"「百八の煩悩」の内訳" を初めて知ったのだが・・・
幼い頃、「除夜の鐘」が 108回打ち鳴らされるのは "「人間の百八の煩悩」を一つ一つ祓うため" と教わったものだ。その頃は「へえ、人間にはそんなにたくさんの煩悩があるのか」と思ったが、長ずるに当たっては「いやいや、煩悩の数はそんなもんじゃないだろう!」なんて言いたくなったりもしている。
Japaaan というサイトに "除夜の鐘は何で百八つ?除夜の鐘で祓われる煩悩の「内訳」を紹介!" という記事がある。昨年大晦日付の記事なので、今さら触れるのはネタとして手遅れ感が強いが、単純計算では「わずか 2日前」の記事なので、図々しく書いてしまおう。
記事はまず、人間を構成する六つの要素「六根(ろっこん)」から入っている。眼(げん、視覚)・耳(に、聴覚)・鼻(び、嗅覚)・舌(ぜつ、味覚)・身(しん、肉体)・意(い、精神)である。般若心経でも「無眼耳鼻舌身意(むーげんにーびーぜっしんにー)」という一節があるから、お馴染みといえばお馴染みだろう。
で、この六根がそれぞれ 「好(こう、快感)・悪(あく、不快感)・平(へい、無感)」の 3パターンに分かれる。これで 18パターンになるが、それがさらに「浄(じょう、清い=仏様の御心に適う)と染(せん、汚い=仏様の御心に適わない)」に分けられ、これで 36パターンになる。
最後にその 36パターンそれぞれに、「前世・今世・来世」の 3パターンを乗じて、「百八の煩悩」ということになるのだそうだ。うぅむ、仏教って、時々妙に理屈っぽい。
つまり「百八の煩悩」といっても、個別の煩悩の数ではなく「108のカテゴリーに分けられる煩悩」である。煩悩を個別に挙げていったら、やはり 108どころではなくなるってことだ。
仏教は理屈っぽいだけではない。フツーに考えれば 「浄」という要素は「仏様の御心に適う」というのだから、「煩悩」じゃないだろうと言いたくなるが、それでも煩悩なのだという。「解脱」というのは、仏の御心に叶いたいと願うことからさえも離れて自由になることという、直観的理解も求められるのだ。
私は元より「数」に関して考えるのは苦手で、「百八」なんてことを考えていたら頭が痛くなっちゃう。それに煩悩についてなんか突き詰めて考えたら、かえって頭の中が煩悩だらけになってしまいそうだ。というわけで堅苦しい理窟からは離れて、今年も気楽な理窟で生きていこう。
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コメント
どっこいしょ!
(六根清浄)
で、よかったでしょうか?
投稿: 乙痴庵 | 2020年1月 6日 22:53
乙痴庵 さん:
そんなようなことを、2007年 2月 9日に書きました (^o^)
「どっこいしょって、言っちゃう?」
https://tak-shonai.cocolog-nifty.com/crack/2007/02/post_c072.html
私自身は「どっこいしょの語源は『六根清浄』」説を信じていませんのでよろしく。
投稿: tak | 2020年1月 7日 00:16
リンク先記事のコメントに、当時のアタクシがおりました。
え〜い!忘れてしまえ〜!
「ウオリャ〜!」
失礼いたしました。
投稿: 乙痴庵 | 2020年1月 7日 12:21
乙痴庵 さん:
わはは
コメント欄まで見てませんでした。失礼しました (^o^)
投稿: tak | 2020年1月 7日 14:59