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2019年2月に作成された投稿

2019年2月28日

レジ袋の有料化は、個人的には歓迎

原田環境大臣が、「レジ袋の有料化を全国一律公平に行う」という方針を明らかにした。早ければ来年中にも実施されるらしい。

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近所のスーパーではレジ袋はだいぶ前から有料化されていて、「マイバッグ」を持つのが当たり前になっている。それに対してコンビニではレジ袋を付けるのが当然みたいで、暖かいものと冷たい飲み物を買った場合なんかは、下手すると「袋、分けますか?」なんて聞かれる。冗談じゃない。ただでさえレジ袋なんてもらうのはためらわれるのに、ことさらに罪の意識を倍増させないでもらいたい。

さらに言ってしまうと、「分けますか?」と聞かれるようになったのはごく最近のことで、その前は当たり前のように レジ袋を 2つ使おうとしていた。私なんか慌ててそれを阻止していたほどである。

というわけで、個人的にはレジ袋の有料化は歓迎である。こちらとしては、常に「マイバッグ」を持っていればいいというだけのことだから、別に何の面倒もないし、余計なゴミも出さずに済む。

環境省によれば有料化の詳細は今後の検討に待つということで、「消費者への影響も大きいことから」実現は早くても来年以降になるという。「消費者への影響」が大きいなんて、考え過ぎというほかないと思うがなあ。

今日は友人の通夜に出席して疲れたので、これにて。

 

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2019年2月27日

「オレオレ詐欺」を防ぐには

神戸新聞の "スーツ「ダブダブ 不振に 質問したら 18歳「受け子」だった" という記事に、少々笑わせてもらった。18歳の少年が、兵庫県宝塚市の高齢女性から息子を装って現金 200万円をだまし取ろうとしていたのだという。

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記事によれば 「女性と路上を歩く少年のスーツが『だぶだぶ』で体形に合っていないことを不審に感じた捜査員が、少年に職務質問し、事件が発覚」した。この時女性は少年に手渡す現金を用意しており、被害に遭う寸前だったというのだから、危ういところだったわけだ。

この記事を最初に読んだのは読売新聞のサイトで、そこでは、「現場を車で通りかかった署員が、スーツ姿の不似合いな男と女性が話している様子を不審に思い、職務質問」と伝えられていた(参照)。「それだけのことで『怪しい!』と判断する捜査員の直観ってすごいな!」と、私は素直に驚いていたのである。

「スーツが似合わない」というだけでそんなことになるのだったら、私なんかしょっちゅう職質されるだろう。いや、実際にはスーツなんて滅多に着ないから、そんな心配はないか。

この件を扱った「2ちゃんねる」のページには、


6 :名無しさん@1周年:2019/02/26(火) 15:37:44.36 ID:CygQu+st0.net
>スーツ姿の不似合いな男
おまいら

7 :名無しさん@1周年:2019/02/26(火) 15:38:04.29 ID:tmxUDKFn0.net

スーツはな

就活の頃から着こなしていないと
いきなり無職の 22歳が着ても不自然で着こなせないよ

無職にはムリさ

というのがあって、「まさに!」と思ってしまった。なかなか鋭い指摘である。ただ実際には、だぶだぶ過ぎて、一見して不審な着こなしだったというので、「それならわかりやすいかもね」と納得した。

それにしても世の中には、こんなようなバレバレの詐欺ストーリーに簡単に騙されてしまう高齢者が多いようなのである。いくらテレビなどで 「詐欺に注意」 と呼びかけても、いざ自分にそんなような電話がかかってくると、頭の中身がぶっ飛んでしまうのだろう。あるいは「息子に頼りにされた」という 「ちょっと歪んだ嬉しさ」が、正常な判断力を鈍らせてしまうのかもしれない。

ちなみに 7年前に死んだ父が生前、「ウチにも『オレオレ詐欺』の電話がかかってきたことがある」と語っていた。以下は実際には庄内弁の会話だったのだが、便宜上、フツーの日本語に翻訳して記す。


私: 「さすがに、騙されなかったわけね」
父: 「だって、お前は俺に標準語で電話してきたことなんてないだろうよ」

その電話の主は、私の名をかたりながら共通語でしゃべっていたらしい。あり得ない話である。というわけで、故郷の言葉は大切にすべしと確認できたのであった。

 

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2019年2月26日

「離婚のリアル」という連載

東洋経済が 「離婚のリアル」 という連載をしている。筆者は「孤独死大国」などの著書もあるライター、菅野久美子氏。この人、結構ショッキングなルポをする人のようだ。

190226この連載記事の冒頭に記されるリードは「単純計算すると 3組に 1組の夫婦が離婚している日本。そこに至るまでの理由は多種多様だ。そもそも 1組の男女が、どこでどうすれ違い、別れを選んだのか」というもので、「へえ、離婚ってずいぶん多いと思ってたけど、そんなに多いのか」と、単純に驚いてしまう。

そういえば身近なところでは、隣家には 2人の出戻り娘がいるし、私のいとこの離婚率もざっと 4割に近い。親族として結婚式に出席した時の印象ではやたらと仲睦まじそうな「お似合いの夫婦」に見えたのに、10年も経つと「別れました」なんて知らせが来るのだから、どんな事情があったのか知らないが驚いてしまうよね。

ずぼらな私の感覚としては「離婚するくらいなら、結婚なんてしなければいいのに」と思う。だって結婚も離婚も、どちらもかなり面倒なことじゃないか。どうしてそんな「面倒に面倒を重ねる作業」をするのか、不思議でしょうがない。

そんなことを言うと、「結婚する前に『別れちゃうかも』なんて考える人はいないよ」なんて言われる。しかし、本当にそうだろうか。上述の連載を読むと、本当に自覚的に「我々、末永く大丈夫」という自信があって結婚するカップルって、それほど多くないんじゃなかろうかという気がしてしまう。

例えば上述の連載 10回目(本日付)の "結婚 8年、46歳で別れた公務員夫が受けた屈辱 「箱入り娘」 妻の身勝手に振り回され続けた" という記事を読むと、結婚までのいきさつがそもそもひどい。職場の飲み会で知り合った女性と付き合っているうちに、相手が勝手に結婚式場を予約して、両親に合わせる日程までいつの間にか決められていたという。

「この人、結婚がしたいんじゃなくて、結婚式がしたいんじゃないだろうかって、途中から思い始めました」なんて言っているのだから、それに気がついた時点で別れておけばよかったのである。しかし「年齢的に実さんも結婚を考えていたこともあり、結婚はそういうものだと自分で自分を納得させて、半ば玲子さんの迫力に押される形で結婚」してしまった。

「おいおい、それって、いくら何でも『当事者意識』なさすぎだろう!」と言いたくなる。しかしそういえば、昔の結婚なんて、周囲が勝手に決めていつの間にか一緒にさせられてたというケースが多かったという。ただ昔は「離婚なんてとんでもない」という風潮だったから、必死に耐えていたのだろうね。

今は理不尽な結婚に無理に耐えなくてもよくなったのだから、昔よりはマシなのかもしれないが、その前段階として「もうちょっとまともに見極められなかったのかね?」という疑問は引っ込められない。ただ、「まともに見極める」というのも、数こなさないとなかなか難しいのかもしれないが。

こうしてみると、結婚なんて半ば「バクチ」みたいなものなのかもしれない。私の場合は「当たり」 という自信たっぷりで結婚したのだが、結果としても本当に「当たり」でよかったよ。まったく。

 

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2019年2月25日

私は教師に何を言われようが、全然気にしなかったけどなあ

ネット上では、小学校の女性講師が指導に従わない児童に 「耳が聞こえないなら病院に行った方がいい」とか「障害者か?」とか暴言を吐いたというニュースが注目されている(参照)。最近の教師はよほど言葉に気をつけなければならないようだ。

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当の女性講師は「障害者か?」とは言っていないとしているらしい。確かに「耳が聞こえないなら病院に行け」というコメントと 「障害者か?」という文言は釣り合わない。後から尾ひれが付いた可能性もある。

ところで小学校時代の私は、教師には相当な「悪童」と認識されていたので、「障害者か?」なんてものじゃない言い方をしょっちゅうされていた。もろに感情的な「人格否定」である。ただ私は何を言われても「教師ってレベル低いなあ」と思うばかりでちっとも傷つかなかったので、まったく取りあわなかった。気にするだけ馬鹿馬鹿しいと思っていたのだよね。

私の小学生時代は「悪童」とは言っても、ひたすら「勝手な振る舞い」をする子供だったというだけで、騒いで授業妨害をするとかいうわけではなかった。そんな馬鹿なことをするのは嫌いだったしね。ただ、それが教師の目にはかなり気に入らなかったらしく、親には「授業中に勝手なことばかりして周囲に迷惑をかけている」と伝えられていた。

ただ当時のクラスメイトに尋ねても、私が授業妨害をする子どもだったという認識はまったくなく、「授業中でもただひたすらマイペースな tak 少年」と思われていただけのようなのだ。はっきり言って迷惑がっていたのは教師だけだったのだよね。よほど気に入らなかったのだろう。

「教師の目には気に入らなかった」というのも、わからないではない。こう言っちゃナンだが、地方の公立小学校の授業のレベルって低すぎて、退屈極まりないので、つい勝手なことばかりしちゃうのである。そのくせ授業の内容にはきちんと聞き耳を立てていて、教師がうっかり誤ったことを言おうものなら「先生、それ、違うよ」とすかさず指摘して、授業中に何度も恥をかかす。これで教師(とくに女性教師)に嫌われないわけがない。

というわけで、私は小学校時代から「自分って、ちょっと変わった子なのかも」と、十分に自覚しながら育ったのである。そう自覚してしまいさえすれば、教師に何を言われようが気にならないどころか、逆 「励みになる」ぐらいのものである。

こんな風な育ち方をしてしまったので、しっかりと授業妨害をしながら、「ちょっと変わった子扱い」だけはされたくないという虫のいい子供と、その親の方が問題なんじゃないかと、炎上リスクまであるような極論コメントまで、ついしたくなってしまったのである。

 

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2019年2月24日

スマホがないと、自分の性能が 5割以上低下する

今日たまたま自分のブログの「アクセス解析」というのを覗いてみたところ、デバイスの解析が下の図のようなことになっていた。私のブログへのアクセスは、PC が 39%に過ぎず、iOS と Android を合わせるとちょうど 50%だという。さらにケータイ (ガラケーのことなのかなあ) でのアクセスまで入れると 60%になる。

1902243年ぐらい前には、PC でのアクセスが半数以上になっていたような記憶があるが、世の中のインターネット事情はかなり変化しているようなのである。私だって、自分のブログの更新には Mac を使っているが、単なる閲覧だけなら iPhone を使うものね。

この解析の "iOS" と "Android" は iPad のようなタブロイド機器も含むだろうから、完全にスマホだけとは限らない。しかし実際には多くがスマホなのだろうと思う。今やスマホの世の中になってしまっている。

先日、iPhone を家に忘れたまま仕事先にでかけてしまった。クルマで 1時間ほどのところだが、運転している間はスマホを見たりはしないので、到着して初めて忘れてきたことに気付いた。

仕事先で iPhone がないと、本当に不便である。まず、自分の今後のスケジュールがわからないので、新たなアポイントを入れることができない。さらに連絡先がわからないので、仕事の確認をしようにも電話やメールで連絡を取ることができない。

できないことはまだある。ちょっとしたことをインターネットでググって調べることもできない。メモ代わりの写真を撮ることもできないし、翌週に行く出張先へのアクセスを調べることも、ホテルの予約もサクサクッとできない。

いつもは仕事の話をしながらチョコチョコっとさりげなくスマホを操作して、なんでもその場で返事ができるのに、この日ばかりはそれらのことがさっぱりできないのである。すべて「とりあえず承っておいて、家で改めて調べてから最終的なスケジュールを整える」と返事するしかない。まどろっこしい限りである。

「tak さん、いつもその場でテキパキ決めちゃうのに、スマホがないと全然できなくなっちゃうんだね」
「スマホがないと tak さんの性能が 5割以上低下して、ごくフツーのオッサンだね」

こんな感じで散々な言われ方をしてしまい、まさに私の日常はスマホに依存する部分がかなり大きいことがわかった。いわばカラダの延長線上にスマホがあるという感覚で、いいも悪いも、こればかりはそのまま認めてしまうしかないようなのである。

 

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2019年2月23日

「玄米食」をめぐる冒険

ニュース欄に 「玄米婚」 という見慣れない文字があるので何事かと思ったら、元 AKB の篠田麻里子というタレントが玄米が縁で結婚することになったというお話だった。これに便乗してシャープが Twitter 上で「玄米モードのある炊飯器」をアピールしているというから、何が商売につながるかわからない。(参照

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ただ、「玄米モード」があるのは何もシャープの炊飯器に限らず、多くのメーカーが対応しているんじゃないかなあ。「先に言い出したものの勝ち」というのも、この話題に限っては何だかあざとすぎるような気がしてしまう。

ちなみに、我が家でも 40年以上にわたって玄米を食べ続けている。今回ニュースになった篠田麻里子というタレントは 32歳だそうだから、彼女が生まれるよりオリンピック 2つほど前からのキャリアである。私が還暦をとっくに過ぎても病気知らずでいられるのは、この玄米食のお陰なのかもしれない。

最近ウチでハマってるのは「発酵玄米」(上の写真)というものである。小豆や黒米なども少し混ぜて炊き込み、炊きあがってからも 3日間ほど炊飯器の中で発酵させてしまうというやり方だ。私なんかは 3日間も待ちきれず、発酵途中で少しずつ食べてしまうのだが、確かに 3日目ぐらいになるともちもち感が増して、「玄米の別バージョン」みたいな新しい食感になる。

「玄米」というキーワードで自分のブログを検索してみたら、2018年 8月 27日付で「米の消費が急減しているらしいが」という記事が見つかった。この中で、食物としての米の優秀さについて、次のように書いている。

米というのは基本的には偉大なる食物で、栄養的にみるとかなりバランスがいいらしい。一日に必要な栄養は、一升飯を食えばほとんど摂取できるという。玄米にしてしまえば、さらにいい。ただしパンを一升食っても、それは無理だ。

その昔は 「一升飯と沢庵 2切れ食えば土方が続けられる」 なんて言われていたが、栄養的にもバッチリで、しかも土方仕事でカロリーを消費すれば太ることもないから、なるほど筋は通っている。米のメシを食ってガンガン動いていさえすれば健康でいられ、さらに玄米ならなおよしということのようなのである。

それから、冒頭で触れたニュースに、次のようなくだりがある。

また、元 AKB の小嶋陽菜(30) も自身のツイッターで「玄米。。。」とつぶやくと、高橋みなみ(27) も「オー米ガー」秋元才加 (30)も 「玄、玄、玄米っ!!」 板野友美 (27)も 「麻里子ーーー おめでとう 幸せになってね 私も玄米好きだよ 白米のが好きだけど」とツイートするなど、結婚を祝っているはずが、“玄米祭り” 状態に。

「私も玄米好きだよ 白米のが好きだけど」とは、プチ炎上しても仕方がないぐらいの「お馬鹿コメント」だが、ググってみたところでは全然ツッコまれてない。ということは、この界隈の玄米理解は決定的に不足している様子なのである。

篠田麻里子という娘は、珍しく「玄米の話がまともに通じる相手」というのに出会って、よっぽどときめいてしまったのかもしれないね。

 

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2019年2月22日

いつも最後に話した人と同意見になっちゃう鳩山さん

昨夜の北海道での地震に関して SNS などでデマが相次いでいるが、なんとあの鳩山さんまで物議を醸し出す tweet をしている。昨年から続いている北海道の地震は、「苫小牧での炭酸ガスの地中貯留実験 CCS によるもの」と断定しているのだ (参照)。

1902221こんな発言をみるにつけ、安倍首相の「悪夢のような民主党政権」というのもあながちわからないでもない気がしてくるからコワい。まあ、今の政権は「悪夢のような」以上の「悪夢そのものの安倍政権」と言っておくが。

私は 2011年 6月 2日 (あの東日本大震災から 3ヶ月経っていない頃)に 「鳩山さんがしゃしゃり出ると、いつも物事がズレる」という記事を書いている。こんなにもマジに物事をズラせまくることのできる人というのは、本当に珍しい。

北海道警はすかさずこの tweet を「デマ」と認定したが、鳩山さんは本日になって次のように tweet している。

道警は科学的データも調べないで厚真町地震と苫小牧の CCS 実験は無関係でデマと認定した。国会論戦で中越地震・中越沖地震は CCS によって引き起こされた可能性があるとされ、長岡の CCS は中止となったのであろう。更に北大の研究者が地震誘発の可能性があると論文を書いている。道警は命を守ってほしい。

「道警は科学的データも調べないで厚真町地震と苫小牧の CCS 実験は無関係でデマと認定した」とおっしゃるが、「科学的データも調べないで」ということに関してはご自身も同様であるとは気付いていない。要するに科学的な裏付けの乏しさでは、どちらも変わりないのである。

つまり「デマ」と断定するのも科学的裏付けに乏しいのだから、私は鳩山氏の tweet に関して決して全否定はしない。ただ、政治家としては甚だ配慮を欠いた発言だと指摘するほかないだろう。せいぜい「CCS 実験と地震発生には関係があるという研究もあるのだが」程度に言っておけばよかったのに。

上述の 2011年の記事で私は、「いつも最後に話した人と同意見になっちゃう鳩山さん」と書いている。きっと CSS が地震を誘発する可能性があるという論文を書いた研究者と、最近会って話をしたに違いないと、私は思っているのだよね。

 

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2019年2月21日

「ハンコのお辞儀」という都市伝説

「細かいところによく気がつく人」というのは、世間でほめられることが多いが、「どうでもいいところばかり気がつく人」というのはうっとうしい。そして厄介なことに、「細かいところ」と「どうでもいいところ」の境界線はかなり曖昧なのである。

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"たった今、「請求書の判子がお辞儀していないのは失礼だ」 っていうカンカンに怒った電話がかかってきて......" という tweet が話題で、retweet がかなりの数にのぼっている(参照)。いかにもお辞儀してるように見える角度で捺印しろってことらしい。

「判子のお辞儀」以外にも、世間にはあっと驚くようなルールがあるらしく、"F銀行ではハシゴ判(回覧印を押す枠)のない回覧物に押印する場合「上席が押すラインを想定して下の方に押せ」と指導された" という tweet まである(参照)。「F銀行」って、合併する前の富士銀行かなあ。

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一方で、「ハンコはまっすぐに押すもの」という正攻法的反論もあり、何が何だかわけがわからない。この手の話としては、昨年 11月 16日に ”「ノック 2回は、トイレの在室確認」 という都市伝説” という記事を書いていることを思い出した。さらには 「飲み会の翌日は参加者全員にお礼の挨拶回り 」とか「書類のホッチキスは右肩」なんてのもあるらしい(参照)が、横書き書類を右上で綴じられたら、読みにくくてしょうがないよね。

個人的な話をすれば、私がハンコを押すと幸か不幸か「お辞儀してる」みたいな角度になってしまうことが多い。これは捺印する前に「上下逆になってないよね」と確認してそのまま押しちゃうと、自然の結果として「ハンコのお辞儀」になってしまいやすいのだ。

下手すると私の押した判子をみて「tak さん、案外細かいところに気がつく人」なんて思う人がいるかもしれないが、実際には「上下逆にならないようにという程度しか気にしてない人」というのが正解である。

 

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2019年2月20日

72〜73歳ぐらいが 「年齢によるデジタル・デバイド」 の境目か

近頃、近所のスーパーやコンビニのコピー・サービスのコーナーがやたら混雑していると思ったら、なるほど、町内自治会の年度替わりが近付いてきて、総会などで使う資料のコピーの需要が多くなっているのだった。

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で、コンビニなどのコピー機を使ってコピーしたりソートしたり、悪戦苦闘しているオッサンたちが目立つのである。彼らは見たところ大抵 70歳はとっくに過ぎたぐらいのようで、この辺りの年齢層というのは、会社勤めをしていた頃でも、コピーなんて作業は当然の如く若い女性社員に任せていたのだろう。

だから今になって町内自治会の役員なんか引き受けてしまうと、総会資料を作るのに自分でコピーとソートという作業をしなければならない。現役で務めていた頃はあまり馴染みのない作業だったようで、なかなか苦労している様子なのである。

いや、コピーとソートだけではない。彼らが仲間内で話している会話を聞くと、資料作成そのものにもかなり苦労しているようなのだ。こんな会話があちこちから聞こえてくる。

「いやはや、今どきは総会資料が手書きってわけにはいきませんからな」
「この年になって、パソコン打つのに苦労しなけりゃならんとは思いませんでしたね」
「私なんか、娘婿に入力してもらってますよ」

いやはや、舅の PC 入力係までしなければならないとは、娘婿も思ってなかっただろうね。

その昔、「デジタル・デバイド」という言葉が流行ったことがあった。本来の意味は「IT 機器を使いこなせる人とこなせない人の間に生じる社会的格差」ということだったはずだが、こうした会話を耳にしていると、この国ではどうやら 72〜73歳を境目として「年齢によるデジタル・デバイド」というものがあるような気がする。

もちろん、75歳とか 80歳とかで苦労せずに PC を使いこなしている人もいないではないが、どう見てもそれはかなりの少数派で、「PC は持ってるけど、あまり使わない」とか「メールを受け取るだけ」みたいな人が多く、そしてそのメールでも、「ガラケーの携帯メールのみ」というケースが多い。

まあ、70代半ばを過ぎてしまったら、PC を使わなければならないような業務とは縁遠くなるだろう。それにそのくらいの年になれば、PC ができないからといって社会的格差につながるなんてこともない。

しかしたまにこうして町内自治会みたいな仕事が回ってくると、ずいぶん苦労してしまうもののようなのだ。会社勤めの頃に、もう少し PC に馴染んでおけばよかったね。

 

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2019年2月19日

「自分の家から見る富士山が最高」という三島市民

昨日の「双頭峰」ネタの続きである。実は富士山も縄文以前は双頭峰だったという話なのだが、昨年の今頃(参照)、新幹線の中から三島付近で写した富士山の写真をよく見ると、なるほど、右肩のあたりに宝永火口の出っ張りがあって、双頭峰の名残がうかがえる。

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実は今年 1月に三島に出張した時は、案外間近から何枚も富士山の写真を撮ったが、この日は雲がちょうど宝永火口を隠す辺りにかかっていた。これはこれでなかなか美しい。下の写真はその時の 1枚である。こうして見比べてみると、今年初めの富士山は雪が少なく、昨年の 2月の方が見事な雪化粧だった。

1902192

ところで最近聞いた話だが、三島市民の多くは 「自分の家から見る富士山が一番きれい」と信じているのだそうだ。出張先で会った人も「そりゃ、そうですよ。我が家から見る富士山はちゃんとポーズを決めてくれるし、光線の具合がいいと、スマイルだってしてくれますから」と、マジに言うのだった。

ここまで来るとすごいと感心するほかないが、その気持ちはなんとなくわかる気がする。地元から見える山は、見慣れた地点から見るのが一番しっくりくるのだ。

例えば我が故郷の鳥海山は、反対側の秋田県から望むとまったく別の印象になる。さすがに北斜面だけに、山形県から望む穏やかな姿とは異なる厳しさを感じさせるのだ。それで秋田県人は「山形側から見る鳥海山は間が抜けてる」なんてことを言う。それに対してこっちは「秋田から見るとちょっと貧相だ」なんて言うわけだ。

それは筑波山にしても同様で、「つくば市内からの角度が最高」と言う人が多いが、他から見るのも変化があってなかなかいいというのも事実である。とにかく、見慣れた角度が、その人にとっての最高なのだ。「故郷の景色」というのは、「馴染み」の度合いが大切なファクターのようだ。

 

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2019年2月18日

「独立双頭峰」 を眺める暮らし

最近「双頭峰」という言葉でググってみて、その検索結果にこちらの期待ほどのものがないことに驚いてしまった(参照)。「大辞林」でも「双頭」という項目では「頭が二つ並んでついているもの。両頭」なんていう説明しかなく、子項目としても「双頭の鷲」があるだけで「双頭峰」なんて言葉はまったく無視されている。

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私は高校を卒業する 18歳まで故郷の山形県酒田の地でいつも鳥海山(「ちょうかいざん」と読む) を眺めて暮らし、ここ 40年近くは茨城県つくばの地で筑波山を眺めて暮らしている。どちらも日本を代表する双頭峰で、しかも周囲の山並みとは一線を画す独立峰なので、しっかりとインスタ映えもする。

この際、「独立双頭峰」という造語を提案しておこう。思えば人生の 85パーセント以上を独立双頭峰を望む土地で生きてきたわけで、「この類いの景色によほど縁があるようだ」と思ってしまう。つくばの地に引っ越して来たときも、筑波山を見て「ミニ鳥海山かも」なんて思ったほどだし。

上の写真の、上 2枚が鳥海山(左は初夏、右は初春)、下 2枚が筑波山(左が秋、右が春)だ。どれも自分の「和歌ログ」に収めた写真である。こうしてみると鳥海山はさすがに 2200メートルを超す山だけに、あまりズームの効かないスマホのカメラで写しても裾野がはみ出し、筑波山はコンパクトに収まっている。

日本を代表する山は富士山ということに誰も異論を唱えないだろう。確かにあのほぼ左右対称の姿は美しいが、鳥海山や筑波山などの双頭峰も捨てがたい魅力がある。非対称の美しさというものも、なかなかのものなのだ。

そう思っていたところ、「富士山 NET」というサイトの「富士山の成り立ち」というページに出会った。このページによると、実は縄文時代までは富士山も「古富士」と「小御岳」で成り立っていて、つまり双頭峰だったらしいというではないか。

その後に古富士が大噴火を繰り返して噴き出した溶岩が堆積し、今の形の富士山になった。そして今も富士の山腹にある「宝永の大噴火」の火口は元の古富士山頂のあったところで、つまり「双頭峰の名残」なのだという。へえ、そんなことはちっとも知らなかった。

ということは、うちの田舎の鳥海山も「新山(酒田から見て右側の高い峰)」が大噴火なんかしちゃったら、溶岩流が山全体を覆ってとんでもなく高い山になってしまう可能性がなくもない。あくまでもそんなことにならないことを祈るが。

 

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2019年2月17日

私は「シャルリー」でも「一本気な子ども」でもない

Newsweak にフローラン・ダバディというフランス人が、「ブラック・ユーモアを忘れた日本は付き合いにくい」というコラムを書いている。日仏関係はゴーン問題もあって揺れているが、フランス文学界の鬼才、ウェルベックの新しい小説に、日本人をバカにしたような登場人物が描かれているいることに関連し、彼は「今の日本人は、こんな 『侮辱』 を受け流せるのだろうか......」と危惧している。

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このダバディという人、「どこかで見たことのある顔」 と思ってしまったが、サッカーで日本代表監督を務めたトルシエの通訳兼アシスタントをしていたと紹介されているので、「道理で」と得心した。今は Newsweek なんかにコラムを書いたりしてるのだね。

ミシェル・ウェルベックという作家の最新作『セロトニン』に関しては、私はまったく読んでいないのでなんとも論評のしようがないが、ダバディ氏によると全体的にはこの作家らしいブラック・コメディ的なタッチであるらしい。そして登場する日本女性を小馬鹿にしたような描写が多々あるのだそうだ。

で、彼は「この本が日仏関係にとって危険なのは、最近の日仏関係がよくないせいだけではなく、そもそも日本人が風刺の心を忘れてしまったせいです。そしてそれは、フランス人との関係に限らず、国際社会から孤立する原因にもなりうるのです。危機感を抱いたほうがいいと思います」と述べている。へえ、日本人は今、フランス人にこんな心配をされるほどしゃっちょこばった存在と思われているらしい。

彼は学生時代、日本の「スネークマン・ショー」のファンだったそうで、英国の「モンティ・パイソン」を連想したりして、「日本とヨーロッパは笑いのツボが一緒」と思っていたという。しかし残念なことに、「今ではもう日本では通じない斬新過ぎるユーモアになってしまったのかもしれません」なんて言っている。

彼はまた、2014年の 「シャルリー・エプド」 事件を持ち出している。IS に関して風刺的に描いたフランスの週刊誌、シャルリーの編集者が、襲撃され殺されてしまった事件だ。あの時、西欧社会は ""Je suis Charlie" (私はシャルリーだ) というスローガンのもとに、案外単純に 「報道の自由の侵害」 と捉えたのだった。

しかしこれについて私は 2015年 1月 11日 と 12日の記事で少々疑問を呈している。12日の記事なんかは 「"Je ne suis pas Charlie" (私はシャルリーではない) と言う自由」 というタイトルだ。11日の記事では、次のように書いている(参照)。

風刺やパロディが単純に「報道の自由の範疇」と思っているのは、ある意味、西欧的傲慢である。喩えは悪いかもしれないが、すれっからしの大人が妙に一本気な子どもをブラックジョークで挑発しても、それは洒落にならないのだ。

ダバディ氏は「昔の日本人はもっと洒落が通じたのに、最近は通じなくなってきていて、ちょっとヤバいんじゃないの」と言いたいみたいなのだが、今だろうが昔だろうが、日本には洒落の通じるやつもいれば、まったく通じないやつもいる。ある意味、今は通じないやつがかなり大きな顔をしているわけだが。

ただいくらなんでもフランスの現代文学を読むような日本人は、多少は洒落が通じるから、ダバディ氏の心配するほどのことはないだろう。もしいきり立つようなやつがいたとしても、日本人同士でちゃんとなだめてしまうから心配ないと思っていていい。

とはいえ、もっと大衆的なメディアで日本人がブラックジョークの対象にされたりしたら、かなりエラソーな顔をして真剣に憤慨し出す 「一本気な子ども」 みたいなのが出てくるだろう。面倒な話だが、それは確実だ。

取りあえず今日のところは、「私は『シャルリー』でも『一本気な子ども』でもない」と宣言しておこうと思う。

 

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2019年2月16日

個々人に最適化したメニュー表示なんかされたら

日経ビジネスが 「客ごとにメニューが変わる すかいらーくの新システム」という記事を紹介している。すかいらーくは、現在展開中の「マルチブランドアプリ」というスマホ向けアプリを使って、それぞれの顧客のデータ履歴から情報を蓄積し、個別に最適なメニューを表示できるようにするのだそうだ。

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各テーブルに置く「デジタル・メニューブック」と連動させて、それぞれの顧客に「オススメ・メニュー」を表示するという。来店時刻や天候・気温、季節、店舗の立地なども考慮して最適のメニューを提案するだけでなく、客単価を引き上げるために、一定の時間が経てばデザートをすすめるなんて、「余計なお世話」までするらしい。

要するに「顧客のニーズにきちんと対応するため」というよりは、「より効率的で利益率の確保できる仕入れや商品提供を行うため」ということなのだろうから、下手すると「つまらないメニューになる」なんて逆効果だってあり得るだろう。ニュースでは「プライバシーを見透かされるような居心地の悪さを感じる」なんて反応まであるらしいし。

ところで私は 2年ぐらい前から肉食を止めたので、外食をしようとすると「メニューの選択肢がないなあ」とつくづく感じている。街でレストランに入っても、軒並み肉メインや肉の入ったメニューばかりで、それを避けようとすればパンとサラダぐらいしか食うものがなく。それがいやならば蕎麦屋に入るだけだ。

地方出張の時など、すかいらーくホールディングスの運営する「ガスト」みたいな店に入らざるを得ないなんてこともあり、そんな時は煮魚定食ぐらいしか食うものがない。それを繰り返したら、そのうちガストに入っても私向けには、他のメニューが全然表示されないなんてことになるに違いない。

ドリンクバーでもホット・コーヒーを何杯かおかわりするだけで、他の飲み物は飲んだことがないなんていう私のような客が増えると、飲み物の種類が減ったりするのだろうか。個人的にはその方が面倒がなくてありがたいぐらいなのだが、店にしてみれば、運用を間違えると「両刃の剣」になるだろう。

 

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2019年2月15日

今どきの「ぶっきらぼう」

最近若い知り合いに、「転職で面接を受けるんですけど、親戚に 『ぶっきらぼうな態度は直した方がいい』って言われました。でも、『ぶっきらぼう』って何ですか? どういう感じなんですか?」なんて質問された。簡単に説明してあげたのだが、彼自身はあまり身に覚えがないようだった。

190216確かに彼は、私の前では決してぶっきらぼうという印象はない。もしかして家族や親戚の前だと、ついそんな感じになってしまうのだろうか。それより何より、彼が「ぶっきらぼう」という言葉の意味を知らなかったことの方が私には驚きだ。最近の若い人は、こうした類いの日本語に弱いのかもしれない。

上の画像は、LINE STORE で「ぶっきらぼうなおとこ」というテーマで販売されているスタンプの一部である(参照)。「めんどくさがりで、ぶっきらぼうな男がダルそうに返事する。温かみのある手描きで使いやすく、とりあえず返信しとくかって時に役立つ! 表情豊かなくせ毛の (ハゲてない) 男」と説明されている。

「ぶっきらぼう」というのは、どちらかと言えば無表情なやつと思っていたのだが、最近は「表情豊かなくせ毛」という「ぶっきらぼうの新イメージ」が登場しているようなのだ、多少は愛嬌を交えないと、ぶっきらぼうも生きづらくなっているのだろうか。

ちなみに「語源由来辞典」によると、 「ぶっきらぼう」は「打っきり棒」から転じた言葉だが、それが具体的に何を指すかということに 2通りの説がある。一つは「水飴を煮詰めて回転させながら、引き延ばして切った白い棒状の飴」で、その素っ気ない様から「ぶっきらぼう」に転じたというもの。

そしてもう一つは、単に「ぶっ切った木の切れ端」であるという説。丁寧に切られたものに比べて愛想なく見えるからだという。まあ、どちらも「ぶっ切っただけ」ということに関しては共通するから、まあ、そんなところなのだろう。

「ぶっ」という接頭語は「打つ(ぶつ)」が促音化した接頭語なのだそうで、「ぶっきらぼう」の他にも「ぶっ飛ばす」「ぶっ倒れる」などがある。「ぶち」の撥音化による「ぶん」では、「ぶん投げる」「ぶん殴る」などがあるという。「ぶち」そのものには「ぶちのめす」なんてのもあるよね。いずれにしても穏やかな言葉じゃない。

「表情豊かなくせ毛」ってのは、どちらかと言えば本来の「ぶっきらぼう」を多少モディファイした、「21世紀的変化ワザ」ということになってしまうのだろう。言葉も吟味して使わないと、受け取り方が微妙にずれてしまう可能性がある。

 

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2019年2月14日

年は取りたくないもの

いやはや、1日のうちにショックな出来事が 2つ重なってしまった。年は取りたくないものである。

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今日の午前 10時過ぎにちょっとした休憩として、コーヒーを飲みながら「大麦ダグワース」というものを食べていたのである。これは栃木県在住の友人からお土産としてもらったもので、写真からは硬いもののような印象を受けるかも知れないが、実際はフワリとした食感でなかなかイケる。

ところが、このフワリとした食感のダグワースを食べていると、突然ガリリと硬い物が歯に当たった。何かと思えば、なんと「自分の歯」である。あまりの思いがけなさに舌で探ってみれば、下の前歯が欠けてしまっているではないか。

漱石の『吾輩は猫である』に登場する水島寒月という人は寺田寅彦がモデルとされているが、この御仁は椎茸を食って前歯を欠いていて、小説の中では猫の飼い主、珍野苦沙弥(「ちんのくしゃみ」と読む。念のため)先生とこんな会話をしている。


「その、少し椎茸を食つたんで。椎茸の傘を前歯で噛み切らうとしたらぼろりと歯が欠けましたよ」
「椎茸で前歯がかけるなんざ、何だか爺々臭いね。俳句にはなるかも知れないが、恋にはならんようだな」

苦沙弥先生が 「俳句にはなるかも知れないが」などとことさらに言っているのは、モデルの寺田寅彦が物理学者であると同時に随筆家、俳人でもあったからだ。しかしダグワースで欠けてしまっては、恋はおろか俳句にもなるまい。せいぜい川柳だ。

と、ここまで書いたところで、「まてよ、前にもこんなようなことがあったな」という気がして自分のブログを検索してみると、なんと、一昨年の 8月 23日付で「桃を食って前歯が欠けた」という記事を書いているではないか。

桃で欠けたなら俳句にはなったかもしれないが、恋にならないのは今に始まったことではない。しかも一昨年のブログでも、同じように水島寒月のエピソードを紹介している。ここまで来ればもはや「老いの繰り言」じみてきて、「また同じ話?」なんて言われかねない。

ようやくショックから立ち直って近くの歯科医に電話すると、午後 2時半に治療予約が取れた。明日からは出張の予定が入っているから、仕事先で前歯の欠けた姿をさらさずに済むのはとりあえずありがたい。

ところが、ここでさらにショックが重なった。電話予約の際に受付の看護師さんが「健康保険証を忘れずにお持ちください」と言うので、念のため自分のカード入れを確認すると、その保険証が見当たらないのである。どこにしまい込んだものか、あるいは置き忘れてしまったものか、皆目思い出せない。まことにもって、年は取りたくないものである。

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急遽、仮保険証みたいなものでも発行してもらえるかと期待して市役所に行ってみると、15分もかからずに仮ではない本物の保険証を再発行してもらえた。近頃はお役所も電子データ化が進んでいるので、こんなことは簡単なのだろう。

ありがたいことだが、「交付年月日」の欄を見ると、今日の日付の次に、再発行されたものであることを示す 「(再)」の文字がしっかりとあり、「この保険証の持ち主は、結構うっかり者です」と言外に語っている。とはいえ、最近は年寄りが増えているから、こんな保険証も決して珍しくないのだろうと、自らをなぐさめている。

 

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2019年2月13日

桜田大臣の希有でナチュラルな役どころ

朝一番で仕事に出かけ、昼過ぎに帰宅途中でカーラジオのニュースを聞くと、「桜田大臣が発言撤回」云々なんていっている。ちなみに「云々」 は「でんでん」ではないのでよろしく(参照)。

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「桜田大臣って、あの人?」と記憶を辿ると、いかにも残念なオッサンの様子がありありと思い出された。昨年 11月の「哀れなオッサンを責め立てるしかない、政治の劣化」という記事を読んでいただければわかるが、私はこの人に関しては、単純に責め立てるというような気にはなれず、ただひたすら「残念なオッサン」と思うばかりである。

この人が今回責められているのは、例の水泳の池江璃花子選手の白血病報道に関して「がっかりしている」なんて口走っちゃったためらしい。「残念に思う」ぐらいの発言ならここまで責められなかっただろうに、いかにもこの人らしいプリミティブ過ぎるぶっちゃけ表現をしたのがヤバかったんだろう。

で、帰宅してから Google ニュースをのぞくと、やはり平和な日本らしく、この話がトップにきている。朝日新聞の記事の見出しは "桜田大臣、がっかり発言撤回 「今までの分も挽回したい」" というものだ。「今までの分も挽回したい」というのが何だか泣かせる。

発言撤回に関しては「配慮を欠いたと思うので」と述べたらしいが、この人が欠いているのは「配慮」以前に「語彙」である。単純な話だ。こんなに言葉の不自由な人が、国会劇場の「お笑い担当」みたいな役どころで政治家をやっていられるのだから、日本はのどかな国である。

この記事の末尾に「国民民主党の岡本充功氏に『なぜ失言が多いのか』と問われると、『私にはよくわかりません』と答えた」とあるのも、まさにこの人らしい。「語彙が足りなくて...」なんて本当のことを言ったら、変にシラける。

で、今回の「不適切発言」に関するニュースなんかは、ただひたすら「残念」というほかなく、そこから関連ニュースとしてリンクされている他の話の方が、実はずっと興味深い。こんな具合である。

桜田五輪相サポートへ職員増員 答弁不安 「異例の対応」 (2018年11月14日)

桜田義孝五輪相は 13日の閣議後会見で、自身をサポートする職員を増やしたと明らかにした。国会答弁に何度も詰まったり、間違えたりしたことへの対応とみられる。(中略)桜田氏は「国会関係の業務が増加したからだ」と説明するが、政府内には「桜田氏の不安定答弁を受けた異例の対応」(内閣官房幹部)と指摘する声がある。

桜田五輪相 「教室通ったがパソコン覚えるのやめた」 (2018年11月22日)

桜田義孝五輪相は 22日の衆院内閣委員会で、パソコンについて「教室に行ったが、忙しすぎて覚えるのはやめた。打てなくて不自由を感じたことは一回もない」と語った。この日はサイバーセキュリティ基本法改正案の質疑だったが、大半はインターネットの初歩的知識や桜田氏の資質に質問が集中し、議論は深まらなかった。

桜田義孝五輪相「首相目指すのやめる」根底に英語への劣等感 (2018年12月20日)

「首相を目指すのはやめる」-。桜田義孝五輪相が 20日、2020年東京五輪・パラリンピック大会に向けて多言語サービスを推進する東京都内のフォーラムで、突然こう表明する場面があった。理由をたどると、「言葉の壁」をめぐる劣等感があったようだ。

いやはや、「じゃあ、これまでは首相を目指していたのか!?」とツッコまれそうな発言だが、まあ、希有なまでにナチュラルな「ボケ担当」なんだから、いいか。ややこしい他意はなさそうだし。

こんな具合だから、"「桜田五輪相はシステムエラー」 海外メディアが皮肉次々" というのは、まさに「言えてる!」ということになる。まあ、オリンピック担当ということに関しては、本番までには別の人に交代するから、あまり問題ないよね。どうせ何もしないんだから。

 

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2019年2月12日

「ブレグジット」と日本

FNN PRIME が「どこに向かうの? ヨーロッパ」という連載をしていて、2月 8日付は「我々はヨーロッパとは違う!…EU離脱支持の奥底に流れるもの」という記事だった。

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FNN の記事は冒頭に要点が示されることが多いが、この記事の場合は次の 3点だ。

  1. イギリスはEUから「半身」が離れているような特別な立場
  2. 「欧州懐疑主義」は元来、保守層に根強くある
  3. イギリス国民の世代間の「断絶」も深刻

そしてこの記事は次のような書き出しで始まる。


「もし日本が中国や韓国と同じルールに縛られて、物事を決める時に彼らの意見を聞かないといけなければ、あなたはどう思う?」あるイギリス人女性に私が言われた言葉だ。

なるほど。そう言われてみれば、英国人の気持ちが多少わかるような気がしてしまう。「ブレグジット」してしまうと、英国は EU との貿易や経済交流においてかなり面倒な立場になってしまう。英国人が大陸を旅行するにも大変だろう。それでも保守層を中心に、「我々はヨーロッパとは違う」という根強い意識が拭い去れないようなのだ。

それを日本とアジアの関係に置き換えて考えてみよう。将来アジア諸国が経済的に発展し、中国、韓国(もしかしたら北朝鮮と一体になるかも知れず)、タイ、ベトナムなどが連合して一つの経済圏(Asian Union = AU とか)を構成しようという気運が高まるかもしれず、「100円で 1エイシャ」 なんて通貨単位にならないとも限らない。

そうなるとしたら日本は、英国人女性の言うように、ある程度は「中国や韓国と同じルールに縛られ」 てしまうことになるだろう。物事を決めるにも、彼らの意向を尊重せざるを得なくなる。そうした事態を、日本人は簡単に受け入れることができるだろうか。

英国保守層が「欧州懐疑主義」を根強く抱いているように、日本人の多くも「アジア懐疑主義」を抱いている。何を決めるにも中国や韓国との擦り合わせが必要になるとしたら、彼らは確実に憤慨してしまうことだろう。

英国の意識調査では、49歳以下の若い層では「EU 残留派」が多数を占め、とくに 24歳以下では 71%と、圧倒的多数を占める。50歳〜64歳の層でも、「離脱派」は 60%程度なのだから、このあたりを境にして世代間ギャップは大きい。つまり何はともあれ「ブレグジット」したがっているのは、かなりの高年齢層が中心なのだ。

一方日本では、少なくとも今の段階で「アジアとの経済統合」なんてことを言ったら、若い層でも「とんでもない!」という反応が圧倒的多数となるだろう。しかしアジア諸国の経済発展が続いて、世界経済におけるポジションが今より遙かに高くなるとしたら、どうなるかわからない。

何十年先になるかわからないが、そうなる頃には日本経済も英国同様に「斜陽」なんてことが言われるだろう。アジア大陸との関係性も、今のような形では継続できないはずだ。

今の 20代は、30年後には 50代になってしまうが、その頃に登場する新しい 20代の日本人は今の状況を経験せずに成長するのだから、「アジアと一体の経済圏を構成する方がメリットがある」と判断するようになるかもしれない。大きなジェネレーション・ギャップが顕在化してしまうだろう。

今の英国は 「EU からの離脱」 がテーマだが、その頃になったら日本では「アジア統合経済圏に加わるべきか否か」(「ブレグジット」ならぬ 「ジャパネントリー?」)なんていうのが難しいテーマとなるだろう。まあ、私はそんな時代までは生きていない可能性が高いから気楽だが、後に続く世代が間違った判断をせずに済むような空気を醸し出しておく責任はあるだろうと思う。

 

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2019年2月11日

「慣用読み」という便利すぎる言い訳

一昨日に "安倍さんの「勘違い言葉」に学ぶ" という記事の中で、「実は読み間違えている漢字ランキング 1位から 10位」というページを紹介した。このページによると、漢字の読み違えベスト 10 は、「乳離れ」「貼付」「続柄」「礼賛」「依存心」「漸く」「早急」「間髪」「代替」「一段落」 なのだそうだ。

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順に正解を記すと、「ちばなれ」「ちょうふ」「つづきがら」「らいさん」「いそんしん」「ようや (く)」「さっきゅう」「かんはつ」「だいたい」「いちだんらく」である。私は 2番目の「貼付」を「てんぷ」と読み違えていたほかは、無難に正しく読めた。「貼付」はコメント欄を見ても読み違えている人が多いのだろうと思われる。

ただ、最近は「貼付」を「てんぷ」と読んでも一概に間違いとはされず、ATOK でも「てんぷ」と入力して何度かスペースボタンを押せば「貼付」と変換される。「ちちばなれ」で「乳離れ」、「ぞくがら」で「続柄」、「いぞんしん」で「依存心」、「そうきゅう」で「早急」、「かんぱつ」で「間髪」、「ひとだんらく」で「一段落」と変換されてしまうのも同様だ。

「言葉は生き物」だから、元々は誤読でもそれが一般的になってしまうと、「慣用読み」という便利な言い訳の元に認めざるを得ないことになってしまうようなのである。

ただ、「漸く」を「しばらく」と読むのは意味の違いからしても認めるわけにいかない。そもそも「しばらく」には 「暫く」 という立派な漢字があり、歌舞伎ファンにはおなじみだ(参照)。また「礼賛」を「れいさん」と読むのも、まだ「慣用読み」としてさえ認られていないようだ。

さらにいくら「慣用読み」と言っても、 「依存心」を「いぞんしん」、「早急」を「そうきゅう」、「代替」を「だいがえ」とは、個人的には決して読みたくないし、「一段落」で「ひとだんらく」というのは、他人がそう読むのを聞いてさえ何だかムズムズしてしまう。

このほか、この記事のコメント欄では「有無」を 「ゆうむ」、「重複」を「じゅうふく」、「憧憬」を「どうけい」と読み違えるなどの例も指摘された。この 3つとも 「慣用読み」 の入力でちゃんと変換されてしまうから癪である。

「じゅうふく」と読むのは、今や完全に多数派になってしまった気がするが、それでもやはり「ちょうふく」と読む方が、「私はまんざらバカというわけじゃありません」と言外に主張できるし、「憧憬」を正しく読めたら文学青年を気取れるかもしれない。一方、「有無」を「ゆうむ」と読むのはかなりお恥ずかしいレベルではあるが、「云々」で「でんでん」(参照 1参照 2)よりは遙かにましだろう。

ちなみに、上に示した 「PC 電源代替えボタン」 は Yahoo ショッピングでの表示(参照)だが、Amazon ではさすがに気恥ずかしく思われたのか、「PCケース 電源ボタン リセットボタン 移動可能 ボタン スイッチ」なんて妙に長ったらしく言い換えられている(参照)。

 

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2019年2月10日

マイナス 10度以下のところでテントで寝ると

ニュースでは 「最強クラス寒波襲来」 と報じられ、読売新聞にそのメカニズムが単純な図解で示されている(参照)。偏西風が南に蛇行したせいで、北極の冷気「極渦」が南下して北海道まで降りてきているのだそうだ。というわけで、北海道各地は軒並みマイナス10度以下の寒さとなっている。

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ちなみに私は東北の出身だが、山形県の庄内地方は内陸ではなく海に近いということもあって、それほどべらぼうな寒さにはならない。地吹雪はものすごいが、気温だけをとれば、私の記憶にあるのはせいぜいマイナス 5〜6度ぐらいが一番低い。

とはいえ昔のこととて家屋の防寒対策はそれほどじゃなく、隙間風だってあったから、高校時代までは自分の部屋で寝ていても寒風で顔が撫でられる実感があった。今のように羽毛布団が出回っていたわけじゃないから、よくまあ、あんなので寝ていたなあと思う。人間の適応能力って、かなりすごい。

ところで、自分が一番寒いところで夜を過ごしたというのは、やはり冬山に登っていた若い頃だろう。山小屋泊まりなんてことはせず、テントで単独行の夜を越していたのだから、我ながら立派なものだ。テントが雪に埋もれるぐらいだと、逆に雪が保温材になって無茶苦茶凍えるような寒さにはならなかったような記憶がある。

奥秩父の標高 2000メートル以上のところで夜を越すと、地上はマイナス 3度ぐらいでも、標高 100メートルごとに 0.6度低くなるといわれるから、マイナス 15度以下まで冷え込んでいただろう。テントとその中の内張り程度の布の中で、結構着込んだまま極寒用寝袋に入って寝るのだが、夜中を越すと寒くて熟睡なんかできない。

そんな経験からすると、マイナス 12度ぐらいまで冷えても、寒冷地モデルの住宅の中でしっかりした羽毛布団にくるまっていれば、それなりには眠れるだろう。ただ、一步外に出れば顔が痛いぐらいの寒さだろうが。

冬山に登っていた頃のことを思い出すと、一晩のうちに新雪が降り積もって、歩くにもラッセルしながら行かなければならない状況だと、「誰か早く出発してくれないかなあ」と期待しながら辺りを窺う。屈強の冬山慣れした様子のパーティが先に出発してくれると、その後を行けばいいので楽ができるが、他の連中が逆方向に行ってしまったりすると、単独行の私が死ぬ思いでラッセルしなければならない。

だから歩き出しさえすればそのうち暖まってしまうのだが、寝ている間は本当に震えていたなあ。

 

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2019年2月 9日

安倍さんの「勘違い言葉」に学ぶ

安倍首相が国会で 「総理大臣でございますから、森羅万象すべて担当しておりますので...」なんて口走ったというので、ネット界隈では「誇大妄想」と揶揄されちゃってる。確かに、ちょっとまともなセンスがあったら、そんなことコワくて言えないよね。

「おそらく 『森羅万象』 という言葉の意味をまともに知らないで言ってるんだろう」 というところに落ち着きかけていたところで、立川談四楼が 「安倍さんの『云々 (でんでん)』はマクラに過ぎなかったんだ」なんて tweet したもので、昔のことまで蒸し返して盛り上がってしまっている(参照)。

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そういえば「でんでん」とか 「立法府の長」とかいうのもあったよねと、余計なことまで思い出してしまったよ。

ところで、私はどうしてまた、安倍首相が「云々」を「でんでん」なんて読んでしまったのか、さっぱりわからなかったのだが、今日、頭の中に電気が灯って、「そうか、「にんべん」が付いたら「伝」だから、そう思っちゃったのか」と思い当たった。わかってみれば、似たような間違いを自分もやっちゃわないとも限らない。気をつけよう。

ちょっと心配になって 「実は読み間違えている漢字ランキング 1位から 10位」 というページを見ると、「乳離れ」「続柄」「礼賛」「依存」「代替」 「一段落」の読みは無難に OK だったが、「貼付」をつい「てんぷ」と口走ってしまった。「添付」じゃあるまいし、正解は「ちょうふ」だそうだ。「貼」の付く熟語なんて他に知らないし、おお、やばいやばい。

そういえば、ちょっと前にチラッとみたテレビ番組に、英単語のスペルを出演者が 1文字ずつ順番に言うクイズがあり、「特別な」という意味の単語 (special) の最初の文字は "S" だが、2文字目以降は何かという問題だった。そこでオードリー春日というお笑い芸人が、モロに自信たっぷり ”U!" と言い放ち、大コケになっていた。

4〜5文字目以降で間違えるのはありがちかもしれないが、どうも意識的にボケをかました様子にも見えないので、「一体どんな単語と間違えたんだろう。”super” か何かと思ったかなあ?」 と、ずっと不思議だった。

ところがそれも、今回の「云々 - 伝々」がわかったついでというか、その勢いで思いがけなくもわかってしまった。「そうか、『ペシャル』 だから、ローマ字式に "su〜" と思っちゃったんだろうなあ!」と、合点できたのである。なるほど、わかってみれば、ある意味可愛げのある間違いである。

まさに言葉の勘違いというのは誰しもあるもので、妙なところで意図せぬ笑いを取ってしまわないように、「人の振り見て我が振り直せ」ということなのかもしれない。あれ、こういうのって、「他山の石」でいいんだったよね。

 

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2019年2月 8日

庵点 (〽︎) をめぐる冒険

一昨日の ”「庵点 (〽︎)」 というもの” という記事の続編である。一昨日の記事を書いたとき、「〽︎」 という記号を入力しようとしたのだが、どうすればいいのかわからず、かなり悪戦苦闘した。

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で、ようやくこれが 「庵点」 という名の記号であることまで調べがつき、ならばというわけで、自分の Mac 上でデフォルト IME として使っている ATOK で 「いおりてん」 と入力し、変換させてみたが、「いおりてん」と「庵点」という候補以外はまったく表示されない。

ググってみたところでは Windows 8 以降の IME では変換できるらしいのだが、ATOK の開発者は「〽︎」を「庵点」ということを知らないに違いない。まあ、知っていたとしても使う方が知らないのだからあまり意味がないが。

仕方がないので、「庵点」 で検索されたページから「〽︎」の記号だけをコピペして使い、その記号を「いおりてん」で単語登録した。これで、一件何の問題もなく入力できたと思っていたのである。

ところがアップロードしたばかりの自分の記事を手持ちの iPhone で確認したところ、どういうわけか「〽︎」の記号だけが「〽︎」という具合に黄色で表示されてしまっているではないか。そればかりではない。私は自分のブログを更新すると TwitterFacebook で告知しているのだが、そのどちらも、PC で見ても庵点が、上の画像のように黄色に表示されてしまっている。

「一体どうなってるんだ?」 と考え込んでしまったが、いろいろ調べているうちになんとか解決した。どうやら ATOK は庵点として 2つの記号を用意しているようなのである。「うた」と入力して変換候補をざっと表示させると、下の画像のように、黒と黄色の、2種類の庵点があることでそれがわかった。

そもそも ATOK は「いおりてん」ではなく「うた」で変換させて「〽︎」を出すことになっているようなのである。まあ、その方が取っ付きやすいっちゃ、取っ付きやすいけどね。

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さらにもう一つの問題がある。上の画像の 3番目の候補の 「黒い 〽︎」 は当然として、4番目の 「黄色の 〽︎」 を選択しても、どういうわけか Mac の画面上では同じように 「黒い 〽︎」 として表示されてしまうのだ。これでは区別が付かない。ところが、iPhone の画面で見ると、ちゃんと「黄色の 〽︎」として表示されてしまっているのだよね。どういう理窟でそうなるのか、文系の私にはよくわからないが、背後にあるコードが違うのだろう。

というわけで私は最初、たまたま 4番目の「黄色の 〽︎」の方をコピーして自分のブログ上にペーストしてしまったようなのだ。どちらも私の Mac 上では黒く見えてしまうのだから、「実は黄色」 だったなんて気付くよしもない。

で、後になって iPhone の画面と Twitter、Facebook で「ありゃ、黄色じゃん!」と気付き、散々苦労して原因を突き止め、ATOK の「うた」 で変換させて 「黒い 〽︎」 にようやく辿り着いたというわけだ。結構長い旅路だった。

道理で「庵点/黄色に表示される」でググっても、解決の参考になるようなページは見つからなかったわけだ。世の中の圧倒的多数は Mac 向けの ATOK なんて使ってないし、「庵点」なんて記号を表示するニーズだってほとんどないから、誰もそんなこと気にしなかったのだね。

そもそも庵点をちょくちょく使うニーズがあるのは、99%以上が 「手書きの世界」 の人だろう。こんなようなね。(観世流の謡本 = 手書きを元に作った版木で印刷した "超アナログ・プリント"だろうけど)

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というわけで、日本人はこれまでデジタルの世界で出現する「黄色の 〽︎」なんてもので悩む必要も機会もなかったのだ。その意味では、この件に関しては私が最初の日本人かもしれないとまで思ってしまう。

結論。Mac ユーザーで IME に ATOK を使い、「〽︎」という記号が必要という極々レアな方は、どうぞこのページからコピペして使うか、「うた」で変換させて間違いなく「黒い 〽︎」 の方を選択していただきたいということだ。

 

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2019年2月 7日

日本旅館の「おもてなし」で震えるのは、外国人だけじゃない

東洋経済 Online に "外国人が震える旅館の実は怖い 「おもてなし」  プライバシーがダダ漏れ過ぎる問題" という記事がある。日本旅館に泊まりたがる外国人は少なくないといわれるが、実は 「違和感ありあり」 の経験になってしまうことも多いようなのだ。

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冒頭で紹介した東洋経済 Online の記事を書いたのは、ジュンコ・グッドイヤー さんと 村山みちよさんという方で、Agentic LLC という会社を運営しているらしい。業務の中身は「クリエイティブ & コミュニケーション・エージェンシー」ということらしく、ポリコレの問題には強いらしい。

それだけに外国人が日本旅館に泊まって戸惑うことの多くは、「プライバシーがダダ漏れ」ということに発すると主張している。

日本旅館で顧客と仕事の打ち合わせをした際に、「歓迎 〇〇御一行様」という麗々しい看板が玄関にも、そして何と、宿泊する部屋の前にもかけられていたということに、固まってしまうほど驚いたというのである。

廊下を見渡すと、どの部屋にも宿泊客の名前が貼り出してあったという。これはさすがにちょっとビビる。私は個人的には玄関に「歓迎 〇〇御一行様」(〇〇が個人名だったらヤバいけど)とあるぐらいはガマンするが、部屋の前に個人名が書いてあったりするのはむちゃくちゃイヤだ。

東洋経済の記事は、旅館に関する話は冒頭で触れられるだけで、後は延々とプライバシーとポリティカル・コレクトネスの話になる。要するに日本人はプライバシーとポリコレに関して無頓着すぎるということを述べる象徴的な例として、「日本式旅館」というのが挙げられているわけだ。

私は泊まりがけの出張が月に 2〜3度ぐらいあるが、よほど仕方のないときを除いて、「旅館」というものには泊まりたくない。そんな思いを、2017年 10月 7日付の "日本人の私でさえ「旅館」には戸惑ってしまうのだから" という記事に書いている。こんな具合だ。

日本人の私でもびっくりしてしまうのは、夕方ちょっと外出して、部屋に戻ってみるといつの間にか布団が敷いてあったりすることだ。旅館の従業員とはいえ、知らぬ内に部屋に入られて、荷物がテキトーに片隅に寄せられて、見かけだけはやたらと豪勢な布団を敷かれちゃうというのは、何だか複雑な思いがしてしまうのだよね。

夜にちょっと PC に向かう仕事があるので、布団を片隅に寄せて、壁際に立てかけられちゃったテーブルを戻すというのも、何だか馬鹿馬鹿しい気がしてしまう。それに長時間座卓に向って PC のキーボードを叩くと、腰に来てしまうのだよ。

(中略)

それから、「素泊まり」ならまだ気楽だが、晩飯付きだったりすると、女中さんが入って来てあてがい扶持の夕食を勝手によそってくれたりするのも、こちらとしてはやりにくい。なにしろ、こちらの好みなんて一切考慮されず、ひたすら提供する側の都合によるメニューなのだ。これだったら「素泊まり」にして、晩飯は食いに出る方がいいと思ったりしてしまう。

それからもう一つ、2012年 2月 27日付というほぼ 7年も前の記事だが、"グループでホテルに泊まるとき" というのもある。複数の人間のグループで宿泊予約した際の、ホテル側の部屋の取り方の問題だ。私はこんな風に書いている。

日本で複数の人間のグループがホテルの宿泊を予約すると、ほとんどの場合、同じフロアの続き部屋になる。それが当たり前だと思われている。

ところが欧米の場合だと、グループでもあえて部屋はバラバラに用意される。続き部屋でないのはもちろん、大抵はフロアまでバラバラの部屋になる。

日本人同士のグループでの欧米へのビジネス・ツアーで、泊まる部屋がバラバラに設定されていると、「どうしてまとまったフロアにしてくれないんだ、気が利かないなあ」などと不満をいう人がいる。しかし実は気が利かないのではなく、これはホテルが気を利かせてくれているのだ。

私は会議や研修などで、グループ同士でまとまった続き部屋に泊まらされると、ちょっとしたストレスになる。とくに隣の部屋に泊まるのが女性の場合などは、トイレやシャワーを使うにも気を使ってしまう。

本当に、翌日の会議でも顔を合わせる女性の隣部屋に泊まらされたりすると、おならするにも気を使ってしまうよね。いや、マジで。

とにかく、日本式の考えで「皆さん、どうぞご一緒にまとまってお楽しみください」みたいな妙な 「おもてなし」 コンセプトで宿泊させられると、かなりストレスを感じてしまうのだ。「おもてなし」を押しつけられるより、さりげなくも素っ気なくされる方がずっと気楽である。

 

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2019年2月 6日

「庵点(〽︎)」というもの

「庵点」 というものをご存じだろうか? 21世紀の日本語としてはほとんど馴染みのない言葉だが、下の写真の赤いマル印にしたのがそれだと言えば、「見たことはある」という人が多いだろう。ただ、この記号の名称が 「庵点」 であるとは、私も先日の節分になるまで知らなかった。

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どうしてこの節分に知ったのかというと、当日付のブログ記事 "「末は未来で」 という思想" の中で使おうとしたのだが、どうやって表示させればいいかがわからず、必死に調べまくったからである。結局、こんな感じで表示に成功した。

そして「〽︎貴賤群衆 (きせんくんじゅ) の回向の種、未来成仏疑いなき、恋の手本となりにけり」 という浄瑠璃でクライマックスとなる。

「庵点」 というものについて、Wikipedia では次のように解説されている。

庵点 (いおりてん) 「〽︎」 は、日本語で、歌のはじめなどに置かれる約物のひとつ。歌記号ともいう。古来能の謡本や連歌などにおいて目印として使われていた。

さらに 「謡曲本 (謡本) においては、能の役柄であるシテ、ワキ、地謡などの役割がかわるところで、語句の頭に使われる」 と解説され、これは能ばかりでなく、上の画像で示したように歌舞伎でも地の台詞ではなく太夫が浄瑠璃で語る部分になると「〽︎」で記されている。さらに演歌の歌詞なども庵点で示されることが多いようだ。

そして Wikipedia の末尾近くでは、庵点がデジタル・テキストで表示しにくいために、「ウェブや電子メールなどにおいて、JIS X 0208 に含まれている 『♪』 が歌記号として用いられることが多い」 と解説されている。

確かにその通りで、私も過去に歌詞を紹介する部分ではもっぱら 「♪」 を使ってきた。しかしいくら何でも浄瑠璃の文句を書くのに 「♪」 では蕎麦をフォークで食うぐらいの違和感があるので、苦労して調べて「〽︎」の使用に辿り着いたというわけだ。

せっかく 「いおりてん」 の読みで単語登録までしたので、たびたび使いたいのだが、実際には使う機会は少ないだろうなあ。

【付記】

ちなみに一番上の写真は、『菅原伝授手習鑑』の『寺子屋』のくだりで、「無礼者め」の見得を切る松王丸(11代目市川團十郎)。歌舞伎役者って、どうして指をあんなに反り返らせることができるのだろう。

浄瑠璃から歌舞伎に採り入れられた「丸本物」といわれるジャンルの中で『菅原伝授手習鑑』は『仮名手本忠臣蔵』『義経千本桜』とともに、代表的な「三大時代物 と言われているので、死ぬ前にどれか 1つぐらいはナマで見ておく方がいい。

一番上の写真で、さらにもう 1つ。3行目の「ト源蔵、首桶を抱え......」は、登場人物の動作を現す「ト書き」。こちらは現代でもよく知られている。

【付記 2】

庵点は特殊な記号だけに、当初は iPhone では黄色の記号として表示されていて、Twitter と Facebook でリンクさせた場合は、PC でも同様に下の画像のように黄色で表示されていた。

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しかし、いろいろ試行錯誤した結果、iPhone 上でもまともに表示されるようにしたので、ご報告まで。

 

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2019年2月 5日

国会ではタブレットを使用できないらしい

迂闊なことに、「与党、玉木氏のタブレット使用認めず=衆院代表質問」というニュースを今日まで見落としていた。

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どういうことかというと、先月 30日の衆院本会議で、首相の施政方針演説に対する各党代表質問で、「国民民主党の玉木雄一郎代表が用意した原稿をタブレット端末で読もうとしたところ、与党の反対で認められなかった」というものだ。認められなかった理由は、「前例がないから」だそうだ。

この措置に対して、当の玉木議員はその日の夜に「もう平成も終わるんだからさ、これぐらいやろうよって感じです」と tweet している(参照)。いやはや、国会というところはとんでもないところのようだ。

これに関して J cast ニュースでは「衆院本会議ではタブレット持込禁止! 根拠は20年以上前の「申し合わせ」 という記事を載せている。国会では 1995年にケータイの持ち込み禁止を決めていて、今回のタブレットの件も、その延長線にあるようなのだ。

ケータイ持ち込み禁止に至ったのは、議員のポケットから呼び出し音が鳴り響きまくったというのが理由らしいが、議員のオッサンたちには 「マナーモードに設定して」なんて言っても通じなかったのだろう。この類いのデバイスに対する親和性は、とことん低いようだ。

この件の関連で、サイバーセキュリティ担当も兼務する桜田義孝オリンピック担当大臣が、「PC は触ったことがない」と堂々と答弁したことがまたしても蒸し返され、「だったらハッキングされることもないから、最強のセキュリティ」なんて揶揄されていることも紹介されている。そしてさらに、「中西宏明経団連会長すごい! 部屋にPC、メールも打てる!」という読売新聞の記事まで物笑いの種になっている始末だ。

こうしたことに関しては今さら論評することすら馬鹿馬鹿しいから、改めてくどくど言いたくない。あの世界のオッサンたちとは関わりたくないと、本当に心の底から思ってしまうだけだ。

 

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2019年2月 4日

ふと「立春卵」のことを思い出してしまった

今日は立春で、ふと「立春卵」のことを思い出してしまった。10年ぐらい前は「コロンブスもびっくり!」とばかり、「立春には卵が立つ」というのが大きな話題だったのだ。ところが近頃はインターネットの世界でもとんと忘れ去られたようで、人の心の移り変わりの早さを痛感する。

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私が 「立春卵」 について書いたのは 13年前の 2006年 2月 1日で、その時のタイトルは「立春に(限らず)卵が立つ」というものだった。タイトル通り、立春の 3日前に卵が立っている証拠写真付きの記事である。

その後、2008年の立春の「和歌ログ」に、「立春の日に支へられ卵立つ倒るるはずのなきものとして」という歌とともに、しっかりと卵の立っている写真を載せていて(参照)、その時の写真が上の右下のものだ。本当に「倒れるはずがない」と思わせるほどにしっかりと立っている。

そして 2010年 2月 5日にも「立春卵」の写真入り記事を載せていて、その時の写真が上の左上のものだ(参照)。この頃までは、本当に案外簡単に卵が立っていた。

ところがこれ以後、急に卵が立たなくなってしまい、私もブログでも卵の立っている写真は消え去った。そして 5年前の  2014年 2月 4日に、「近頃は立春でも卵が立たなくなった」というギブアップ宣言のような記事を載せている。

立春に限らず卵が立つのは、卵の殻の表面のブツブツが、微妙に三脚のような働きをするからである。完全にツルツルだったら、いくらなんでも丸い卵が立つはずがない。ところが最近「スーパーエッグクリーナー」という洗卵機が普及し、それが卵を立ちにくくしているようなのだ。5年前の記事でこの機械を動画入りで紹介し、次のように書いている。


鶏の汚物だらけの卵がどんどんきれいになる様がよくわかる。かなり詳細に撮影してくれているので、機械の内部で、思いのほかに固そうなブラシで念入りにブラッシングされているのも見える。あんなブラシでゴシゴシこすられては、そりゃ、表面のブツブツも摩耗してしまうだろうよ。

実は今夜も卵を立ててみようと必死にトライしたが、まったく立たなかった。というわけで最近は何でもかんでも衛生的になったが、面白みは減ってきたように思われるのである。「立春卵」の伝説は、既に息絶えてしまったようなのだ。

 

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2019年2月 3日

「末は未来で」という思想

我が家からクルマで 10分ほど行った辺りに、「みらいホールつちど」という名の建物があって、一体何かといえば葬儀場なのである。「つくばみらい市 板橋」 という住所なので 「みらいホール」 という名称になっているのだろうが、中には 「死んでしまえば 『未来』 なんて関係ないのにね」なんて言う人もいる。

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確かに、死者の弔いで「未来」なんて言葉を使うことに違和感を覚える人もいるだろう。ただ、日本人が長年親しんできた仏教の死生観の見地からすれば、それほど突飛なことではない。「未来」という言葉には、英語で言う "future" とは別の意味合いも含まれているのだ。

Goo 辞書で 「未来」 という言葉を引くと、次のように説明されている。(参照

  • 現在のあとに来る時。これから来る時。将来。「未来に向けて羽ばたく」 「未来都市」

  • 仏語。三世 (さんぜ) の一。死後の世。来世。後世 (ごせ) 。未来世。

  • 主として西欧語の文法で、時制の一。過去・現在に対して、これから実現するものとして述べる場合の語法。動詞の語形変化で示される。

というわけで、仏教的には「死後の世界」とか「来世」とかいう意味合いもあるのである。つまり、この場合は狙ったわけじゃなくたまたまの話だろうが、葬儀場の名称としては案外ふさわしいものだったりするわけだ。

歌舞伎や浄瑠璃に馴染んでいる人だと、若い男女が心中を遂げる場面などで、「末は未来で... (ここでチョン!と柝が入る)」なんていうのがお馴染みだったりする。「この世では無念にも心中を遂げてしまうが、互いの思いは消え去らず、死後の世界、あるいは生まれ変わった未来世で添い遂げましょう」という意味合いを込めた、万感迫る台詞である。

心中物と言えば、これはもう近松門左衛門にとどめをさすだろう。中でも最高傑作ともいえる『曽根崎心中』の大詰、お初徳兵衛の道行の場では、「いつまで言うても詮ないこと、はやはや殺して、殺して...」 と最期を急ぎ合掌するお初に、脇差しをするりと抜いた徳兵衛が「サア、只今ぞ」と応える。

そして「〽︎貴賤群衆 (きせんくんじゅ) の回向の種、未来成仏疑いなき、恋の手本となりにけり」という浄瑠璃でクライマックスとなる。

同じく近松の 『心中宵庚申』 の大詰では、お千代半兵衛の道行で、お腹に宿る子を思い、かっぱと伏して泣き濡れるお千代に半兵衛が 「さアさア夜明けに間がない。明日は未来で添うものを」 と急かす。そして、「別れはしばし」「この世の名残り」「南無阿弥陀仏」と声を掛け合い、「未来」 に旅立つ。

近代以前においては「未来」という言葉の意味合いが、今とはかなり違っていたようなのである。

 

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2019年2月 2日

東北生まれの男が広島で一人メシを食うのは大変

一泊二日の広島出張から、さっき戻ったばかりだ。一昨日夜からの雪は心配したほどには積もらなかったので、交通機関への影響はほとんどなく、帰りも順調に帰って来れたのでホッとしている。

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広島市には 10回近く出張しているが、その度に食文化の相違を感じて戸惑ってしまう。とくに広島駅周辺で晩メシを食おうとしても、お好み焼きやと寿司屋の比率がやたら高くて、二の足を踏んでしまうのだ。とにかく「飲み」とワンセットとすることが前提の飯屋が多く、1人でサクサクっと食事を済ませるのに適した店が少ない。

他の都市だと、少なくともフードコート的な飲食店の集合スペースがあって、そこで適当に軽く食事を済ませることができる。ところが広島駅周辺だと、私が知らないだけなのかもしれないが、そうしたところはない。とにかく、「広島焼き」と称するお好み焼き屋で、サラリーマンたちがご機嫌な大声で飲み食いしているのが目立つ。

6年近く前の「ソースで天ぷらを食う人たちは、鉄板系コナモンも好き」という記事中でも書いたように、私の生まれた山形県は「お好み焼き不毛の地」と言われるところだ。酒田市でも私が暮らしていた 1970年までは、数年に 1度お好み焼き屋が開店し、半年ももたずに閉店するという状態だった。

そんなわけで、私はお好み焼きを食う作法をトンと知らないのである。訳知りの人は「広島焼きは大阪流のお好み焼きと違って、店の人が焼いてくれるから問題ないですよ」なんて言うのだが、そうは言っても、あの「サラリーマンたちのご機嫌な大声充満」の店の前に立つと、どうしても一人メシを食うために暖簾を潜ろうという気にはならないのだ。

それは寿司屋を前にしても同じことで、出張先で寿司屋に入って一人メシを食おうなんて発想はない。最近は肉食を避けているので、ラーメンも食わないし、そうなると蕎麦屋かうどん屋が一番無難な線なのだが、西日本に行くと蕎麦屋というジャンルの店がやたら少ないのだよね。うどん屋はそれほど珍しくはないが、それでも多くはない。

東北生まれの人間が一人メシを食おうとして、広島ほど苦労する土地はないと、訪れる度に思うのである。

それと付け足しだが、広島の地は既にスギ花粉がずいぶん飛んでいるようだった。そしてつくばの地に帰っても花粉の飛散量は 2日前とは段違いのようで、やたらと目が痒い。今年も春は近付きつつある。

 

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2019年2月 1日

新幹線の 「ムダに流ちょうすぎるカタカナ英語」 アナウンス

仕事で広島に来ている。昼過ぎに東京発の新幹線「のぞみ」に乗って、7時前に広島駅に着いた。最近、新幹線に乗っていて気になるのが、英語の車内アナウンスである。元から、気持ち悪いほど上品すぎる英国式発音の女声アナウンス(参照)は流れていたが、最近は日本人スタッフのアナウンスも英語で流れるようになった。

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ちょっとググってみたところ、昨年 9月 21日付の JR 東海のプレスリリースが見つかった(参照)。リリースによれば、現在の試みは試行段階のもののようで、次のように書かれている。

乗車中の訪日外国人のお客様に対してもタイムリーな情報提供を行うために、乗務員が所持するスマートフォンのアプリを活用した英語放送を試行します。アプリに予め登録した多様な英語の定型文から乗務員が必要な文章を選択し、車内の放送装置に接続して放送します。

ふうん、あれって、予め録音されたものをスマホで選んで流しているのね。そう言われてみればいかにも「試行段階」の取り組みそのものという感じで、飛行機なんかで流れる機長やフライト・アテンダントのナマの音声とはかなり違った「出来合い感」が濃厚だ。

というのは、聞いた感じが何と言えばいいか、とにかく「ムダに流ちょうすぎるカタカナ英語」なのだ。あんなにも見事に流ちょうなカタカナ英語は、JR の他にはどこに行っても聞くことができないと思う。

あまりにも見事なので、ついスマホで録音してしまったよ。こんな感じである。(下の画像をクリックすると m4a ファイルで、結構見事な日本語アナウンスに続いて、流ちょうすぎるカタカナ英語がスタートする)

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実際に聞いたことのある方は、「そうそう、こんな感じ!」と思われるだろうが、まだ聞いたことのない方は「これ、何言ってんの?」となってしまうかもしれない。とにかく、クセの強いカタカナ英語なのに、やたら早口なので、壮絶に聞き取りにくいのだよね。

"Suspicious items" が「さすぺしゃすあいてむ」、"behavior" が「びはびあー」、"emergency" が「えまじぇんしー」になっちゃってる部分なんて、「カタカナ英語」というより「ひらがな英語」と言った方がいいかもしれない。 

はっきり言って、何を言ってるのかわからないところが 2か所ある(15秒と 30秒のあたり)。想像力を駆使して、「もしかして座席と、非常用ボタンの説明をしてるつもりかな?」と思われるところだ。

この試み、いつまで続くんだろう。このまま正式運用になったとしても、いずれにしても「何を言ってるのか、さっぱりわからない」ってことになるんじゃないかなあ。何しろ予め登録された定型文のクセの強いアナウンスで、「タイムリーな情報提供を行う」と言ってしまえる感覚が、そもそもすごいと思うし。

 

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