「あいちトリエンナーレ」のすったもんだに、敢えてもう一言
「あいちトリエンナーレ」の「慰安婦少女像」についてのすったもんだに関しては、3日前に面白くもなんともない原則的な考えを書かせてもらった(参照)が、世間ではあれからますますすったもんだの度合いを増している。この展示会の実行委員長はほかならぬ大村秀章・愛知県知事のようなのだが、この人が 5日になってから記者会見で、展示の中止を求めた河村たかし名古屋市長らを「憲法違反の疑いが濃厚と思う」と批判した。
私としても 3日前の記事で "「表現の自由」は最大限に尊重されなければならない" と書いた通り、行政側の人間が展示中止を求めるなんて、あってはならないことと考えている。その意味で、河村たかし名古屋市長にはかなり幻滅だ。
こんなことを書くと、「お前は売国的輩に与するのか」なんて批判されるのがお約束みたいになっているが、そんなことではないというのは、3日前の私の記事を読めばわかるはずだ。わからないとすれば、それはヒステリックになりすぎているからだ。
正直なことを言えば、私だってあの「慰安婦少女像」を見れば多少不愉快な気分になる。それは否定しない。あの作品は芸術的なレベル以上に政治的な観点で話題になりすぎているきらいがあると思う。しかし、だからと言って「展示を中止しろ」などと迫るのは自分として「倫理的敗北」だから、そんなことは決して言わないのである。
展示する側にはそれなりの考えがあるのだから、それは尊重されなければならない。そしてその「展示者側の考え」は、この展示会の芸術監督を務めた津田大介氏によって既にきちんと説明されている。「個々の作品の意味」に加えて、「展示中止に追い込まれた作品の集合」としての、二重の意味を持たせた展示なのである。
問題はその説明を文字通りに受け取る前に、「態度がチャラチャラしている」などという表面的な理由ではねつける側の感情的な反応だ。そこからいろいろな中傷が発生する。津田大介氏のあの一見「チャラい」態度は彼自身のスタイルなのだから、それはそれとして「好き嫌い」を越えて受け止めればいいのだ。
展示を見る者としては、展示者の発信する意図と展示そのものをきちんと受信した上で自分の態度を決めればいい。そのためには、展示が中止されてはならない。受信する前に潰してしまっては、元も子もない。
本日のネット・ニュースには、"74%が反対「慰安婦少女像」の芸術祭展示問題アンケート結果発表" というタイトルの文春オンラインの記事がある。「『慰安婦』少女像の展示に賛成ですか? 反対ですか?」というアンケートを行った結果、「回答者の 74.9%が『反対』と答えた」という内容だ。
私はこのアンケートそのものに、大きな違和感を抱いている。これについては本来、「賛成」も「反対」もないではないか。出品者が展示するというのだから、それはそれとして認めるほかない。認めた上で自分のまともな考えを発信すればいいのである。問われるべきなのはむしろ「展示中止に賛成か反対か」ということだろう。
文春オンラインの記事には「反対」と答えた 40歳女性の次のような意見が紹介されている。
「表現の自由は勿論認められるべきだが、芸術祭なのだから芸術性の欠片も感じられず政治性しか伝わらない表現はお門違い。この慰安婦像に何らかの芸術性は全く感じられないという人が大多数だからこそ問題になっているのでは。そもそもこれのどこが芸術作品なのか説明して欲しい」
「この慰安婦像に何らかの芸術性は全く感じられないという人が大多数だからこそ問題になっているのでは」という言い方は、それこそ私の言うところの「敗北」である。そもそも前衛的芸術作品の多くは、発表当初は「あんなの芸術じゃない」と非難されてきたのである。40歳にもなって「どこが芸術作品なのか説明して欲しい」なんて言うようでは、そもそも芸術には関わらない方がいい。
というわけで、私はこの展示会の参加アーティスト 72人の抗議声明(参照)を、強く支持する。
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コメント
「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」
この文章を燃やして踏みにじる『表現の自由』が保証されてる日本国憲法。
「二代前だからいいでしょ。」
その様に発言されているメディアアクティビストさん。
報道やネットの記事しか見ておりませんが、少女像やお墓の展示に反吐(嗚咽?)が出るほどの嫌悪感を持つことはありませんでした。
ただ、憎悪の対象として写真を焼く映像からは、芸術を感じることはできませんでした。
投稿: 乙痴庵 | 2019年8月 9日 12:42
乙痴庵 さん:
今回の本文に書いたように、私も少女像には「不愉快」な気分になります。で、その気分を表明させていただきました。
天皇の写真、あるいは天皇に限らず、人間の肖像を憎悪をもって公衆の面前で焼くという行為に関しては、「それって、サイテー!」と思います。「単なる鬱憤晴らし」でも、当人が芸術と言えば芸術になってしまうのが、ややこしいところです。ただ私としては「相手にするのも馬鹿馬鹿しい」と思っています。
ただ、それらを暴力的に中止に追い込むような真似をしたら、「サイテー以下」になってしまいます。
投稿: tak | 2019年8月 9日 19:41