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2019年12月に作成された投稿

2019年12月31日

過去記事のココログへの移植を進めている

今月 25日の "Today's Crack は「16年連続毎日更新」を達成" という記事でも触れたように、このブログは 17年前の2002年から「(なるべく)毎日更新」ということで始めているのだが、「正真正銘の毎日更新」となったのは 2003年の 12月 26日からで、さらに自分のサイトからこのココログに移動したのは 2004年の 7月 8日である。

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ただ、それ以前の記事も暇をみてちょこちょこと自分のサイトからココログの方に移動しつつある。せっかくなのでスタート以来のすべての記事をこちらのココログの方に移植してしまおうと思っており、本日の時点で、2003年の 5月、6月分を残して、ほとんど移植済みということになった(もっとも、この 2ヶ月分も、月末の記事は移植済み)。

できれば新年の松の内にもすべての記事の移植を終えてしまいたい。過去記事を参照したい場合は、表示には多少手間がかかるが、ココログのバックナンバーから月ごとの表示に飛ぶことができる。

10年以上前の過去ログを改めて読んでみると、我ながら面白いことを書いていたものだと感心してしまう記事もあるが、その逆に、当時はこんなつまらないことを面白がっていたのかと、恥ずかしくなるようなものもある。それでも全部の記事を包み隠さず移植するつもりだ。

ちょっと計算してみたら、今日まで 6,440本の記事を書いてきたことになり、来年の 2月 29日で 6,500本になる。あと 2年足らずで 7,000本に達することになり、自分でも驚いている。

 

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2019年12月30日

年賀状がやっと印刷できた

あっという間に押し詰まってしまって、もう 30日になってしまった。今年の 12月は本当にスケジュールが立て込んで、25日になってまで富山に 1泊 2日の出張が入ってしまい、年賀状を作る時間もなかった。

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今日になってようやく年賀状の原稿ができて、印刷も完結した。あとはそれぞれに手書きの一言を添えれば完成である。明日の午前中の投函では、元旦の配達には間に合わないかもしれないが、まあ何とか、1月 2日には届くだろう。

その昔は、年賀状というのは新年を迎えてからおもむろに書き始めるものだったというから、これで十分だろう。

本日は年賀状作りで疲れてしまったので、これにて失礼。

 

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2019年12月29日

「とらまえる」という言葉

今月になってケッタイな挨拶の絶滅に関して 2本も書いた("喉元過ぎれば「いらしゃいませ、こんにちはぁ〜」を忘れる" 、"ケッタイな挨拶の絶滅から学ぶこと")ためか、「そういえば最近、『とらまえる』も聞かなくなったなあ」と気付いた。

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この言葉については、13年も前に ”「とらまえる」の考察” のタイトルで描いている。

「いらしゃいませ、こんにちはぁ〜!」同様にめでたく絶滅してしまったのかと思い、試しにググってみたら、電話代行サービス(って、一体どんなサービスなんだ?)業者のサイトの今年 1月 31日付の記事に「消費増税をとらまえる」というのがあったので、まだしぶとく生き残っているのだと知った。

ググってみたところでは、「とらまえる」という言葉を聞くと「もやもやする」とか「しっくりこない」とかいう思いを表明しているページが圧倒的に多い。とはいいながら、あまりにも世の中で堂々と使われてしまっているので、『広辞苑』にまで載ってしまったようで、web 版では次のように説明されている。(参照

とらま・える【捕らまえる】トラマヘル
〔他下一〕
(「とらえる」と「つかまえる」との混交した語)つかまえる。「狙ひよつて這ひよつて、―・へてみたれば、興がつた鶉で」(狂言歌謡)

なんと、この「とらえる」と「つかまえる」との混交は狂言歌謡の昔から発生していたということで、道理で関西方面の方がこの言葉の使用率が高い気がする。それもあって、これを関西方言と捉えて(とらまえて?)いる人も少なくないようなのである。

しかし私の個人的な印象からすると、これは通俗マーケッターと行政関係のお役人が好んで使う言葉という気がしている。「前 京丹波町議会議員 山崎裕二 活動誌 ブログ版」というサイトの 2015年 2月 18日の記事には、次のように描かれている (参照)。

調べてみると、大学の先生(研究者)にも 一部、使用ケースが垣間見られました(私の前職ですが、学内や学会で唱えている先生はいませんでした)が…議会答弁で頻繁に出てきますので、あえて行政用語にカテゴライズしてみました。「会議録 とらまえ」などで検索すると、ワッと出てきます。

ちょっと前、旧町議員だった方が何気なしに使われており、いまだに染まっているなぁと首を傾げるとともに、前例にしたがって、脈々と受け継がれる行政文化のようなものを感じ、生理的にブルっとしました。

「生理的にブルっとしました」という感覚は、私もよくわかる。わかりすぎるほどわかる。

というわけでこの「とらまえる」という言葉は私の印象に反して、決して滅びてはいないようなのである。どうやら私の方が、この言葉が多用される世界から離れて暮らすようになっただけらしい。おかげで生理的にブルッとこないで済んでいるのはありがたいことだ。

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2019年12月28日

IR 推進法と、「昭和かよ!」と言いたくなるワイロ事件

私は 1度だけラスベガスというところに行ったことがある。しかしそれは 15年も前に、米国で開かれた SCM 関連展示会の視察ツアーの一環で、ラスベガスに立ち寄ったというだけで、当時勤務していた業界団体の出張という形で行ったので、自分のカネで行ったわけではない。

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業界関係の展示会視察ツアーというのは、大抵最後に「お楽しみオプション」みたいなスケジュールが付いていて、最後の「お楽しみ」だけ張り切る参加者が結構多い。こういうのは会社の金で海外旅行して遊んで帰るだけである。

ちなみに最後だけ張り切る参加者というのは、主目的である業界視察レポートなんて大抵誰かに書いてもらって提出している。15年前のツアーでも、私はオンワードという会社の K という男のレポートを代筆してやった。

ラスベガス訪問に関して私は 2004年 5月 21日付の記事で、次のように書いている。(当ブログが自分のサイトからココログに移転したのは同年 7月 8日だが、後追いで少しずつ記事をココログに移植しつつある)

シカゴを発ってラスベガスに来ている。好んで来たわけではない。今回の視察ツアーのスケジュールの一環である。

別に高潔ぶっているわけではないが、この街の雰囲気は、私には合わない。自分でスケジュールを立てたら、絶対に来ることのないはずの街である。

というわけで私はカジノには一歩も足を踏み入れず、ひたすらラスベガスの街の商業施設を視察していた。ただ、ラスベガスの街はやはりおもしろくもなんともなかった。

その間、例のオンワードの K はホテルのカジノにあったスロットマシンに釘付けになっていた。ポーカーやルーレットなどの「オシャレな」ギャンブルに近寄れなかったのは、英語ができなかったからである。要するに日本でパチンコするのとそれほど変わらない。

一方、我が日本では「IR 推進法」というのが成立して、カジノを含む「統合型レジャー施設(Integrated Resort)」なんてものを作るなんてことになった。しかし実際には何も具体化されていないので、話は面倒くさいままである。

内閣府の前副大臣で IR 担当だった秋元司衆議院議員は、IR への参入を目指していた中国企業「500ドットコム」から、現金300万円などの賄賂を受け取った疑いで逮捕された。この現金は和菓子「きんつば」の箱に入れられて贈られたというので、つい「昭和かよ!」と言いたくなってしまったよ。

IR 構想そのものに関しては、2016年 12月 7日付の "カジノ合法化には反対しないが、「IR 法案」には反対" と、"「カジノ法案」 が衆院通過したらしいが"  という記事で私のスタンスを表明しているので改めて繰り返すことはしない。今はこの狭い日本にカジノ施設まで詰め込まれるというので、かなりうんざりしている。

 

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2019年12月27日

都議会のポスターのデザインが一変していた

昨年の 2月下旬、桜の咲く前頃に、"東京都議会の風流すぎるポスター" という記事を書いている。「街灯りに浮かぶ江戸桜に魅せられ 花の浮き橋を渡りゆく」 なんてお水っぽいコピーで、使われている写真からしてまるで観光宣伝のポスターみたいな風情だった。

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この記事には 重箱の隅 さんから「年ごとに見ていくと、平成26年あたりから観光ポスター風にシフトしてるようですね」というコメントが付いた。そして私は都議会サイトの「定例会ポスター」というページで確認した上で、次のようなレスを付けた。

平成26年あたりからというよりは、ずっと少しずつ酔狂さを増しつつあるというイメージですね。

とくに平成29年の 第2回定例会あたりから、「これで行くんだ!」との思い込みを強めているようです。

ところが私がこの記事を書いたとたん、この年の「第 2回定例会」のポスター(下の写真)からデザイン・イメージが一変してしまった。どえらく堅いイメージになってしまって、あまりの変わりように驚いてしまう。

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私の記事を境にして、こんなにもデザイン・イメージが変わってしまったというのは、何か理由があるのだろうか。考えられる理由は、第 1回定例会は 2月 21日から 3月 29日までの開催なので、そこで「平成 29年度」という会計年度が終わり、第 2回定例会は「平成 30年度」になってから行われているということである。

この間に、平成 26年から都議会定例会のポスター制作を行ってきた会社が変更になったということが考えられる。あり得ない話ではない。新しい会社になったので、制作されるポスターのイメージもがらりと変わったという説明は納得しやすいだろう。

で、新しい会社になったあたりで、「前のポスターはなんだか "お水っぽい" イメージみたいに言われていたから、新しいポスターはちょっと ”堅め” でお願いね」なんてことになったのかもしれない。あるいは制作会社が変更にならなかったとしても、デザイン・イメージを変えるという要望は出ていたのかもしれない。

そう考えると、私の昨年 2月の記事は、都議会定例会ポスターのデザイン・イメージ変更にちょっとした影響力を持ってしまったのかもしれないなんて、自分勝手な想像をしてしまったりする。

今月 19日の "ケッタイな挨拶の絶滅から学ぶこと" という記事では、「「いらしゃいませ、こんにちはぁ〜!」というけったいな挨拶が絶滅したことに関して、私が何度も批判的記事を書いたことも影響した可能性があるなんてことを書いている。まあ、このくらいのことを考えないと、16年も毎日更新している甲斐がないというものだ。

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2019年12月26日

「伊藤詩織/山口敬之」ケースと「桜を見る会」問題

「伊藤詩織/山口敬之」ケースについては、初めのうちは「所詮は痴情のもつれ」と思っていて、注目する気にはまったくなれなかった。しかし今回の裁判の被告となって敗訴してしまった山口敬之という男が、安倍晋三べったりのジャーナリスト(の名に値するか疑問だが)だったことを知るにつけ、安倍政権にとって「桜を見る会」以上のダメージになり得る話とわかって、改めて興味が湧いた。

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何しろ「桜を見る会」問題では、自身による「証拠隠滅」行為を「書類廃棄」と言い換え、あまつさえ電子データも壊れてしまったと言い張って恥じない安倍政権である。既に国民の支持は失っている。そして今回の「伊藤詩織/山口敬之」ケースはダメ押しとなるスキャンダルだ。

デイリー新潮の記事をそのまま全部鵜呑みにするわけではないが、この山口敬之という男、少なくとも個人的には好きこのんで付き合いたくなるようなタイプじゃないことだけは確かなようだ。やたらと人前で安倍首相に電話してみせたりする(参照)なんていうのは、悪趣味もいいところじゃないか。

よりによってこんな男に接近してしまった伊藤詩織さんこそ、身の不運というものだ。ただ、不運と思って諦めろというわけじゃなく、この山口敬之という男には、しっかりと落とし前をつけてもらわなければならない。

そしてこれが、安倍政権にとってのさらなるダメージとなることも明らかである。お友達だけで周囲を固めてしまうと、こんなやつも出てきてしまうということだ。

いずれにしても割と体制寄りの記事が多い印象の週刊新潮にこんな記事を書かれるようでは、安倍政権も先が長くない。

 

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2019年12月25日

Today's Crack は「16年連続毎日更新」を達成

この "Today's Crack (今日の一撃)" というコラムは、2002年(平成 14年)の夏頃から 「ほぼ毎日更新」 で続けていたのだが、翌年の 2003年 12月 26日からこっちは、ずっと「ほぼ」ではなく「正真正銘の毎日更新」を続けている。

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ということは、今日で 「16年連続毎日更新」 という記録を達成したことになる。毎年クリスマスの日は「Today's Crack 毎日更新アニバーサリー」ということになるので、 とても覚えやすい。いずれにしても 16年間にわたって寝込むほどの病気にもならず、あっけらかんと健康であり続けているということだからありがたい。

上の写真は、毎日更新がスタートした「平成15年 12月の一撃」というページである。ご覧のようにまだ Cocolog という Blog システムを使っておらず、私が「本宅サイト」と呼ぶ「庄内拓明の知のヴァーリトゥード」というサイト内のコラムとして連載していた。

というのも当時は Blog なんてものはあまり一般的になっていなくて、Nifty が盛んに Cocolog というのを使えとプロモーションし始めていたのだが、「何だ、そりゃ?」という感じだったんだよね。ようやく「どうやら Blog を使う方が楽かも」と思い始めて Cocolog に移転したのは、翌 2004年の 7月 8日である(参照)。

もっとも、暇を見てちょっとずつ過去ログを Cocolog(この部分、舌嚙みそうだね)に移動しているので、その前から使っているように見えるが、そんなような「見た目としての非連続性」があるということでも、「我ながらずいぶん長くインターネット上でコラムを連載しているものだなあ」と、しみじみ思ってしまうのだ。

もっと言えば、「知のヴァーリトゥード」というサイト名にしても、今となっては「ヴァーリトゥードって何?」なんて言われるかもしれない。改めてその由来を述べよう。

このサイトがスタートした 2002年は 「ヴァーリトゥード」という最小限のルールで争うブラジル発祥のフルコンタクト格闘技が盛り上がっていた。「ヴァーリトゥード(vale tudo)」というのは、ポルトガル語で「何でもあり」という意味なんだそうである。

この「何でもあり」というのは、現在に至るまで私のコラムの基本コンセプトになっている。つまり「〇〇についての専門サイト」ってわけではなく、気が向くままに「禁じ手なし」で何でも書いちゃうのだ。

逆に専門的なのが「和歌しかなし」の「和歌ログ」というブログで、こちらは 2002年(平成 15年)12月 2日の開始以来、ずっと毎日更新を続けている。毎日更新ということでいえば、和歌ログの方がエラいのだ。

「毎日更新」と言っても、"Today's Crack" は「〇〇に行って、〇〇を食ったらおいしかった」程度のチャラいおざなりの内容で続けているわけじゃなく、毎日それなりの重量感のあるものを書くようにしているから、結構大変と言えば大変だ。和歌ログの方は、写真を撮って和歌さえ詠めばいいからまだ楽だが。

いずれにしても「何でもあり」と「和歌しかなし」の 2本のブログを、16年以上も毎日更新しているなんて、日本では多分、私以外にいないと思っている。これについてはしらみつぶしに調べたわけじゃないけど、とりあえず「文句あるか!」ってなもんである。

昨日の記事でも書いたが、このまま更新し続けてとりあえず 4年後には 「20年連続毎日更新」の記録を作りたいと思っている。

 

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2019年12月24日

フツーに行ったら、あと 18年も生きてしまうのか!

私は最近まで漠然とではあるが、「あと 10年ぐらい生きれば、つつがなくあの世に行ける」と思っていた。今 67歳だから、あと 10年で 77歳。それだけ生きれば、もう十分というものだろう。

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しかしちょっと前に「日本人男性の平均寿命が 80歳を超えた」みたいなことを書いた覚えがあると思い出し、自分のブログを検索してみるとほんの 2ヶ月半前のことだった。"「長生きする」というストレス" という記事である。改めて調べてみると、男性の平均寿命はなんとまあ、81.09歳だというではないか(参照)。

「なぬ! あと 14年も生きなければならないのか!」と驚いたが、ここで「平均寿命」と「平均余命」は違うのだということを思い出した。記事に添えられた表をよく見ると、2年前の 2017年の段階で、65歳男性(私の 2年前の年齢)の平均余命は 19.57歳だという。

つまり統計的には 85歳ぐらいまで生きそうだということだ。なんと 10年や 14年どころじゃなく、あと 18年も生きなければならないようなのである。しかもまだピンピンしているから、下手すると 20年以上生きてしまう可能性だってある。「うわぁ、こりゃたまらんなあ!」と思ってしまった。気が遠くなりそうだ。

このブログは「毎日更新」を始めてから明日で 16年目を迎える。このままあと 4年続けて「毎日更新 20年」という記録を作る自信は十分にあり、その頃はまだ 71歳だ。さらにその翌年は 72歳になって私の干支の辰年だから、それを記念して 「毎日更新 21年」にしちゃうのもやぶさかではない。

しかしその後となると、毎日更新を続ける意欲を保ち続けられるかなあ。もしかしたら週 4日制ぐらいになるかもしれない。そうなると願わくは、「あと 10年」ぐらいの命にしておいてもらいたいのである。その方がずっと気が楽だ。

 

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2019年12月23日

大阪出張が急に延期になった

今月 17日の記事に書いたように、今日は元々の予定では大阪に日帰り出張する予定だった。ところが昨日の昼頃に先方から連絡が入り、急に都合が付かなくなったので別の日にしてくれと頼まれたため、いろいろ調整の結果、年明けの 9日に延期になった。

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というわけで、急に家でおとなしく過ごすことになってしまったわけである。ご覧の通りの雲一つない出張日和ではあるが、いろいろたまった用を済ませよう。

大阪までの新幹線切符の変更は、手数料が往復で 400円かかってしまった。これが延期の日程が決まらずにキャンセルということになってしまうと、手数料が 1,120円になるというから、細かい話だが多少は経費が浮く。

今日は早朝に出発して、夜中近くに戻ってくる予定だった。本来なら大阪にいる時間を長く取りたいところだったが、明日は地元で予定が入っているので仕方がない。しかし予定を変更したことで、大阪で一泊するのが可能になった。

明後日は北陸の富山に行かなければならないし、今日の予定が延びて仕事の遅れるのは痛いが、それを別とすれば日程に余裕ができて結果オーライなのかもしれない。ちなみに明後日の富山の天気は「晴れのち曇り」という予報だ。相変わらずの晴れ男である。

 

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2019年12月22日

「近頃、自分の性能が落ちちゃってさぁ」というグチ

最近は同年代の友人たちが次々と職場を定年になり、悠々自適の羨ましい生活になったり、別のアルバイトみたいな仕事に就いたりしている。私はフリーランスになって久しいので、別に「生活ががらりと変わった」という自覚はないが、友人たちはかなり生活の変化を感じているらしい。

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友人の中には、中小企業のデスクワークに就いたりしているものも結構いる。「週 3日ぐらいの勤務で大した収入にはならないけど、このまま隠居したらボケちゃいそうだから」なんて言いながら、チョコチョコ小遣い稼ぎをしているようだ。

で、こうした連中と顔を合わせると、「近頃、自分の性能が落ちちゃってさぁ」なんて話になることがある。ちょっと前までは半日あればできていたような作業でも、最近はしっかり一日半かかってしまったりするというのだ。これ、私もしみじみ自覚している一人である。

一世代前のオッサンたちだと「近頃、無理が効かなくなってね」なんていうところだが、我々の世代は元々無理なんてあまりしないから、それとは発想が違う。「仕事のパフォーマンスが落ちる」なんて言われたりするのと近いかも知れないが、純粋に個人的な「性能劣化」と解釈する方がしっくり来る。

この「性能劣化」の要因、私の場合は主に「寝落ち」である。私は自宅で夜中過ぎまで仕事をすることがあり、若い頃は脳にスイッチが入ってしまうといつまででも起きていられたが、最近は日中でもストンと寝落ちしてしまっていることがあるのだ。

会社に通っている連中は「PC に向かってもボーッとしている時間が長くなった」なんて言っている。彼らはオフィスでは「ボーッとする」だけだが、自宅では「ソファに座ってテレビを見ているうちに、いつの間にか寝ちゃってる」と言う。要するに会社では目を開いたまま「寝落ち」してるわけだ。

私はこういうのを「気絶の如き眠り」と称している。今年 10月 15日の "眠いといったらとにかく眠い" という記事にも、次のように書いている。

夕方ソファに横になって、スマホでメールのチェックなんかしていると、いつの間にか眠りに落ちてしまうこともある。こんなのを私は「気絶の如き眠り」と称している。時々妻に「あなた、また気絶してるわよ!」と起こされて、啞然とすることも珍しくない。

で、ちょっと調べてみたところ、PRESIDENT Online の「"バタンキューで寝落ち" は深睡眠できていない」という記事が見つかった。サブタイトルが「気絶に近く、脳がシャットダウン」とあるので、「まさに、コレだよ!」と思ってしまったわけだ。

さらに All About というサイトでは、「寝てばかりの老犬……老化度チェックと老化を遅らせる生活習慣とは」なんていう記事まで見つけてしまった。犬でも年を取ると寝てばかりいるようになるというのは、私も前は犬や猫をよく飼っていたので、「確かにその通り!」と納得である。

犬の場合でも「アンチエイジング」には、「食事管理・歯磨き、関節や歩き方のケア、適度な運動、健康診断」などが大切らしく、人間と変わらない。私もせいぜい「眠りっぱなし」にならないように気をつけよう。

 

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2019年12月21日

グレタさんと小泉進次郎環境相

"「大人を糾弾するのではなく…」 小泉進次郎環境相がグレタ・トゥーンベリさんの活動に異論" という朝日新聞の記事が目に付いた。小泉環境省が、グレタ・トゥーンベリさんの影響は大きいと認めつつ、「別のアプローチ」を取ることを日本の若者に提案したという。

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"「別のアプローチ」を取ることを日本の若者に提案した" というのは、はっきり言って(相当アホなレベルの)「余計なお世話」というものである。というか、こうした運動というのは、多様な手法が当たり前だから、「別にあんたに言われなくても、いろいろ考えてるさ」ってなものだ。

グレタさんはこのほど、欧州と北米を温室効果ガス排出が少ないヨットで往復したわけが、これに関して小泉氏は「正直言って日本でみんな飛行機乗らないのは無理」なんて言っちゃってたらしい。これもまた、相当「アホなレベル」である。

これって、「毎日ステーキを食べたい」という発言について問われて、「毎日でも食べたいということは、毎日でも食べているというわけではないです」と口走ったのと同じ、子どもっぽいまでのチョー単純発想だ。これについては、今月 12日の記事できちんとツッコンでいる。

そもそもヨットで移動したことに関してはグレタさん自身が「同じようにして欲しくてこういう旅をしているのではない。今日、持続可能に生きることが不可能で、変化が必要だというメッセージを送るためだ」と報道陣に答えているのだから、ますます小泉大臣の「お間抜け発言度」が明白だ。この人、口を開く度にメッキがはげちゃう。

ちなみに、グレタさんはアスペルガーなんだそうだが、「アスペルガーは私の誇り」と言い切っているらしい(参照)。そうだよね。こうした問題に関しては、アスペルガー的な素質のある方がはっきりモノが言える。

私自身も自分自身のことを「アスペルガー一歩手前」と何度か書いていることもあって(参照 1 、参照 2)、彼女のことはかなり共感的にみているのだよ。まあ、かなり危なっかしさもあるので、ヒヤヒヤものでもあるのだけれどね。

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2019年12月20日

「州勘庵主」という、わけのわからない公案

ほぼ一年ぶりの『無門関』ネタである。今回は第十一則「州勘庵主」という、わけのわからない公案について触れてみたい。

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「州勘庵主」というのは、「州、庵主(あんじゅ)を勘(かん)する」ということで、「州」というのは、第一則の「趙州狗子」にも出てきた趙州和尚である。「狗(犬ころ)に仏性はあるんですか」と問われて「無(ねえよ!)」と言い放った、あのアクの強い和尚だ。

もちろんその「無(ねえよ!)」というのは、「ある」だの「ない」だのいう二元論を超えた次元のもの言いだ。「仏性」と「犬ころ」というのが別々にあって、片方が片方に宿るみたいな話ではないのだろう(参照)。

その趙州和尚が行脚して一人の庵主(徳の高い僧)のところに立ち寄り、「有りや、有りや」(あるか、あるか)と問うたというのである。「あるか、ないか」ではなく「あるか、あるか」と問うたというのは、何だかやたら一方的で穏やかじゃないよね。

この時出てきた老僧は、無言で拳を握って突き上げた。これ、禅問答のお約束的な所作らしく、「じゃかぁしい! ちゃんとやっとるわい」みたいなことらしい。すると趙州和尚は「こんな水の浅いところに、舟は泊められん」と言って去った。つまり「ここの庵主の悟りは浅すぎて、お話にならん」というわけだ。

次に立ち寄った庵でも同じように「有りや、有りや」と問う。すると出てきた老僧も同じように拳を握って突き上げる。すると趙州和尚は打って変わった態度になり、「能縦能奪、能殺能活」(自由自在に与えたり奪ったり、殺したり生かしたり、立派なものじゃ)と言って、礼拝したというのである。

これ、わからないよね。それでも、フツーに考えてわかるはずのないことを「わかれ」というのが禅だから、わかるほかない。まったく厄介なことである。

とにかく手がかりは、犬に仏性は「ねえよ!」と言い放ったあの趙州和尚が問答の発端として、敢えてことさら「あるか、あるか」と問うたということじゃなかろうか。「ねえよ!」と悟っていた趙州和尚が、「あるか、あるか」なんて最低の問いを発しているのだ。

で、最初に出てきた庵主はまさに「じゃかぁしい! ちゃんとやっとるわい」、つまり「あるよ!」と言わんばかりに拳を突き上げた。これはヤバい。見透かされちゃうよね。

そして二番目の庵主は同じ拳を突き上げる動作をしても、「そんなアホらしい問いには付き合いきれん」というココロだったんじゃあるまいか。それで趙州和尚は「我が意を得たり」と、礼拝せざるを得なかったのかもしれない。

ただし、下手するとこの解釈も浅すぎるのかもしれない。『無門関』を著した無門和尚によると、「趙州和尚の方が二人の庵主に勘破されているのかもしれないではないか」ということになってしまう。「水が浅くて舟が泊まれない」というのは、浅いところに泊まれないような、不自由な舟に乗っているいうことにもなるしね。

いやはやここまで来ると、実は深すぎて言葉では語り切れない。無言で座禅を組むしかないだろう。

2019年も終わりに近付いている今、モロモロのあほらしさにグッと拳を突き出して新年を迎えたいものだと思うのだが、なかなか容易な話じゃない。

 

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2019年12月19日

ケッタイな挨拶の絶滅から学ぶこと

下の画像は "bokete" というサイトにあった「ボケ」の投稿(参照)。ああ、私も「いらしゃいませ、こんにちはぁ〜!」というケッタイな挨拶が横行していた頃に、こんな意表を突くボケを(イントネーションに気をつけて)カマせてみたかったが、今となっては叶わぬ夢である。

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というわけで、昨日の "「喉元過ぎれば「いらしゃいませ、こんにちはぁ〜」を忘れる" の続編をしつこく書く。この挨拶に関して当時は、2つの代表的な「見当外れ」が見られたという話だ。

1つ目は "「いらっしゃいませ、こんにちは」というのは、言葉の順序が違う” という反応で、ググって見ると今でもいくらでもヒットする。要するに「こんにちは」と言ってから「いらっしゃいませ」と言うべきだというお話で、城島明彦という作家までそんなようなことを言っている(参照)。

これについて私は 16年も前に書いた "「いらっしゃいませこんにちわぁ」の怪  この違和感には根拠がある"  記事で、言葉の順序が違うなんて次元の話ではないと指摘している。

煎じ詰めて言えば、「いらっしゃいませ」は丁寧語で、「こんにちは」 は親近感のあるときに使う言葉だから、一緒くたに使うのはおかしくて、どうにも据わりが悪いのである。詳しく説明しようとするとやや長くなるので、詳細は上述の記事に飛んでお読み頂きたい。

2つ目の決定的な「見当外れ」は、ビジネス・コンサルタントの言い草である。私の 16年前の記事には、コンサルタント会社のアホな「寝言」が紹介されている。彼らは「いらっしゃいませ」に「こんにちは」を加えることの「意義」を次のように言っている。

  • 「貴方に向かって、あいさつをしています。貴方を出迎えています」という感覚を与えることができる。
  • お客様も「こんにちは」と答えてくれる。一方通行ではない、会話のスタートとなる。
  • お客としても、「いらっしゃいませ」だけでは、どう返事をしていいかわからないで、黙っている自分を「いやだなァ」と感じたりしている。お客さまだって、何か声を出したいのだ。

これらに私はいちいち真っ当な「ツッコミ」を入れているので、これも上述の記事に飛んで読んでいただきたい。ちなみにここで引用したコンサルタント会社自身のサイトの記事は、今ではことごとく削除されている。そりゃそうだ。こんな寝言、恥ずかしくて残せないやね。私にコピペされたのを身の不運と諦めるがいい。

昨日の記事の最後には、ファミリーマートの澤田貴司社長が「いらしゃいませ、こんにちはぁ〜!」の挨拶を廃止したという趣旨の記事を紹介した。昨日も書いたようにこの記事は出典、根拠が示されていないので鵜呑みにするのは危険だが、澤田氏の手法からすると、「十分 ”あり” かも」と思える。

そしてもしこれが事実で、さらに澤田社長が世間の反応を見ようとして「いらしゃいませ、こんにちは」のキーワードでググっていたとしたら、私の記事を読んでくれていた可能性が高い。とにかく私の記事がバカスカヒットするのだから、まんざら手前味噌とばかりも言えない。

10数年にわたるアホな業界慣習も、しつこく批判し続けるヤツがいて、さらに個別企業の上層部にたった 1人でもまともな感覚の人がいさえすれば、あっさり改められるなんてことがあるのだ。ついでに言うと、胸の前で両手を握ってペコリと会釈するなんていう、見てる方が恥ずかしくなる接客動作も、ありがたいことに消え去ったようだし。

昨年の "「いらっしゃいませ、こんにちは」 という挨拶を聞かなくなった" という記事には、当ブログの長年の読者 tokiko さんが過分なコメントをしてくださったが、まんざら「買いかぶり」でもなかったかもしれないと、今になって気付いた。さすが tokiko さん、これは一介のブロガーにとっての希望となり得る。

 

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2019年12月18日

喉元過ぎれば「いらしゃいませ、こんにちはぁ〜」を忘れる

人間というのは、不快なことに関してはかなり敏感に反応するが、当たり前のことには鈍感になる。そりゃ「当たり前は当たり前」で、いちいちことさらに反応していたら疲れてしまうから、当然の話だろうけどね。

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今は昔、平成の御代のこの国のサービス・チェーンは「いらしゃいませ、こんにちはぁ〜!」という、世にもケッタイな挨拶に席巻されていた。私はこれについて何度も違和感(というか、もっとストレートに言うと「気持ち悪さ」)を表明する記事を書いている。

私だけではない。インターネットの世界には「いらしゃいませ、こんにちはぁ〜!」という挨拶への疑問や嫌悪を示す記事が溢れていたし、もちろんその多くは今も削除されずに残っている。私の記事も含めてね。

ところが平成最後の師走となった昨年の暮れ、この挨拶がいつの間にかあっさり絶滅していることに気付いた。昨年 12月 22日の ”「いらっしゃいませ、こんにちは」 という挨拶を聞かなくなった” という記事で私は「ストレスが軽減されて、かなり清々している」と、大歓迎している。

問題はここからだ。あれからほぼ 1年経ってググってみても、この「絶滅現象」に関するまともな指摘ほとんどなくて、私の上述の記事以外、見つけるのに苦労するほどなのである。まさに「喉元過ぎれば熱さを忘れる」だ。

この気持ち悪い挨拶に私が初めて触れたのは、 "「いらっしゃいませこんにちわぁ」の怪  この違和感には根拠がある" (2003/11/15)という記事で、16年以上も前の話だ。この記事の後半で私は、この挨拶はビジネス・コンサルタントと称する連中が世に広めたものだと見破っている。

当時、日本経済は 2000年まで続いた「第三次平成不況」からようやく立ち直って、企業がビジネス・コンサルタントという怪しい連中にカネを払うことを厭わなくなっていた。このため調子に乗った彼らがいろいろと愚にも付かないことを言い出し、それを業界が盲目的に受け入れたのである。まったく、無駄遣いもいいところだ。

この関連で、「ブラックバイトを辞めたくなったら - バイト天国」というサイトの "『いらっしゃいませこんにちわあ!』に違和感" という昨年 6月 13日付のページの末尾に、次の記述を見つけた。

日本で最初に「いらっしゃいませ。こんにちわぁ~」の挨拶を定着させたのはサンクスだと言われています。そのサンクス(サークルKサンクス)が今ではファミリーマートに吸収され、なんと、ファミリーマートの澤田貴司社長はこの「いらっしゃいませ。こんにちわぁ~」式の挨拶を止めるように発表しました。業務の簡略化の一環だそうです。

ファミリーマートの社長もこの挨拶には違和感を感じていたのでしょう・・・。

この記事は出典、根拠が示されていないので鵜呑みにするのは危険だが、澤田貴司氏といえばユニクロでの経歴がよく知られていて、そこからするとこうした発想は「あってもいいかもね」と思う。

今となっては遠く過ぎ去った悪夢でしかないが、「いらしゃいませ、こんにちはぁ〜!」というケッタイな挨拶は、少なく見積もっても 15年以上に渡り「時代の徒花」として世を席巻していたわけだ。「なにはともあれ、結果オーライで、よかった、よかった」と言うほかない。

 

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2019年12月17日

今年も 25都道府県に旅した

私は日本全国に出張する仕事が多くて、昨年の大晦日、「今年は 24都道府県に旅した」という記事を書いている。一泊以上の旅を 1年間で 30回もしている。

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今年はどうだったかなと思って、今年のスケジュール・メモを見直してみたところ、去年より多い 25都道府県に旅したことが確認された。

そのうち一泊以上の旅をした行き先は 23都道府県で、回数にして 36回。内訳はこんな感じである。

奈良県 【4回】

北海道、宮城県、石川県、東京都、山梨県、長野県、静岡県、京都府、愛媛県、高知県 【各 2回】

青森県、山形県、愛知県、大阪府、三重県、広島県、岡山県、島根県、山口県、福岡県、佐賀県、長崎県 【各 1回】

ああ、そうだ、そういえば、今月 23日に大阪に超強行軍の日帰り出張をする予定が入っていた。貧乏暇なしである。

このほかに、千葉県、埼玉県への日帰り出張を 10回以上しているから、ほぼ毎週に近い回数の出張をしたことになる。回数だけならもっと多い人もいるだろうが、1年で日本の都道府県の半数以上に行ったというのは珍しかろう。

とくに大変だったのは、10月末から 12月初めにかけて、愛媛、札幌、高知、札幌と、北海道と四国に交互に 2度ずつつ、つまり 4回行ったことだ。できることなら、北海道と四国でそれぞれ 2か所をまとめて行きたかったところだが、相手のスケジュールに合わせるとこんなことになってしまった。

上の写真は、この強行軍の第一弾、10月に瀬戸内海のしまなみ海道を渡って愛媛県に行った時のものだ。四国まで鉄道の旅というのも、なかなかいい。

さらに特筆すべきは、50回近い出張のすべてが天気に恵まれ、傘を差すような雨降りは 1度もなかったことである。我ながらありがたい晴れ男ぶりだ。ここ 10数年で多分 500回以上の出張をしているが、雨に降られたのは 2度しかない。つまり私は「晴天率 96〜7%の晴れ男」である。

 

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2019年12月16日

「ぶりっ子」するのは生き物の本能なのか?

来年の年賀状のデザインを考えるためのネタを探そうと「ネズミ」でググってみたら、「人間に見られまくった野生のネズミは見た目が大きく変化すると判明」という Gigazine の記事が見つかった。

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チューリッヒ大学の研究チームが「野生のネズミを飼いならした結果、ネズミの見た目が大きく変化したことを発表」したという、昨年 3月の記事だ。こんなおもしろい話に 1年以上経ってから気付いたというのは、我ながら「遅すぎ」である。

元々動物は、「人間によってなつきやすいよう選択的に交配されると見た目が変化していく」ということが知られていた。しかし今回は「選択的な交配を行わずとも見た目が変化していったことが確認された」というのである。イノシシやオオカミを家畜化してブタや犬になったとかいうのとは、ちょっと次元が違うらしい。

イヌの場合は人間になつきやすいよう選択的に交配することで、「耳が垂れる」「牙が小さくなる」など見た目に大きな変化が現れた。このように、飼育される動物に見られる外見の変化を「The Domestication Syndrome」(家畜化症候群)と呼ぶらしい。

ちなみにソ連の遺伝学者であるドミトリ・ベリャーエフ氏は、野生のギンギツネを飼育、観察する過程で、なるべく人間になじみやすいキツネを選択的に交配した。するとこんな現象が認められたという。

「体格が小さくなる」「尾がくるんと巻き上がる」など、数千年かかって進化して得るはずの外見上の変化をわずか数年で得られることを発見したそうです。そして交配開始から9世代後のキツネには垂れ耳とまだら模様が見られるようになり、人間に対して尾を振りながらくんくん鳴いて甘えるという、野生では有り得ないような行動をとるようになったとのこと。

こうした現象を「家畜化症候群」と呼ぶわけだが、チューリッヒ大学の研究では意図的な交配を行わず、定期的に食糧と水を与えながら観察を続けていただけだった。それでも「褐色の毛皮に白い斑点が現れる」「鼻が少し短くなる」という外見上の変化を確認できたというのである。

つまり、人間に見られまくっただけで「可愛らしい見かけ」になってしまったのである。こうした現象を「自己家畜化」と言っているらしい。つまり生き物って、本能的に人におもねてしまうことがあるようなのだ。

「ぶりっ子」というのは、まんざらあざといだけのものじゃないのかもしれない。

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2019年12月15日

「環境、吉野、きつねうどん」という三題噺

ノーベル化学賞を受賞した吉野彰さんが帰国し、研究以外でやりたいことを尋ねられると、「きつねうどんか何かを食べたい」と笑顔で答えたという(参照)。

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「環境問題解決への道筋をつけることが、我々の責任だ」とおっしゃるだけに、「毎日ステーキを食べたい」なんていう日本の環境大臣(参照)とは、さすがにレべルが違う。「きつねうどん」と「ステーキ」の間には、大きな意識の差がある。

ちなみに肉を食わないことにしている私としても、出張先の外食では「なか卯」のきつねうどんをよく食ったりしているので、この発言にはとても共感してしまった。「なか卯」の店舗は結構あちこちにあるのでありがたい。

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ところが気をつけなければならないのは、「なか卯」となんとなく店構えの似たのに「すき家」というチェーンがあることだ。「なか卯」は丼物と(親子丼とか)京風うどんの店だが、「すき家」は牛丼とカレーの店である。どちらも「ひらがな 2文字 + 漢字」の店名だし、どうにも紛らわしい。

先日も関西方面の出張先で、「なか卯」と間違と間違えて「すき家」に入ってしまったばかりである。カウンター席に座り (いや、その前の食券自動販売機の前という段階だったかな?)、うどんメニューのないことでようやく「ありゃりゃ!?」と気付いて、「ごめん、店を間違えた」とすごすご退出した。

「なか卯」と「すき家」の違いという問題に関しては、この記事を書いたことで、初めて明確に区別できるようになった。それまではお恥ずかしいことに、自分の中でも曖昧だったのだよね。

ちなみに、「三大牛丼チェーン」というのがあり、それは「吉野家」「松屋」「すき家」なんだそうだ。「なか卯」にも「和風牛丼」なんてメニューはあるが、いわゆる「牛丼チェーン」という範疇には入らないだろう。

で、「きつねうどんのお好きな吉野先生は、チェーン店ならいくら自分の名前が付いていても『吉野家』なんかじゃなく、『なか卯』に立ち寄られるんだろうなあ」なんて、どうでもいいことを思った次第である。

以上、「環境、吉野、きつねうどん」という、できの悪い三題噺のお粗末。

最後に付け足すと、「なか卯」のきつねうどん、なかなか悪くない。若い頃は量的に不満だったけど、最近はちょうといいし。ただし、牛肉うどんはパス。

 

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2019年12月14日

ナビスコの「プレミアム・クラッカー」に再び巡り会う!

11月 23日に「私はナビスコの「プレミアム・クラッカー」が食いたいのだよ!」という記事を書いた。ヤマザキとナビスコのライセンス契約が切れて、ヤマザキが "Levain Classical" (ルヴァン・クラシカル)という代替品を展開し始めてから、近所のスーパーからナビスコの「プレミアム・クラッカー」が姿を消してしまったのだ。

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しかし、代替品は所詮代替品である。あの「プレミアム・クラッカー」には遠く及ばず、「できの悪いパチもん」というしかないのが悲しい。

私は先月の記事を、「都心の大型スーパーにプレミアム・クラッカーを探しに行くというのもちょっと億劫だし、しばらくの間は、Amazon で買うしかないのかなあ」という一文で締めくくっているのだが、ずっと忙しすぎて Amazon に発注するというのを忘れていた。そしてついに一昨日の朝、例の「ワンクリック」ってやつで Amazon に発注し、昨日の夕刻に届いたのである。

私の発注したのは「ナビスコ プレミアムクラッカー 業務用 3個入り(241gx3個)」ってやつで、「業務用」というだけに結構な量だ。これで「心強い非常食」にすることもできる。

嬉しさと懐かしさで、さっそくパリッとかじって見ると、確かにあの「プレミアム・クラッカー」以外の何物でもない食感と味わいだ。「やっぱり、こうでなくっちゃね」と言いたくなった。

願わくはモンデリーズ・ジャパン社には、末永く日本市場でこの「プレミアム・クラッカー」を展開し続けてもらいたい。ヤマザキの "Levain Classical" なんかとの競合に負けず、しぶとく生き残ってもらいたいものだ。

そうでなければ、同じ Amazon で買うにしても、米国かイタリアから個人輸入という形で取り寄せなければならなくなってしまう。

 

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2019年12月13日

「あおり運転」は、元(通せんぼ走行)から絶たなきゃダメ

今月 1日から改正道交法が施行されて、「あおり運転」すると一発免停の可能性もあるようになった。そのせいなのだろうが、私の印象としても高速道路上の運転が全般的に少しおとなしくなったような気がしている。

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しかし個人的には、「あおり運転」の罰則を厳しくするだけでは不完全だと思っている。今年 9月 15日の記事で書いたように、「あおり運転」と「通せんぼ走行」はワンセットというケースが多いからだ。

前がガラガラに空いているのに、追い越し車線をいつまでも隣の走行車線と変わらないスピードで走って、後続のクルマをせき止める行為を、俗に「通せんぼ走行」と言う。常磐高速道をしょっちゅう利用する私の印象では、この「通せんぼ走行」をするのは、圧倒的にオバサンと老人が多い。

後ろに迫ったクルマは「オラオラ、さっさとどけよ!」とばかりにあおり気味になってしまうのだが、いかんせん、「通せんぼ走行」するタイプのドライバーはバックミラーなんて生まれてこの方、一度も見たことがないような人ばかりだから、いくらあおられても気付かない。

それで、後続のクルマのうち、血気盛んなドライバーがわずかな隙間を付いて左側から追い抜き、さらにはいきなり問題のクルマの直前に出るなどの嫌がらせをしてしまったりする。これで典型的な「あおり運転」の成立で、下手すると一発免停になったりするわけだ。

こんな場合、「あおり運転」の当事者は「悪いのは、前で追い越し車線を塞いでいたヤツだ」と思っていて、ややもすると「義憤に燃え」ちゃってたりするから、「罪の意識」なんてほとんどない。「自分が正しい」と思っているヤツほど極端な行為に出がちだから、さらにアブナい。

ここで煽り運転をかばってるなんて誤解は決してして欲しくないのだが、私としては、こうしたケースでは「あおり運転」を誘発した「通せんぼ走行」のドライバーにも、高い違反点数を課すべきだと思う。

道交法でもクルマは左側の走行車線を走るように規定されていて(20条 1項)、先日ラジオに登場した警察関係者によると、「目安としては、追い越しが終わってもそのまま 20秒以上追い越し車線を走り続けたら違反と見なされる」そうだ。だったら、ちゃんと取り締まってもらいたいものだ。その方が確実に効果的だ。

大昔のトイレ用消臭剤の CM に、「くさいニオイは、元から絶たなきゃダメ!」ってのがあって、これはいろいろな場面で使える便利なフレーズだった。「あおり運転」を減らすには、その「元」となる「通せんぼ走行」を絶たなければならないのだ。

上に挙げた写真は、Twitter に投稿されていた べるべるさん という方の写真である(参照)。「中国の高速道路は車線ごとに最低速度が設定されているため煽り運転が少ないとか。ここだけは完全に日本より優れている」とある。

ちなみに私個人としては、「あおり運転」された経験は一度もない。バックミラーを頻繁に確認しているので、後ろから猛スピードで迫ってくるクルマに気付いたら、すぐに左に寄ってやり過ごすことにしているからだ。

高速道ではなく、一車線しかない一般道でも、路側帯に入るか、左端に寄ってやり過ごす。君子危うきに近寄らず。「そんなにあおりたいなら、先に行って私以外のクルマをあおってくれ」ってことだ。

現実はまさにその通りになるもので、私を追い越したそのクルマはちょっと先まで行くと、お約束のようにのんびりした「通せんぼ走行」にせき止められていることが多い。いくらあおっても全然気付いてもらえず、悲惨なことになっている。

要するに、道路ではいくらあおってもリスクに見合うほどの効果はないってことだ。早く目的地に着きたいなら、スピードを上げるより早出する方が確実なのである。

 

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2019年12月12日

ステーキを毎日食いたいという環境大臣が、COP 25 で演説

小泉進次郎環境省の COP 25 での演説は、かなり歯切れの悪いものになったようだ(参照)。「毎日でもステーキを食べたい」と発言していた彼のことだからそんなものかと思い、具体的な発言を確認しようとググってみたら、こんな動画が見つかった。TBS ニュースの直撃取材の模様である。

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記者が「毎日ステーキ」発言について尋ねると、彼はまず、

「この質問って今までなかったと思いません?」
「それだけでも日本の中で、環境問題っていうのを考えるよいきっかけになるなと思います」

と、ずいぶん切れ味の悪いトボけ方で他人事のようなことを言う。こんなような、ちょっとシビアなツッコミには慣れていないようなのだね。まあ、お坊ちゃまだから。

彼自身は初めて受けた質問だったかも知れないが、肉食が地球温暖化の大きな要因であることは、環境に関わる者にとっては既に「イロハのイ」ほどの常識だ(参照)。「環境問題を考えるよいきっかけ」なんて段階を、世の中はとっくに通り過ぎている。

ましてや彼はコロンビア大学で政治学のマスターを取得して、今や環境大臣になっている身なのだから、この程度のことは当然熟知していなければならないのだが、彼の目の泳ぎ方をみると理解が不足しているとしか思われない。だからこそ、環境大臣のくせに「毎日ステーキを食べたい」なんて平気で言い出せたのだろうけど。

で、具体論としてその「毎日ステーキ」発言について問われると、

「毎日でも食べたいということは、毎日でも食べているというわけではないです」

なんて、今どき子供でも恥ずかしくて言わないようなことを言い出す。これ、純粋論理としては、毎日ステーキを食べつつ(さらに今後も)「毎日でもステーキを食べたい」と言っても何ら矛盾は生じないのだから、自らの「論理音痴」をさらけ出してしまっている。そしてその上、

「好きなもの食べたいときありません?」

と、「よくわからない問題では、余計なことは言わん方がいい」とアドバイスしてあげたくなるほどのアホ発言になる。これにはさすがに記者も呆れたのか、結構長い絶句の後に、

「そういうことを聞いているのではなく、大臣としてどう整理しているかを聞いている」

とツッコまれると、言うに事欠いて

「みんなにばれないようにステーキを食べている方が嘘くさくないですか?」

と来た。これが「大臣として整理した上での発言」ということのようなのだ。質問の趣旨を理解できないほど、ただひたすら「ステーキを食いたくてたまらない」ようなのである。全然セクシーじゃない。

ここに至って、この人のオツムの程度が理解できた。「フランクな会話を盛り上げる "カンとセンス" は悪くないみたいだけど、ちゃんとした話になると、要するに『おバカ』なのかもね」ということである。

その彼が、国際会議で環境に関する演説をしたという。もちろん英語で。

3日前まで「カタカナ英語」について 4回連続で論じたばかりだから、敢えて言わせてもらうと、彼の発音は "Thak you" が "Sank you" になりがちだけど、"L" と "R" の区別はちゃんとできているから、それほど恥ずかしいレベルじゃないみたいだよね。

敢えてもう一度言うが、彼は「フランクな会話を盛り上げる ”カンとセンス” は悪くない」ようだから、高度な知識と論理性が要求される話さえ注意深く避けさえすれば、日本国首相になら、なれないこともないだろう。トランプみたいなのが米国大統領になれてしまう世の中なんだし。

とくに彼の前に首相を勤めるにふさわしい人物がほかにいるかとなるとかなり疑問だから、下手するとその時期は案外早いかもしれない。そう思うと、なんだか冷や汗ものだなあ。

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2019年12月11日

説明責任を果たさずに、政権に居座り続けられる世の中

この期に及んで、政府は「反社会的勢力の定義は困難」と言い出しているらしい。今回の「桜を見る会」問題で追求されているのは、「反社会的勢力の定義って何ですか?」ということではないのだから、こんな答弁で逃げ切ろうというのでは、オツムの中身を疑う必要があると言わなければならない。

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ちょっと前までは、閣僚たちはスキャンダルが報じられるとすぐに辞任したものだ。それに対して、大新聞などは「辞めるより説明責任を果たすことの方が大事だ」なんて、お約束のように批判していた。

実際には説明責任なんかまともには果たせないから、深く追求される前に辞める方がマシと判断していたのである。つまり、「説明できなければ辞めるしかない」というのが政治の世界の一応の常識だったのだ。

もう 10年以上も前の話でだいぶ風化しかけているのだが、小沢一郎の「陸山会事件」というのがあった。これに関して小沢は結果的には 2012年に「無罪」となったのだが、私はこの判決が出るだいぶ前の 2010年 10月に、"「推定無罪」と「本当に潔白」とのビミョーな差" という記事を書いている。

記事の中身は、"「有罪」が証明されなければ何人も「推定無罪」となる権利があり、小沢も「無罪」となるだろう。しかしこの場合、判決としての「無罪」は必ずしも「本当に潔白」ということを意味しない" というものだ。実際、小沢は形式的には「無罪」となりながら根本的な疑惑を払拭できず、実質的な政治生命を絶たれている。

このことを思い出すにつけ今の安倍政治は、あの疑惑にまみれた小沢時代よりずっとひどくなっていると考えざるを得ない。まともな説明なんか全然できないくせに、なぜか政権に居座り続けることができるているのだから。

つまり 10年前の常識が通用せず、権力者はその座に「居座り放題」の政治風土になりかけているのだ。この「なりかけ状態」が、完了形の「なってしまった状態」に固定化される前に、安倍首相を退陣に追い込まなければ、この先どんなひどい状態になるか知れたものではない。

こうしてみると、政府が「反社会的勢力の定義は困難」と言いたくなるのも道理である。まともに定義したら、自分たち自身がその中に含まれてしまうからね。

 

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2019年12月10日

「プレミアムフライデー」が、まだ生きていたとは

そう言えば先月末の 11月 29日にカーラジオで、「今日は今年最後の『プレ金』です」と言っているのを聞いて、「『プレ金』って、何だ?」と思ってしまった。番組では、「来月もあるじゃないですか」、「いや、来月はどうせ年末のお休みに入っちゃうから・・・」なんて言っている。

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ますます「???」になってしまい、家に帰って調べると「プレ金」とは「プレミアムフライデー」の省略形であるという。「ありゃ、プレミアムフライデーって、どこかで聞いたことがあるな」と思ったが、実は「聞いたことがある」どころか 2年前には、このブログで 2度も書いているのだった。

"月イチの午後 3時退社より、毎日定時退社の方が" (2017年 2月 19日付)と、"午後 3時に退社してまで同僚とツルんで飲みたいか" (同 2月 25日付)という 2本の記事である。自分で書いた記事を読んで、今さらのように「月末の金曜日は午後 3時に退社しよう」という、個人消費喚起のキャンペーンだったことを思い出した。

なにしろ最近はすっかりフリーランスの生活に馴染んでしまって、ほとんど曜日を意識しなくなっている。金曜日だからといって、勤め人だった頃のようなウキウキした気分にならないのだ。

そんなわけで、あれから 2年経った今でも「プレミアムフライデー」なんていう話が生きていたとは、ちっとも知らなかったのである。世の中一般としても、もはや「そんな話もあったねえ!」程度の認識なんじゃあるまいか。

そもそも考えてみれば、どうして「月末の金曜日」でなければならないのか、まったくしっくりこない。多くの会社にとって「月末の週末」なんて、普段以上に忙しいだろうに。

こんな設定したのは、当初から「月末は早めの退社なんてムリです」という言い訳を容易にしてさっさと骨抜きにするという、予定調和的なソンタクがあったとしか思われない。何しろ、プレ金導入企業というのは 10%未満だそうだから(参照)。

このプロジェクトの事務局をしているのは、広告代理店の博報堂である。私の偏見かもしれないけど、博報堂ってやることなすことこんなふうに中身の伴わない一過性のものが多い。

大昔、1980年代には、「『ウール』という言葉は古くさいから、『メリノ』と言い換えよう」なんて言い出したことがある(参照)。「メリノ」というのは、衣料用羊毛を供給してくれる羊の種類のことだ(参照)。

この「メリノ・キャンペーン」には立場上、私自身も否応なく直接巻き込まれていたが、内心では「日本人が『ウール』を『メリノ』なんて呼ぶはずがないだろうよ、博報堂さん」と思っていた。「牛乳」と呼ばずに「ホルスタイン」とか「ジャージー」とかに言い換えようったってムリなのと同じことだ。

こんなキャンペーンが屁の役にも立たなかったことは、世の中で「寒くなったから、メリノ・セーター着よう」なんて言い出すのは誰もいないことで、しっかり証明されている。あの時に博報堂に払った大金は、一体何だったんだろう。

最近では「リーママ」とか「キャリジョ」とか「ソロもん」とか「CONPYRA」とかいうプロジェクトをご存じだろうか? ちょっと時間が経ってしまうと、口にするのも気恥ずかしくなる。

博報堂はネーミング・センスからして「オヤジ」だよね。

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2019年12月 9日

カタカナ英語を巡る冒険 その 4: 発音記号というもの

「カタカナ英語を巡る冒険」というタイトルで書き始めたらなぜかハマってしまって、せいぜい 2回で終わるつもりだったのに 4回目になってしまった。今回は一応の締めくくりとして、「発音記号」というものについて触れておこうと思う。

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「発音記号」という言葉でググってみると、"英語の発音をよくしたいなら「発音記号」を覚えよう” といった類いのページがどっさり検索され、私もそれについては基本的に賛成だ。とくに中学校時代は新しく学ぶ単語の発音はほとんど発音記号で覚えたので、「とても便利でありがたいもの」というイメージがある。

こんなにも便利な発音記号なのだが、中学校の英語教育では驚くほど軽視されているようで、昔から今に至るまで、誰に聞いても「授業でまともに教わった覚えがない」と言う。実際、私の知り合いでもほとんどが発音記号なんてチンプンカンプンのようなのだ。実にもったいない話である。

確かに私も、昨日の記事で触れた「上野先生の英語塾」以外ではまともに教わった記憶がない。中学校の英語教師は「カタカナ発音」よりひどい「ひらがな発音」だったから、発音記号は「タブー扱い」でほとんど触れなかった。下手に触れたりしたら、自分の発音がいかにデタラメかをさらけ出すことになる。

というわけで同級生の多くが、英語の教科書にカタカナで振り仮名を振っていた。私は「カタカナで単語を覚えたりしたら、英語じゃなくなっちゃう」と認識していたので、決してそんなことはしなかったが、多くの場面で「カタカナ」は英語を覚える際の簡便な道具となっていたようなのだ。

で、当然にも、こうした悪循環に陥る。

まともな発音ができる英語教師が少ない

教師は教育現場で発音記号に触れたがらない

生徒が発音記号を覚えない

仕方がないのでカタカナに頼る

発音がカタカナ式で固定される

英語をカタカナで覚えた生徒でも教師になれてしまう

(最初に戻る)

こんな感じで、日本の「カタカナ英語」は「抜きがたいもの」として固定化されてしまったのだろう。古代においてモロコシの漢文をそのまま理解しようとせず、読み下すのに「返り点」なんかを駆使して言葉の順序をひっくり返したりした結果、中国語とは別物になってしまったような現象が、近代において英語でも発生してしまったのだ。

というわけで、日本人の多くが "read" も "lead" もカタカナで「リード」としか認識しないカラダになったので、「日本人は "R" と ”L” が区別できない」というのが国際常識となり、"Apple" が 「アップル」、"McDonald's" が 「マクドナルド」という、似ても似つかない発音に固定された。 

当時の英語の試験で、「次の単語のうち、下線部の発音が他と異なるものはどれか」なんて問題がよく出た。「次の単語のうち」というのは、例えば

"1. urban, 2, arm, 3, earth, 4. early"   なんていうようなものだ。

私は「自分では 4つともまったく同じように『アー』としか発音できない教師が、どうしてこんなのをいけしゃあしゃあと出題できるんだろう? 」と、不思議でしょうがなかった。教師は「自分でできないこと」を、平気で生徒に要求するのである。

あまりにも腑に落ちなかったので、ある時「先生はどうやって区別しているの?」と聞くと、「発音記号を見ればわかる」なんて言うのだった。ということは、発音記号に【ǝ:】【ɑ:】という違いがあると認識しても、その違いが自分自身の発音にまったく反映されていないことに、いささかの気持ち悪さも感じないで済んでいるらしい。

「本音と建前」を使い分ける、ある意味「便利な」日本流文化というのは、英語試験にまでしっかりと浸透している。

ちなみに私はつい最近まで、「発音記号」というのは日本独特のものなのかもしれないと思っていた。というのは、英英辞書や米国の辞書を見ると、見慣れた発音記号とは別のシステムで発音が示されているのである。例えば、こんな感じだ。(写真は "Oxford English Dictionary")

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改めてググってみると、Wikipedia の「発音記号」の項に次のようにある。

既存のアルファベット(通常はラテン・アルファベット)を基本にして、不足する字は文字の変形やダイアクリティカルマークの付加によって補うもの。この方法は現在もっともよく行われており、なかでも国際音声記号 (IPA) が広く用いられている。

(中略)

日本で出版される英語辞典は国際音声記号またはそれを多少変更・簡易化した記号を用いるのが普通だが、アメリカの英語辞典はそれとは大きく異なる発音記号を用いることが多い。

へえ、そうだったのか。英語の発音記号にもいろいろなバージョンがあるのだね。それでもまるっと覚えちゃえば、カタカナ英語にはならずに済むのだが。

 

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2019年12月 8日

カタカナ英語を巡る冒険 その 3: 中学校の英語教育

「カタカナ英語を巡る冒険」シリーズ 3回目として、自分自身がカタカナ英語にならずに済んだという幸運に感謝しつつ、その経緯をまとめたいと思う。

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今から 15年も前の 2004年 10月 25日に、"「地震」「英会話」「プラモデル」の三題噺" という記事を書いている。一昨日の記事でも書いたように、私は 1964年、小学校 6年生の時に「新潟地震」に遭っている。その地震の救援物資としてもらったのが、なぜかその年の東京オリンピックを当て込んだ英会話教材の「ソノシート」ってやつだった。

どうして「地震の救援物資」が英語教材なんだかさっぱりわからないが、ともあれたまたま巡り会ったソノシート教材のおかげで、私は小学校 6年生で録音されたネイティブの発音を真似て、英語の初歩は身に付けてしまったのだった。そして中学校時代は上野先生という素晴らしい先生の英語塾に通い、さらに磨きをかけることになる。

その頃には、ビートルズやボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリーなどの英語の歌を、それぞれの歌真似(訛りまで再現して)で歌えるようになっていた。帰国子女ってわけじゃないが、耳が良かったのか英語の歌はスルリと真似できたのである。

中学校 3年の修学旅行の際には東京タワーで出会ったアメリカのオバチャンと、割とスラスラ会話ができてしまった。この辺りのことは、11年前に "英語の授業と東京タワー"という記事に書いている。

そのオバチャンが後日、米国からプラモデルを送ってくれたので、15年前の記事のタイトルになったわけだ。そして何と、最近ふと思いついてググってみたら、あの時のソノシートと同じもの(上の写真)が オークションにかけられ、500円で落札されているのを発見してしまった(参照)。

この懐かしいデザインのソノシートが、英語を学ぶそもそものきっかけとなったのだから、個人的には 500円では「安過ぎ」と思うほかない。ただ「オリンピック・レコード集」というタイトルでは、「オリンピック記録集」ってことになっちゃうのが痛恨だよね。

こうして小学校 6年でネイティブの発音を身に付けてしまった私は、中学校に入学すると英語教師のムチャクチャな「カタカナ発音」に仰天してしまった。いや、あれは「ひらがな発音」と言う方がいいかもしれない。実際の英語を知らないからこそ、あれで恥ずかしげもなく英語教師でございますと言っていられたのだろう。

中学校時代に英語で苦労したのは、試験で 100点を取ることではなく(100点以外取ったことがない)、授業のリーディングの際に「(心ならずも)なるべくカタカナ発音で読む」ということだった。ともすれば自然に英語らしい発音になってしまうのだが、それだと教師の不興を買って妙な言いがかりを付けられるのだからたまらない。

その教師がある日の授業で動名詞と不定詞の用法に関し、あろうことか「"I stopped reading." と "I stopped to read." は同じ意味」と言い出した(記事末尾参照)。これにはさすがに堪忍袋の緒が切れてしまい、「英語の教師のくせにデタラメを言うもんじゃない!」と、猛然と抗議した。

彼は授業の最後まで自分の間違いを認めず、「お前は生徒のくせに生意気だ」なんてことまで言い出した。これで完全にブチ切れた私は生意気ついでに、「職員室に戻って『指導要領』の『不定詞の副詞的用法』という項目を読んで出直さないと、このまま一生恥かくことになるぞ!」と言ってやったのだった。

2〜3日後に彼は「よく調べたら、お前の方が正しかった」と、こっそり内緒話のように言ってきた。当日中には理解できず、そのくらい時間がかかったようなのだ。「それは授業中にみんなの前で言ってくれ」と申し入れたのだが、それについてはトボけ通されてしまった。彼は人生で出会った中で、最も尊敬に値しない教師の一人である。

というわけで、私にとって「カタカナ英語」というのは田舎の中学校の英語の授業を蘇らせる「悪夢」でしかなく、耳にするだけでストレスなのである。


【言うまでもないことながら、念のため】

I stopped reading the book.  (私は本を読むのを止めた)

I stopped to read the book.  (私は本を読むために立ち止まった)

"Stop" という動詞では、動名詞と不定詞が同じ意味にならない。

 

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2019年12月 7日

カタカナ英語を巡る冒険 その 2: 「英語アナウンス」と言っても

下の写真は昨日京都から帰ってきた際の、新幹線特急券である。今どきは特急券も自動販売機で購入できて座席だって自由に選べるから、いつも「4号車 13番 A席」にしている。

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4号車はいつも比較的空いていて、13番はとくにガラガラ。隣の B席(3列シートの真ん中)なんてさらに埋まりにくいから、余裕たっぷりに乗車できるのだ。数字で縁起を担ぐ人って少なくないので、JR の窓口でも「4号車 13番」は積極的には売りにくいのだろう。

おっと、昨日の「英語を巡る冒険」の続編を書くつもりだったのに、いきなり横道に逸れかけた。今日は新幹線のナマ英語アナウンスの中身が、いかに「どーでもいい」ものかを考察する。

英語アナウンスは、例えば次は京都に停車するケースだったら、お約束の日本語アナウンスに続いてすぐに、次のように流れる。

We are stopping at Kyoto station.  The door on the left side will open.(次は京都駅に停まります。左側のドアが開きます)

要するにこれだけ。たった二言なのだよ。しかも外国人には英語と気付いてすらもらえないレベルのカタカナ英語なのだから、昨日の記事の画像として使用させてもらった朝日新聞のビデオニュースの「新幹線で肉声英語のアナウンス」なんて見出しさえおこがましい程度のお話だ。

次の停車駅なんて、昔からドアの上の電光掲示板に日英 2カ国語で何度も表示されるし、どちらのドアが開くかなんて、少なくとも私は気にしたことがない。停車したら開いた方のドアから降りればいいだけの話なのだから。

上述のビデオニュースのタイトルは "新幹線で肉声英語のアナウンス” に続いて ”流暢でなくても好評" となっているが、こういうのを世間では「提灯記事」というのだ。ある意味、流暢じゃないからこそ、必要以上に大きな変化に見えているだけなのだろう。フツーにしゃべればフツーの話でしかないのに。

一方、昨日の記事の最後で紹介した文春オンラインの記事は "東海道新幹線の英語アナウンスは逆効果? 問われる「英語の質」" と疑問を投げかけている。ただ、サブタイトルで "グローバル化に向けて歓迎すべき流れだが……" と、半分は矛を収めているのだが。

実際のところは昨日の記事で次のように書いた通りと思うほかないのである。

この "英語アナウンス" は、国内向けに「JR、一応国際化努力してます」とアピールする効果しか果たしていないと言っても、あながち極論じゃない。

「英語アナウンス」が実際に外国人に通じてるかどうかなんてのはどうでもいいことで、要するに「グローバル化と見せかけるための稚拙なアリバイ作り」なのだ。

文春が言うような「英語の質」が問われているわけですらない。だって仮にものすごく流暢な英語でアナウンスしたとしても、内容なんて上述の通り「言わずもがな」のことでしかないのだから。

 

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2019年12月 6日

カタカナ英語を巡る冒険 その 1 : 新幹線の英語アナウンス

奈良の吉野の山奥への出張を終えて帰宅した。ところで最近、新幹線に乗る度にそこはかとなく気になっているのが「英語の車内アナウンス」である。191206

前々からお馴染みの こんな感じ(← クリックで YouTube 動画が再生される)のネイティブ・スピーカーによる(保母さんが園児たちに諭すような感じの)録音のアナウンスも継続されてはいるが、 今はそれに加えて日本人車掌によるナマの英語アナウンスも流される。ただ、そのほとんどが「見事なまでのカタカナ英語」なのだ。

ネット界隈では「上手な人からカタカナ英語の人まで幅がある」なんて記述を目にする。しかしよく新幹線に乗る私でも、カタカナ英語以外のアナウンスは 1度も聞いたことがなく、ほとんど こんな感じ である。(4番目のアナウンスは比較的マトモだが、"L" と "R" の区別が付いていない)

上の写真のクリックでリンクする動画は、かなりわざとらしさが目立つが、JR 東海の英語アナウンスの練習風景ということになっている。ところが左側の指導担当者自身が相当なカタカナ英語で、飛行機の CA の英語も平均的にはかなりひどかったりするが、それを凌駕するレベルである。

これは朝日新聞によるニュース動画で、一応きちんと現場取材でやらせ動画を撮影しているわけだから、JR としては「ニュースにしてもらうのだから歓迎」というスタンスだったのだろう。「とりあえずちゃんとした英語原稿なんだから、お恥ずかしいものにはならない」程度以上のことは考えていなかったとしか思われない。

動画の中で指導担当者は「アクセントを間違えても気にしないでください。外国人のお客様は理解しようとしてくれています」などと、もっともらしいことを言っている。しかし現場に遭遇すれば、その期待は甘すぎるとわかる。

現場では日本語アナウンスに続いてすぐに英語アナウンスになる。日本人客なら少なくとも 「急に日本語じゃなくなったから、ここから先は英語(のつもり)なんだろう」ぐらいには思ってくれるが、日本語を知らない外国人客には、単にミステリアスな東洋の言葉の連続にしか聞こえないはずだ。

つまり「JR の車掌が英語でアナウンスをしている」という事実に気付いているのは、案外日本人だけかもしれないってことだ。ということはこの "英語アナウンス" は、国内向けに「JR、一応国際化努力してます」とアピールする効果しか果たしていないと言っても、あながち極論じゃない。

このサービス、昨年 12月から始まったというのだから(参照)、既に 1年経過している。そしていつの間にかカタカナ英語のままで妙に早口になってしまい、ますますわからなくなってしまっている。

下手に慣れると逆に劣化してしまうという典型例だ。

ちなみに、このことについては過去にも 2度触れている。

新幹線の 「ムダに流ちょうすぎるカタカナ英語」 アナウンス
  (この記事に添えた録音は、かなりスゴい!)

新幹線の英語アナウンスが肉声になったようだ

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2019年12月 5日

関東で地震が連続

関東では近頃、毎日のように地震が発生している。私は今朝から関西に出張していて、今夜は奈良のホテルに泊まっているのだが、さっき(午後 10時半頃)も茨城県北部で震度 3 の地震があったようだ。これで 4日連続である。

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FNN PRIME は、【「東京で震度6超える恐れも」関東で頻発する地震は“首都直下型”の前兆!? 備えるべきポイントとは】なんていう物騒なニュースを伝えている。もう 8年以上経ったとはいえ、東日本大震災の記憶がまだそんなに薄れているわけでもないので、かなりイヤな感じだ。

私は既に大地震を 2度経験している。1度目は 1964年の「新潟地震」。小学校 6年の時で、結構長期間にわたって暖水していたので、毎日のようにバケツをもって給水車の列に並んでいたのを思い出す。生長期に毎日両手にバケツをぶら下げて水運びをしていたので、ずいぶん体力が付いちゃったよ。そして 2度目はあの東日本大震災だ。

地震というのは自分の立っている地面がグラグラ揺れ動くのだから、人の力ではどうしようもないレベルの恐怖感がある。大地震となったらなおさらだ、

さらにその後の余震が頻発する中で復旧まで耐えていくというのも、本震の恐怖以上に気の重い話になる。それを 2度も経験したのだから、「3度目はいらないよ」と言いたくなるのは無理もない話だ。つくづくご免こうむりたいと、本気で思う。

とはいえ、地下にエネルギーが溜まってしまったらどこかで放出しなければならないのだから、こればかりは避けようがない。地震はなるべく来てもらいたくないが、それが後になればなるほど大きなエネルギーが溜まっているわけだから、大地震となってしまう。

そうなると、なるべく早めに比較的小さな地震として発生してもらう方がまだマシなのかもしれず、なかなか複雑な思いになってしまう。地震国というのはよくよく面倒な宿命を背負ってしまっているわけだ。

 

続きを読む "関東で地震が連続"

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2019年12月 4日

”Snoopy" って、「うろうろ詮索しまくる」犬ってことなのだね

先月 27日の記事で "完全版 ピーナッツ全集 15 スヌーピー1979-1980" (¥3,080)を Amazon に発注したと書いたが、翌日ちょうど留守にしていた時に届いたようで、すったもんだの挙げ句、29日の日暮れ時にようやく届いた。3cm 以上の厚みのある本で、かなり読み応えがあり、しばらく楽しめそうである。

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ところで、12月 2日に "snoop" という英単語について次のような tweet をした。(参照

単純な英単語でも、知らずに生きてきたということが案外多い。恥ずかしながら最近、今さらのように知ったのは ”snoop” という単語の意味が「こそこそうろつく、嗅ぎ回る」だってこと。
そうか、「スヌーピー」って、そういうことだったのか。

”Snoopy" という固有名詞は知っていても、その元になった "snoop" という英単語の意味については、全然気にしたことがなかった。それだけ ”Snoopy というキャラが独立した魅力を発揮していて、敢えて名前の意味まで「詮索」してみる気になれなかったのである。

ところが、改めて調べてみると、こういうことだった(参照)。

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なるほどね。この単語、私があえて詮索する気になるのを待ちわびていたのかもしれない。

 

 

 

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2019年12月 3日

赤城高原サービスエリアって、欠陥 SA なんじゃないの?

一昨日の「関越道の逆走死亡事故直前の動画」という記事にも【12月 2日 追記】として書いたのだが、関越道で死亡事故を起こした 80歳の男性の運転する軽自動車は、赤城高原 SA(サービスエリア)から逆走を開始した可能性が高いとわかった(参照)。

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ANN のニュースで紹介されているのだが、この SA、上の画像のように出口も入り口も駐車スペースの南東側角の近くにあって、自然の流れに反している。画像左側に私が書き足した紅い矢印のように、出口が駐車スペースから見て入り口と反対側の北東角にあればわかりやすいのだが、実際にはかなり紛らわしい設計になっているわけだ。

とくに地方の高速道などでサービスエリアに入ると、別に頭がボケてるわけでもない(と信じたい)私でも「ありゃ、この SA、一体どこから出たらいいんだ !?」と、一瞬戸惑ってしまうことがある。どこの SA だか忘れてしまったが、上り下りの両車線から共通の駐車スペースに入るなんていうところもあったりする。

そうなると本線に戻るのが結構ややこしくて、「これって、欠陥 SA なんじゃないの?」と言いたくなるほどだ。この赤城高原 SA も、そうした「欠陥 SA」の 1バージョンと言っていいんじゃなかろうか。

よく調べてみれば、私が書き足した赤い矢印方向には地形的に出口を付けにくいという事情があるのかもしれない。しかしいくら何でも、もう少しわかりやすい設計にすることもできたはずではないか。これでは工事費をケチって逆走を誘発しているようなものだろう。

NEXCO 東日本のページによると、高速道路における逆走の発生は決して少なくないことがわかる(参照)。これって、わかりにくい施設設計による場合もかなりあるのではなかろうかと疑いたくなってしまう。こんなわかりにくい施設が存在するのでは、米国辺りだと確実に遺族からの訴訟の対象になるだろう。

「SAの欠陥構造が事故を誘発した」として、遺族が NEXCO 東日本の責任を追及する訴訟を起こしても、あながち無茶じゃない気がしてしまう。こんな戸惑いやすい SA があるんじゃ、我々が高速道路を走るのも命がけじゃないか。

最近、オカミは高齢者の運転免許返納を勧めているらしい。しかしそれって、わかりにくい設計によって逆走事故が誘発されるケースが増えても、世の中を「逆走したボケ老人が一方的に悪い」「このじいさんが素直に返納していれば、こんなことにはならなかったのに」という雰囲気で満たすためなんじゃないかとまで疑ってしまう。

そもそも「返納」なんていう言葉で語ること自体が、何だか「エラそー」で不快だよね。田舎じゃ運転免許がないとまともに暮らせなかったりすることの方が問題なのだよ。

 

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2019年12月 2日

生まれた土地の方言を忘れるという「忘恩」

最近、富山、青森(津軽)出身の同年代の知人と話をしていると、2人とも「田舎の言葉は忘れたから、もうしゃべれない」なんて信じられないことを言い出したので、「あいやでって...」と言いたくなった。この庄内弁の意味は、リンク先のこまつきょうこさんのページに行けばわかる。(下の画像クリックでも行ける)

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私なんかつくばの自宅にいてさえ意識的/無意識的にしょっちゅう庄内弁を使っている(参照)から、仙台生まれの妻も茨城生まれの娘たちも、「ヒアリングならバッチリ」になっている。しかしその 2人の知人は「実家に帰ってさえ方言は使わない」などと、私に言わせれば「忘恩の所業」みたいなことを言うのだ。

昨年 3月に仕事上の仲間と 2人で、我が故郷、山形県庄内平野の港町、酒田市に出張したのだが、帰りの特急車内で彼は、「酒田にいる間ずっと、周りの言葉が一言も理解できなかった」と白状した。「頼みの綱の tak さんまで酒田に着いた途端コロッと別人になっちゃって、いきなり『外国語』で話し始めるんだもの」

彼が庄内弁を「外国語」のように感じたのは無理もない。友人の日系ブラジル人に聞くと、「ブラジルはポルトガル語の国だけど、周りの国で話されているスペイン語はフツーに理解できるし、イタリア語もまったくわからないわけじゃない」という。ラテン語を母胎とする言語同士だけに結構共通点があるのだね。

ということは、「同じ日本語」とはいえ、庄内弁と「いわゆる標準語」の差は、ポルトガル語とスペイン語の差よりずっと大きいってことになるわけだ。ヨーロッパ語族の感覚で言えば「外国語」と言っていいのかもしれない。

だったら地方出身者はせっかく「外国語」を自然に身に付けているのだから、「日本語(いわゆる標準語)」とのバイリンガルで生きればいいのにと思う。人間の思考というのはかなりの部分で言葉を使うから、バイリンガルなら二重思考になって、より多面的で深みのある考え方ができるというものだ。

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上の画像は、山形県庄内から茨城県に嫁いだという伊藤海歩さんの「東北七県目のヨメ」というサイトにある「庄内弁・標準語・大阪弁(前編)」というページで見つけたものだが、「言語スイッチ自動切り替え」とはバイリンガルとして言い得て妙である。クリックしてリンク先に飛んでみてもらいたい。

私は普段から、標準的日本語のなまくらな論理思考を下手くそな英語思考で補強し、さらに庄内的な土着思考を加えた二重半思考(?)で考えを深めているところがある。その意味でも方言を忘れてしまうなんて、思考経路が(つまりオツムの中身が)単純すぎるとしか思えず、もったいないこと夥しい。

それにしても、10年以上前はインターネット上で嬉々として庄内弁を語るライターなんて世の中に私ぐらいしかいない印象だったが、最近はずいぶん「同志」が増えたなあ。嬉しい限りである。

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2019年12月 1日

関越道の逆走死亡事故直前の動画

昨日、"明日から「ながら運転」が厳罰化" という記事を書いたので、実際の取り締まりがどんな具合だったのかを調べようとしてネットを検索したのだが、それに類するニュースはまだ見つからなかった。さすがに明日になるまで待たなければならないのかも知れない。

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その代わり、結構ショッキングな映像が見つかった。「関越道 逆走死亡事故の直前映像」というものである。今日の午後 5時過ぎに、常磐高速を通って帰ってくる時、関越道で高齢男性の逆走による事故があったことはカーラジオのニュースで聞いて知ってはいたが、実際にこうした動画で見せられると衝撃は大きい。

動画は、この事故の原因となった軽自動車が下り車線を逆走する様子を、たまたま付近の上り車線を走っていたクルマから録画したものだ。上り車線は空いているが、下り車線は結構な交通量で、多くのクルマが軽自動車とヒヤヒヤものですれ違っている。

この動画は助手席から撮影されたもののようだ。運転者が撮影したものだったらこの動画自体が「ながら運転」のエビデンスになるところだったが、運転者が握るハンドルもちゃんと映っているからそれには当たらないことを念のため述べておこう。

それにしても高速道路の逆走って、こんな感じになってしまうのだね。逆走する当人は「自分は走行車線を走っている」と思い込んでいるのだろうが、実際には追い越し車線を結構なスピードで逆走しているのだから、危険度で言ったら最高レベルである。こんな事態には間違っても遭遇したくない。

逆走してしまうのは今回のケースも含めてほとんど高齢者のようだから、日本社会がますます高齢化するに従って、こうした事故は増えるだろう。高速道のサービスエリアやパーキングでは、間違っても逆走してしまわないように、正しい進行方向を示す矢印などを路面上でことさら目立つぐらいに表示することが必要になりそうだ。

それから最後に敢えて余計なことを言ってしまうが、こうした動画はタテ位置じゃなくヨコ位置で撮影してもらいたかったなあ。ニュースでも結局、ヨコ位置に拡大して放送しているのだから、初めからヨコ位置だったら、より多くを訴えかける映像になったはずなのに。

(参照: あの「ガラケー女」に、「カメラはヨコ位置で構えろ」と言いたい

 

続きを読む "関越道の逆走死亡事故直前の動画"

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