「州勘庵主」という、わけのわからない公案
ほぼ一年ぶりの『無門関』ネタである。今回は第十一則「州勘庵主」という、わけのわからない公案について触れてみたい。
「州勘庵主」というのは、「州、庵主(あんじゅ)を勘(かん)する」ということで、「州」というのは、第一則の「趙州狗子」にも出てきた趙州和尚である。「狗(犬ころ)に仏性はあるんですか」と問われて「無(ねえよ!)」と言い放った、あのアクの強い和尚だ。
もちろんその「無(ねえよ!)」というのは、「ある」だの「ない」だのいう二元論を超えた次元のもの言いだ。「仏性」と「犬ころ」というのが別々にあって、片方が片方に宿るみたいな話ではないのだろう(参照)。
その趙州和尚が行脚して一人の庵主(徳の高い僧)のところに立ち寄り、「有りや、有りや」(あるか、あるか)と問うたというのである。「あるか、ないか」ではなく「あるか、あるか」と問うたというのは、何だかやたら一方的で穏やかじゃないよね。
この時出てきた老僧は、無言で拳を握って突き上げた。これ、禅問答のお約束的な所作らしく、「じゃかぁしい! ちゃんとやっとるわい」みたいなことらしい。すると趙州和尚は「こんな水の浅いところに、舟は泊められん」と言って去った。つまり「ここの庵主の悟りは浅すぎて、お話にならん」というわけだ。
次に立ち寄った庵でも同じように「有りや、有りや」と問う。すると出てきた老僧も同じように拳を握って突き上げる。すると趙州和尚は打って変わった態度になり、「能縦能奪、能殺能活」(自由自在に与えたり奪ったり、殺したり生かしたり、立派なものじゃ)と言って、礼拝したというのである。
これ、わからないよね。それでも、フツーに考えてわかるはずのないことを「わかれ」というのが禅だから、わかるほかない。まったく厄介なことである。
とにかく手がかりは、犬に仏性は「ねえよ!」と言い放ったあの趙州和尚が問答の発端として、敢えてことさら「あるか、あるか」と問うたということじゃなかろうか。「ねえよ!」と悟っていた趙州和尚が、「あるか、あるか」なんて最低の問いを発しているのだ。
で、最初に出てきた庵主はまさに「じゃかぁしい! ちゃんとやっとるわい」、つまり「あるよ!」と言わんばかりに拳を突き上げた。これはヤバい。見透かされちゃうよね。
そして二番目の庵主は同じ拳を突き上げる動作をしても、「そんなアホらしい問いには付き合いきれん」というココロだったんじゃあるまいか。それで趙州和尚は「我が意を得たり」と、礼拝せざるを得なかったのかもしれない。
ただし、下手するとこの解釈も浅すぎるのかもしれない。『無門関』を著した無門和尚によると、「趙州和尚の方が二人の庵主に勘破されているのかもしれないではないか」ということになってしまう。「水が浅くて舟が泊まれない」というのは、浅いところに泊まれないような、不自由な舟に乗っているいうことにもなるしね。
いやはやここまで来ると、実は深すぎて言葉では語り切れない。無言で座禅を組むしかないだろう。
2019年も終わりに近付いている今、モロモロのあほらしさにグッと拳を突き出して新年を迎えたいものだと思うのだが、なかなか容易な話じゃない。
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