「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」というのは、紀貫之の『土佐日記』の有名な書き出しである。今さらのようだが、貫之の時代は男は文章を漢文で書くものという常識があったため、漢字仮名交じりの日記を書こうとした彼は便宜上、自分を女と仮想したものと言われている。
(クリックで拡大表示されます。草書体じゃないから、結構読みやすい)
で、高校の時(だったと思う)、教科書に載っていた『土佐日記』の序文を見て私は、「ありゃりゃ?」と思ってしまったことを思い出す。
というのは、「男もすなる」という句は「す」+「なる」(助動詞「なり」の連体形)なのに、「してみむとてするなり」は 「する」(「す」の連体形)+「なり」になっているからだ。同じ「す」という古語の動詞が、「なり」という助動詞が付くと「すなる」と「するなり」の 2通りになっている。これって、ちょっとした違和感ではないか。
この件に関して、高校の古文教師はテキトーに流してしまって、詳しい解説はしてくれなかったと記憶している。それで私としては、「昔の人って、文法には案外テキトーだったんだなあ!」と思い込んでしまったのだ。
大学入試では運良くこれについての問題が出ることもなかったため、そのまま何ということもなく数年経った頃、やっぱりどうにも腑に落ちなくて、自分で調べてみたところ、「さすが、古今和歌集の選者をつとめたほどの人物だもの、決して文法にテキトーってわけじゃなかった」と再認識したのだった。「紀貫之先生、今まで不埒な考え違いをしていてごめんなさい!」である。
日本語の助動詞「なり」には、意味的に 2種類あるというのである。伝聞推定の「なり」と、断定の「なり」だ。前者は動詞の終止形に付き、後者は連体形に付く。
だから「男もする(書く)らしい日記というものなんだけどさぁ」という「伝聞推定」の文脈では終止形の「す」について「すなる」となり、「女(の自分も)やっちゃえってんで、する(書く)んだわよ」という「断定」の文脈では、連体形の「する」に付いて「するなり」となる。これ、日本語文法の常識なんだそうだよ。
現代の日本語だと、伝聞推定の「なり」は「〜という」あるいは 「〜らしい」に、断定の「なり」は「〜だ」に相当するだろう。「行く」という動詞を例に取れば、伝聞推定は素直に終止形そのままを使って「行くという」になるが、断定の場合は単純に「だ」を付けて「行くだ」では吉幾三の歌になっちゃうから、フツーは「行くのだ」と、連体形に近いニュアンスにしてから「だ」が付くものと思えば理解しやすい。
いやはや、地域で一番の進学校とはいえ、やはり半世紀近く昔の田舎の高校である。そんなところまで詳しくは教えてくれなかった。いや、もしかしたら私が授業中にぼんやりしていて聞き漏らしただけかもしれないが、いずれにしても「これ、大事なポイントだから、しっかり理解しておくようにね」みたいな教え方はしてもらえなかったのである。
で、時を経た今、私ってば高校時代には思いもしなかった「ネット歌人」(めちゃくちゃ粗製濫造だけどね)として「和歌ログ」なんてブログを持ち、なんと毎日のように文語で歌を詠むようになっちゃったのである。ああ、人生の途中で「すなり」と「するなり」の違いに気付いておいて、本当によかったよ。
というわけで、このブログはかなりカジュアルな文体で書いているとはいえ、意識の根底の部分では古典的な日本語にもずいぶんこだわっていないわけじゃないのである。その流れとして、「バイト敬語」なるものにずいぶんな違和感を覚えてしまうのもご理解いただきたいってなものなのだ。
【追記】
この土佐日記の冒頭、「男もすなる日記といふもの」を「おとこもすなるにきというもの」と読み下す向きも多いが、上の画像をクリックして拡大して見ると、「男」には「ヲノコ」と仮名が振られ、「日記」の「日」の横にも「ニツ」と仮名が振られている。
ということは、現代の我々としても「おのこもすなるにっきというもの」と読み下す方がいいのかもしれない。ちなみに、上の画像は二松学舎大学附属図書館所蔵の写本で、筆写者不明、年代は承平五年(935年)以降とされている。(参照)
「にき」か「にっき」かという議論に関しては、"『土佐日記』の冒頭、「日記」の読みー「促音無表記」とは" の記述に賛成するので、参照されたい。この記事では、平安時代には「促音無表記」の原則があるとされているので、写本の振り仮名も後から加えられた可能性も否定できないが、書き加えられたにしてもその時代には「にっき」の読みが少なくとも間違いじゃなかったということだ。
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