「初めに言(ことば)ありき」と、「不立文字」
「初めに言(ことば)ありき。言は神と共にあり。言は神なりき」というのは、『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」の冒頭である。この「言(ことば)」というのは、ギリシア語の原書では「ロゴス」という言葉で書かれているという。
ということは、「初めに言ありき」の「言(ことば)」というのは、単に辞書的な意味での「言葉」、つまり「モノゴトは言葉によって認識されるよね」なんていう程度の軽いものではない。もっと根源的なものということになる。
「それはイエス・キリストそのものを意味する」と解説するウェブページも少なからずある。ということは、「神・神の子(イエス・キリスト)・聖霊」は三位一体だから、「初めに神のみが存在した」ということに他ならない。そして「すべてのものは神によってできた」と続く。
というわけで、宗教的に深い意味での「言葉」とは、「神の摂理」あるいは「神そのもの」ということだ。そして、根源的な意味での「言(ことば)」、つまり「神の摂理」「神そのもの」を、我々がフツーに使うレベルの言葉を使って表現しようとすると、どうしても「表現しきれない部分」が残されてしまう。
我々の言葉は「有限の意味」を表現するから、どうしても「神の摂理そのもの」は表現できない。「無限」を「有限」で表現しようとしても不可能ということだ。
仏教でいうところの「不立文字」というのも、これと共通するだろう。「拈華微笑」の公案は、「不立文字」「教外別伝」を現すと言われる。
釈迦牟尼仏が霊鷲山(りょうじゅせん)上で弟子たちを集め、無言でただ手に持った花を拈って見せた時、誰もその意味を理解できなかった。しかし独り、迦葉(かしょう)尊者のみが釈迦の真意を理解し、にっこりと微笑を浮かべたという。
すると釈迦は、「吾に正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、涅槃妙心(ねはんみょうしん)、実相無相の微妙(みみょう)の法門あり、摩訶迦葉(まかかしょう)に付嘱(ふぞく)す」と言われたという。つまりこの瞬間に、釈迦は自身の跡を継ぐ仏教第二祖として摩訶迦葉を指名したのだった。
釈迦が言葉を発せずに、ただ花を拈って見せただけというのは、仏教の究極的真理は普通の言葉によって表現できるものではなく、ただ象徴的に現すほかないからである。まさに「不立文字」というわけだ。
ローマン・カソリックにおいては、ペテロをイエス・キリストの正統な後継者としているが、それは「ヨハネによる福音書」21章 15〜17 の記述に基づいている。そこにはイエスがペテロに向かい「私を愛しているか」と 3度続けて同じ問いを発したと書かれている。
それに対してペテロは「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と、3度同じように答えた。するとイエスは「私の羊を飼いなさい」と、やはり 3度言われたというのである。これもまた、象徴的な話だ。
つまり究極的真理というのは、いくら言葉を尽くしても遂には具体的に表せないもので、象徴的に表現するしかないということのようなのである。私が 18年以上もブログを書き続けて、ちっとも真理に迫れないのも当然というものなので、大目に見ていただきたいってことだ。
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コメント
恐れ入りまして。
シナプスフル稼働へのキッカケを頂いております。
ありがとうございます。
で、takさんの記事を拝読して頭を使います(使った気でいる?)ので、きっと、ボケは遠くに離れて行ってるものと、感謝いたしております。(甚だの考え違い)
投稿: 乙痴庵 | 2020年9月24日 21:13
乙痴庵 さん:
この記事は、久しぶりでの「大ネタ」でありましたので、書くにも時間がかかりました ^^;)
投稿: tak | 2020年9月25日 05:40