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2020年12月に作成された投稿

2020年12月31日

今年のブログ書き納め

ここ 4〜5日、年末の忙しさが一段落してからというもの、一昨日の "「コロナ禍」は浮世の大掃除?" という記事で「まだ 3日間も『今年』が残ってるのか」なんて書いたように、時の経つスピードが急にトロくなったような気がしていたが、ようやく大晦日まで辿り着いた。

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「今年は一体何をした年だったんだろう?」と、自分のブログをざっと眺め返してみたのだが、印象に残るようなことが本当に少ない。これもまた、コロナ禍で家に閉じこもりっぱなしということが多かったせいである。

わずかに 3月末に網走に出張できたのが、地味ながらのハイライトだろう(参照)。網走には過去にも何度か行ったが、今回はたまたま冬の終わりという時期だったので、流氷の去る前に間に合った。

土地の人たちが「今の時期に網走に来てくれたんだから、流氷を見せないうちには内地に返せない」と強く言うので、遊覧船に乗って見物したのが、かなり爽快な印象だった(参照)。無理矢理勧めてもらってよかった。

この出張から帰ってくると、仕事仲間たちが「お前がコロナにかかってないと確認できるまでは、締め出しだ」なんて半ば冗談、半ば本気で言っていたほどで、以後はまさに本格的「コロナ体制」に突入した。ギリギリで網走に行っておいて本当によかった。

これ以後は仕事の打ち合わせでもネット会議ばかりになり、逆に「オンライン疲れ」なんてことまで言われ始めた。何でもネットで済ませられるというのは、一見楽なようで、実際は案外面倒だったりすることもある。

10月半ば過ぎには、あまりにもインターネット回線の使用が多すぎたせいか、突然光回線が死んだり不安定になってしまったりする現象まで生じた(参照)。これは原因不明のまま、ほぼ 1週間後には回復したので何とかなった(参照)が、一時は本当にストレスだった。

というわけで今年はまったく不完全燃焼のままに暮れようとしているが、一昨日の記事でも書いたように、「ポスト・コロナ禍」の時代は減量化が進んですっきりするものと期待して、2020年のブログ書き納めとしたい。

それでは皆さん、今年よりは確実によいお年を!

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2020年12月30日

落とした財布が戻ってくると言われる日本だが

NewSpere に出てから 3か月以上も経ってしまった記事だが、「日本ではなぜ落とし物が帰ってくるのか? 海外メディアが原因を分析」というのがある。

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このニュースによると、日本では届け出のあった財布の落とし物の 93%が落とし主に戻るという。これは奇跡的と言っていいほどの数字だ。何しろニューヨークで落とし主に戻るのは、わずか 6%に留まるというのだから。

ただ、このような「奇跡的数字」の理由は「日本人の正直さ」故とは必ずしも言えないとする、次のような見方が紹介されている。

シティ・ラボ誌は日本の法制度に注目しており、遺失物法第 28条の規定により落とし主から拾い主に 5%から 20%のお礼(報労金)が支払われる、と伝えている。3ヶ月経っても落とし主が現れない場合は、拾い主は正式に所有権を得ることも可能だ。(元記事はこちら

つまり日本では財布を拾ったら交番に届け出れば、落とし主が現れた場合は謝礼がもらえ、現れなかったら全額自分のものにすることができるので、ネコババするより良心の呵責がなく、しかも合法的に利益が得られる。確かにこれはなかなかいい制度のように見える。

しかし実のところ、コトはそう単純ではない。自分の体験から言うのだが、拾った財布を交番に届けても何の得にもならないことが少なくないのだ。

私は小学校 6年生の頃、結構な額のお金の入った財布を拾ったことがある。当時の聖徳太子の肖像入り 1万円札が数枚入っていたから、今の貨幣価値にしたら少なくとも 50万円以上に相当する拾い物で、この中身を観た時はかなり興奮した。

これを正直に警察に届け、内心で謝礼のもらえるのを楽しみに待ったのだが、結果的には警察からも落とし主からも何の連絡もなかった。おそらく落とし主に戻ったのだろうが、そいつは拾って届けてくれた小学生に謝礼を渡そうなんて露ほども考えなかったようで、うやむやになってしまったのである。

同様の体験は、大学に入学して上京してからもあった。結構な額の現金とカードの入った財布を拾い、警察に届けたのだが、やはりそれっきりだった。カードのデータがあるのだから、落とし主に戻ったのはほぼ確実なのだが。

つまり制度上は落とし主が謝礼を払うことになっているのだが、実際にはそんな決まりはシカトされてしまうことが多いようなのである。

念のためこれに関する法律(遺失物法)の条文(参照)を調べてみると、拾得者は遺失者に返還されてから 1か月以内に謝礼の支払いを請求することができるということのようなのだね。これについては、愛媛警察署のサイトに「拾得者の権利」として具体的に説明されている(参照)。

しかし私の体験としては、届け出た金が落とし主に返還されたなんてことを警察はまったく知らせてこなかった。ということは、いつ誰に請求すればいいかを知るよしもなかったのだ。

この事情のよくわかった今から思えば、届け出てから 3か月ぐらいしてから「あの財布、どうなりました?」と警察に問い合わせてみるべきだったかもしれない。しかしその時点で返還されてから 1か月以上経っていたら、報労金支払いを請求する権利が消滅している、

要するに「警察の怠慢」から発していることのようだ。このことからしても、この世は富の再分配がまともに機能しないようにできているということがわかるってなものである。

ただ、だからといって私は財布を拾ったらネコババする方がいいと言っているわけでは決してないので、その辺りはなにぶんよろしく。良心に恥じないで生きる方がいいのは、当然の話なのでね。

そうそう、「警察の怠慢」といえばこんなヒドいこともあったから、この際ついでに自分の過去記事にリンクを張っておく。おっと、そういえばこんなこともあった。なんとまあ、私ってば結構な正直者なんだね。

 

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2020年12月29日

「コロナ禍」は浮世の大掃除?

12月に入ってから年内に済ませる仕事で結構忙しくしていたが、それが一段落してしまうと呆気ないほど暇になり、「まだ 3日間も『今年』が残ってるのか」なんて、ちょっと驚いている。年賀状印刷も終わったし。

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毎年の年末はいつも「今年もいろいろあったものだ」とか「日本中あちこちに出張したよなあ」などと感慨に浸ったりするのだが、今年ばかりは勝手が違う。「コロナ騒動を別とすれば、あとは何もない年だった」「旅にもあまり出られなかったし」と、とにかく呆然とするばかりである。

こんなような「空っぽ感覚」というのは、思えば生まれて初めての体験なんじゃなかろうか。とにかくやたら密度の薄い一年だったということは確実に言える。

ただ、「単に空虚な 1年だった」とは思いたくないというのが、私なりのメンタリティである。後付けでもいいから、何らかの意味を見出したい。

近頃思うのは、「コロナ禍」というのは「壮大なガラガラポン」なんじゃなかろうかということだ。今後数年、あるいは 10数年かけて徐々に整理されなければならなかった「浮世の沙汰」が、極端なまでのスピードで片付いてしまっているような気がする。

コロナで亡くなってしまった方はお気の毒なことで、とんでもなく乱暴な言い方になってしまうが、これはある意味「浮世の大掃除」でもある。

今年は「大概のことは、しなきゃしないで済んじゃうんだ!」「いやいやながら付き合う必要はないんだ!」と気付かせてもらった 1年でもあった。妙な話だが、「こんなにも浮世の沙汰に関わらなくても、ちゃんと生きて来れた」という実感が確実にある。

その反動として、コロナ禍が過ぎ去った後で「余計なことをしまくる」なんていう風潮が復活するかもしれない。しかしその「余計なことの受け皿ビジネス」はこの 1年でかなり衰退してしまったので、それほど大々的な復活にはならないだろう。

それに「余計なことをしまくって楽しむ代表選手」ともいうべき「団塊の世代」が、結構老いちゃったということも大きい。何しろ 70歳代に突入した途端のコロナ禍だったから、彼らの「老人化」が妙に促進されてしまった気がする。

というわけで「ポスト・コロナ禍」の時代は、嫌でもずいぶん減量化が進んですっきりするんじゃないかと思うのだよね。

 

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2020年12月28日

"GARAGE HERO's" という名のラジオ番組

日曜朝の TBS ラジオに「GARAGE HERO's 〜愛車のこだわり〜」という番組がある。9:00 から 9:30 までの 30分番組で、提供は "UP GARAGE" という、関東一円で事業展開する中古車、バイク用品の買取販売専門店だ。

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この番組は TBS のサイトを見ると、次のように紹介されている。

クルマを愛してやまない安東弘樹が、同じくクルマ愛に溢れるゲストを迎え、「ドライブ」だけじゃない「カーライフ」の楽しみ方をお届けする 30分間。「愛車自慢」「車への拘り」「独特のメンテナンス」「DIYでのドレスアップ」など、様々な角度で「カーライフ」の楽しさを発信します。

クルマの運転はしょっちゅうしているものの、「クルマそのもの」へのこだわりをほとんどもたない私としては、この番組、いつも聞くともなしにただ漫然と聞いている。「日曜朝にラジオのスイッチを入れれば聞こえてくるし、30分で終わっちゃうから」という、それだけのことだ。

とはいうものの、聞き始めた頃からずっと妙な違和感が一つだけ拭い去れない。それは "GARAGE HERO's" という番組名である。

これ、文字通りに受け取れば「ガレージ・ヒーロー:車庫の英雄」となる。番組スポンサーである "UP GARAGE" という会社の性格上、そのココロは番組紹介文にもあるように "「ドライブ」だけじゃない「カーライフ」の楽しみ方" ということに大幅に寄っているのだろう。

つまりガレージで自分のクルマをいろいろいじくりまわし、メンテしたりドレスアップしたりするのがこの上なく楽しいって人をメイン・ターゲットにしているようなのだ。これについては、理解できないこともない。

ただ私としては「ガレージ・ヒーロー」と聞くと、語感的にはどうしても "「内弁慶」のクルマ版" みたいな意味に聞こえちゃうんだよね。はなはだ申し訳ないことだけど。

 

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2020年12月27日

110歳まで生きながらえるなんて、まっぴら

東洋経済が "あと 50年で「平均寿命」が 33年も延びる理由" という記事を伝えている。ということは、あと 50年経つと多くの人が 110歳を過ぎても死なないということだ。この見出しを見た瞬間に、「ああ、50年後に生まれなくてよかった!」としみじみ思ってしまった。

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私は生来のせっかちなので、110歳まで生きながらえるなんて、まっぴらだ。今年 11月 21日付の記事で、次のように書いている。

私は最近、「80歳まで生きる了見は毛頭ない。あと 10年も生きれば十分」と言っている。今 68歳だから、つまり「78歳ぐらいであの世に行くのが理想的」ということだ。

そして今月 25日付の記事で書いたように、このブログの毎日更新を始めたのは 2003年の 12月 26日だから、このままつつがなく行けば、3年後の 2023年 12月 25日に、71歳にして「連続 20年毎日更新」の記録を作ることになる。そのくらいなら、まあ、十分現実的だろう。

そしてそこまで行ったら、個人的には十分満足だ。後はもう「オマケの人生」である。

で、問題の 78歳になるのは 2030年なのだが、うまくいけばこの年の 12月 25日に「連続 27年毎日更新」達成で、さらにその翌年の 2031年 5月に「連続 10,000日の毎日更新」となる。この年の誕生日前だから 78歳のうちということで、射程内だ。うむ、これいいね。やってみようかな。

ただ、それ以上は考えるだにうんざりだ。なにしろせっかちなもので。

「連続 10,000日の毎日更新」という記録を作って、数日後にポックリなんていったら、ずいぶんカッコいいよね。「捕らぬ狸のなんとやら」だが。

 

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2020年12月26日

まことにもっておめでたいお話

昨日の夕方、妹から LINE メールが届いた。テキストではなく下のような画像(左側)で、"Merry Christmas" に「今日は、自分の生まれた西暦の年と年齢を足すと、世界中の人が皆、2020になるそうです。今度、こうなるのは 1000年後だそうです」と添えてある。

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一瞬「はて?」と、マジに悩んでしまったよ。もしかして何か別の意味があるんじゃないかと、思わず 3度も読み返したが、読み返すほどに「意味不明瞭な悪文」である。読みようによっては「1000年後に再び、足すと 2020になる」とも受け取れるが、それはあり得ない話だし。

で、つい、こんなようなマジレスをしてしまった。

はて???

自分の生まれた西暦の年と年齢を足してその年の西暦になるのは、毎年のこと。

ただ、1952年 12月 27日生まれの人は、今日の時点でまだ 67歳なので、足しても 2019にしかならない。

するとすぐに、「なんかねぇ、そだよねー」とレスが来た。で、妻に話すと、「私にも同じのが来てるよ」というので、ほのぼのとしてしまった。

これ、たった 1日でかなり広まってしまった現象らしく(参照)、今朝のラジオでも話題になっていた。すごいなあ、世の中には「はて?」と思わない人がかなり多いのだね。

そして還暦をとっくに過ぎた妹までかくもあっけなく信じ込んでしまったのだから、いくつになっても無邪気なもので、まことにおめでたいことである。

 

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2020年12月25日

連続 17年の毎日更新を達成

このブログは 2002年 3月 17日にスタートし、しばらくは「なるべく毎日更新」としていたが、翌年の2003年 12月 26日からは「正真正銘の毎日更新」を続けている。それで毎年クリスマスは当ブログの「連続更新記録」のアニバーサリーと重なり、今年はめでたく「連続 17年毎日更新」となった。

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ちなみにもう一つのブログ「和歌ログ」もこの年、2003年に毎日更新で始めている、コンセプトのまったく異なる 2本のブログを 17年にわたって毎日更新し続けているという点では、私はもしかして日本一かもしれないと思っている。

2003年といえば、内閣総理大臣は小泉純一郎氏だった。この人は印象が強いので「そんなに前だったかなあ?」と思いがちだが、あれから安倍晋三(第一次)、福田康夫、麻生太郎、鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦、安倍晋三(第二次)、菅義偉と、内閣が ⒏代も変わっているのだから、結構な年月である。

いや、別の視点からすれば、たった 17年で内閣総理大臣が 8人ということは、変わりすぎということでもある。安倍さんが 8年半以上首相を務めたのを除けば、残りは平均 1年半もたなかったわけだ。つま安倍さんが長過ぎで、他は短かすぎである。

そしてこの間の大きな出来事と言えば、何と言っても 2011年 3月 11日の東日本大震災にとどめを刺すだろう。この日の更新は朝のうちに済ませていたので、大規模停電の影響は受けずに済み、翌 12日に「とりあえず無事です」と報告している。

上の写真は、2011年 3月 11日付「和歌ログ」の写真である。デスク廻りが、書棚から落ちた本や資料でごちゃごちゃになっている。してみると、電気と通信回線はその日のうちに辛うじて回復していたようだ。この日の和歌は「巨大なる力の前の蟻のごとき我にしあれど祈りこそあれ」というものだ。

そしてこの間、米国ではトランプが大統領となり、日本では安倍晋三が首相となった。私はこの 2人、政治の世界では稀に見る「悪趣味な人」と思っている。

【参考】

このブログのサイドバーにある「ココログ」のロゴの下には、「2004/07/06」というココログへの登録年月日が記されているが、この日以前に私の本宅サイトでずっと更新し続けていたテキストを、遡ってこちらに移行させたという事情がある。

 

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2020年12月24日

「小さなおじさん」の真実

クリスマス・イブだというのに、しょうもない話である。10年前の今日(これまた、クリスマス・イブだというのに)我ながら摩訶不思議な記事を書いた。しかも当時としては珍しく写真入りである。

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"庄内浜では「小さなおじさん」がハタハタ釣りをしている" という記事だ。この写真は我が郷土のちゃんとした地方紙「庄内日報」の記事にフツーに添えられたものだから、決してアヤシいトリック写真などではない。

確かに写真の左下のあたりに、実にさりげなくハタハタ釣りをする小さなおじさんがいる。そして周囲の釣り人も、そのおじさんをまったく気に掛けている様子がない。

小さなおじさんがハタハタ釣りをしているぐらいのことは、あまりにも日常的すぎて、騒ぐほどのことではないのである。「さすが庄内!」というほかない。

これはまさに、私のブログに載った記事の中でも最もファンタスティックなものだと思う。そして 10年の月日をおいて、ここで謎解きをしよう。実は既に GIZMODE に載った(参照)ものではあるが、改めて転載させていただくとこういうことである。

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「なあんだ!」ということになるが、この小さなおじさん、もしかして海釣りが好きなのに水際恐怖症か何かで、岸壁の端まで行けないのだろうか。

ちなみに、「中の人」というちょっとアレ系のニュースサイトには、同じ写真が「秋田県で小人が魚釣りをする貴重な写真が発見される」というタイトルで紹介されている。これ、ちょっとヒドいよね。

「庄内は秋田県じゃねえ、山形県だ!」と、声を大にして言わなければならない。

 

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2020年12月23日

暇というのは、体と頭にあまりよくない

12月に入ってから、さすがに年内に済ませておかなければならない仕事や年賀状などで結構忙しい日々になってはいるものの、今年はざっとみても「暇」という一文字で表される日が結構あった。ご多分に漏れず「コロナのせい」である。

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暇すぎたわけでは決してないが、仕事に追いまくられるということはさらになかった。これまで忙しい時は「一日中ボケーッとしていたい」なんて思うこともあったが、実際にそんな日が 2〜3日続いたりすると、「これはあんまりいいことではないな」と実感してしまった。

同じような仕事でも、その場に出向いて実際に関係者と膝をつき合わせて話をするのと、Zoom なんかで話を済ませるのとでは、所要時間が全然違ってしまう。博多とかまで出かけたら、朝に出かけて帰宅するのは翌々日の夕方なんてことになる。それが Zoom だと 2時間足らずで済んでしまうのだ。

当初は「なんて便利で楽なんだ!」と歓迎したが、毎回ネットで済ませるというのは考え物で、直接現場に出向いて時空を共有するのと比べると、やはり結果は薄味になる。薄味になるぐらいならまだましだが、肝心のことに気付かず、見落としていたりすることもある。

実感として Zoom での話し合いが終わり、「それじゃあ、後はよろしく」なんて言って回線を切る段になると、何となく「何か足りないんじゃないか」なんて漠然とした不安を感じることがある。この不安というのは、案外本質的なところから出ているみたいなのだ。

そんなわけでネットを使い短時間で効率的に済ませるだけでは不十分で、たまには手間をかけて「一見余計な煩雑さ」も取り込むのが、結果的には決して「余計なこと」ではないとわかる。効率的に済ませすぎると、後になって手直しが必要になることが多いから、注意が必要だ。

それに加え、時間が余ってのんびりすることに慣れてしまうと、人生を送る上での「意欲」に問題が生じる。簡単に言えば、新しいことに取り組むのが億劫になってしまうのだ。仕事に追いまくられていさえすれば、いつの間にかさっさとこなしてしまうのだが、暇だとどうしても腰が重くなる。

必要な仕事に取りかかるまでに、どうもグズグズしてしまいがちなのだね。定年退職した友人たちに聞くと、「年を取れば誰でもそんなもんさ」と言われるが、年齢に「暇」が重なると「ジジくささ」が増幅されてしまう気がする。ある程度忙しい方が、若々しい気分でいられるのは確実だ。

というわけで、柄にもなく「暇というのは、体と頭にあまりよくない」と思っている今日この頃である。

 

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2020年12月22日

皆さん、豊田社長の英語にそんなに興味があるのかなあ?

最近どういうわけか、10年以上も前に書いた「TOYOTA、豊田章男社長の英語」という記事へのアクセスがやたらと多い。下の画像の右下の「人気記事ランキング」というのは、当ブログの右側のサイドバーの下の方に表示されているが、昨日までずっと「1位」にランクされっぱなしだった。

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これが先月あたりからかなり長期間にわたっての現象なので、当人としては頭の中に「?」マークが点きっぱなしになっている。「皆さん、豊田社長の英語にそんなに興味があるのかなあ?」と、不思議に思うばかりだ。

試しに「豊田社長 英語」という 2ワードでググってみると、昨日の 午後 ⒏時現在で、なんと上から 3番目に私の記事が表示されているじゃないか(参照)。これもまたびっくりである。そんなに重要な意味を込めて書いた記事でもないのにね。

2012222この記事は元々、ネット上の知り合いで大学の先輩でもある Alex さんのブログ 「【不眠症カフェ】Insomnia Cafe」の 2010年 2月 25日付「TOYOTA社長の英語」という記事の尻馬に乗るみたいな形で書いたものだ。Alex さん、豊田社長の英語力のレベルの低さに、かなり率直に反応されている。

発端がそんなことなので、私としても決して悪意があったわけじゃないが、以下のような感じで、それなりに率直に反応したわけだ。

豊田社長は高校時代と慶応大学卒業後の 2度に渡る米国留学経験をもち、マサチューセッツ州のバブソン大学で MBA まで取得しているはずなのに、何だかなあという感じである。

ところが、上述の Google 検索結果で上位にランクされている 2つの記事は「なぜトヨタ社長スピーチはアメリカで絶賛されたのか。日本人に足りないものがそこにはあった」とか、「トヨタ社長の英語スピーチから学べることは?あふれるユーモアさの秘密!? 」とか、かなり高評価なのだよね。

というわけでこれもまたまた、びっくりなのである。なんでまたこんなにも評価が分かれたのかを、考えてみなければならなくなってしまったじゃないか。

で、しばらく考えてみた結果なのだが、豊田社長の英語スピーチというのはどうやら、事前によく練ったものだとなかなかの内容のようなのだ。ところが私の上述の記事にあるように、記者会見の質疑応答など、その場での原稿なしのやり取りになってしまうと、ちょっと苦しいみたいなのである。

要するに事前に用意したスピーチのコンテンツ(内容)と、咄嗟に口をついて出る英語そのものでは論じる視点が違うので、その評価も違って当然ということになるようなのだね。

まあ、これはネイティブ・スピーカーならぬ日本人のことなので、しょうがないよねと大目に見てもいいような気はする。記者会見ではかなりアセっちゃったのかもしれないしね。

ところであれから 10年経ったので、この人、今でも社長のままなのかなあと思い、Wikipedia で調べてみたら、なんと正式には「トヨタ自動車株式会社代表取締役執行役員社長兼CEO兼CBO」という面倒くさい肩書きなんだそうだ(参照)。

ちなみに "CBO" というのは "Chief Branding Officer" のことらしい。具体的に何をするのかよくわからないけど。

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2020年12月21日

「コーヒー、紙コップ、マイクロプラスチック」の三題噺

紙コップでコーヒーを 1杯飲むと 2万5000個のマイクロプラスチックを摂取することになる」という Gigazine の記事を読んで、ひるんでしまった。あれってやっぱり、プラスチック・コーティングを施していたのか。

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スタバでコーヒーを注文すると、「マグカップにしますか? 紙コップにしますか?」なんて聞かれることがあるが、私はいつも当然の如く「マグカップで」と答える。マグカップの方がずっとおいしいく飲めるのに、よりによって紙コップなんて選択肢を提供するのは、一体何の酔狂なんだ?

私が最近家で使っているのはガラス製だが、スタバのマグカップは陶器製である。この 2つの材質は、飲み比べてもおいしさはそれほど変わらない。しかし紙コップで熱い飲み物を飲むと、立ちのぼる紙臭さが気になってしまう。これは、自称「コーヒーブロガー」のヒロさんも同意見のようだ(参照)。

それに使い捨ての紙コップなんて使ったら、資源の無駄遣いになるから夢見が悪い。同じコーヒーを飲むなら、おいしく、そして気分よく飲みたいと思うのが当然というものだろう。

さらに今回の Gigazine の記事でこんなことを知ってしまったのが、ダメ押しになった。要するにマグカップの方が、おいしく、そして気分よく、さらにからだにも優しくコーヒーが飲めるということだ。

コーヒーの中にマイクロプラスチックが溶け込むというのは、とくに熱い飲み物で顕著なことらしい。今回の実験を行ったインド工科大学カラブクル校の Sudha Goel 准教授によると、次のようなメカニズムだという。

「コーヒーやお茶を飲むのにかかる 15分間でカップのプラスチック層が劣化し、2万5000個のミクロンサイズの粒子となって飲料中に放出されます。つまり、紙コップ入りの温かい飲み物を毎日 3杯飲む人は、肉眼では見えないマイクロプラスチックの粒子を 1日に 7万5000個摂取することになります」

私は紙コップなんてほとんど使わないし、たまに使うにしても「冷たい飲み物専用」という認識だった。内心では「これって、時代遅れ扱いされちゃうかなあ」なんて思っていたが、この事実を知ったからには、今後は自信をもって「熱い飲み物に紙コップは合わない」と主張しようと思う。

 

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2020年12月20日

最近、やけに地震が多い

近頃やけに地震が多いような気がしているのは、わたしだけではないだろう。一昨日のウィザーニュースの動画も「緊急地震速報が頻発」と伝えている。

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私は iPhone に ”PREP" というという防災アプリを入れている。この 8月以前は「ゆれくるコール」と言われていたもので、どこかで地震が発生すると、自分のいる場所に「何秒後に到達する」みたいな緊急コーションを発してくれるのだ。

私の場合は iPhone がコーションを受け取ると、手首の Apple Watch がバイブレーションで知らせてくれる。そして時計の画面を見ると、「最大震度 * の地震が *秒後に到達」みたいな表示が確認されるというわけだ。

ところが最近ではこのコーションが多すぎてうるさいほどなのだ。しかも 「和歌山沖で発生した震度 1 の地震が 58秒後に到達」みたいなのが連続 3〜4回入って来たりするので、「その程度のことは、知らせてくれなくていいよ!」と言いたくなってしまう。

とはいえ、1964年の新潟地震、2011年の東日本大震災をモロに経験した身(参照 1参照 2)としては、このアプリをすっかり削除してしまう気にもなれず、複雑な思いを抱いている。やはり、地震は恐ろしいからね。

先月ぐらいまでは、頻発する地震の震源地が茨城沖という場合が多かったが、最近は伊豆諸島付近というのが多いように思われる。この辺で巨大地震が起きたら、首都東京は大打撃を受けるだろう。

いずれにしても用心するに越したことはない。地震国日本に住んでいる限りは、地震から逃れるわけにいかないのだから。

 

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2020年12月19日

「コロナ禍での大学中退・休学」って数字の問題

HATENA BLOG の "木村幹氏が「コロナ禍での大学中退」記事について批判" という記事が話題だ。

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事実関係だけを見ると、文科省は「新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受け、10月までに大学・大学院を中退したり休学したりした学生が少なくとも 5238人いる」と発表。しかし同時に、全体の中退・休学者は昨年比で減ったことも明らかになっている。

新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受け、10月までに大学・大学院を退学したり休学したりした学生が少なくとも計5238人いる

 

 

 

 


 

 

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 新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受け、10月までに大学・大学院を退学したり休学したりした学生が少なくとも計5238人いる

この事実を朝日新聞は「コロナ禍で休退学5千人超 大学生・院生、文科省が調査」という見出しで報道したわけだ(最下段に魚拓あり)。これについて木村氏は、(全体としては)「減ってるやん」と指摘。「コロナ禍で大学中退が増えたはず」という予断的な「偏向報道」と批判している。

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これ、ちょっとビミョーな問題といえる。全体の中退・休学者は減っているのに、根拠もあやふやな「5238人」という数字を大袈裟にに取り上げるのは問題という指摘は、一見すればもっともなことだ。

しかし一方で、前年まではほとんど「ゼロ」だったはずの数字が急に 5000人超になったというのは、それなりに問題にされてしかるべきというのも、あながち無茶苦茶というわけではない。しかも朝日は「全体としての減少」を無視したわけではなく、記事中でちゃんと触れている。

つまり朝日の記事は文脈上、とりあえず全体の数字と「コロナ禍の影響による数字」を分けて考えているわけだ。

木村氏はセンセーショナルなスタイルで批判しているわけだが、じっくり読んでみれば当然にも「それとこれとは話が違う」と言われるのが大きな弱みである。こればかりは否定できない。

「偏向的な裏の意図が見え透いた報道」というのは、まあ、確かに朝日に関してはよくある話だが、残念なことにこの記事の場合に限って言えば、当初期待したほどの噛みつき甲斐がないのだよね。

というわけで、これについてあまり尻馬に乗らないでおこうと思った次第である。

(下は、朝日新聞の記事の魚拓。クリックで拡大表示される)

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2020年12月18日

「選択的夫婦別姓」は、はっきり「賛成」と言っておく

世の中は「新型コロナウイルスによる感染症」と「選択的夫婦別姓」の問題でもちきりだ。後者の方に関しては近頃ちっとも書いていないので、また少しは書いておかなければならないだろうと思い始めたところである。

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「選択的夫婦別姓」に関して私が最初に触れたのは、10年ほど前の "「夫婦別姓」には消極的反対の私" (2010/9/15 付)という記事だった。強硬な保守派みたいに「絶対ダメ」と言っていたわけじゃなく、リンク先に飛んでみてもらえばわかるように、こんなふうにおずおずと反対していた。

個人的にはどうでもいいが、社会全体への影響という視点で、夫婦別姓によって生じたきしみの妙なとばっちりを浴びるのはまっぴらご免なので、「消極的反対」の立場を取っている。

10年以上前の世の中は今よりちょっとウェットなところがあったので、個人的にも家族問題の悩みでいろいろ相談されることがあった。そんな経験から、苗字の違いなんてことで悩んじゃう子どもの問題なんかに巻き込まれるのは嫌だなあと思っていたのである。これは当時の実感だった。

ところがこの頃から、世の中の空気が目に見えて変わってきた。この記事を書いてしばらく後に結構ドライな雰囲気になったのを感じたため、"夫婦別姓でもいいじゃないか" (2015年 12月 7日付)なんてことで、次のように述べている。

私はこの問題についてかなりグズグズな態度を取っていて、5年前には「消極的反対」という立場だったが、3年近く前に「消極的容認」ということにチェンジした。

こんなように結構日和見な態度を見せてきたわけなのだが、一貫した前提としては「夫婦別姓でも個人的には全然構わないんだけどね」というのがある。要するに根っこの部分は「同姓でも別姓でもどちらでも OK」ってことで、よく考えれば「選択的夫婦別姓」の主張と根本的には違わない。

で、さらにこの 5年間の間に「選択的夫婦別姓を望む人がこれだけ増えたのなら、きちんと法的に認めればいいじゃん」と思うようになった。「消極的容認」だったのが、「積極的賛成」に近くなってきている。

そんなわけで 2年前には "「夫婦別姓」は、保守派にもメリットがあるだろうに " という記事まで書いている。この記事は、保守派の言うように「親子で姓が違っていては、家族の一体感が損なわれる」という主張が、実はかなりテキトーなものであるというお話だ。

公的にきちんと認めてしまえば、それで悩む子供は逆に減るだろう。曖昧にしておこうとするから、よくないのだ。

というわけで「選択的夫婦別姓」の問題に関しては、「tak-shonai は、10年前はちょっとビビり気味だったけど、今は積極的賛成」と受け取っていただいて OK と、明確に表明しておく次第である。

ちなみにこの問題の関連で、安倍晋三という人の本音が「お妾さん積極肯定」で、「本妻ならつべこべ言わずに、夫の姓を名乗れることを幸せに思え」ぐらいの意識なのだろうということが、昨年夏の段階ではっきりわかった。問題はこんなような発言である。

安倍首相が参院選の応援演説で「お父さんも恋人を誘って...... お母さんも昔の恋人を探し出して、投票箱に足を運んでいただくよう......」と発言した

これについては ”お父さんの恋人は現在進行形、お母さんの恋人は過去形” (2019/7/18 付)という記事で書いているので、ぜひ読んでいただきたい。時の首相としての、この愚かしすぎる発言には、1年以上経った今でも腹が立つ。欧米だったら辞任ものだ。

 

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2020年12月17日

唱歌『たきび』と、マンガ

やたら忙しくてまともなネタの仕込みができなかったので、今日はある意味「小ネタ」であることをお断りしておく。先日、ラジオで久しぶりに聞いた『たきび』という歌についてである。

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この歌は、巽聖歌 作詞、渡辺茂 作曲の唱歌で、日本人にはかなり古くから親しまれており、Wikipedia で調べてみると、こんな具合になっている。

1941年(昭和16年)に、NHKのラジオ番組「幼児の時間」の番組案内のテキストである『ラジオ小国民』で詞が発表され、同年の12月に「幼児の時間」の放送内で楽曲が発表された。(中略)2007年(平成19年)には日本の歌百選に選出された。

戦前から歌われているというだけではなく、「日本の歌百選」にも選出されているというのだから、半端な曲ではない。大したものである。

ただ、私はこの歌を聞いていると赤塚不二夫大先生のマンガ『もーれつア太郎』を思い出して、心ここにあらず状態になってしまうのだ。もちろん「あたろうか、あたろうよ」という歌詞のせいなのだが、由緒ある歌に対して、はなはだ申し訳ないことである。

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このマンガは『おそ松くん』『天才バカボン』と並ぶ赤塚 3大ヒット作の一つで、登場人物は主人公のア太郎のほか、デコッ八、やたらピストルをぶちかましたがる目玉のおまわりさん、ニャロメ、ココロのボスなど。『おそ松くん』のイヤミ、デカパンなどと並び称されるレベルの個性豊かな面々だ。

連載されたのは『週刊少年サンデー』(小学館)の 1967年 48号から 1970年 27号まで。その前まで連載されていた『おそ松くん』を引き継ぐ形で、私の中学 3年から 高校 2年までの 3年間を彩ってくれたことになる。

高校 3年生の頃には既に終了していたはずなのだが、その印象があまりにも強烈で単行本も発行されていたためか、大学に入ってからまでほぼ現在進行形のような形で話題になっていた。

というわけで「たきび」の歌で『モーレツア太郎』が思い浮かぶようになったのは中学 3年以後のことのはずなのだが、私の印象としてはもっとずっと前の子供の頃からのような気がしている。

日本人が「大学生になってもまんがを読む」と揶揄されるようになったのは、私の年代がいつまで経っても『おそ松くん」や「モーレツア太郎』から離れられなかったせいなのかもしれない。それほど赤塚不二夫大先生の影響力は大きかった。

 

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2020年12月16日

「島とうがらし」(コーレーグース)の注意点

最近、沖縄の大城海産物加工所の製造する「島とうがらし」(コーレーグース)を愛用している。ラベルの「名称」という欄に「泡盛漬けとうがらし」とあるように、沖縄特産の「島とうがらし」というものを沖縄の酒、泡盛に漬けたものだ。これをほんの少し垂らすだけで、何でもチョー辛口になる。

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辛いもの好きの私にとって、京都の「舞妓はんひぃ〜ひぃ〜」と沖縄の「コーレーグース」は必需品である。この 2つの香辛料については、今年 10月 18日付で書いているので、ご覧いただきたい。そしてとくに「コーレーグース」は、過去ログを検索してみると 10年以上前から愛用している(参照)。

このコーレーグースでありがたいのは、どんどん使って瓶の中の量が少なくなってしまったら、泡盛を注ぎ足せばいいということだ。中の実がふやけて色が薄くなってしまう頃まで、結構長く使える。注ぎ足すのは焼酎でもいいとは書いてあるが、ここはやっぱり泡盛でなきゃね。

ところがこの点で、気をつけなければならないことがある。それは、どんどん泡盛を注ぎ足して使っているうちに瓶の中の島とうがらしの辛み成分が薄くなってしまうことだ。

買ったばかりの時にはほんの少し垂らすだけで十分に辛くなるのだが、何度も泡盛を注ぎ足したものだと、かなりジョバジョバかけないと、満足するほどの辛みにならない。私はチョー辛口好みだから、へたすると瓶の半分近くの量をかけてしまうこともある。

そうなると何しろ瓶の中の液体はアルコール度数 25度の泡盛だから、少々お酒を飲んだのと同じことになる。夕食なら OK だが、これから仕事という朝にこれをやってしまうと「ありゃ? ちょっといい気分かも・・・」みたいなことになってしまうのだ。

当然ながら、クルマを運転する前には御法度だ。

というわけで買ったばかりのコーレーグースならほんの少量で済むから OK だが、何度も泡盛を注ぎ足してしまったものは、夕食専用にする方が無難だ。朝と昼は、「舞妓はんひぃ〜ひぃ〜」の出番である。

これが泡盛を注ぎ足しながら「コーレーグース」を使う際の注意点で、よくよく気をつけなければならない。

 

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2020年12月15日

最近の MacBook のアップル・ロゴが光らないのは

私が最初に買った MacBook Pro はご覧の通り、ディスプレイを開くと背面のアップル・ロゴが光っていた。今月 11日の記事で書いたように、2012年以後のモデルなので、開いた状態でのロゴは逆さまになっていはいない。

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ところが最近使っている MacBook Air は、アップル・ロゴが光らない仕様になっている。ご覧のように鏡面仕上げの金属になっていて、外からの光を反射するだけだ。これだとバッテリーの電力を無駄に消費しないのだろうが、Apple ファンにとってはちょっと物足りないという声も根強い。

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ところで ushigyu.net というブログにおもしろい記事を見つけた。届いたばかりの MacBook Air 13 を開けたところ、「薄いので、裏側のAppleロゴが透けて見えてます」というのである(参照)。こんな具合だ。URL から判断すると 2012年 6月の記事らしい。

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ただ、これだとビミョーすぎるのでもう少し検索してみたところ、「ハヤクユケ」というブログでは、裏から強い光で照らして撮影している。するとこんな具合に、透けがはっきりとわかるではないか(参照)。

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もしかしたら Apple は、この現象をなくすためにアップル・ロゴを光らない仕様にしたのかもしれないなんて、チラリと思ってしまった。しかしそもそもの話として、MacBook の起動とともに画面表示がスタートしてしまったら、背面のロゴが透けるなんてことは全然気にならないじゃないか。

いろいろ考えていたところ、自宅以外の場所で MacBook を広げるにはちょっとした勇気が必要だったことを思い出した。何しろ "スタバで MacBook を広げて仕事する「意識高い系」は見栄の塊か" (今年 1月 14日付 Livedoor News)なんて記事があるほどである。

前世紀末頃までは、コーヒーショップで Windows のラップットップを広げるだけで周囲の視線が気になったものだが、今世紀になっても MacBook に限ってはまだ似たような視線を感じてしまうことがあるのだよね。「自意識過剰」と言われればそれまでだが。

その意味で外で MacBook を開いてもロゴが光らないおかげで目立たずに済むというのは、気休め程度のリラックス効果があるような気がする。

というわけで、アップルロゴが光らないデザインへの変更にバッテリー節電以外の意味があるとしたら、「スタバで仕事しやすくするための配慮」としか考えられない。今日のところは、Apple の重視する「ユーザーフレンドリー」なデザインの一環と無理矢理に解釈しておこう。

 

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2020年12月14日

ドルが「$」で、円が「¥」であることについて

世界には「通貨記号」というものがあり、これで言うとドルは「D」とかじゃなく「$」で、円も「E」なんかじゃなく「¥」ということになっている。のみならず英国のポンドも「£」と書く。どうみても単純な話じゃない。

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なんでそんなことになるのか、若い頃に調べたことがあった気がするが、ほとんど忘れてしまっていた。最近になった改めて調べたところ、ドルに関しては上の図のような話だったと思い出した(参照)。新大陸を発見したスペインがそこから豊富に流入する銀を用いて大量の銀貨を作ったのが発端だという。

スペインのペソ銀貨が世界中で流通した後、アメリカでも新たに通貨を作ります。これがドルで、名前はスペインのペソ銀貨(通称、スペイン・ドル)から取って、「ドル」と命名されました。

そんなわけで、ドルもペソも通貨記号として「$」を使うということになった。ペソも「$」だということは今では案外知られていないが、元々はこちらの方が本家本元だったのだね。ちなみにメキシコ・ペソは隣がドルの大国だけに、区別する意味で「M$」と表示されることが多いらしい。

そして円が「¥」であることに関しては、上述のページで次のように説明されている。

さらに、中国や日本の「元」や「円」といった通貨は、ペソ銀貨の丸い形から自国の通貨名に「丸い形」を意味する「元」や「円」といった名前を付けた、とのこと。

いやはや、ペソは新大陸だけでなく中国や日本の通貨単位の呼称にまで影響を与えていたというわけだ。往時のスペインは、それほどの大国として世界に君臨していたのである。

ただ、「円」が「E」ではなく「¥」になったことの理由は諸説あって定かではない。日銀のサイトには 3つの説が紹介されている(参照)。

ちなみに若い頃は、「円」は旧仮名で「ゑん」だから "yen" ということにしたんだろうなんて、軽い気持ちで思い込んでいた。しかしよく考えてみれば「ゑ」は「ヤ行」ではなく「ワ行」の文字だから、強いて英文字表記するとしたら "wen" になってしまう。アブナい、アブナい。

さらに英国のポンドが「£」であることについては、次のように説明されている(参照)。

欧米で使われる重さの単位「ポンド」(英語読みは「パウンド」)ですが、表記は lb となります。これは、古代メソポタミアでは穀物の重さで単位を決めていましたが、ラテン語ではそれを量る秤を「Libra(リブラ)」、重さのことを「Pounds」と言ったのが、英語になったときにごちゃまぜになったからのようです。

のみならずイタリアのリラもそっくりの「₤」となっているのは、これが理由らしい。単に "lira" の頭文字だからってことじゃないようなのだ。

いやはや、通貨記号というのはなかなか一筋縄ではいかないものである。げに世の中でゼニ金の話ほど面倒なものはない。

 

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2020年12月13日

ようやくシートクッションを新品に替えた

12月 6日付の「シート・クッションがすっかりへたってしまって・・・」という記事を書いてから、替わりの品を買いに行く暇がなかなかできなかったが、今日、ようやく隣町の大型ホームセンターに行って新品を購入した。締めて 1,980円なり。

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8日付の「高級(?)低反発シートクッションのお話」で触れた 13,200円の「高級シート・クッション」と比べれば、6分の 1以下の値段だが、椅子に乗せて座ってみると十分に快適だ。腰を下ろすとゆっくり沈み込みながら、最終段階でもまだ十分に弾力がある。

低反発クッションはこうでなきゃね。十分満足である。

ちなみに、これを買う前にその近くのニトリにも寄ってみたのだが、ソファや座布団用のクッションばかりで、いわゆるオフィス・チェア用のものは見当たらなかった。ふぅむ、やはりここはホーム用というか、デイリー・ライフ用の品物の店なのだね。

そのくせ「ホームセンター」と呼ばれるところでオフィス用のものが見つかるのだから、「名は体を表す」というわけでもない。日本の小売市場というのは、このあたりがなかなかビミョーなものである。

いずれにしても今回買ったクッションで、死ぬまでもつかどうかわからない。これまで使っていたクッションも 10年足らずぐらいでヘタったのだから、よほどジジイになってからもう一度買い換えることになるかもしれない。

13,200円の「高級品」だったら、もしかしたら一生モノだったかもしれないが、仮にそうだとしても 6倍の値段で買おうという気には、やっぱりならないよねというのが、今回の妥当で平凡な結論である。

 

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2020年12月12日

「芸者」という名のコーヒー?

昨日、久しぶりでスタバに立ち寄ってコーヒーを飲みながらふと壁を見ると、こんなのが書かれていた。「パナマ・ゲイシャ・オーロマー」? (あるいは「アウロマ−ル」?)・・・ パナマにコーヒー好きの芸者がいるってこと?

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こういうことはすぐに調べてみないと気が済まない性分なので iPhone を取り出し検索してみると、「ゲイシャ」という超高級品種のコーヒーがあるとわかった(参照)。「芸者ガール」とは全然無関係で、原産地の地名が由来であるらしい。

私は自分では曲がりなりにも「コーヒー好き」と思っていたが、実はこんなことも知らない程度の中途半端だったのだね。これからはせいぜい「自分はコーヒー好きの端くれ中の端くれ」と位置付けておくことにしよう。

上述のサイトで知ったのは、コーヒーのランクというものだ。「一般に飲まれるコーヒー(コモディティ)と上質なコーヒー(プレミアム)」の上に「スペシャルティ・コーヒー」なるランクがあるという。

これは「豆の栽培から始まり、選別、焙煎、抽出にいたるすべての段階でしっかりと品質が管理され、消費者のもとに届けられる」ものというのである。いやはや、恐れ入った。

私はいつもは PC に向かって仕事しながらちびちび啜ってるだけなので、「コモディティ・コーヒー」で十分だが、時々は専門店で「プレミアム・コーヒー」なるものを飲んだりもする。ただそれだけでは、いつまでも「端くれ中の端くれ」を脱することはできないのだろう。

そのうち機会があったら、この「ゲイシャ・コーヒー」を試してみようと思った次第である。いくら何でも本当の「芸者遊び」ほどの散財じゃなさそうだから。

ちなみに今年 2月、京都に 「MAIKO STAND COFFEE KYOTO(舞妓珈琲)」なる店がオープンしたらしい。これはついでに出来心で検索して知った情報なので、「単にそういうこと」というだけのお話。

 

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2020年12月11日

アップル・ロゴが逆さまだったなんて

"Top 33 Unknown, Hidden, Secret Facts about Apple and Steve Jobs" (Apple と スティーブ・ジョブズについて 33の知られざる隠された事実)というサイトがあり、その 28番目は「昔のアップル・ノートブックはロゴが逆さまだった」というものだ。

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上の写真の左側は、アメリカの連続テレビドラマ "Sex and The City" (1998〜2004 に放映)に出てくる MacBook。確かに開いたラップトップのロゴが逆さまだ。これが右の写真のように逆さまでなく配置されるようになったのは、どうやら 2012年以後のことらしい。

私が Windows から Mac に乗り換えたのは 2014年 1月のことだから、そんなことは全然知らなかった。自分がまだまだ駆け出しの Mac ユーザーでしかないと痛感した。

元々写真の左側のような逆さまデザインだったのは、決して「うっかりミス」だったわけじゃない。むしろ「ユーザー・フレンドリーにするために綿密に検討しての結果だった」と書かれている。

スティープ・ジョブズ自身も、閉じている時に自分から見て逆さまでないのが自然で、それこそが「ユーザーフレンドリーなデザイン」と考えていたからようだ。開いた時に逆さまでないデザインだと、閉じた状態では自分から見て逆さまだから、慣れないとつい逆サイドから開けようとしてしまう。

このデザイン変更の経緯について、当時 Apple でマーケティングを担当していたジョー・モレノが述懐している。

最終的に今のデザインになったのは、スティーブ・ジョブズが、「ラップトップを逆サイドから開けようとしてしまい、自分がそれを直す。これは数秒のことだ。しかし、開いた時の逆さまロゴ、これは永遠に残ってしまう 」と気付いたことが大きいという(参照)。

なるほど「永遠に残ってしまう」のは、上の写真が雄弁に物語っている。スティーブ・ジョブズはそのことに耐えきれなくなったのだろうね。

ただ、Apple ロゴが特別ってことでは決してない。というのは、私が Mac に乗り換える前に使っていた Panasonic の Let's Note だって、開いた状態ではこんな具合だからだ。

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ただ、このロゴが閉じた状態で逆さまに見えていたいうことについては、使っていた当時は全然意識していなかった。改めて確認してみて初めて気がついたほどである。文字だけのデザインだと、そんなものなのだね。

Apple のロゴというのはそれほどまでに圧倒的で、印象に残るデザインということなのだろう。

 

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2020年12月10日

餅の世界の広がり

HUFFPOST に "餅をオリーブオイルで食べてみた。意外な「お餅の食べ方」紹介します。柚子胡椒とポン酢もうまい" なんていう記事があったので「世の中の多様性というのはすごい!」と、感動してしまったよ。餅とオリーブオイルのコンビネーションなんて、これまで発想したこともなかったからね。

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餅の食い方に関して、私はこれまでずいぶん保守的だったようで、雑煮、醤油餅、納豆餅、きなこ餅以外の食い方はしたことがない。その意味で、心ならずも「餅の可能性」を狭めながら生きてきてしまったようだ。

考えてみれば餅というのは、米のエッセンスを凝縮したみたいなものだから、何にだって合うはずなのである。ひょっとしたら超辛口の「インドカレー雑煮」なんていうのもあっていいだろう。来たる正月は、何はともあれ「オリーブオイルで和えた餅」というのを食べてみようと思う。

ちなみにこの記事の終盤では「丸餅派?角餅派?論争」というくだりがある。"農林水産省の公式サイトによると、雑煮に使う餅の形は、「関ケ原より東の都道県は角餅、西の府県は丸餅が一般的」だそうです" とあるが、実際にはそう単純なものではなく、ちゃんとリンク先に飛んでみると次の記述がある。

例外として、東側でも、北前船が運んできた京都文化の影響が強い山形県庄内地方と、つきたての餅を年間60日以上食べる習慣のある岩手県一関市は、丸餅が主流です。

確かに私にとっての餅のベースは「丸餅」以外の何ものでもなく、その意味では掛け値なしの「上方派」である。

子どもの頃は師走になると親戚の家で何軒分もの大量の餅つきをしていて、つき上がった餅を子供たちが総出で丸めていた。餅を丸くするのは単に掌で丸めるのではなく、周囲を引っ張って中心に押し込みながら丸くするのである。ただそれが面倒になると、手抜きをして単純に丸めていたものだが。

だから上京して「角餅」というものに初めて接した時は、「異文化そのもの」という印象だったのを覚えている。意識の中で「餅」と「丸い形」というのは不可分に結びついていたので、「餅ではない何か」を食べさせられるような気がしたものだ。

しかし丸かろうが角だろうが、口に入れてしまえば餅に変わりがない。それと同様に、マヨネーズで食おうがオリーブオイルで食おうが、はたまたインドカレーで食おうが、餅は本質的にしっかりと餅であり続けるのだろう。

うむ、いろいろな食い方をして世界を広げてみるのも悪くなさそうだ。

 

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2020年12月 9日

打球音による『ジングルベル』が素晴らしい!

YouTube で「【打球音】バットで奏でるジングルベル」という動画がエラい話題だ。下の画像をクリックしてリンク先をご覧いただきたい。打球音という素材が、ちゃんと『ジングルベル』のメロディに聞こえるように並べられている。

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私は「こりゃすごい!」と、単純に感動してしまったよ。ちなみに奏でられた『ジングルベル』のキーは A (イ長調)で、音階は下の「ミ」から上の「ファ」まで、下の「ファ」と「ソ」を除く 7音。エビデンスとしてざっと採譜した楽譜を下に置いておく。

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こんなにまでファンタスティックなことをを発想して、しかも本当にやってしまったというのが素晴らしい。のみならず楽譜を見ての通り、最初の出だしが弱起(4拍の前に 1拍ある)だったりして芸が細かいというのも、しっかりと評価しなければならないだろう。

既に述べたように使われている音は 7音だけだから、7種類の音を集めて組み合わせればいい。しかし数多く録音された打球音の中からきちんと(あるいはビミョーに)音階に合う音をチョイスするのは大変な作業だったろう。

それにしても、打球音のバリエーションというのは結構なものだ。使われるボールの基準は一定のはずだから、その日の湿度やバットの違いなどの要素で、このように 1オクターブと 1音という広い範囲の音が出るのだから、ある意味驚きである。

あるいは勘ぐりすぎかもしれないが、これは A というキーで作り込むしか音の選択がなかったのかもしれない。「ド」がシャープの音しか見つからなくて、G のキーでは作り込めず、D(ニ長調)では低すぎたりしてね。もしそうした制約の中で完成させたのだとしたら、それはそれでまたスゴいことだ。

そして YouTube ページのコメントにもあるが、今シーズンはコロナ禍のせいで観客数を制限しての試合が多かったから、かくもきれいな反響で録音されたのだろう。ということは毎年できるものじゃないから、なかなか貴重な記録である。いずれにしても、日本ハムファイターズには心からの拍手を送りたい。

蛇足ながら、こうしたビデオで感動して採譜までしてしまうというのだから、私もよほどのもの好きというほかないね。

 

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2020年12月 8日

高級(?)低反発シートクッションのお話

一昨日付けで「シート・クッションがすっかりへたってしまって・・・」という記事を写真入りで書いたところ、世の中とは恐ろしいもので、私の登録しているインターネット・ページに突然、シート・クッションの類いの広告がいろいろ表示されるようになってしまった。

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上の写真は私が「はてな」に登録している「知の海アンテナ」というページだが、クッションやらピローやらスリープウェアやらが、ひっきりなしに表示される。どうやら TEMPUR というメーカーの広告らしい。

この現象が現れたのは、一昨日の記事中でこのメーカーの商品紹介ページへのリンクをはってしまったのが、そもそもの発端らしい。この書き方のせいで TEMPUR というメーカーに「tak-shonai というヤツはウチのシンパらしい」と思わせてしまったようなのだが、そりゃ誤解というものだ。

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そのままテキストでコピーして蒸し返したりしたら、誤解がさらに深まって宣伝攻勢がますますしつこくなるのがコワいので、差し障りのないように画像で貼っておく。それにしても TEMPER さん、よくまあネットの世界を丹念にチェックしているものだ。

ただ、この TEMPUR のシートクッション、恐縮だが私としては買おうという気にはなれないのだよね。何しろ値段をみると 13,200円もするようなので。

ニトリだと低反発シートクッションがほとんど 2,000円以下で買えるし、1,000円以下というのもある(参照)。Amazon でそれらしいのを検索しても 4,000円以下がほとんどだ(参照)。ただ、Amazon のサイトを見ると、近頃はお尻の形に成形されているのが多いのだね。知らなかった。

(こんな書き方をすると、今度はニトリと Amazon のシートクッションの宣伝攻勢が強まるのではないかと、ちょっと心配になってしまうが、まあ、成り行きをみてみよう)

それにしてもクッション商品の差別化要因なんて、デザインのほかには低反発クッション素材の選択ぐらいしか考えられないが、この素材、モノによってそれほど性能が違っちゃうのかなあ。このあたりは門外漢なのでよくわからない。

13,200円もするシートクッションといったら一体どんな座り心地なのか、気にならないわけじゃないので、どなたか試しに購入して、その天国の如き使用感(?)をレポートしていただきたいものである。

【12月 17日 追記】

追記しそびれてしまっていたが、12月 13日付で「ようやくシートクッションを新品に替えた」という記事を書いている。新品の値段は 1,980円なり。

 

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2020年12月 7日

インスタント・コーヒーをおいしく淹れる達人がいる?

最近、個人的なコーヒー豆の消費が増えている。一昨年 5月の「コーヒーは粉じゃなく豆で買うに限る」という記事を書いた頃は近所ではコーヒー豆が買えなかったが、最近はさすがに手軽に入手可能になったのでありがたい。

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この春先からコロナ禍による「ステイホーム」で、昨日も書いたように PC の前でデスクワークする時間がやたらと増えている。で、そのデスクワークの間に飲むコーヒーも増えているのだ。(ちなみに妻はモーニング・コーヒー 1杯以後は紅茶党なので、私とは別口)

よく仕事で外出していた頃は出先でコーヒーを出されることが多かったので、家では自分用のコーヒーを淹れない日も結構あった。ところが最近はほとんど毎日、自分用の 3~5杯分を自分で豆から挽いて淹れる。まあ、ほんのささやかな贅沢だ。

ところで先日ラジオを聞いていると、「旦那が大変なコーヒー好きで、高い豆を手動のミルで挽き、ネル・ドリップで淹れるのでないと満足しない」という女性からの投書が紹介された。ところがある時この旦那にこっそりネスカフェを飲ませたところ、「これは旨い!」とチョー感動していたというのである。

何となく「いかにもありそう」な話に聞こえてしまったが、後から考えると「これ、よくできた『ネタ』なんじゃないの?」と思うばかりである。というのは、出先のオフィスなどで出されるコーヒーは、一口飲めばインスタントかそうでないかぐらいわかってしまうからだ。

ビミョーな話ではあるが、インスタント・コーヒーはクセがなくさらっとしすぎてる。絶妙な加減のインスタント・コーヒーだと、まあ、それなりにおいしくは飲めるが、それでもやっぱり「本物の面倒に込み入ったコク」と言ったらいいのか、そうしたものには及ばない。

ラジオで紹介された「コーヒー好きの旦那」は、よっぽど感覚が鈍っていたか、あるいはインスタント・コーヒーなんて飲んだことがないので、逆にことさら新鮮に感じてしまったかのどちらかと思ってしまうのだよね。

それともこの投書をした女性は、実はインスタント・コーヒーをおいしく淹れる達人だったのかなあ。

 

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2020年12月 6日

シート・クッションがすっかりへたってしまって・・・

3日前の ”今年はとくに、「師走」というより「指走」” という記事に書いたように、最近はやたらとデスクワークが増えている。で、2〜3時間も座りっぱなしでキーボードを叩いていると、お尻が痛くなってしまうのだ。

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それで気になってちょっと調べてみると、"足の痺れや痛み「坐骨神経痛」の原因はデスクワーク?" というページが見つかった。長時間のデスクワークは、座骨神経痛の原因になるというのである。

「座骨神経」というのは、お尻から足にかけて連なる人体で最も太い神経なのだそうで、この部分の神経痛というものになると、お尻や太股にしびれや痛みが発生するという。私の場合は幸いにも、時々立ち上がって運動すればなんとかなるのだが、用心に越したことはなかろう。

で、長年椅子の座面に敷いて使っているシート・クッションをみてみると、上の写真のように、お尻と太股の乗っかる部分だけがきれいにへたってしまっている。

このクッション、購入した当初はこちらの新品の写真のようにフラットだったのだが、年月というのは恐ろしいもので、今では一見すると「お尻の形に添ったくぼみがついて、座りやすいデザインになっております」みたいなことになっている。いやいや、クッションにそんなくぼみがあってもしょうがないから。

試しに指でつまんでみたが、へたった部分はクッションの厚さが 1cm もなくなって、もろにぺったんこだ。これではあんまりだから、近いうちにニトリにでも行って、しっかりしたクッションを買ってこようと思っている。

 

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2020年12月 5日

年を感じる師走

のっけから薬袋の写真で、「さしもの病気知らずの tak も、ついに年末になって風邪でも引いて寝込んだか」と思われたかもしれないが、憚りながらそんなヤワじゃない。これは「歯茎の腫れ止め薬」である。

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先月から歯の治療で歯科医院通いが続いている。治療が長引いているというわけではなく、1か所が治ればまた次の 1か所に故障が出るというようなことで、何度も通っているわけだ。

先月の中頃に右上の奥歯の治療が終わったと思ったら、下旬に左上の歯茎が腫れて治療してもらった。これに関しては 11月 27日の「和歌ログ」に書いている(参照)。

2か所目の治療が終わり、「これで当分大丈夫」と安心していたら、今日になって、今度は右下の歯が痛み出したのである。いやはや、こればかりは年のせいかと、ちょっとがっかりしてしまったよ。

で、いつもの歯科医院で診てもらったところ、今回の痛みは次のようなメカニズムで発生したのだという。

  1. 何か硬いものをガリガリ噛んで食べたときに、右下の歯が圧迫されてほんの少し内側にずれてしまった。
    (確かに昨夜、蓮根を食べている時にそんなような感じがしたことを覚えている)

  2. その時は何でもなく痛みもすぐに引いたが、歯が内側にずれたことにより、歯茎の内側に腫れが生じてしまった。

  3. その腫れのせいで、一度内側にずれた歯が、今度は微妙に外側に押し出された。

  4. こうして押し出された下の歯が、口を閉じたたけで上の歯に悪い角度でコツコツ当たるようになっている。

  5. その刺激により歯茎の腫れがさらにひどくなって、痛みまで出ている。

とまあ、こんなようなことだった。さすがに専門医である。自覚症状からしてまさにどんぴしゃりの説明である。歯というのは本当に微妙なものだね。

レントゲンを撮ったところ、幸いにも歯の根っこの部分は折れていないらしい。私としては根っこが折れたりしていたら、治療には相当手間がかかるだろうと覚悟していたのだが、そこまでひどくはないとのことなので一安心である。

そこで歯の位置の微修正と固定という治療をしてもらい、腫れ止めの薬を飲みながら 2〜3日様子を見ることになった。

これまでのように硬いものでも構わずに豪快にガリガリ噛んでいると、またこんなことになりかねないというから、今後は少々慎重な食い方を心がけようと思った次第である。

 

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2020年12月 4日

神道式の結婚式の歴史は案外新しい

Japaaan に "日本の伝統的な結婚式…の割に実は歴史が浅かった「神前結婚式」" という記事がある。今どきの結婚式では、神道式はキリスト教式よりも少数派になってしまっているらしいが、実は 42年前の私たち夫婦の結婚式は「祓い給え浄め給え」の神道式だった。

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で、その時の印象だが、「これって、割と近代的なのね」というものだったのである。「近世的」ですらなく、「近代的」というイメージだったのだ。

それもそのはず、この形式の原型は、明治 33年に作られたもののようなのだ。Japppan の記事から引用する。

1900(明治33)年 5月 10日、当時の皇太子・嘉人親王(後の大正天皇)と九条節子さん(後の貞明皇后)の「結婚の儀」が、宮中の賢所(かしこどころ=皇祖神・天照大神の御霊代 (みたましろ) である八咫鏡を祀る)で行われました。

これに注目した日比谷大神宮、現在「縁結び神社」として人気の「東京大神宮」が式次第を簡略化させた「神前結婚式」を企画し普及に尽力したことから、国民に広まっていきました。

なるほどね。それで「近代的」なイメージになったわけだ。ほんの短い「祝詞(のりと)」と「三三九度」さえしっかりやれば、あとは「くどさ」がなく、あっさりと終わる。

もっと前々からのものだっりしたら、形式がこんなにまでお行儀よく普遍的な形で整えられてはいなかったはずだ。地域によって種々様々、多様な形で執り行われることになっていただろう。

これは結婚式のみならず他の「地鎮祭」とか「七五三」などの「今どきの神道式行事」にも言えることで、どうみても案外最近になって整えられたものという印象だ。時として「おどろおどろしさ」さえ感じさせることのある他の民俗行事とは、イメージが全然異なっているのだよね。

 

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2020年12月 3日

今年はとくに、「師走」というより「指走」

12月に入ってもう 3日。結構な忙しさである。今年はコロナのせいでまともな仕事ができなかったが、お坊さんまで忙しく走り回るという月だけに、年の瀬の「まとめ」とか「総括」みたいなことで、なんだかんだとしなければならないことが増えている。

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上の画像は、リクナビ NEXT ジャーナルの 2017年 12月 15日付に載った しりもとさんという方のマンガである(参照)。3年前だけに、みんな実際に外を走り回っているが、今年は人との折衝は Zoom などで済ませるようになってしまい、ひたすら PC の前で過ごす時間が多い。

というわけで、今年はやたらと「1年を振り返ってのまとめ」みたいな文書を書かされることが多い。ほかに具体的な動きなんてないのだから、無理矢理にでもそんなような総括文書を書かないと、区切りが付かないみたいなことになってしまっているのだ。

というわけで、キーボードを打つ時間がやたらと増えてしまっているので、今年の 12月は 「師走」ならぬ「指走」(どちらも「しわす」と読んで戴きたい)である。こんな年末は初めてだ。

どちらかというと、実際に外に出て「走り回る」仕事の方が好きなので、今年はかなりのストレスである。思い返せば今年の 6月 2日の記事で「旅に出ないとカラダがもたない」と書き、夏以後にちょっとだけ遠くに出かける仕事が戻ったが、寒くなってまたしても「巣ごもり状態」だ。

ああ、早くあちこち旅に出たい。できれば九州か四国辺りに行きたい。そして叶うことならば、香港とかニューヨークとかにも行きたい。

 

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2020年12月 2日

如何なるか是れ仏

たまには『無門関』ネタで何か書かないと、このブログが浅はかになってしまいそうなので、ほぼ 1年ぶりに禅の公案について書いてみようと思う。今回は第十八則「麻三斤」と二十一則「雲門屎橛」だ。

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「如何なるか是れ仏」(仏とはどんなものですか?)と聞かれた唐代の洞山和尚は、手近にあった麻の実三斤を指し「これが仏じゃ」と言った。そしてその師であった雲門和尚は、同じ問いに「乾屎橛」(かんしけつ)と答えたという。

乾屎橛とは、トイレットペーパーなんてもののなかった昔、「うんこ」をした後にケツの穴の始末をした「糞かきべら」のことである。長い間どんなものだろうと思っていたが、ちょっと画像検索したら上の写真が見つかった(参照)。はてさて、ものは調べてみるものである。

「仏とは?」の問いに「麻三斤」と答えるのは、まだありそうな気もするが、「乾屎橛」とはよくぞ言ったものと感心というか、感動すらしてしまう。見る者が見ればすべてのものが「仏」ということで、そうなると乾屎橛でかく「うんこ」すらもやはり仏なのだろう。

ということは、奈良の大仏を拝んでもうんこを拝めないのでは、仏をわかっていないってことである。仏道は一筋縄ではいかないが、何しろ自分のしたうんこを拝めば、最初の一步ぐらいは踏み出せるかもしれない。そう思って今朝のうんこを拝んでみたら、案外いい気持ちがした。

私は小学生の頃に夏目漱石の『草枕』を読んで、初めて「乾屎橛」という言葉を知った。主人公が田舎の床屋で散髪していると口の減らない小坊主がやってきて、去り際に「咄この乾屎橛」と捨て台詞を残す。「咄(とつ)」というのは「舌打ちの音」とか当時の憎まれ口とか言われるが、よくわからない。

ただ私の読んだのは小中学生向けの簡易版だったためか、「とつこのかんしけつ」とかな表記してあって、「かんしけつ」に「糞かきべら」という「注」があったように思う。このため幼い私は、「鶏っこ(とっこ)の糞を肥料にするための始末をするへら」みたいなものを思い浮かべていたのだった。

幼い頃の思い込みとはなかなかコワいもので、何とこれが今になっても消えない。それで雲門和尚の「乾屎橛」を聞くと、お釈迦様がのんびりとお経を唱えながら、鶏糞を陽に干している図なんかが想像されてしまう。

ただ、これはこれで意外に趣きのあるイメージで、「如何なるか是れ仏」の問いに「即ち陽光の鶏糞」なんて答えても、案外怒られずに済むかもしれない。

 

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2020年12月 1日

何もせぬうちの師走と皆の言ふ

朝起きて開口一番、妻に「今年は何もしないうちに、師走になっちゃったね」と言うと、「本当にそうね」と相づちを打たれた。すると朝のラジオのパーソナリティも「今年はあっという間の 12月ですね。まだ何もしてない気がするのに」と、同じようなことを言い出した。

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「第三波コロナ禍」とやらで「不要不急の外出は避けるように」との要請が出ているので、仕事上の打ち合わせを Zoom で始めると、PC 画面に現れた参加者が口を揃えて「もう 12月だなんて、信じられない」と言い出す。

曰く「春から秋までは、ほとんど一瞬だったよね」「今年はまともに達成感を得たことが一度もない」「何もしなくても、時間ってちゃんと過ぎ去るものなのね」—— こんなに皆の言うことが揃うなんて、他にあり得ない。それほどまでに「何処も思いは同じ」ということのようなのだ。

というわけで、今日のタイトルは川柳。「何もせぬうちの師走と皆の言ふ」である。

せめて残り 1か月のうちに、何か小さなこと 1つでいいから「やったね!」と思えることがしたいものだが、うぅむ、1か月は短いかなあ。

 

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