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2019年8月11日

社会の暗部を無意識の領域から掘り出す

あいちトリエンナーレに関して、昨日の記事の続きである。昨日の記事は柄にもなく細かい客観的事実の積み上げという形になったので、読んでいてつまらないと思われた方が多かったと思う。書いている当人もそれほど楽しくなくて、やや気が滅入っちゃったりもしたし。

190811

で、今日は「細かい事実」をちまちま積み上げるのではなく、私らしく直観的な話にする。話の入り口は、内田樹氏の 8月 4日付の tweet (参照)だ。彼は次のように述べている。

ふだん隠蔽されている社会の暗部を可視化するのはすぐれて批評的な行為です。今回の愛知の出来事で、日本の暗部が深くかつ広範囲に可視化されました。

「よくぞ言ってくださった!」と拍手を送りたいところである。実は私も「次はフロイトの精神分析的なロジックを借りて今回の企画展を語ろう」なんて思っていた矢先で、その結論は内田氏の tweet とほぼ同じようなところに持っていこうと思っていた。見事に先を越されてしまったけど、相手が内田樹さんだから、まあ、いいか。

フロイト精神分析は詳細に語り出したらキリがなくて、なかなか私如きの手には負えないが、要するに「無意識の領域にある抑圧的記憶を意識化させることで、神経症的症状を消すことができる」というメソッドであると、極々単純に理解している。アメリカ映画なんか見ていると、米国のインテリはみんな精神分析医にかかってるんじゃないかと思うほどで、「彼らも大変なのね」と同情するのだが、実は日本も大変なのだ。

要するに神経症的症候の多くは、意識化することに苦痛を憶えてしまうような記憶を、無意識の奥に抑圧して閉じ込めておくことから生じる。なにしろ閉じ込めた先は「無意識」というところで、当の本人すら気付いていない心の領域だから、合理的な「意識」でどうあがいても解決できない。

仕方がないから、治療の過程ではある程度の心理的苦痛を感じてまでも、それまで無意識の底に抑圧していた(要するに隠蔽していた)記憶を呼び覚まして、きちんと「意識化」することで解決する。

というわけで、私としては「美しい日本精神」を謳い上げているだけでは、意識的に生きようとすればするほど日本人は神経症的になってしまうほかないと思っている。本当に「美しい日本人」として生きようとするなら、認めたくない「歴史の暗部」の要素も、無視したり無理矢理に「国民的無意識の奥底」(と言えるかなあ)に閉じ込めて「なき物」とするよりも、きちんと意識化して「落とし前」を付けておかなければならない。

こんなことを言うと、「いつまでも韓国に屈辱的な『謝罪外交』を続けろというのか」と攻撃したがる人が、ネットの世界にも多く見られるが、そんな意味で言っているのではない。「あったことは事実として客観的に認めて、その上できちんと客観的議論をしなければならない」ということである。

いわゆる「謝罪外交」とは、「一応謝った形にしたんだから、もういいじゃないか」とばかりに再び無意識の中に封じ返し、表面的には「なかったことにしてしまおう」という行為である。そんなことをしているからご覧の通り、日本社会は「社会的神経症」の様相を呈している。

 

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