいバナーを表示してもらいたいではないか。

というわけでサクッとキャッシュ・クリアの操作をすると、一瞬にして Chrome 上でも森林の雪景色が表示されたのだった。めでたしめでたし。

ただ、自分のブラウザ上での表示は解決したのだが、このブログをむために Chrome をお使いの方々の中には、もしかしてまだ京都大原宝泉院の世界のままでご覧になっている方が多いかもしれないと気になり始めたのである。今日を機会にキャッシュをクリアして新しいデザインでブログを読むことをお薦めしたいので、改めてこんな記事を書いているわけなのだ。

Chrome のキャッシュ・クリアの方法は、前はもっと面倒だったが、最近のバージョンではとても簡単だ。Windows 上で Chrome を使っている場合は、"Ctrl" + "Shift" + "Delet (あるいは Del)" の 3つのキーを同時打鍵すればいい。Mac の場合は "command" + "shift" + "Delete" の同時打鍵となる。

たったこれだけの操作で、お茶と菓子が一瞬にして雪景色に変わる。あるいは、まだキャッシュ・データのままで、お茶と菓子が表示されている方が、簡単な操舵で胸のすくようなダイナミズムを味わえるので、よりラッキーかもしれない。

【追記】

実は自分の iPhone の Chrome で、どうしてもキャッシュがクリアされずに難儀しているところである。いやはや、困ったもんだ。

 

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2019年1月 4日

PC を使っての年賀状作成今昔

昨日は年賀状の枚数をなかなか減らせないしがらみについて書くついでに、これまでの私の年賀状コレクションを紹介させていただいた。手元に残っている年賀状の画像データは、平成 11年 (1999年) のものが一番古い。こんなのである。

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20年前の卯年の画像で、ファイル形式も昔懐かしの GIF。この頃は Windows 98が出て間もない頃だが、これは多分 Windows 95 マシンで作ったものだ。いかにも初歩のコンピュータ・アートという風情である。下の方に白い空白スペースがあるが、ここに手書きの挨拶なんかを書いたもののようだ。

ただ、思い出すに付けてこの頃の年賀状のプリント作業は時間がかかった。当時ののインクジェット・プリンターというのは、印刷スピードがやたら遅く、しかも頻繁に給紙ミスでジャムっていた。そうした事情はその 7年後の 2006年になっても変わらなかったようで、その年の年末の「年賀状は手間がかかる」という記事で、こんなふうに嘆いている。

印刷を計時してみると 1枚あたり 130秒かかっているので、150枚だと単純計算で 5時間 40分、実際には 6時間以上かかるだろう。

というわけで、夜の 7時頃から始めた印刷が、夜中を過ぎてもまだ終わらない。持久戦である。

10数年前までは年賀状印刷は、果てしないと思えるほどの長時間作業だった。それが、7年前の 2012年に EPSOM 804A という、ごくフツーの家庭用インクジェット・プリンターを導入してからは、1枚プリントするのに 15秒もかからなくなった (参照)。100枚程度の印刷なら 30分以下で済む。テクノロジーの進化というのはすごいものである。

というわけで、前世紀末から PC を使って年賀状デザインをしてきたわけだが、これまでのベスト・スリーをあげると、こんな具合になる。来年の子年は、これらを超えるものを作りたいと思っているが、さて、どうなるだろう。

1位: 平成 25年 (2013年) 巳年

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2位: 平成 22年 (2010年) 寅年

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3位: 平成 28年 (2016年) 申年

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2019年1月 3日

年賀状の枚数を減らせないしがらみ

今年は年賀状を出す枚数を大幅に減らそうと思っていた。去年の年賀状は、一昨年の年末に 100枚弱を印刷して出し、年が明けてから、こちらから出していないのに届いてしまった分をプリントし直して、結局 120枚ぐらいの枚数になったから、今年はもっと減らすつもりだったのである。

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というわけで、念のために 100枚買って確保しておいたが、それを全部使うつもりはなく、年末にプリントしたのは、絞り込んだ末の 70枚程度だった。この年になると、亡くなってしまった親戚や知人も増えるし、滅多に顔を合わせることもなくなった勤め人時代の知人宛は、「もう、そろそろいいか」ってなことにしたつもりだったのである。

「これで、年々枚数を減らしていける」と思っていたのだが、いざ元日になると、「もう、今回はパス」と思っていた昔の知人から相変わらず年賀状が続々と届くのである。仕方がないので、改めて彼ら宛をプリントし、投函した。正月 2日は年賀状配達はお休みのようだったが、3日目の今日、またしても新たな年賀状が届き、プリントの補充をする羽目になった。

というわけで、結局のところは昨年と同じ枚数とまではいわないが、100枚以上の年賀状を出すことになってしまっている。これ本当に、何とか減らせないものかなあ。

こう言っちゃナンだが、私は年賀状の枚数は抑えたいと思いつつも、中身は凝りたい方なので、コンビニで買ってきた子供だましみたいなデザインのもので済ますなんてことはしない。となると自然、毎年の年賀状を楽しみにしてくれる人も増えてしまい、ついほだされてさらにあれこれ考えて作り込んでしまうことになる。(下のバナーをクリックすると、これまでのコレクションが表示される)

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ところで、Yahoo ニュースに「年賀状はアナログ時代の遺物!?~発行枚数減少でも CM 増が示す時代状況~」という記事があり、それによると、年賀葉書の発行枚数は年々減少していて、日本人の 5人に 1人は「年賀状を出さない」という時代になっているらしい。そして「出す」という人でもメールや SNS で済ませる人がどんどん増えているようなのだ。

できることなら私も、ネットで済ませたいところだが、何しろ PC もスマホもできない(あるいは多少はできても、めったにチェックしない)年配の親戚や知人が多くて、そういうわけにもいかないのが痛恨である。もう 10年も経ったら、「年賀状は完全にオンラインで」ということにできると思うが、それまではシコシコプリントして送らなければならないだろう。

そして上述の記事には「年賀状を出す理由」という調査結果が載っていて、それによると「日頃の感謝: 42%、なんとなく習慣: 34%、義務感 (本当はやめたい): 24%」となっている。これ、実際には単純に割り切れるものではなく、1人の人間でも出す相手によって、これら 3つの理由が錯綜してしまうと思う。

年賀状の宛先のうち、「なんとなく習慣」 のうちの半分と「義務感 (本当はやめたい)」の全部を「もう出さない」と決めてしまえば、年賀状プリントもずいぶん楽になると思っていたのだが、今回それを実行してみても、結局先方から届いてしまうので、お返しみたいに書いちゃうことになるのだよね。

このしがらみは、なかなかスッキリとは行かないものである。

 

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2019年1月 2日

中国経済の冷え込みの影響が出始めてるらしい

私は日本中いたるところに出張で行く機会があるのだが、いわゆる「観光地」と言われるところのホテルは、今や中国人旅行者で一杯の様相を呈している。とくに京都と奈良の観光スポットやホテルでは、大きな声の中国語しか聞こえない状態だ。

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ところが実は、マンハッタンとパリにあるデザイナー・ブティックは、ブランド中国経済の冷え込みによって失速し始めているのだという。とくにルイ・ヴィトンやバーバリーなどの高級ブランドが打撃を受けているらしい(参照)。

こんな話を聞くと、日本の「バブル経済期」の状況を思い出してしまう。あの頃は、世界中が日本人の大盤振る舞いを当て込んでいて、それまで日本人なんて決して歓迎していなかった欧米の高級ブランド・ショップが、掌を返したように日本人の嗜好に合わせた品揃えをするまでの変わり身を見せていた。何だかんだと言っても、世の中、金の力で動いてしまうのである。

ところが最近では、中国内で高級品を破格の値段で放出するアウトレット・ストアが増えていることもあり、旅行先の高級ブティックで散財する中国人は減っているというのである。バブル期の日本人もモロにそうだったが、求めているのはデザインなどの「商品的価値」なんかじゃなく、「高級ブランドのラベル」でしかないから、経済がちょっとアヤシくなると、安い方に流れる。

とくに最近の経済というのは、「本当に必要な品物が売れて経済が潤う」という次元にはなく、「余った金の使い道としての投資が一人歩きする」という状態である。つまり「物の動きと連動して金が動く」のではなく、単に「数字が動いているだけ」に近いのだから、なんらかの情報によって数字の動きが鈍ると、とたんに経済全体が打撃を蒙る。

そんなこんなで中国経済が冷え込んでしまうと、とたんに世界中が冷え込み始める。私自身は、前世紀の「バブル経済」の恩恵にはほとんど浴していない(逆に、外資系団体なんかにいたので、円高による打撃でひいひい言っていた)代わりに、バブル崩壊でもまったく打撃を蒙らずに済んだ。金の問題の妙な動きには、積極的に関わらない方がいい。

中国の経済冷え込みが本格化すると、日本の観光地も少しは静かになるかもしれない。

 

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2019年1月 1日

恭賀亥年の山くじら

明けましておめでとうございます。恒例により、新年の年賀状画像をお届けします。今年もよろしくお願いいたします。

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(ここから、いつもの調子)
今年は亥年ということで、動物はイノシシが当てはめられている。ただ私はどういうわけか、ナマでイノシシを見たことがまだない。十二支の中でナマの姿を見たことがないのは、自分の干支の辰と、イノシシだけである。まあ、辰をナマで見られないのは当たり前だが。

とはいえイノシシは足跡だけなら何度も見たことがあり、単に直接見たことがまだないということのようだ。茨城県はちょっと田園地帯に脚を伸ばせば、イノシシはいくらでもいるもののようで、田畑をイノシシに荒らされて困っている農家の人は多い。

ちなみに 12年前の亥年の元旦には、「猪」という漢字は、本家本元の中国では「ブタ」のことを指すというウンチクを書いている(参照)。確かに、気合いの入った中華料理店のメニューで「猪肉」と書いてあるのは「豚肉」のことだものね。

賀状にフィーチャーしたのは、歌川国芳の役者絵。右は六代目坂東三津五郎、左は五代目瀬川菊之丞である。天保 2年 11月の顔見世芝居で初代沢村訥升(後の五代目沢村宗十郎)襲名披露のものだが、演目不明。この絵の左に肝心の訥升が描かれているが、猪肉をさばいている場面のため、肉を食わない私としては、悪いけど省いた。

天保年間といえば、私が修士論文で書いた七代目市川團十郎の頃で、なんだか妙に親近感を覚える。芝居の演目は『歌舞伎年代記』という本で調べればわかるはずだが、この辺りの図書館には置いてないだろうなあ。論文を書いた頃に入り浸った早稻田大学の演劇博物館にはどさっとあるけど。

絵の看板にある「御ぞんじ 山くじら」の「山くじら」というのは、「猪肉」(イノシシの肉)のこと。獣肉ということをあからさまにしないために、「牡丹」とか「山くじら」とか言っていた。ちなみに鹿の肉を「紅葉」ということもあるので、その由来は花札の絵札にあるという人もいるが、それは信憑性が低い。牡丹の絵札は「蝶」で、猪が描かれているのは 7月の「萩」の札だし。

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「くじら」にしても「獣肉」には違いないのだが、江戸時代の知見では「やたら大きな魚」みたいに考えていたのだろうね。そして日本は今年、クジラを食うために IWC を脱退するのだそうだ。今度はクジラの方が「海いのしし」みたいなことになっている。

【2021年 1月 6日 追記】

「この絵の左に肝心の訥升が描かれているが、猪肉をさばいている場面のため、肉を食わない私としては、悪いけど省いた」と書いたが、よく調べてみると、訥升がさばいているのは猪肉ではなく、うなぎのようだ。

そこで、2021年 1月 6日付記事に完全版の絵を掲載させていただいたので、よろしければご覧いただきたい。

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