あいちトリエンナーレの「二重、三重の敗北」
HUFFPOST が、「あいちトリエンナーレ」を視察した河村たかし・名古屋市長が「平和の少女像」の展示中止を要請したと、8月 2日付で伝えている(参照)。その結果として、本日限りでの展示中止が決まった (参照)。
「トリエンナーレ」とはイタリア語で「3年に 1度」という意味だそうで、あちこちに「なんちゃらトリエンナーレ」といういろいろなイベントがあり、「あいちトリエンナーレ」は 2010年から国際芸術展として開催されているらしい。ちなみに「2年に 1度」の「ビエンナーレ」ってのもあるよね。
今回のすったもんだは「表現の不自由展・その後」という企画展の一環として「平和の少女像」が展示されたことに端を発している。この像に関しては Wikipedia の「慰安婦像」という項目に詳しく述べられていて、世界各地にいろいろなバージョンが設置されて、論議を呼んでいるようだ。それが今回の「表現の不自由展・その後」につながったわけで、趣旨が趣旨だけにいろいろややこしいことになっている。
この企画のタイトルの「その後」というのは、2015年に東京練馬区のギャラリーで開催された「表現の不自由展」を受けたものとの意味が込められているらしい。
この展示会は、芸術展での展示が中止になったり、雑誌などへの掲載を拒否されたりして「消された」作品を集めたものだった。そしてその「消された理由」は、「美術館などが抗議や嫌がらせにおびえて『自主的に』取りやめた」というのが多いという。
最近の京アニ放火事件のような例もあるので、「安全確保」の意味から「消された」というより、主催者自らが「取り下げた」という例が増えているのだろう。まさに「表現の不自由」とは複雑な問題である。
個人的には、「表現の自由」は最大限に尊重されなければならないと思っている。たとえ不愉快な表現があったとしても、それを「消してしまう」のではなく、「批判と議論」によって深い意味を探る契機にすべきだと思う。それが嫌だというなら、無視するほかない。
問題は「無視するだけじゃ、けったくそ悪い」という心理で、そこから「中傷/嫌がらせ/脅迫」みたいなことにつながってしまう。私としてはそんなことをするのは実は「敗北」に他ならないと思ってしまうのだが、「まっとうな批判と議論」というのは難易度が高いので、現実は安易な「中傷/嫌がらせ/脅迫」の方に走りがちだ。
そこで主催者側も「自主的に展示中止」ということになってしまうのだが、これではお互いに「敗北」だ。じゃあ、この「敗北」に対する「勝利」ってどんなことなんだと問われそうだが、こうした問題に関して「勝利」なんてなかろう。ただ「当たり前」があるのみだ。
この「当たり前」ができなかったという意味で、今回は明らかな「敗北」なのである。さらに今回の「あいちトリエンナーレ」の展示中止は、「行政の関与」で決定されたということもあるので、「二重、三重の敗北」として象徴的に示されていると思う。
【2021年 8月 8日 追記】
今さらのようだが、この記事の直後に関連して 2本ほど書いているので、紹介しておきたい。
「表現の自由」と「自己責任」についてのエクストリームなご意見 (2019/8/8)
あいちトリエンナーレの企画展中止に関して、原則的な一言 (2019/8/10)
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コメント
「中傷/嫌がらせ/脅迫」の後に「/実力行使」と付きかねないところが本当に嫌ですね。それでいて当人たちは「あいつらは口で言っても分からないからこうするしかないんだ」などと歪んだ(そして最低の)正義感でいるという。
投稿: らむね | 2019年8月 4日 00:31
らむね さん:
ある種「政治的」なイシューになると、右と左にかかわらず、こうした歪んだ正義漢が正当化される傾向があるように思えます。
とくに最近の政治の世界では、エクストリームほど大きな顔をするようです。
投稿: tak | 2019年8月 4日 21:59