順番とはいえ、藤十郎まで死んでしまって
坂田藤十郎が死んだというニュースは、ちょっとしたショックだった。藤十郎が中村扇雀だった時代からずっと注目していたので。
私が歌舞伎ファンだなんて意外に思う人がいるかもしれないが、実はその昔、卒論に九代目団十郎論を書いたぐらいで、決して付け焼き刃じゃない。ワセダの第一文学部ってところは、何しろ坪内逍遙以来の伝統のおかげで「演劇学」なんていう妙な専攻があったのだ。
さらにそれで収まらずに大学院まで行き、七代目団十郎を論じて役にも立たない修士号まで取得している。そんなわけでとくに学生時代は歌舞伎座に毎月、昼の部、夜の部の 2回通っていた(3階席だったけどね)。
学生時代なんていうと、半世紀近くも前のことになるが、その頃は死んだ藤十郎の父親、二代目鴈治郎も達者で活躍していて、今の若い歌舞伎ファンが聞いたらよだれを流して羨ましがるような舞台も数多く観た。ただ、親子でお初徳兵衛を演じる『曽根崎心中』だけは観る機会がなかったのが残念だ。
私は卒論と修士論文で江戸の荒事の本家、団十郎を論じた割には、実際に観るのは上方系の和事が好きで、松島屋系の芝居も好きだったなあ。荒事は観てすっきりするが、和事はしっとりとするのである。
ちなみに坂田藤十郎というのは、初代が元禄の頃に上方で和事を創始した名優で、同じ頃に江戸で荒事を創始した初代団十郎と並び称される。安永年間に三代目が死んで以来、名跡が途絶えていたが、三代目鴈治郎となっていた藤十郎が、2005年に復活させた。
で、私としては長年「成駒屋」の屋号で親しんでいた扇雀、鴈治郎が、藤十郎を襲名した途端に「山城屋」になったというので、「はあ?」なんて軽くうろたえてしまった覚えがある。上方の人間って、その辺りのことには案外こだわらないみたいなのだね。
というわけで、死ぬのは順番とはいえ藤十郎まであの世に逝ってしまったことで、またしても大きな節目になったような気がしている。最近は世の中の移り変わり方がさりげなく激しい。
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