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2019年3月 2日

「我あり」は「我思う」故か、「我考える」故か

毎日新聞の「昨今 ことば事情」という連載に 近藤勝重氏が「考える読書」という一文を寄せ、この中で「デカルトの『我思う、故に我あり』は 『我考える、故に我あり』ではないのか、と疑問を抱いてきた」としている。

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まあ、いずれにしてもこれはデカルトがフランス語で書いた『方法序説』の中の "Je pense, donc je suis." (ラテン語訳では "Cogito ergo sum") という文の日本語訳であり、1904年 (明治 37年) の桑木厳翼の翻訳からずっと「我思ふ、故に我あり」で親しまれているようだ。

私は大学で第二外国語としてフランス語をちょこっと学んだはずなのだが、実際には全然疎いので、英語でどう言うかを調べると "I think, therefore I am." ということになっている。これなら直訳的には「思う」でも全然問題ない。

デカルトの文脈としては、哲学者として全てのことを疑うという「方法的懐疑」のあげくに、世界の全てが虚偽であったとしても、そのように疑っている自分自身の存在だけは疑いようがないとして、「我あり」と結論づけたというのが、教科書的な解釈となっている。

とすれば、「思う」と訳すか「考える」と訳すかは、結局「趣味の問題」と言っていいような気がするのだよね。要するに何らかの「意識作用」があって、その「意識作用」を自覚的に展開している「我」の存在だけは肯定せざるを得ないということなのだろうから。

ニュアンスということで言えば、「思う」はかなり古典的、「考える」は近代的な論理を思わせる。近藤勝重氏は近代的論理のニュアンスにこだわっているわけだね。ポスト・モダンなんてどうでもいいのかもしれない。

ちなみに夏目漱石は『吾輩は猫である』の中で次のように述べている。


デカルトは「余は思考す、故に余は存在す」という三つ子にでも分るやうな真理を考へ出すのに十何年か懸つたさうだ。すべて考へ出す時には骨の折れるものであるから猿股の発明に十年を費やしたつて車夫の智慧には出来過ぎると云はねばなるまい。

「思う」と「考える」をひっくるめて、「思考す」と訳しているのは、漱石の面目躍如という気がする。「漱石は日本で最も早い時代に現れた近代人なのだなあ」と思うほかない。

それにしても「三つ子にでも分るやうな真理」には恐れ入ってしまう。近代西欧文化と漢学と戯作にマルチに通じなければ、こんなふうには達観できないよね。

 

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