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2019年3月に作成された投稿

2019年3月31日

桜田オリパラ大臣というキャラ

桜田オリンピック・パラリンピック担当相という人は、話題の尽きない人である。今回もオリンピック成功に向けたご当地キャラを集めたイベントで、高知県のゆるキャラ「くろしおくん」を「栃木県」のゆるキャラと言い間違えたそうだ。

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この人も一応明治大学商学部卒業ということになっているから、栃木県はいわゆる「海なし県」で、ゆるキャラが「くろしおくん」になるはずはないと一応は理解できるはずなのだが、話の流れの中で自分が発する言葉の前後の脈絡がぶっ飛んでしまうことが多いようだ。だから国家予算の話をしていて 「1500円」なんて平気で言ってしまう。

それは単なる「話の流れ」の混乱に留まらず、重要な論理の混乱に発展してしまうようでもある。「あなたのような人がサイバーセキュリティ担当の大臣でいいのか」という追求には、「安倍首相が大丈夫との判断のもとに任命されたのだから」みたいに答えていたようで、そこにあるのは「それに関しての責任は首相にあるのであって、自分にはない」という論理である。

要するにこの人、徹底して「自分で判断しない」「責任を取らない」「周囲の用意してくれたミコシに乗る」という生き方のようなのだ。その上で「汗だけはかく」と言っているわけで、だから責任あるコメントをしなければならないケースにおいても、自分の考えではなく単に決まり文句を述べるだけである。

そこには自分の判断という要素がなく、国家予算に関して「1500円」なんて寝ぼけたことを言ってしまっても、ほとんど無意識なので、違和感を覚えることもない。海のない栃木県のゆるキャラを「くろしおくん」と言い間違えてもそこに意識はないから、自分で気持ち悪くなったりしないで済んじゃうのである。

かなりお気楽なもので、神経症に陥ってしまうリスクの小さいキャラである。あるとしたら、ただ気分的に落ち込んでしまうというだけで、それも時間さえ経てば簡単に回復してしまうだろう。幸せではあるが、やっぱり国会議員なんかやらせてはいけないよねと思ってしまうのである。

 

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2019年3月30日

1日 8時間労働で「ふつう」に暮らせるとは

近所の庭のフェンスに日本共産党のポスターが掲示されていて、「8時間働けばふつうに暮らせる社会へ」というスローガンが大きく書かれている。

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ポスターの「8」という文字は 2つの時計のデザインになっていて、「午前 9時から午後 5時まで」というココロのようだ。ただしこれだと、昼休みが想定されてないよね。

私が現役で働いていたときは、大抵午前 9時 30分から午後 5時 30分までが就業時間となっていて、昼に 1時間の休みが想定されていたから、実働 7時間だった。私は残業が嫌いだったから、よほどのことがない限り仕事はさっさと仕上げて定時に退社していたから、「1日 7時間」働いてごく「ふつう」に暮らしていた。

日本の企業社会には定時で退社するのを遠慮するみたいな空気が蔓延しているようで、午後 5時を過ぎてもなかなか席を立とうとしない社員が多い。女性の中には 「1人メシが食えない」なんていうのが多いみたいだが、「1人退社」ができないというのは男女共通のビョーキだと思う。

一昨日の "「ホモソーシャルツリー」を育てるメンタリティ" という記事の中で、「自分の思い込みを貫き通す代償として、小声で『しんどい、しんどい』と言い続けることが許されるというのは、ちょっと歪んだ価値観」と書いたが、この「定時を過ぎても、さっさと退社できない症候群」というのも、完全にそれに当てはまる。

きちんと定職に就いているという満足感を持続させる代償として、いつまでもだらだらと会社に居続け、そして「しんどい、しんどい」と言い続けるのである。実際には決められた仕事さえ終えてしまえばさっさと帰ってもクビになんかならないのだから、ぐずぐずしている意味はない。問題があるとすれば、定時までに仕事を終えられないことである。

この原因は、当人の能力不足でどうでもいい作業にやたら時間がかかってしまうか、仕事量が多すぎるかのどちらかだ。仕事量が多すぎるのだったら、会社にかけ合って増員してもらえばいいし、それが叶わないというならさっさと転職するしかない。

「日本の企業社会はそんなに甘いものではない」と言われるかもしれないが、そんな歪んだ社会を形成しているのも、「しんどい、しんどい」と言いながら満足している労働者自身である。「そんなに甘いものではない」なんて言い続けるのも、ホモソーシャルツリーを育てるメンタリティに他ならないのだ。全体の空気が淀んでいるなら、1人ででもそこから脱出すればいい。

そんな風に考える人間が増えれば、社会も少しはまともになる。

 

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2019年3月29日

政府の南海トラフ地震対策ガイドライン

南海トラフ沿いでマグニチュード8クラスの巨大地震が発生するおそれが高まったと判断した場合に、沿岸部の一部の住民に1週間程度、避難してもらうことなどを盛り込んだガイドラインを政府がまとめたのだそうだ(参照)。

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ただ、そんなことを言ってもいろいろな疑問は晴れない。巨大地震発生のおそれが高まった場合に「避難してください」なんて言っても、現実的な説得力があるのだろうか。いや、説得力という以前にパニックになったりしないのだろうか。

「〇月〇日に巨大地震が来る」などという噂が立っても、それはデマに過ぎないからパニックに陥らないようにと言われている。日時を特定して地震発生を予測することなどできないからだ。しかし今回の政府発表では、「一週間後に巨大地震が来る」という公式情報が発せられるということになってしまう。その「公式情報」に確かな根拠はあるのだろうか。

気象庁のサイトには 「南海トラフ地震に関連する情報の種類と発表条件」というページがあって、南海トラフ沿いに発生する巨大地震に関して何か特別なことがありそうな場合には、気象庁が何らかの情報を発表するということになっている。「本情報の運用開始に伴い、東海地震のみに着目した情報(東海地震に関連する情報)の発表は行っていません」とわざわざ断っているのだから、南海トラフ地震は特別扱いという印象だ。

さらに「およそ1週間経っても巨大地震が発生しなかった場合は、『巨大地震注意対応』に切り替え、避難は解除しつつ、さらに1週間程度は住民に日頃からの地震への備えを再確認してもらうこと」などが盛り込まれているというのだから、ビミョーな受け取り方が求められる。現実的には「逃げろ」というから逃げたのに、「1週間経っても何も起きないから戻れ」なんて言われても、気持ち悪くて帰れないよね。

私は高知県には結構知り合いが多く、今月 11日には高知県の海岸間近の地域に出張し、しかも到着してホテルに入った途端に地震が来ちゃったりしたので、この問題に関してはかなり身近な関心がある。南海トラフ地震が本当に来ちゃったら、8年前の東日本大震災以上に被害になると予想されており、その可能性は日に日に高まっているので他人事ではない。

 

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2019年3月28日

「ホモソーシャルツリー」を育てるメンタリティ

エクサイト・ニュース、スマダンの "「女性差別時代」に男性として生きるということ" というコラム(勝部元気氏・筆)で、「ホモソーシャルツリー」 という言葉を初めて知った。男性中心社会・権威主義・家父長制の下、男性が満たされない支配欲をこじらせて行く構造の中で、「男の弱みにつけ込み、男を支配する木」なんだそうだ。

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「男は辛いんだよ」という価値観い伴う悩みの中で、典型的なものが「自分は大黒柱だからどんなに辛くても仕事を辞められない。女性はいざとなったら辞められて羨ましい」というものだそうだ。

夫婦間の対等なパートナーシップを認めず、「男は辛い」と嘆き続ける代償として、「俺は大黒柱、俺はエラい」という優越意識を持ち続ける保証を得る。ただ、これって単なる思い込みに過ぎないから、何の利益もない。

勝部氏は「自分が妻を支配しているから自由がきかなくなり、カイシャに支配されるわけです。妻と子を江戸に預けて参勤交代させていた江戸幕府の大名支配と似たような被支配構造を作り出しているのは、男性自身であるケースが少なくないのです」と喝破している。

ちなみにこのホモソーシャルツリーの産物として、今一番議論の俎上に上っているのは、「選択的夫婦別姓」という問題だろう。このテーマはかなり誤解されていて、「結婚しても姓を変えない制度」と思っている人が少なくない。

実際には変えても変えなくてもいい制度で、夫婦は同姓になることもできるし、別姓のままで通すことも自由に選択できるというだけなのだが、自分の好みだけを根拠に「自分は夫婦同姓でありたいから、別姓には反対」と、唱える人が多いのだ。

選択的夫婦別姓論者は夫婦同姓を否定しないのに、同姓にこだわる人は別姓を否定するのである。これも、ホモソーシャルツリーを育てるメンタリティの大きな要素である。

実はこれ、女性の側にもあるようで、「女性社員に対するハイヒール、パンプスの強制反対」というと、「自分はハイヒールの方が美しいと思うから、ペッタンコの靴は履きたくない。今のままでいい」と言う人もいるようなのである。

これ、自分の都合しかわからない人というか、想像力の欠如というか、困ったことである。「あんたはそれでよくても、そうでない人もいるってことを認められないかなあ」と言いたくなるのだよね。

いずれにしても自分の思い込みを貫き通す代償として、小声で「しんどい、しんどい」と言い続けることが許されるというのは、ちょっと歪んだ価値観である。

 

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2019年3月27日

ストレス満々の今日この頃

東京都内は早くも桜が満開なのだそうだ。さぞかし華やかなことだろうが、私としてはこのココログの不具合もあって、なかなか晴れやかな気分になれないでいる。

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何しろ 15年近くも毎日更新を続けてきて、「ほとんど毎日」を含めればもう 16年以上も書き続けている。ほとんど肉体化してしまったような状態にまでなっていたところで、編集画面がいきなり大幅に変わってしまい、しかも不具合まで出まくっているのだから、体の調子が悪い以上にストレス満々になってしまっている。

上に貼り付けた桜は昨年の今頃に撮影したものだが、早くこの花のようにいい感じでブログを書き続けられる精神状態に戻りたいものだ。そのためには、自分の方から新しいシステムに慣れることが必要なのだろう。この世の中で確固たるものなそ一つもないのだから、慣れ親しんだ旧システムに固執するのも考え物だ。時代は変わるのである。

ただ、IT の世界のシステムというのはどんどん使いやすくなる方向で変わるものと半分ぐらいは信じていたが、どうやらそういうわけでもない。あの Windows の変化に嫌気がさして Mac ユーザーに転向したのだから、それは既に身を以て体験済みのはずなのである。ここまできたら、ココログ以外のブログ・システムに移転することも考えなければならないかもしれないが、さて、そうするにもどのシステムがいいのかなあ。

 

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2019年3月26日

ココログの頑固な不具合

ココログの 「メンテナンス」 とやらで大変な不具合が発生してしまうというのは、今に始まったことではないが、今回のような頑固な不具合は初めてだ。ブログ自体はなんとか更新ができるようになったものの、どういうわけか改行スペースが 2行分できてしまい、まことに見苦しい表示になってしまっている。


そしてこれまでは本宅サイトのフレーム内にこのブログが表示されていたのだが、それができなくなってしまっている。あまりのストレスに更新意欲がそがれてしまっているので、しばらくこんな愚痴のような書き込みでお許し戴きたい。


なるべく早く立ち直ってまともな内容の書き込みをしたい。


もしこのまま、本宅サイト内での表示ができないようだと、こちらの方でも抜本的なリニューアルを行わなければならないかもしれない。


 

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2019年3月25日

ココログの編集画面が不安定で、滅茶苦茶ストレスだ

ココログの不具合は大分落ち着いてきてはいるようだが、まだ不安定さが残り、油断がならない。

実は、21日から 24日までの 4日分は、かなり忙しい出張に重なるので、「大規模メンテナンス」とやらが行われる前に作成し、自動でアップされるように設定しておいた。そのためうまくアップロードされたようではある。

しかしメンテ後の編集画面は何だかおかしな感じで、操作の反応がかなり鈍い。この記事にしてもうまくアップロードされるものやら確信がもてないままに書いているので、かなりストレスである。なにしろパラグラフごとの行間がやたら広く取られてしまう設定になっちゃってるのも気に入らない。何とかならないものか。

そんなわけで、今日のところはこんな具合の軽い書き込みで勘弁していただくことにする。慣れるに従ってちゃんとまともな更新ができるようにしていくので、よろしく。

 

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2019年3月24日

他人の悪口は蜜の味かもしれないが

よく「他人の不幸は蜜の味」なんて言われるが、「人の悪口は蜜の味」というバージョンもある。世の中、人の悪口が大好きという人はいるもので、誰でも周囲に 1人や 2人は心当たりがあるようだ。

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実は私の身近にも迷惑なのが 1人いる。これが「うわさ話大好きオバサン」とかいう類いではなく、70歳をとっくにすぎた「じいさん」なのである。

このじいさん、時々「あんたのこと、こんなふうに悪く言ってる人もいるよ」なんて、余計なことを言ってくることがある。その内容は聞くに値するようなまともな批判ではなく、単に好き嫌いに発するくだらない感情論でしかないのだが、さすがに聞いていい気持ちはしない。

さらに馬鹿馬鹿しいことに、「こんなことを言ってる人もいる」なんて第三者の言葉めかした言い方をしながら、実際には暇さえあれば陰でそんなふうに私の悪口をくどくど言いまくってるのは、そのじいさん自身でしかないことを、私はとっくに知っている。じいさん、私のことがよほど気に入らないみたいなのである。

つまり自分がしょっちゅう口にしている私に対しての感情論的悪口を、「こんなことを言ってる人もいる」なんて半ば忠告に名を借りた口ぶりで言うのである。陰口だけでは気が済まず、間接話法に名を借りて本人にまで言わないと気が済まないカラダになってしまったのだろう。言いたいことがあれば、自分の言葉として直接話法で言ってくればいいのにね。

さらに悪いことに、そんなじいさんに限って「自分は立派な善人だ」と思い込んでいるフシがあるから、これ、ほとんどビョーキである。私自身はそういうビョーキのじいさんだと知っているからテキトーに聞き流しているが、中にはある程度の地位を経た年配の人間からそんなことを言われたら、かなり気にして悩んでしまう者もいる。

無駄に気にしちゃってるのがいたらあまり気の毒だから、「あんたの悪口なんて、あのじいさん以外に誰も言ってないから、気にしなくていいよ」とぶっちゃけてあげることにしている。

このじいさんのビョーキは近頃ますます進行して、ようやく周囲にも認知され始め、まともに取り合われなくなってきた。フツーの感覚さえあれば、「このじいさん、いないところでは、俺のこともさぞかし悪く言ってるんだろうな」 とイヤでもわかるのだからしょうがない。

他人の悪口は蜜の味かもしれないが、なめすぎると毒になるってことだ。

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2019年3月23日

日本人が電車で席を譲らないのは

日本人は電車内で立っている老人を見かけてもなかなか席を譲らないというのが、たびたび問題にされる。私は決して世界中を旅しているわけじゃないけど、立っている老人をこれほど露骨に無視し続けられる国というのは、世界でも珍しいんじゃないかと思っている。だからことさらに「優先席」 なんてのが必要になるわけなのだね。

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いろいろなところで「どうして席を譲らないのか」というのが話題になっているが、一番目に付く言い訳はいつも「周りの目が気になって、席を譲るのが恥ずかしい」というものだ。私なんか既に前期高齢者の年齢に達しているが、幸か不幸か見かけが若いものだから、近くにいかにも哀れっぽい老人が立っていたりすると座っている方がずっと恥ずかしくて、さっさと席を譲ってしまうがなあ。

そして立ち上がってから改めて座っている乗客を見ると、大抵私よりずっと若い連中ばかりなのだ。そこで「お前ら、よく恥ずかしくないなあ!」と言いたくなるのを、ぐっと堪えるのが常である。

私は日本人が席を譲りたがらないのには、「譲るのが恥ずかしい」なんて表面的なものよりずっと根の深い別の理由があると見ている。そのヒントとなるのが、こんなエスニックジョークだ。

大型客船が沈没しかけているのだが、婦人と子どもを優先するとどうしても救命ボートの数が足りない。そこで男の乗客に自発的に海に飛び込ませるために、船長はこんなふうに言う。

イギリス人に向かっては、「あなた達は紳士ですから、飛び込めますよね」
アメリカ人に向かっては、「あなた達こそ真のヒーローです」
ドイツ人に向かっては、「これはルールです」
そして最後に日本人に、「皆さん、そうしてらっしゃいますから …… 」

つまり多くの日本人は、「皆さん、そうしてらっしゃる」のを目の当たりにしないと、自分からはなかなか動かない。そして一度「皆さん、そうしてらっしゃる」のを確認してしまうと、是も非もなくぞろぞろ素直に従うのである。

ところが電車内で 1人の老人に席を譲るのは、1人が席を立ちさえすればいい。何人も続いてぞろぞろ立ち上がる必要はないので、「皆さん、そうしてらっしゃいますから」という行動原理が成立しない。これが「日本人が席を譲らない」ことの根本的な理由である。

席を譲るというのは要するに「早い者勝ち」の世界なのだが、この「早い者勝ち」というのが、日本人は決定的に苦手なのだ。下手すると「ええ格好しい」とか「抜け駆け」に思われてしまうので、とことんためらってしまう。

「隣百姓気質」という言い方がある。隣が種を蒔けば自分も種を蒔き、隣が草取りをすれば自分も草取りをし、隣が刈り入れをすれば自分も刈り入れをする。自分で能動的に考えてやってるわけじゃない。

日本人の行動原理はこの「隣百姓気質」にあると、私は思っている。だから何かの弾みで皆が一斉にやり始めると、世界が驚くほどの大きな動きになるが、1人がさっさとやりさえすれば簡単にコトは済むというようなケースでは誰も「その 1人」になりたがらず、なかなかコトが済まない。

1人でさっさとコトを済ませたがる私みたいなのは、日本社会ではどうしても「変人」扱いされてしまうのだよね。ちょくちょく米国出張していた若い頃、ニューヨークなんか今よりずっと治安が悪かったが、日本のオッサンたちと付き合っているよりずっとストレスがなかったのを覚えている。

 

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2019年3月22日

"Huawei" は本当は「ホワーウェイ」 らしい

最近いろいろ話題の、中国の巨大 IT 企業、「華爲 (Huawei)」は、我が国では「ファーウェイ」と表記されていて、当の Huawei Japan 自身も自社の日本語版サイトで「ファーウェイ」としている(参照)。しかし私は個人的にはこの表記にはとても懐疑的で、「本当の発音とは違うだろうに」 とずっと思ってきた。

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ややこしいのは、日本語の 「ハ行」 の子音は、ローマ字では基本的に ”h” で表記されるが、「フ」 だけは "fu" と書かれることである。実際に、「フ」 だけは他の 「はひへほ」 と発音の仕方が明らかに違う。これ日本語の音韻学の常識(参照)なので、ここでは長々と述べない。

となると、「ファーウェイ」 というカタカナは ”Huawei" という表記にそぐわないじゃないかと思ってしまうのだよね。このカタカナ表記だと、フツーは "far way" という英語を思い浮かべてしまうだろう。で、あれこれ考えているよりも実際の発音を聞いてみるのが早いだろうと、YouTube を検索してみると、"How to pronounce Huawei" (Huawei の発音のしかた)という動画が見つかった。

この動画では米国ニューヨークのタイムズスクエアで、フツーの米国人に 「"Huawei" ってどう発音する?」と聞きまくっているのだが、登場する全員が正しい読み方を知らないばかりか、スマホの会社ということも知らない人も結構いる。そんな具合だから 「ハウィー」 とか 「ハウウェイ」 などと言う人が多く、"Who are we?" (私たちは誰?)なんて発音になっちゃう人もいる。これは多分受け狙いだろうと思うけど。

で、最後に種明かしになるのだが、本当の読み方は「ワーウェイ」なんだそうだ。米国のビデオなので、"Wa + Way" という文字で示されている。これが取りあえずの結論で、米国的、あるいは無理矢理言っちゃえばインターナショナル的には、「ワーウェイ」が正解のようなのだ。つまり日本式はインターナショナルじゃないってことね。

さらに無理矢理余計なことを言えば、下手すると "war way" (戦争の道筋) と聞こえちゃうのが、Huawey のイメージが米国で今イチになってる所以なのかなあなんて思ってしまう。

ただこれだけだと、「おいおい、じゃあ最初の "H" の文字は一体何なんだ?」と言いたくなってしまうのが人情というものだろうから、念のためもう一つの動画を当たってみた。中国系米国人とおぼしき男性がいろいろな中国ブランドの読み方を説明しているものだから、まんざらガセじゃないだろう。

上の動画開始後 23秒あたりから "Huawei" の読み方の説明になる。この男性によれば、「大抵の人は 『ワーウェイ』 と言ってるけど、"hot Chinese people" (「ギンギンの中国人」って感じ?) は『ホワーウェイ』(これ、無理矢理カタカナにしてるんだけど、ほぼほぼそんな風に聞こえる)って言ってるよ」とのことなのだ。うぅむ、このあたりが "Huawey" と、頭に ”H” の文字を入れる所以なのだね。

というわけで、結論。”Huawei" は米国的、あるいは西欧社会的には「ワーウェイ」だが、中国語にうんとこだわれば「ホワーウェイ」のようなのだ。

「ファーウェイ」の表記を採用した Huawei Japan としては洒落た英語っぽいイメージにしたかったのかもしれないが、私としては違和感ありありで、"far way" がもう一步進んだら "no way" (「とんでもない」 って感じで使われる) になるだろうと思っちゃうんだよね。悪いけど。

 

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2019年3月21日

『東京節』 を巡る冒険

今日の記事は、やたらと動画が多くなることを、予めおことわりしておく。そして元号が改まらないうちに、大正と昭和の話をしておく。

『東京節』 という歌をご存じだろうか。『東京音頭』ではなく『東京節』である。こう言われてわからなくても、「♫ ラメチャンタラギッチョンチョンデパイノパイノパイ〜」というリフレインの歌と言えば、「ああ、それなら知ってる!」という人もいるだろう。

演歌師の添田知道作詞で、大正時代に流行した俗謡である。上に最もベーシックなバージョンで謡われた動画を貼り付けておいた。「パイノパイノパイ」と「フライフライフライ」で韻を踏んでいるのが、ある意味画期的だ。

この歌の原曲は "Marching Through Georgia" (ジョージア行進曲) という米国のマーチで、『東京節』 はそれを換骨奪胎したものだ。下に原曲の動画を埋め込んでおく。途中で 「スワニー河」 のメロディが入るのがおもしろい。

『東京節』 には、微妙に趣の違うバージョンもある。それも下に貼り付けておく。「最後の演歌師」 と言われた桜井敏雄となぎら健壱の、今では 「貴重な」 と言うほかない共演版である。

一番上に貼り付けておいた土取利行バージョンとの微妙なメロディの違いにお気づきだろうか。実は「ラメチャンタラギッチョンチョンデ」の 「ラメチャン」の部分、土取バージョンは平板メロディで、桜井敏雄となぎら健壱バージョンでは「ラ」の部分が高く歌われている。

実は私もつい最近までは、桜井敏雄となぎら健壱バージョンで、つまり「ラ」を高く歌っていた。しかし原曲を子細に聴いてみれば、明らかに土取利行バージョンの方が近いのである。ただいずれにしても「換骨奪胎」なのだから、「オリジナルに近いから正しい」とも言い切れない。

で、いろいろ調べてみたところ、Wikipedia の 「パイノパイノパイ」 の項に、次のような記述が見つかった。

唖蝉坊にはどうせ浮世は出鱈目だという人生感(ママ)があり、口癖になっていてその場でも出た。そうして「デタラメ」が「ラメ」となり「ラメチャン」となって囃子言葉はスラスラと決まり、全体は宿直の一晩で書き上げた。

「唖蝉坊」 というのは作詞者の添田知道の父で、あの演歌師の草分けとして名高い添田唖蝉坊である。『ラッパ節』『ああわからない』などの曲が今に残る。今は亡き高田渡は、『ああわからない』をアメリカン・フォークソングのメロディに乗せ、『新わからない節』として歌った。

その唖蝉坊が「デタラメ」の「ラメ」を「ラメチャン」として囃子詞に取り込んだというのである。ということは、「デタラメ」という言葉が平板アクセントである以上、これはやはり平板で歌うべきだろう。

そして、エノケンはわかっている。ちゃんと平板で歌っている。

というわけで、本日の結論。「エノケンは偉大だ!」

 

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2019年3月20日

ココログはまだ不調

ココログはまだ不調のままのようである。
しばらく様子を見ることにする。

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2019年3月19日

ココログの「大規模メンテナンス」はまともに済んだ試しがない

ココログが 「大規模メンテ」 をすると告知しているのを知ったのは、今朝になってからだった。それを知って私は、大変な不安感に襲われてしまったのである。なにしろココログがメンテを行ってまともに済んだ試しがない。大抵失敗しているのである。

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出先から戻ったのが今日の夕方 5時過ぎで、恐る恐る管理画面にアクセスしてみると、案の定メンテはまだ終わっておらず、Twitter 上で 17:00 までに延長されると告知してある。しかしその 17:00 というのはとっくに過ぎているのだが、埒があかない。

「ほうら、やっぱりね」 と思い、自分の本宅サイトにアクセスしてみると、フレーム内に表示されるはずのココログが表示されない。「ありゃりゃ、ココログのデータ自体が壊れてしまったのか」 と焦ったが、フレーム内ではなく独立して表示させると、かなり不安定だがなんとか表示される。

やれやれ、この 15年近く毎日更新してきたデータは、失われずに済んだようだ。とはいえ、本宅サイトで表示できないのでは、自分のサイトの根本的コンセプトに関わることだから、何とかしなければならない。

いずれにしても、ココログの更新すらできないのでは手の下しようがないから、しばらく様子をみるしかない。疲れるなあ。

 

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2019年3月18日

缶コーヒーはカラダに毒らしい

「週刊大衆」という週刊誌は知っているが、「日刊大衆」というウェブサイトがあることを、今日初めて知った。ココログの「注目のニュース」という案内の「缶コーヒーは絶対NG! 体に悪影響を与えない“銘柄”の選び方」という見出しをクリックしたら、このページに飛んだのである。

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この記事によればフツーの缶コーヒーは砂糖の量が滅茶苦茶多く、砂糖を使わないものでも人工甘味料が含有されていて、これまた体に良くないのだそうだ。

私は 11年前に "コーヒーと缶コーヒーは全然別物" という記事で、こんなふうなことを書いている。

世の中ではかなり大量に流通しているのに、個人的には一度も買ったことがないという商品が、誰でも一つや二つはあると思う。私の場合、その代表的なのが「缶コーヒー」というものだ。

というわけで、ありがたいことに私のカラダは缶コーヒーに汚染されずに済んでいるようだ。

ただ、自分では絶対に買わない缶コーヒーというものだが、何かのイベントに参加し、そこで支給されたものを飲んだことが数回ある。その印象は、とにかく「甘すぎる!」というものだ。とてもじゃないが、飲むに堪えない。

私の住む茨城県には、一部では「チバラキ・コーヒー」として知られる「マックス・コーヒー」というものがあり、これがまたフツーの缶コーヒー以上に激甘だ。私は 5年前に行われた共同草刈り作業に参加した際に配られたものを、自宅に持ち帰って翌日に恐る恐る飲んでみたのだが、聞きしに勝る甘さだった。

この時のことは " 「マックス・コーヒー」を生まれて初めて飲んでみた" という記事にしているが、幸か不幸か冷蔵庫でキンキンに冷やしてから飲んだので、その甘さに卒倒しなくて済んだ。人間の味覚は低温だと鈍くなるので無事だったが、もう少しヌルかったら、吐き出していたかもしれない。

で、この「日刊大衆」の記事では、コンビニコーヒーを選ぶように勧められている。これなら砂糖の量を自分で調節できるから OK というのだ。とはいえ、やはり自分で選んだ豆を直前に挽いて淹れるコーヒーが、一番いいと思うがなあ。もちろんシュガーレスで。

 

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2019年3月17日

筑波山の姿と、ニュージーランドの大量殺戮事件

東海道新幹線に乗って見ればわかるが、富士山は三島付近から眺めるのが一番迫力がある。そして先月 19日には "「自分の家から見る富士山が最高」 という三島市民" という記事を書いた。

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三島ではただでさえ富士山がきれいに見えるのに、その中でも 「我が家から見える富士山が最高」 と言い張る市民が多い。なにしろ 「我が家から見る富士山はちゃんとポーズを決めてくれるし、光線の具合がいいと、スマイルだってしてくれますから」なんてマジに言う大人が少なくないのである。

これ、ある意味自然なことで、山というのは 「見慣れた姿」 が一番美しく感じるものだ。先月の記事の中でも次のように述べている。

例えば我が故郷の鳥海山は、反対側の秋田県から望むとまったく別の印象になる。さすがに北斜面だけに、山形県から望む穏やかな姿とは異なる厳しさを感じさせるのだ。それで秋田県人は「山形側から見る鳥海山は間が抜けてる」なんてことを言う。それに対してこっちは「秋田から見るとちょっと貧相だ」なんて言うわけだ。

それは筑波山にしても同様で、「つくば市内からの角度が最高」 と言う人が多いが、他から見るのも変化があってなかなかいいというのも事実である。

ところで今日は、茨城県内の筑西市にある下館(「しもだて」と読む)というところに用があって、クルマで行って来た。片道約 50km、往復で 100km ちょっとの運転になるのだが、この下館まで行くと、いつも眺めている筑波山をほぼ裏側から望むことになる。上に掲げた写真の上がいつも見ている筑波山で、下が下館から見る筑波山だ。

そしてご多分に漏れず、私の印象としては「あれ、下館から見る筑波山って、『裏返し』 になっちゃうなあ」なんて感じてしまったのである。しかし下館に住んでいる人間に言わせると、「つくば市側から見る筑波山って、アンバランスだよね」ってなことになるようなのである。

かくの如くに、人間の感覚というのは「慣れ」とか「馴染み」とかいう要素に大きく左右されてしまうものなのだ。「絶対的な美しさ」とか「絶対的な価値」なんて幻想に過ぎないのである。筑波山は見る角度それぞれに異なった美しさをもつのだが、自分の馴染んだ姿のみに執着すると、多様な価値がわからなくなる。

うどんの例をもち出せば、讃岐うどん派は「博多うどんはコシがない」と言い、博多うどん派は「讃岐うどんみたいに硬いのは、うどんじゃない」などと断じる。よそ者の私からすれば 両方それぞれのおいしさがあって捨てがたいのになあ」と思うのだが。

と、まあ、回りくどく卑近なことを言ってきたが、この度のニュージーランドの大量殺戮事件の容疑者の抱く「白人至上主義」というのも、「要するに幻想に過ぎない」 と言いたいわけなのだ。自分の属する狭い世界に異常に執着し過ぎて、他の世界が認められなくなったことの極端すぎる結果である。

馴染んだ価値観を重んじるのはごく自然なことだが、他の価値観の否定につながってはならない。視野は広く持ちたいものだと、つくづく思う。

 

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2019年3月16日

「ローロデックス」 というもの

「ローロデックス」(Rolodex)というものをご存じだろうか。実は私もその名を今日初めて知ったのだが、モノ自体はアメリカ映画などで十分にお馴染みである。オフィスのデスクの上にお約束のように置いてある回転式の名刺ホルダーだ。(参照

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なんでこんなものを調べてみたのかというと、昨日書いた 「4〜5年ぶりに FAX を送付されてしまったよ」という記事と関係がある。「知識連鎖」というサイトの 「未来で消えるいらないもの 固定電話・スーツ・大型テレビ・パソコンのキーボードなど」 という記事で触れられているのだ。

この記事は、2012年のアメリカでの調査を元にしている。7年前の時点で、「5年後の 2017年には消えていると思うものは?」とのアンケートで挙げられたモノ(及びコト) の動向を調べたものだ。ちなみに「消えている」と思われた上位10傑は、次のようなものだった。(括弧内は、全体の何パーセントの人がそう答えたかを示す)

10位    USBメモリ (17%)
9位    仕切りのある個人用小室 (19%)
8位    社長や役員のための部屋(21%)
7位    スーツ、ネクタイ、パンティストッキングなどフォーマルなビジネスの服装 (27%)
6位    デスクトップパソコン (34%)
5位    机の電話 (35%)
4位    標準労働時間 (57%)
3位    ローロデックス [回転式名刺整理機] (58%)
2位    ファックス (71%)
1位    テープレコーダー (79%)

で、2019年の今、検証してみると、6〜10位は今でもしっかり残っているし、3〜5位も案外しぶとい。しかしさすがに 1位と 2位の 「ファックス」と「テープレコーダー」は、少なくとも米国ビジネス社会では消えて久しいだろう。まあ、この 2つは 2012年の調査時点でもかなりレアになっていたわけだが。

で、この中の 3位に挙げられている 「ローロデックス」 というものについて、私は初めてその名称を知ったのである。これ、「コトバンク」で調べてみると、こんなふうに説明してある。

文具、家庭用品メーカーのニューウェル・ラバーメイド社 (本社:アメリカ) が販売する回転式の卓上名刺ホルダー。1950年代に実業家のアーノルド・ノイシュテッターが発明、1958年販売開始。

ふうん、発売されてから、まだ半世紀とちょっとしか経っていないのだね。印象としては 100年も前からあるような気がしていたが、100年前はまだ今のようなビジネスカードなんて一般化してなかっただろうから、まあ、そんなものだろう。

これ、なにしろ 「ホッチキス」 みたいな 「商標」 だから、元祖のニューウェル・ラバーメイド社以外は使うことができず、Amazon のサイトを見ると日本のセキスイは 「ターボデックス」 なんて、ちょっとダサめの名前にしている。さらに時代を反映してか、「デジタル名刺ホルダー メックル」 なんてものまである。

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こんなの、PC にデータベースとして保存すればいいのにと思うが、ローロデックスのイメージに憧れちゃうようなタイプの人は、つい欲しくなってしまうのかもしれない。ただ、実際に買うのはよほどのもの好きだろうし、「メックル」というネーミングもスゴい。「究極の B級商品」と言えるだろう。

 

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2019年3月15日

4〜5年ぶりに FAX を送付されてしまったよ

一昨年の 4月 24日に「A3 サイズ対応の FAX 兼用プリンターの使用を止めた」という記事を書いた。つまりここ 2年近く FAX というデバイスなしの生活をして、それでまったく困っていなかったのである。

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ところが先週、知り合いの女性からケータイに「FAX を送りたいんですけど」という連絡が来た。「FAX 番号がわからないので、教えてください」と言うのである。

我が家の固定電話は FAX 兼用ではない一番安いタイプで、しかも呼び出し音が 1回なるだけで留守電応答に切り替わる設定にしてある。かかってくるのは 99.9%がアヤシい勧誘電話なのだから、これでまったく問題ない。

ところが、突然「FAX を送りたい」なんて言い出されたので、慌てて押し入れの奥から大昔の FAX 兼用電話を引っ張り出してつなぐと、しばらくして呼び出し音が鳴り、続いて FAX に切り替わってのんびりとプリントが開始されたのだった。

ここ 4〜5年間でただ 1度の FAX 受信なので、まるでタイムマシンに乗ってしまったような感覚になった。それにしても無事に動いてくれてよかった。

世の中の中年以上の女性の間では FAX がまだまだ現役で使われているとは聞き及んでいたが、私のところにまでその余波が及ぶとは思わなかった。そのオバさんは私が「FAX はここ 2年ほど取り外してあるので、つなぐまで 2〜3分待って」というのを聞いて、「どうしてこんな便利なものを外しちゃってるんだろう」と思ったに違いない。

フツーに考えれば、「どうしてこんなに邪魔で面倒なものを、まだ使い続けてるんだろう」ということになると思うのだが、感覚のズレの大きさに驚いてしまったね。

 

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2019年3月14日

「めんべい」と「朝顔煎餅」

妻の友人が博多土産に「めんべい」というのをくれた。「飲んべえ」ではなく、「めんべい」である。辛しめんたいこ風味のせんべいなので、この商品名になっているらしい。

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この「めんべい」という商品名を見て、どういうわけか「朝顔仙平」というのを思い出してしまった。これは 歌舞伎十八番『助六所縁江戸桜』(すけろくゆかりのえどざくら)の登場人物名で、「髭の意休」という嫌なジジイの手下という役どころだ。

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(左上から傾城揚巻、助六、髭の意休、朝顔仙平、くゎんぺら門兵衛)

「朝顔仙平」 というのは、当時江戸で流行った「朝顔煎餅」という菓子の洒落であるらしく、「事も愚かや、この糸鬢は砂糖煎餅が孫、薄雪煎餅はおれが姉、木の葉煎餅とは行逢兄弟、塩煎餅が親分に、朝顔仙平という色奴(いろやっこ)だぞ」という「煎餅尽し」の台詞がある。当時の歌舞伎は CM の機能も果たしていて、ということは、さらに砂糖煎餅、薄雪煎餅、木の葉煎餅、塩煎餅というのもあったわけだね。

で、私としては 40年以上にわたって「朝顔煎餅ってどんな煎餅なんだろう?」と思ってきたわけなのである。ところが今日、ふとした酔狂でググってみたら、今の世にも「朝顔せんべい」というものがあるとわかった。入谷の八千代堂という煎餅屋さんで買えるらしい。(参照

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一見ごく普通の煎餅のようだが、拡大版を見ると、なるほど、朝顔の花を正面からみたように見えなくもない。しかし江戸時代のオリジナル朝顔煎餅は、「横向きの朝顔」の形、つまり片側がすぼまって反対側が開いた形だったらしい(参照)ので、それとはずいぶん違う。

ちなみに「塩煎餅」は今も定番で、「砂糖煎餅」と「木の葉煎餅」も確認できたが、「薄雪煎餅」は見つからなかった。ただ、りんごを使った和菓子の「薄雪」というのは存在するようで、かなりおいしそうである。

 

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2019年3月13日

「南海トラフ地震は必ず起きる」という覚悟

今日の 13時 48分に、紀伊水道を震源とする M5.2 の地震が発生したらしい。私が昨日まで滞在していた高知市でも、震度 2を記録している。

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この地震は南海トラフ地震との関連は薄いようだが、実は私が高知市に着いたばかりの一昨日 15時 37分にも高知県南西部を震源地とする地震があって、やはり震度 2を記録している。あの時は 3月 11日という日付が日付だけに、瞬間的に「南海トラフ地震が来ちゃったか!」なんて思い、妙に身構えてしまった。

何しろ南海トラフ地震が起きたら、最大 30メートル以上の高さの津波が襲来する可能性もあると言われているらしい、そしてその南海トラフ地震も、「今後30年以内に 70~80%の確率で発生し、最悪の場合、死者が 32万人以上に達する」と予測されている(参照) のだから、なかなか心穏やかではいられない。

高知県民に聞いてみると、地震と津波に関する防災意識はかなり高いようだ。そして 「大地震は必ず来るということになっているのだから止めようがない。とにかく、来たらすぐに高いところに逃げることを心がけているほかないよ」と、案外あっけらかんと言うのである。さすがに土佐のいごっそう、性根が据わっている。

とはいえ、土佐には知り合いも多いことだし、地震は避けられないにしても、願わくは軽い規模で起きてもらいたい。そして大きいのが起きてしまったとしてもできるだけ必死に逃げて、命は助かってもらいたいものだ。

彼らも地震に関する実感的な情報は得たいようで、8年前の私の体験や周囲の状況、どのようにして立ち直ったかなどという話を、熱心に聞いてくれた。本当に 8年前のつくば周辺程度の被害で済んでくれればいいと思うが、つくばは海からは遠いのだから単純には言えない。土佐の人たちにはやっぱり必死に逃げてもらいたいと祈るばかりである。

 

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2019年3月12日

高知への出張から帰って

一泊二日の高知出張から帰って来た。私は仲間内では有名な晴れ男なので、今回も上天気。しかも 11日につくばの自宅を出発するまで大雨だったのに、家を出た途端にピタリと晴れたのも、晴れ男の威力である。ありがたいことだ。

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地方都市に出張して困ることの一つは、夕食をどうするかである。朝一番(と言っても、最近は午前 10時ということが多いのだが)に訪問先を訪ねる場合などは、大抵前日の夕方過ぎにその町に着いて、ビジネスホテルに泊まる。そして翌朝は簡単に朝食を済ませるのだが、問題は到着当日の晩メシだ。

人口が 20万人以上ぐらいの県庁所在地クラスの都市なら、駅に着けばたいてい駅ビルの中に手頃な値段で晩メシの食えるレストランがあり、そこで食事を済ませてホテルにチェックインすることができる。ところが夕刻過ぎに到着するのが、人口 10万人そこそこの典型的な地方都市だったりすると、晩メシの食える店がほとんどない。

地方都市でも国道沿いまで脚を伸ばせば、たいていファミレスとか、麺類のチェーン店などが店を連ねている。しかし駅前の街並みというのは大抵寂れてしまっていて、そんなような店はない。あるのは居酒屋とか焼き鳥屋とか、おしなべて「オッサンが会社帰りに群れて酒を飲む」ためのごく小さな店だけである。

私とて昔は結構酒を飲んだし、このブログだって酒飲みながら書いているという時期も結構長かった。しかし最近はほとんど飲まない。飲んだとしても缶ビール 1本ぐらいのものである。だから、暗くなって着いた地方都市の駅前で居酒屋の暖簾をくぐろうなんて気にはならない。しかたなく、コンビニでおにぎりを買ってビジネスホテルの部屋でそれを食うということになりがちだ。

人口の少ない地方都市なら、それで仕方ないとも思う。最近の若い連中は、仕事帰りに群れて飲むなんてあまりしないから、若い層の多い都市なら、さっとメシだけ食って帰れる店がいくらでもある。ところが若年層が極端に少なく、オッサンとじいさんが圧倒的に多い地方都市では、日が暮れれば居酒屋系しかないのだ。

ところが今回の出張先は高知である。曲がりなりにも県庁所在地だ。遅くなっても酒なしで晩飯を食える店ぐらい開いているだろうと期待していたのである。しかし、それは甘かった。

「そうだ、ここは高知だったのだ」と改めて思った、高知の人たちというのはとにかく酒を飲む。会社帰りにどっと繰り出して、ガンガン飲みまくる。それだけじゃない。会社帰りのオッサンの飲み会の始まる前に、奥さん連中が飲み会を済ませて家に帰ったりしているというほどの土地柄である。

そうした町だもの。空港から高知駅までのバスに乗り、駅前からホテルに向かう道のりは居酒屋、海鮮飲み屋、焼き鳥屋の類いだけで、メシだけ食える店なんて皆無である。必死に探して、「CoCo壱番屋」 が見つかり、そこでカレーを食ってホテルに入れた。そうでなかったら、またしてもコンビニのおにぎりになるところだった。

 

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2019年3月11日

今どきの「大丈夫」の複雑怪奇な意味

最近コンビニで買い物をすると、レジで 「〇〇は大丈夫ですか?」 なんて聞かれることが多い。はっきり言って意味がわからなくて、仕方がないので「はい」と応えてそれで大抵の場合済んでいるのだが、自分でも何がどう大丈夫で、もし「いいえ」と答えたらどうなってしまうのかもわからず、どえらくモヤモヤしてしまう。

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例えば飲み物なんかを買って「ストローは大丈夫ですか?」と聞かれ、何となく「なくても大丈夫」みたいなイメージで、つい「はい」と答えると、意に反してレジ袋にストローを放り込まれてしまう。で、そんなもの要らないので、あわてて「あ、それ要らない、要らない」なんて言って取り出してもらう。「変な客」と思われてるんだろうなあ。

この場合、「いいえ」と答えるべきだったのかと、いつも後になって気付いてしまう。しかしそれだと「ストローはなくても大丈夫じゃない」なんて、わけのわからないことになるんじゃないかとか、自分の言葉に責任を持てなくなってしまい、ますますわからなくなってしまう。

あまり気になるのでググってみたら、同じように気になってる人がいるようで、"with news" というサイトに "「大丈夫です」って、なにが大丈夫なの 気配り表現? 言葉の乱れ?" という記事がみつかった。この中で「大丈夫ですか」のいろいろな用例が紹介してあり、ここでは 2つだけ取り上げてみる。

【スーパーのレジで 「袋は一つで大丈夫ですか」】
 ↑
 従来なら 「よろしいですか」

これなら、まだわかる。「はい」と答えれば、無駄に 2袋使われてしまわずに済む。(関連で当ブログの 「レジ袋の有料化は、個人的には歓迎」 という 2月 28日付の記事もご覧戴きたい)

問題は次の用例だ。

パン屋でサンドイッチ購入時に 「お手拭きは大丈夫ですか」】
 ↑
 従来なら 「ご入り用ですか」

これ、まさに上述の「ストローは大丈夫ですか?」と同じ用法のようで、そうか、レジのおねえちゃんの言うのって、「要るか、要らないか」 の意味の場合が多くて、要る場合は「大丈夫」ってことだったのか。しかし、要らない場合はどう答えればいいのだろうか。「大丈夫じゃありません」とでも言えばいいのか、あるいは単に「いいえ」と言えばいいのか。ああ、わからない。

同じようにググって、もう一つ面白いページを見つけた。HATENA BLOG の "スタバで 「ストローお通ししてもいいですか?」 を止めてほしい……" という記事である。

この筆者はスタバでコーヒーを飲む場合、蓋にストローを通してほしくないということなのだが、「いいですか?」と聞かれると、つい断れないようなのである。こんな具合だ。

じゃあ、断ればいいじゃないか。
なんて言う方がいるので断っておきますが、もちろん断ることもできます。出来ますが…優しい店員さんに笑顔で、しかも親切心で言ってくれている言葉に「大丈夫です」っていうのは何か…罪悪感を感じます。

私はスタバでストローなんか使わないのでよくよくわからない心理である。しかも彼は「大丈夫です」(通さなくていいです)と言うのは罪悪感につながると書いているのだから、この場合は「ストローは大丈夫ですか?」(入り用ですか)という問いへの返事の「大丈夫」とは逆の意味なわけだ。

ということは、もしかしたらこの場合は、仮に「大丈夫です」と答えたとしても、逆の意味に受け取られてあっけらかんとストローを蓋に通されてしまう可能性だって高いんじゃないかとも思われる。どんな結果になるか、一度試してもらいたいほどのものだ。

この問題についてマジに調査した実践女子大学の山下早代子教授は、"「よろしいですか?」 という依頼、あるいは 「必要ないです」 という断りは直接的な表現で相手に負担をかけます。これに対して、「大丈夫」はより婉曲的で、相手を気遣った表現になっている” と説明しているという。これを受けて件の記事は、以下のように結論づけている。

相手も自分も様々な表現に煩わされることなく、かつ相手を傷つけない。いまどきの「大丈夫」は、とても便利な表現であるようです。

いやはや、今どきの「便利な表現」って意味が正反対になったりして、解釈が滅茶苦茶むずかしいのだね。ああ、ややこしい! 婉曲表現にわかりにくさは付き物とはいえ、いくら何でもややこしすぎる。

 

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2019年3月10日

「選択肢が多い方が幸せというのは嘘」という主張に驚く

ふゆひーさんが Naoki Takahashi さんという人の tweet を「ひとことで言うと、江戸時代に戻ろうって話ですよ」という批判的コメント付きで リツィートしている(参照)。どんなのかというと、こんな tweet だ。

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これは下に示自らの tweet の続きとして書かれたもので、本来の順序としてはこっちから読む方がいいのだろう。

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Naoki Takahashi さんは、「夫婦別姓」という問題から発して、「選択肢が多い方が幸せにつながるというのは嘘」であると主張されている。つまりごくフツーの人々にとっては、選択肢なんて少ない方が親切なのだということのようだ。その根拠として「スティーブ・ジョブスが常に同じ格好をしていたのがいい例」としている。

しかしこれに対する反論は容易だ。スティーブ・ジョブスは確かに、いつも T シャツとジーンズで登場したわけだが、これは「ビジネス・ピープルはバリッとしたスーツで登場するのが当然との「常識」に対するオルタナティブという意味があったことを、Naoki Takahashi さんは無視している。つまりジョブスは、実効的な選択肢を確実に一つ増やしたわけなのだよ。

もっと基本的なことを言えば、Windows 一辺倒の様相を呈しかけていた PC の世界に、ジョブスは Mac という別の選択肢を提供してくれたわけだ。そのおかげで私は今、Windows の呪縛から離れた世界で快適に PC を使わせてもらっている。

「Mac なんて使っているのは圧倒的少数派だから、そんなもの潰して Windows に統一してしまえばいいじゃないか」と言われても、「いやいや、そうはいかないよ」と言うほかない。Windows だけの世界なんて、考えるだにつまらない。

それから「毎日何を食べるのか自分で考えるより美味しいものが自動的に出てくる方が良い」というのも考えもので、それだと「毎日まずいものが自動的に出てくる」なんて境遇になっちゃう可能性だって当然あることも、Naoki Takahashi さんは無視している。毎日美味しいものを出してもらうことを選択できるのは、食い物選択の自由があればこそなのだがね。

人間は興味のある分野では豊富な選択肢の中から「こだわりの一品」を選びたがり、逆に興味のない分野では「あてがい扶持でも一向に構わない」と思うことが多い。問題は人間の意識は多様だから、人によって「こだわり分野」も千差万別ということだ。

私は自分では全然興味のない分野の選択肢に関しても「少ない方がいい」などとは決して言いたくない。自分にとっての 「こだわりのある分野」 の選択の幅が、誰かさんの意思によって強引に狭められたりしたら大迷惑というものだから。

【3月 18日 追記】

食い物の選択肢に関連して、14年前の 8月 8日に「夫婦間の理解不能な言葉のやりとり」という記事を書いていたことを思いだした。

妻の発する 「夕食、何が食べたい?」 という質問にどう答えたらいいか、「何でもいいよ」ではあまりに愛想なしすぎるし、滅茶苦茶悩んでしまうというお話である。人間、本当に「あてがい扶持で十分」という分野があるものだが、それは妻の料理に対する信頼感があればこその話でもある。

 

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2019年3月 9日

単語登録を巡る冒険

PC を使っていて何気に便利なのは「単語登録」という機能である。例えば仕事先とメールで連絡を取るときなど、「お世話になっております」 という決まり文句で書き始めることが多いが、いちいち律儀にそのままキーボードを叩いたりしない。

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「おせわに」 と入力してスペースキーを押せば「お世話になっております」と変換されるように単語登録してある。「今後ともよろしくお願い申し上げます」なんてのもごく当然に「こんよろもう」で変換される。

固有名詞にしても同様で、仕事先の社名がカタカナでやたら入力しにくいものだったりしたら、簡単な略称で登録する。例えば 「株式会社マービック情報システム」なんて名前の会社があったりしたら、迷うことなく「まびしす」の 4文字で登録しておかないと指がもつれる。

「代表取締役社長」なんていう役職名も、「だいとりしち」で登録してあるし、「取締役部長」も当然「とりぶち」である。最近はカタカナ名前の役職が多いので、「営業担当マネージャー」なんてのは当然「えぎまね」になり、「システム開発エキスパート」なんてややこしいのは 「しすかいえき」である。

ところが周囲に聞いてみると、こんなふうにマメに単語登録機能を使っている人は案外少ない。長ったらしい決まり文句や社名、役職名でも、律儀にチマチマ入力しているようなのだ。「どうして登録しないの?」と聞くと、「だって面倒くさいんだもの」と言うのである。

「いや、単語登録は一度で済むけど、それしないと一生面倒くさいんだよ」と言うのだが、なかなか真意が通じない。要するに慣れないから面倒に感じてやらないし、やらないからいつまでも慣れないというだけである。

ところで私はこれまで、近くを走る「つくばエクスプレス」という鉄道路線を「つくえく」という省略形で単語登録していた。試してみればわかると思うが、「つくばエクスプレス」はまさに指がもつれそうになり、しかもカタカナ部分は "express" という英単語に変換されちゃったりもするから、面倒な入力の代表格である。これを単語登録しない手はない。

ところが、世の中はこの「つくばエクスプレス」のことを「TX」の略称で呼ぶのが当たり前になっているようなのである。いちいち「つくばエクスプレス」なんて言うのは、今や完全に少数派だ。ましてや「つくえく」なんて言うのは 1人もいないし、言っても通じない。それで私も最近考えを改め、「つくえく」を放棄して「tx」で単語登録しなおしてしまった。

そしてこれ、やってみると恐ろしいもので、10年以上「つくえく」に慣れ親しんでいたカラダが、あっという間に「tx」のカラダに切り替わってしまったのである。今や「つくえく」と打ち込むことさえ、たまらなく面倒に感じる。

というわけで、人間おしなべて楽な方に楽な方にと流れるものだというのを実感している次第である。

 

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2019年3月 8日

感性のおかしいキャスターって、「やっぱり」 いるんだね

ふゆひー9 さんが 「加藤浩次って誰だか知らないけど、要するに頭を使って考えるのが自分にはめんどくさいと言っているだけのような」と tweet されている(参照)ので、「一体何のこっちゃ?」と思ってググってみたら、日テレ系のニュースショーでの話だった(参照)。

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このお話、かいつまんで言うと、あのトヨタが Twitter で「女性ドライバーの皆様へ質問です。やっぱりクルマの運転って苦手ですか?」という公開質問をしたところ、反発の声が拡大。その結果、トヨタはこの質問を削除したというものだ。ちなみに、Twitter 上での質問はこんなのだったらしい。

1903081「やっぱり」 の一言が偏見たっぷりでウザい上に、回答の選択肢は、苦手系が「とても苦手」「すこし苦手」の 2つあるのに、得意系は 「得意です!」の 1つしかない。トヨタはよほど「女性は運転が苦手」という方向に導きたいようだ。そっち方向を意識した製品開発に関するマーケティングの第一弾なのだろうけど、しょっぱなでつまづいちゃったね。

これに関してロバート・キャンベル氏は「世界一のメーカーのトヨタが女性に対して "やっぱり" 車の運転って苦手ですねって誘導をしてるんです」と批判した。これ、実に真っ当な批判で、男の私でも気持ち悪くなるような質問の仕方をするとは、トヨタの広報の感性、走行距離 50万km超の中古車並にくたびれてる。

ところがこの番組の高橋真麻というフリーアナウンサー(女性)が、「一部少数派がうるさく言って、大多数の人は何も思っていない。取り下げはおかしい」と主張したらしい。さらに幻冬舎の箕輪厚介という編集者も、「これで怒られたらピリピリしすぎじゃないかな」と発言。いやはや、よく言うわ。「怒る」以前に「不愉快」という話で、トヨタは自社のイメージを自ら下げてるんだというのをわかってない。

さらにいろいろなやり取りの末、メインキャスターの加藤浩次というのが、 「俺もう面倒くせえ、面倒くさくなってきた」と問題放棄しちゃったというのである。こいつ多分、「自分は美しき日本的感性の持ち主で、ほとんどの日本人も自分と同様に、『これは面倒くさくてどうでもいい問題』と感じてるはず」と信じているから、簡単にこんなこと言えるのだ。完全に考え違いというほかないが。

国会では桜田大臣が「この大臣、大丈夫ですか?」と言われてるらしいが、私は「この人たち、ジャーナリストとして大丈夫ですか?」と言いたくなってしまったよ。

ちなみにふゆひー9 さんは「加藤浩次って誰だか知らないけど」とおっしゃってるが、私は不幸なことに知っているのだよね。だいぶ前にたまたまどこかで日テレのニュースショーを見ちゃったことがあって、細かいことは忘れたが「このキャスターの感性、かなり不愉快!」と呆れてしまったことだけは鮮明に覚えている。

まあ、どうせテレビなんてほとんど見ないんだけど、とくにこの番組は見たくない。こんなおかしなキャスターの仕切るニュースショーなんか見たら、朝からストレスが溜まってしまう。

今回の騒動を知るにつけ、「感性のおかしいキャスターって、『やっぱり』 いるんだね」と思うばかりである。

 

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2019年3月 7日

「ブイはバージョンであります」 って、それがどうした?

これは、一昨日の記事の付け足しである。

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5日の衆院予算委員会で桜田大臣はさかんに「ブイ予算」と口走っていた(参照)が、これ多分、お役所内だけで通じる業界用語に近いもので、国会答弁の中で安易に使うような言葉じゃない。それで蓮舫議員も「ブイ予算って何ですか」と問いただしている。

すると桜田大臣、妙に自信満々の様子で「ブイは『バージョン』であります」と言い放ってきびすを返す。すると満場、「オー」と感動。桜田大臣が「バージョン」という横文字を知っていたというだけで驚いている。

しかし「ブイ予算の『ブイ』は『バージョン』であります」と言っただけでは全然答えになっていない。「だからその『バージョン予算』とはどういう意味なのか」と改めて問い直さなければならなかったのだが、それをやるとまたしても長々と官僚のレクが必要になって時間の無駄になるだけだったろう。

蓮舫さんは 「Vをバージョンと言ったぐらいで、みんなから『おー』って言われるのはやめてくださいよ」なんて、あまり意味のないツッコミをした後、このケースの「ブイ」というのは、「V3」つまり「予算としてのバージョン 3」であると指摘している。

つまり桜田さん、(お役所内でいうところの)「V3 予算」を「ブイ予算」なんて言っていたわけで、要するに中身については何もわかっていないってことだ。

蓮舫さんとしては事前に調べてよく知っていることを、わざわざ桜田大臣に質問して恥をかかせているわけだが、惜しむらくは、世間一般に流れたニュースでは 「おー」 というどよめきが強調されただけで、「バージョン 3」であるという部分はほとんどカットされてしまっている。だから国民のほとんどは「ブイ予算」とは何のことなのかわからないままだ。

つまりニュース制作側としても、視聴者なんて「ブイは『バージョン』であります」でわかったつもりになっている大臣と同レベルなのだと、高をくくっているわけだ。本当はどういう意味なのかを国民に伝えようなんてほとんどしていない。

結果的には「桜田大臣の醜態を電波に乗せさえすればいい」という蓮舫さんの意図は実現されたわけなのだが、こんなことではなかなか悲しいものがあるよね。桜田大臣が登場するだけで、いろいろなことのレベルが一挙に下がり果てるし、周囲はそれを見世物にすることを目的とし過ぎている。

 

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2019年3月 6日

米朝、辺野古問題のお粗末

もうだいぶ前から続いているんだけど、「米朝会談」とか「米朝協議」とかいう文字を見ると、トランプと金正恩の顔なんかより、今は亡き桂米朝師匠の顔が思い浮かんでしまう。これはきっと私だけではなく、落語ファンのほとんどはそうなんじゃないかと思ってしまう。

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本当にこればかりはどうしようもない。「ついに次の桂米朝を決めるのかと思ったら......」なんていう反応がネット上で乱れ飛んでいることを見ても、やはりあんな 2人が会って話をするより、米朝師匠の噺の方がずっといい。

それからもう一つ、こっちは音声情報の話なのだが、ラジオなどで「辺野古の埋め立て」なんかの話を聞くと、当然ちゃんと真面目に考えはするのだが、一方でちょっとむずがゆくなってしまっていた。というのは、江戸時代の艶笑小咄にこんなのがある。


商家の年頃の娘が庭で行水をしていると、塀の節穴からそれを覗いていた男が自分のナニをその節穴にツッコんだ。それを見た娘が、「あれ、あんな所にきのこが…」 すると行水の世話をしていた下女が「お嬢様、あれはきのこではなく、塀に生えているので『へのこ』でございます」  (参照

全国版のニュースで女性アナウンサーが平気で「へのこ問題」なんて言うのを聞くと、ちょっと前まではなんだかこちらが困っちゃってたよ。さすがにもう慣れたけど。まあ、既に「古語」の範疇に入っていて、現代語としては使われない言葉でよかった。ただ私は、昔から古語に親しみすぎてるんだよね。

というわけで、米朝、辺野古問題のお粗末。炎上なんてしないように祈る。

 

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2019年3月 5日

蓮舫さん、桜田大臣をイジめるのがよほどお好きのようだ

仕事先からクルマで帰宅する途中、カーラジオのニュースでまたしても蓮舫議員にさんざん痛めつけられる桜田オリパラ大臣の哀れな答弁が何度も繰り返された。それにしても蓮舫さん、このオッサンを生け贄にしてシャブリ尽くすのがよほどお好きのようだ。前回でだいぶ味をシメちゃったんだろう。

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今日の予算委員会での蓮舫議員の質問の趣旨は、「オリパラ予算には無駄や曖昧な点があるのではないか」ということのようで、一般的なテロ対策とすべき警備機器などの補充もオリンピックにかこつけて行われているというのは確かに問題だと思うのだが、世間に伝わるニュースはそんなことより桜田大臣の「お笑い」ぶりばかりに終始してしまっている。

これ、蓮舫議員は質問の最初に「政府としてこのオリパラ大会にかかる総予算、把握されていますね」なんて、かなり意地悪な意図のもとに言っちゃってることからして、直後にニュースとして伝わるレベルが決定されてしまっている。まあ、蓮舫さんの意図通りの展開なのかも知れないが。

そもそも「把握されていますね」なんて言っても、このオッサンがそんなこと把握してるわけないじゃないか。さらにひどいことに、手渡された資料のどこを見ればその数字が記してあるかすらわからない様子だから、まったくもって世話が焼ける。

数字の桁というのは、その人の実感的理解と直結する。1500億円を「1500円」なんて言い間違えるのは、実感としてはさっぱり理解していないことを如実に物語っていて、この質問の元々の意図が、それを想定した上で桜田大臣を生け贄にすることだったと思うしかない。

そんなことを聞くから、お役所の官僚が付きっきりでレクしなければならない。それがテレビの画面で日本中に晒されるのだからある意味「公開処刑」で、気の毒なのは、あの六四分けしたゴマ塩頭の役人である。

蓮舫さん、次に桜田大臣をイジメる時は、ナチスの制服を着て革の鞭を手にするコスプレで登場するとお似合いだと思う。

 

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2019年3月 4日

「ハンドウォッシュ」と「ハンドスキッシュ」という組み合わせ

この写真は、先日岡山に出張した際に泊まったビジネスホテルの、バスルームにあった手洗いセットである。石けんの方の商品名が「ハンドウォッシュ」で、それとセットの手指消毒剤の方が 「ハンドスキッシュ EX」 と、カタカナ的にはビミョーに韻を踏んでいる。

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両方とも「KAO プロフェッショナル」というブランドだから、花王の業務用製品なのだろう。それにしても「スキッシュ」なんて言葉は初耳 (この場合は「初目?」)だから造語としか思えない。「手を消毒してスッキリする」というような意味合いなんだろうが、日本のメーカーはこうした類いの「雰囲気カタカナ言葉」が大好きなようだ。

そういえば同じ花王の製品で "Biore" というのがあって、私はずっと「バイオール」かと思っていたら、ローマ字読みで「ビオレ」なんだそうだ。そのココロは、ギリシャ語の "Bios"(生活)と "Ore"(満ち足りた)の合成語で、「満ち足りた生活」だという(参照)。こんなの誰も想像つかないよね。

私も前に使っていた Canon のインクジェット・プリンターのブランドは "Pixus" で、「ピクセル(pixel)を 私たちにもたらす」というような意味かと思っていたが、実はもっと複雑な由来があって、こんなことらしい (参照

「pixel(ピクセル、画素)」や「picture (ピクチャー、写真)」を意味して、音感が似ている点、「X」は無限を表し、「US」は your style とも言い換えられるなど、いろいろな意味が込められています。

いやはや、ここまで欲張ったネーミングだと、聞くだけでお腹一杯になってしまいそうだ。それにしても "US" で ”your style" とは、ちょっと無理があるような気がするがなあ。若いタレントが子細ありげに言いそうだけど。

既に有名なのは大塚製薬の「ポカリスエット」で、"sweat" は「汗」 だから、誰もそんなもの飲みたがらないだろうというので、海外展開の場合のネーミングは "POCARI" だけにしているらしい。「いえいえ、『スウェット』じゃなく、『スウィート』です」 とでも言い張ればよかったのに。

もう一つ有名なのは 「カルピス」 で、"Calpis" を米国アクセントで発音すると "cattle piss"(牛のおしっこ)に聞こえちゃうので、米国市場では "Calpico" の商品名で展開されている。なぜか巷では 「米国では "cow piss"(雌牛のおしっこ)に聞こえる」説が圧倒的だが、米国発音で "cal" と "cow" は似ても似つかないので、そのあたりよろしく。

(これ、”gal”(ギャル)と “gown”(ガウン)の違いで、「ガル」とか「ギャウン」では通じないと言えばわかるかな? それでもしっくりこない人は、下のコメントのやり取りをどうぞ)

 

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2019年3月 3日

「元号の出典は日本で書かれた書物がいい」んだそうで

安倍首相が「(平成の次の)元号の出典は日本で書かれた書物がいい」なんて言い出してるらしい(参照)。まったく思いつきでいろいろ言いたがる人である。

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彼にしてみれば中国古典なんて「敵性言語」みたいなものだから、とにかく「日本ファースト」で行きたいということなのだろう。しかしこんな思いつきの寝言をソンタクしちゃったら(結局しちゃうんだろうけど)、選択肢が大幅に狭まってしまう。

ニュースを子細に読むと「日本で書かれた書物」と言っても、そのココロは「今回は、室町時代までに漢文で書かれた日本の古典に由来する案も候補にあがっているという」のだから、そんなのは一見ソンタクにみせるための「アリバイ作り」に過ぎない。現代で言えば「日本人が書いた英文」みたいなものだ。

ちなみに日本古典文学の多くは「もののあはれ」の世界だから、イメージがはかなすぎて、元号にふさわしい言葉はかなり限られる。たまたま「これは」というような言葉が見つかっても、そのオリジナルを辿れば中国古典だったりすることが多いから、ソンタクにならない。

「空蝉」とか「陽炎」とか、はたまた「徒然」とかいうのは、元号には馴染まないよね。「空蝉元年」なんて、二年目がアヤシくなるようなイメージだ。さらに時代が下って江戸時代になると、「浮世」とか「道行」とか「洒落」とか、軽すぎて全然ダメだし、近代になると「細雪」とか「草枕」とかで、まるでオモムキが違ってくる。

巷では「云々 (でんでん)」を推す声が大きいようだ。なかなかおもしろそうだが、そこまで行ったらそのカウンターとして「不安(安倍じゃない)」なんてのもアリだろう。

とにかく、選定に関わっている学者たちは気苦労が多いだろうね。

 

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2019年3月 2日

「我あり」は「我思う」故か、「我考える」故か

毎日新聞の「昨今 ことば事情」という連載に 近藤勝重氏が「考える読書」という一文を寄せ、この中で「デカルトの『我思う、故に我あり』は 『我考える、故に我あり』ではないのか、と疑問を抱いてきた」としている。

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まあ、いずれにしてもこれはデカルトがフランス語で書いた『方法序説』の中の "Je pense, donc je suis." (ラテン語訳では "Cogito ergo sum") という文の日本語訳であり、1904年 (明治 37年) の桑木厳翼の翻訳からずっと「我思ふ、故に我あり」で親しまれているようだ。

私は大学で第二外国語としてフランス語をちょこっと学んだはずなのだが、実際には全然疎いので、英語でどう言うかを調べると "I think, therefore I am." ということになっている。これなら直訳的には「思う」でも全然問題ない。

デカルトの文脈としては、哲学者として全てのことを疑うという「方法的懐疑」のあげくに、世界の全てが虚偽であったとしても、そのように疑っている自分自身の存在だけは疑いようがないとして、「我あり」と結論づけたというのが、教科書的な解釈となっている。

とすれば、「思う」と訳すか「考える」と訳すかは、結局「趣味の問題」と言っていいような気がするのだよね。要するに何らかの「意識作用」があって、その「意識作用」を自覚的に展開している「我」の存在だけは肯定せざるを得ないということなのだろうから。

ニュアンスということで言えば、「思う」はかなり古典的、「考える」は近代的な論理を思わせる。近藤勝重氏は近代的論理のニュアンスにこだわっているわけだね。ポスト・モダンなんてどうでもいいのかもしれない。

ちなみに夏目漱石は『吾輩は猫である』の中で次のように述べている。


デカルトは「余は思考す、故に余は存在す」という三つ子にでも分るやうな真理を考へ出すのに十何年か懸つたさうだ。すべて考へ出す時には骨の折れるものであるから猿股の発明に十年を費やしたつて車夫の智慧には出来過ぎると云はねばなるまい。

「思う」と「考える」をひっくるめて、「思考す」と訳しているのは、漱石の面目躍如という気がする。「漱石は日本で最も早い時代に現れた近代人なのだなあ」と思うほかない。

それにしても「三つ子にでも分るやうな真理」には恐れ入ってしまう。近代西欧文化と漢学と戯作にマルチに通じなければ、こんなふうには達観できないよね。

 

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2019年3月 1日

遺影というもの

同い年の友人の通夜と告別式に、連続して列席した。親しい同年配の人間が突然死ぬというのは、心の痛むことである。

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ところで彼の遺影はなかなかよく撮れていて、見ているとこちらに何かを語りかけているようにさえ思えるものだった。正装だったから、多分彼の娘の結婚式の時に写したものだろう。それほど前のことではないから、本当に彼の生前の雰囲気をよく現していた。

それを見ながら、残された我々は「俺たちもそろそろ遺影を用意しておかなければならないかなあ」なんて話していたのである。仲間内には写真を撮られるのが苦手な者が多いので、いざ死んでしまったら遺影にするのに適当な写真がない。

そういえば父の葬儀の時も遺影にするのにまともな写真がなく、普段着で談笑している写真しか見つからなかった。結局のところは「かえって人柄が偲ばれてよかった」なんて言ってもらえたが、遺影にするにはカジュアルすぎたかもしれない。

私としても、最近は「和歌ログ」の更新のために毎日写真を撮っているが、自分の写真となると本当に少ない。何かの集まりで撮った集合写真ぐらいのものである。ただ集合写真というのは、顔は小さく映っているだけだから、遺影用に引き延ばすとかなりボケボケになってしまう。

ましてやこのブログのプロフィルに使っているのは、遺影になんかしようがない。何しろ大昔に出たばかりの頃の安物のデジカメで撮ったものだから、画素数なんて最低だ。無理矢理引き延ばしたら、それこそ幽霊みたいになってしまう。

というわけで、遺影用の写真は早めに確保しておく方がいいということになったのだが、ある友人が言うには、「この世は善良なやつほど早く死ぬことになってるから、お前はなかなか死にそうにないよ」という話ではあった。

 

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