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2021年1月に作成された投稿

2021年1月31日

充電池(エネループ)の電圧に関するトリビア

もう 6年半も前に書いたことになる「Belkin の Bluetooth テンキーが言うことを聞かなくなったら」という記事に、今月 27日に佐古邦彦さんという方からコメントがついた。充電池(エネループ)だとパイロットランプが点灯するだけで動作しなかったが、新しい電池に交換したら回復したという。

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そこに当ブログ常連、らむねさんが「エネループだと電圧が低いからじゃないですかね」と書き込んでくれた。そもそも規格が1.2V しかないというのである。ちなみに普通の乾電池は 1.5V であるらしい。いやはや、そういうこととは、ちっとも知らなかった。教えてくれた らむねさんに感謝である。

BELKIN のテンキーというのは要求する電圧がかなりシビアのようだ。そしてエネループの電圧はそのギリギリのところなので、ちょっとした環境によっては「パイロットランプは付くが、動作しない」という、一見摩訶不思議な現象が生じていたと考えられる。

で、「フツーの乾電池と同じぐらいの電圧の充電池ってないのか?」と検索してみたところ、あるところにはあるもので「Melasta 単3形充電池」というのが見つかった。電圧は 1.6V というから、乾電池よりちょっとだけ高い。

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これなら無駄に乾電池を買う必要がなさそうだ。8本入り、充電器付きで 2,177円という価格もリーズナブルである。

近いうちに購入して使ってみようかな。

 

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2021年1月30日

香港市民の英国脱出について

英国政府は香港国家安全維持法への抗議として、香港市民向けの特別ビザの申請受付を 1月末から開始している(参照)。香港に留まっていては身の危険すらある香港市民の英国市民権取得につながるものだ。

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私はこれまで、この問題に関して何本かの記事を書いている。ざっとあげるとこんな感じだ。

香港の自由を守る運動に心の底から共感 (2014/11/25)
香港の自由を守る運動と、ベルサーチの Tシャツ (2019/08/15)
香港の自由を求める闘いにエールを送る(2019/09/01)
死ぬなよ、香港!(2019/11/25)
死に体を乗り越えろ、香港!(2020/07/03)

とくに最後の 2本は、香港の民主派に対する中国政府の締め付けが熾烈なものになったことについてのもので、彼らが英国に逃れてからさえリスクが消えないことを危惧したものだ。

香港は 1997年に英国から中国に返還されたわけだが、それに先立つ 1984年の「英中共同声明」によって、香港の「高度な自治」は返還後 50年間にわたって保証されるとされていた。しかしそれについては初めから誰もまともに信じていなかったし、その心配は既に現実のものになっている。

私は 1980年代から 2000年頃にかけてアパレル業界の国際的な動きを追った時期があって、この時に香港の多くのファッション・デザイナーや業界人たちと交流をもった。彼らは本当にいい連中で、香港でも東京でも一緒に楽しく食事したりしていた。

中国への返還の問題に関して「いつでも脱出できるように準備しといて」と私が言うと、彼らの多くは「香港の街を愛しているから、できることなら離れたくない。ずっと香港で仕事を続けたい」と語っていた。

その気持ちは痛いほどよくわかるが、それは理想論というものである。今やそんなことを言っていられる時期じゃないのは明らかで、できるだけ早く香港を脱出すべきだろう。既に英国亡命を果たした者も少なくないらしいし。

具体的なヘルプは何もできないが、彼らが新天地で自由を失わずに生きることを、心から願う。

 

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2021年1月29日

地球の自転のスピードって、実はスゴい!

私のもう一つの毎日更新ブログ「和歌ログ」の 1月 26日付に、「足許の地球の廻るスピードで陽はぐいぐいと昇りくるなり」という歌を写真入りでアップした。

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この日の本文には、次のように記している。

東の空が明るくなり始め、太陽の上の部分が僅かに顔を見せ始めた時から注目していたが、見る間に昇りきってしまった。

「日の昇るスピードとは大したものだなあ!」と思ったが、よく考えれば、これは地球の自転のスピードだ。地球の自転というのは何しろ 24時間で 1周してしまうのだから、凄いスピードである。

飛行機で東京羽田空港から太平洋を渡ってアメリカ西海岸のサンフランシスコに行く距離は 約 8.290km で、要する時間は約 9時間 15〜50分ということになっている(参照)。

地球の赤道は約 40,000km とされているから、それをジェット機で 1周するとなると、細かい話を端折って計算すればおよそ 2日かかることになる。もろに単純に言ってしまうと、地球の赤道はジェット機の倍の速さで廻っていると考えてもいいわけだ。

我々はすごいスピードでで動く天体の上で生きているわけで、振り落とされないのは慣性の法則と引力のおかげである。

我々は自然の原理というものを、もっと信頼していいのかもしれないと思う。

 

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2021年1月28日

「赤から鍋」に関する記憶の糸をたぐったら

JR 常磐線取手駅近くの道端に「名古屋名物 赤から」というでっかい看板が立てられている。クルマで通りかかる度に、「はて、これって一体なんだっけ?」と気にかかっていた。

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いつもそれっきりになっていたのだが、先日、この店の前で渋滞にせき止められ、看板を写真に撮ることができた。スマホの写真というのは、急いでいる時のメモ代わりになってありがたい。

そして家で写真を整理しながら、「そう言えばこれって、前に書いたことがあったかも」なんて気がして、自分のブログ内を検索したところ、ほぼ 3年半前の記事が見つかった。「某焼き肉店の残念な張り紙」という記事である。

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「パート」の「ー」が横書き表示のまま縦書きに貼り付けてあるし、その右下の「ト」というのは、「アルバイ」の 4文字が剥がれてしまった結果だろう。いやはや、確かに「残念そのもの」の風情である。

当時は場末の焼き肉屋といった佇まいで、今回紹介した大きな看板もなかったような気がするし、名古屋を本拠とする有力チェーンの店とは到底思われなかった。しかし最近はかなり改善されてそれなりに繁盛しているようで、よかったね。

赤から鍋に関しては、「赤味噌にトウガラシをブレンドして作られたスープに、肉などの具材を煮込んで食べる鍋」とわかった。名古屋めしのことなので、当然そうなるだろう。ついでに「セセリ」が鶏の首肉であることも思い出した。

ただいずれにしても、私は最近肉を絶っているので、お呼びじゃないようだ。

結局のところ名古屋に行ったら、「きしめん」を食っていさえすればいいようなのである。3月に飛騨に行ったら(参照 1参照 2)途中で寄り道して、本場のきしめん食いたいなあ。

 

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2021年1月27日

「風水」を巡る冒険

3日前の記事を書きながら、クルマの「希望ナンバー」といわれるものには「風水」とやらに由来して人気の数字が結構あると知った。個人的にはまったく縁遠い話だが、こだわっている人は案外いるらしい。世の中、知らないところで何が起きているか、まったく油断がならない。

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とりあず Wikipedia で「風水」に当たってみると、冒頭には次のように書かれている(参照)。

風水(ふうすい)は、古代中国の思想で、都市、住居、建物、墓などの位置の吉凶禍福を決定するために用いられてきた、「気の流れを物の位置で制御する」という思想。「堪輿(かんよ)」ともいう。

のっけから「気の流れ」なんて言われても「合気道」をやった私にさえ漠然としてよくわからないし、いかにも込み入って面倒くさそうだ。皆さん、よくまあこんなようなことに分け入っていけるものだなあ。

ところがもう少し読み進むと、こんなことが書いてある。

日本においては風水が完全に成立する唐代以前の一部の理論のみが陰陽道や家相として取り入れられて、中国本土とは別の形で独自の発展を遂げた。近年、日本国内で風水という名称で行なわれている占いの多くは、風水そのものではなく、家相術や九星気学などのアレンジに過ぎない。

ほほう、つまり日本には「正統派風水」と「なんちゃって風水」があるってわけね。

そしてさらにもう少し先まで読むと、こんなことが書いてある。

日本では「風水」の語が現代までほとんど知られず、目崎茂和は「風水の無い風土」と表現していた。しかし、1994年に荒俣宏の『風水先生』が刊行され、風水が大きなブームとなり、その概念が広く知られるようになった。

へえ! 荒俣宏氏に関しては注目していた時期もあったが、『風水先生』についてはすっかりスルーしてしまっていたようだ。当然ながらその「大きなブーム」とやらもスルーしたまま、今に至って「クルマのナンバー」で驚いてしまっている。

要するに日本ローカルの「いわゆる風水」関連は、人々の話題にのぼったこと自体が比較的最近の話で、「いろんな人がいろんなことをもっともらしく言ってる状態」と思っていればいいようなのだ。

で、今後もあまり興味を抱けそうに思われないので、このお話はとりあえずこれでおしまい。

 

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2021年1月26日

葬儀会社の広告入り自治体封筒というもの

"大阪のコロナ陽性者に市から葬儀会社の広告入り封筒「配慮が足りなかった」と担当者" という記事は、さすがに大きな声では笑えなかった。この葬儀会社のフリーダイヤルの番号にたまたまだが「567」という数字が入っていたというのも、ダメ押しっぽい。

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記事によると大阪市では、2006年度から「収入確保のため業務用封筒に広告を掲載するようになった」ということのようだ。「市 封筒 広告」の 3つのキーワードで検索すると、同様の取り組みをする自治体の少なくないことがわかる(参照)。

こうした「自治体広告」の中で、業種として葬儀社の広告が多いのかどうかは、検索しても調べがつかなかった。ただフツーに考えれば世の中に死なない人はいないのだから、広告効果としては抜群に高いかもしれない。

この記事に登場するコロナ陽性者の Aさんは、「自分を否定されたように感じ、思い出すたびに涙があふれてくる」とコメントしている。恐縮ながらシリアスに受け止めすぎのような気もしないではないが、中にはそうした人もいるのだから、注意するに越したことはないだろう。

市の担当者のコメントによれば「封筒はこれしかないので、特に広告のことは意識せずに使っていた」とのことだが、市の保健所から配慮するよう連絡があったため、「今は古い封筒をかき集めて対応している」という事態になっているらしい。お役所もなかなか大変だ。

とはいえ「封筒はこれしかないので」というのは、ちょっとヤバいんじゃないかなあ。今回はたまたまコロナウィルスの陽性者への連絡で問題になったわけだが、例えば高齢者の保険関係の通知とかでも、できればあまり使わせたくはないよね。個人的には「おお、気が利いてるな」と笑っちゃうところだが。

解決策としては、複数の広告主を募って通信の内容によって使い分けるということも考えられるが、ことさらにそうすればしたで、「俺に送られて来た通知は葬儀会社の封筒だったんだが、何か含むところでもあるんか?」なんて、さらに面倒なこと言い出す人がいそうだ。

まことにも人の心は難しい。

最後に余計なことかもしれないが、この件を紹介した記事の写真(冒頭参照)に、自分のカメラ(スマホ?)の影がしっかりと映り込んでいるのが気になる。封筒の広告に限らず、こうした細かい点にはさりげなく気を配りたいものだよね。

 

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2021年1月25日

コロナ・ワクチンはアレルギーでも大丈夫なようだが

Yahoo ニュースに「新型コロナのワクチンは、アレルギーの病気を持っていると接種できないの?」というタイトルの記事を見つけて、「えっ? 俺、花粉症なんだけど!」とアセってしまったよ。よく読んでみれば大丈夫とわかって、一安心したが。

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それにしても、コロナ・ワクチンに関してはわからないことだらけだ。外国では接種の始まっているところもあるのに、日本での接種開始の遅れ、安全性などに関しては情報がやたら少なく、これでは情報先進国なんてお恥ずかしくて言えない。

「アレルギーがあると接種できない」ということに関しては、一時的にそうした情報が流れたものの、「英国・北米で100万回以上接種された結果、2020年12月30日にその見解が修正」されたという。しかしそれらしい情報として受け取ったのは、今回が初めてだ。

この情報によれば、「重症のアレルギーがある(もしくはあった)としても、コロナのワクチンそのものに対するアレルギーや、その成分に対するアレルギーを起こしたことがない限りはワクチンの接種を妨げるものではない」ということのようなのである。まずは一安心の話に聞こえる。

もっともよく考えてみれば、「コロナのワクチンそのものに対するアレルギー」なんてのは接種してみて初めてわかる類いのことなので、完全に安心というわけではない。まあ、医薬品というのは元々そういうものと思うしかなかろう。

とにかく問題は、日本においてはコロナ・ワクチンに関する具体的な情報が不足していると感じられることだ。日本の政治家やお役人というのは、「初めての事態への対応」というのがものすごく苦手なようなのだ。何しろ「先例に則る」というのを最強の方法論としているので。

今月 19日付のニュースでは「迅速なワクチン接種」に政治主導で対応と報じられた(参照)が、具体的には下図のように、1か月も先の 2月下旬をめどに「医療従事者 約 1万人」に接種して、本格的な接種は 4月以降という話のようだ。これを「迅速」と言うのは、ほとんどお笑い草じゃなかろうか。

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これで「オリンピックを予定通り開催」なんていうのは、おとぎ話に聞こえる。結局のところは、「最善の努力を講じましたが、やっぱりダメでした」というところに落とし込みたいのかもしれないが。

 

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2021年1月24日

クルマの「希望ナンバー制」というもの

近所の不動産屋の駐車場にはいつもピカピカの BMW とポルシェが並んでいて、ナンバーは両方とも「11」。わざわざ金を出して誂えたものだろう。かと思うと昨日は、つくばナンバーの「2983」(筑波山)、しかも図柄入りという念の入ったクルマに遭遇して、こればかりは軽く感動してしまった。

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これ、「希望ナンバー制」(1999年 5月スタート)、「図柄入りナンバープレート」(2017年 4月スタート)というシステムによっているらしい。世の中には余分な金を出してまで「それらしいナンバー」を付けたがる人が少なくないようなのだ。これもまた昨日触れた「雰囲気のもの」か。

ベストカー web の「いろんな願いが込められてます!!?  希望ナンバー十人十色物語」という記事によると、希望ナンバーの取得には 4,000円かかるという。高いんだか安いんだか、私には判断がつかない。

3ナンバーの高級車オーナーには「1」「8」「3」などの 1ケタのナンバーが好まれるそうで、上述の「11」は 7番人気のようだ。「1ケタナンバーは覚えやすい反面、クルマによっては目立ってしまいがちだが、大きめのモデルを選ぶ人はそんなことを意に介さないのかもしれない」とある。

そして 5ナンバーと軽自動車では急に庶民的発想になって、「2525」(ニコニコ)と「1122」(いい夫婦)が不動の人気だという。さらに「5678」も、4(死)と 9(苦)を含まない唯一の連番ということで人気らしいが、この節は「コロナや」と読めてしまって没イメージなんじゃないかなあ。

「358」は 3ナンバー、5ナンバーを問わず人気らしく、確かによく見かける気がする。日本では古来「七五三」が縁起のいい数字とされているが、「358」の方は何と「風水」に由来していて、「3」は金運、「5」は帝王を表し、「8」は「最良の数字」なんだそうだ。

いやはや、そんなこととはちっとも知らなかった。私は今日の今日まで、「三五八漬け」の好きな人がやたら多いんだとばかり思っていたよ。なるほど、1ケタのナンバーで「8」が人気なのも、風水由来だったのか。

それから「1103」というのは「いい父さん」で人気なんだそうだが、私には「いいおっさん」としか読めないがなあ。「8703」(やなおっさん)よりはずっとマシだが。

ちなみに最近この辺りで、「613」(読みは下の画像)というナンバーの軽トラックをよく見かける。別に希望ナンバーというわけじゃなさそうだが、禅問答じみていてなかなか悟ってる風情だ。

Muimi2

 

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2021年1月23日

「雰囲気のもの」を巡る冒険

常連の方は既にお気づきかと思うが、当ブログに頻出する専門用語(?)に「雰囲気のもの」というのがある。昨年 2月 9日にも「当ブログのアクセス・カウンターの(雰囲気のものとしての)数字」という記事を書いている。

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この記事を読んでいただけばわかるように、「雰囲気のもの」という言葉は、「意味のあるような、ないような、わかったような、わからないような」という、まさに「雰囲気」だけでもっているような事項を表すために使わせてもらっている。アクセス・カウンターの数字はその代表例だろう。

最近の記事で言えば、5日前の "人は何かを隠したい時、「ポエマー」になる" という記事にも、あの「マンションポエム」に関連して次のように書いている。

私がよく言う「雰囲気のもの」というスタイルの代表格だ。肝心の対象についてはあっさりスルーして、あまり意味があるとも思われない周辺のみをもったいぶって語る。

ちなみに菅総理なんかは「ポエマー」としてさえ至らなくて、「周辺のみをもったいぶって語る」ことすらできないようだ。昨日の参議院本会議では代表質問への答えがぞんざいすぎて、「雰囲気」も作れないまま大幅に時間を残して散会となった。

試しに「雰囲気のもの」でこのブログ内を検索してみたところ、その結果はこんな具合で約 300件にもなった。この検索結果から「典型的な雰囲気のもの」(上述のアクセス・カウンターを除く)を 5つほど拾ってみると、こんな風なことになる。

アリナミン V の CM は、「雰囲気のもの」でしかないのね
「平成最後の何とか」というもの
"The Guide of Goods for a Cozy Room" というフレーズ
モノの整理は、捨てなきゃ始まらない
「ユビキタス」という言葉

なるほど、いかにも「雰囲気のもの」という感じの内容なのだろうなというのがおわかりと思う。

近頃では「雰囲気のもの」という言葉をあまりにも頻繁に使うので、「ふんも」で単語登録してしまっているほどだ。今後も多用することになると思うので、そのあたり

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2021年1月22日

「おじいさんの本買います」という広告

Twitter で白江幸司さんという方が「おじいさん予備軍に衝撃が走る広告」として、吉祥寺の古書店のチラシを紹介しておいでだ。「おじいさんの本 買います」というもので、想定されるジャンルがズラリと書き連ねてある。

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なるほど、まさに「おじいさん予備軍」には衝撃のジャンルだ。こんな具合である。

人文書:哲学、現代思想、構造主義、分析哲学、印哲、東洋思想、日本思想、神道、修験道、陰陽道、キリスト教、神秘学、占い、漢方ヒーリング、超心理学、反体制、右翼、左翼、差別、公害、フェミニズム、犯罪、日本史、世界史、地理、民俗、郷土、江戸東京。

科学書:数学、物理、生物、建築、自然科学史、社会学、人類学、認知科学、生と性と死、病と身体、精神医学、カウンセリング、精神分析、ユング。

芸術書:画集、写真集、美術展図録、ファッション、茶道、書道。

サブカルチャー:戦前の児童雑誌、古今東西の絵本、料理や雑貨のムック、古いまんが、60 70年代文化、対抗文化、映画、演劇、音楽、クラシック・落語・朗読などの CD、学術・文芸の文庫、超自然など不思議なもの、映画のパンフレットなどのコレクションアイテム

う〜む、こりゃ身に覚えがありすぎだ。

ふゆひー 9 さんが "ジャンルが羅列されるなかで、目を惹く「ユング」(笑)" とコメントをつけておられる。個人名で挙げられているのは、確かにユング 1人だ。

これには思わず反応してしまい、 "ウチは「ライヒ」まであります" なんてサブコメントしてしまった(参照)。上の画像左側真ん中の 『性と文化の革命』(中尾ハジメ・訳)がそれで、今はさすがに絶版のようだが。

その右上の『構造と力』(浅田彰・著)は哲学書としては異例のベストセラーだから、本棚に眠らせている人が日本中にいる。左下は米国のカウンター・カルチャーを代表するジェリー・ルービンの "Do It!" だが、これはさすがに同世代の人間の本棚でもあまり見受けない。

「そういえば、ジェリー・ルービンって、死んじゃったはずだなあ」と思って改めてググってみると、「1994年、ロサンゼルスにて交通事故のため死去」とある(参照)。

そうそう、このニュースを聞いた時はかなり驚いたんだった。そのくせ、その18年後に、思い出したように こんな記事 を書いた時には、彼の死を忘れていたようなのだが。

いやはや、まことにもってこの世は諸行無常である。

Namu

 

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2021年1月21日

飛騨行きと「セレンディピティ (偶然幸福発見能力)」

今月 17日に、オークヴィレッジの稲本正さんからメールをいただいた。10年近く前に書いた ”「葉っぱはなぜ緑色なのか」への、稲本正氏の回答” (2011年 5月 6日付)という記事に関する礼状である。

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文面には「今頃、気づきました」と記されてあったが、こちらからはとくに何も知らせていないのだから、気付かなくて当然で、気付いていただいただけありがたい。おかげで自分としても、改めて復習させていただいた。

このメールに触れられていた彼の近著『脳と森から学ぶ日本の未来〜共生進化を考える〜』を昨日の夕方に Amazon に注文したところ、今朝早く届いた。リアルの書店で買おうとすれば都心まで出かけなければならないだろうから、実質的には Amazon の方が早い。さっそく読み始めよう。

実はブログの方のメールの確認をちょっとサボってしまっていて、稲本氏の 1月 17日付メールに気付いたのは、3日後の 20日になってからだった。つまり当ブログの 19日付「そうだ 飛騨、行こう!」を書いた翌日だったのである。

さらに「ありゃ、そういえば稲本さんのオークヴィレッジがあるのは、飛騨の高山じゃないか!」と気付いたのは、今朝になってからだった。我ながらお恥ずかしいほど反応が遅すぎる。

というわけで、3月の飛騨への旅では図らずもオークヴィレッジ本店を訪問できそうだ。19日の記事ではコロナ対応として「なるべく人と親しく接触せず」なんて書いてしまったが、こればかりは特例とさせてもらおう。ちゃんとマスクはするから。

それにしても偶然を通してこうも物事がうまい具合につながるというのは、なかなか気持ちのいいことだ。19日の記事を書いたのは、もしかして稲本さんからのメッセージを潜在意識が感じていたのかもなんて思ったりまでして。

こういうのを "serendipity" というらしい。これについては 13年以上前に "「セレンディピティ (偶然幸福発見能力)」" というタイトルで書いている。長くブログを続けていると知らぬ間に無形の財産が増えているもののようで、まことにありがたいことである。

 

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2021年1月20日

キムチを巡る中韓対立

韓国人ユーチューバー「キムチは韓国文化」で中国から批判殺到、解雇に” という記事に、図らずも注目してしまった。食い物の話にナショナリズムが絡むと、面倒なことになるようなのである。

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日本では「キムチは韓国の漬物」とフツーに思われていて、当の韓国人も当然そう信じているようだ。しかし中国人の常識では、四川料理の「泡菜(パオツァイ)」という辛い漬物が韓国に伝わってキムチになったということのようなのである。

そしてこれが結構な文化摩擦を生じさせている。「キムチは韓国文化」と言われると、ムッときてしまう中国人が多いようなのだ。ちなみに 「泡菜」で画像検索すると、こんな感じである。

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一見した印象だけで言わせてもらうのは恐縮だが、どうやらキムチよりバリエーションはありそうだ。そのせいか「キムチそのもの」という感じじゃなく、素直に見れば「ちょっと別物かも」という感じがしてしまう。

それでも中国人は「四川で泡菜が作られた頃、韓国という国はなかった。キムチは泡菜のバリエーションに過ぎない」と言い、一方の韓国人は「韓国内でこれほどまで広範に定着し、愛されている食べ物を韓国文化と言うのは当然」としている。

つまり「オリジナルはウチ」と言う中国と、「国際的なまでの圧倒的広まりを見せているのは、我が国のキムチ」と言う韓国との対立である。宗主国意識ありありの中国に対して、韓国が「ことキムチに関しては譲れない」と頑張っている構図が読み取れる。

この対立の煽りで、「キムチは韓国文化」と言った韓国人ユーチューバーの Hamzy は、所属する中国の事務所から契約を打ち切られた。それに対して彼女は「中国で活動するために、キムチは中国の食べ物だと言わなければいけないのであれば、中国での活動はしない」と応じ、なかなかの意地を見せている。

彼女は続けて「中国の方も、韓国で活動するために中国の食べ物を韓食と言わなくてもいい。これについては、中国の方も理解してくれると思う」と強調した。これはある程度理解できる言い分であり、単に意固地になっているというわけではないとわかる。

隣国に住む者としては「高みの見物」を決め込んでもいいのだが、この問題に限って言えば、「泡菜は豊富な中国料理のバリエーションの一つ」という中国と比較すると、「一点集中」ともいえるパワーで突進可能な韓国の方にやや分があるような気がする。

ちなみに辛いもの好きの私は、もちろん「キムチ大好き」である。「泡菜」はまだ食べたことがないが、辛くておいしければ当然歓迎だ。拒む理由は何もない。

 

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2021年1月19日

そうだ 飛騨、行こう!

昨年 6月 2日に「旅に出ないとカラダがもたない」なんていう記事を書いている。最近のコロナ禍による「出張機会激減」に参ってしまっているのだ。

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昨年の出張を改めて振り返ってみると、こんな具合だった。

1月: 大阪(1泊 2日)、伊豆、横須賀(2泊 3日)
2月: 赤穂(1泊 2日)、大阪(1泊 2日)
3月: 鈴鹿(1泊 2日)、網走(2泊 3日)
(4〜6月 なし)
7月: 浜松(1泊 2日)、加古川(1泊 2日)
(8〜10月なし)
11月: 富山(1泊 2日)
(12月 なし)

初めの 3か月はまだいつものように 月に 2回以上の泊まりがけ出張をフツーにこなしていたのだが、それ以後は激減して、1年間でたったの 9回。例年のほぼ 3分の 1である。

7月に浜松と加古川、11月に富山に行ったものの、時節柄いずれも用が済んだら大した寄り道もせずそそくさと帰って来ただけ。さらに 3月の網走を除けばすべて本州内で、四国と九州の地を踏んでいないばかりか、兵庫県より西には 1度も行っていない。要するにほとんど「近場」だ。

こんなのはこの 30年以上なかったことで、昨年秋頃から口を開けば「遠くへ行きたい」と呟くという、永六輔シンドロームというか、旅の禁断症状に陥っている。

そこで本当に久しぶりに、「出張以外の私的旅行」をしようと決心した。ただ、コロナ禍の中で自分のわがままを通させてもらうわけだから、そこはそれなりに「自主規制」して、"Go to Travel" じゃない旅にしようと思う。

つまり移動には公共の乗り物ではなく自分のクルマを使い、行った先でも(私らしくもなく)なるべく人と親しく接触せず、「孤独なセンチメンタル・ジャーニー」に徹することとする。どうせ夜の 8時過ぎには外食が困難だろうから、コンビニおにぎりなどを積極活用する。

「遠くへ行きたい」という願望からすれば、少なくとも本州を出て四国か九州に行きたいところだが、それだとクルマでの移動に時間がかかりすぎる。そこで「そうだ 飛騨、行こう!」と思い立った。似たようなタイトルのキャンペーンがあるが、京都は何十回も行ったので、もういい。

私は 48都道府県をすべて制覇(「一泊以上」が自主条件)しているのだが、旧律令国で言えばまだ行っていないところがいくつあり、飛騨国(岐阜県北部)はその 1つだ。これについては、2018年の 3月 23日に「何としても飛騨に行ってみたくなった」という記事に書いている。

あれから 3年近く経ってしまったが、今こそこの思いを成就すべき時ではないかと思い至ったのである。これまでの結構長い人生の中で 1度も行く機会がなかったのだから、今行かなかったら一生行けないかも知れないじゃないか。

スケジュール的には、3月下旬にしたいと思う。気持ちとしてはすぐにでも行きたいところだが、クルマでの移動だけに 3月上旬までは雪のリスクがある。しかし下旬まで辛抱すれば現地はぎりぎり早春で、雪は降っても小降り程度で済むだろう。

というわけで、今から楽しみにいろいろ計画している。人と触れ合わない分、飛騨の自然と文化財にはみっちり触れ合おうと思う。

【1月 20日 追記】

最初、昨年の出張は合計 8回と書いてしまったが、11月の富山行きを失念してしまってカウントしていなかった。そこで本日「9回」に修正させていただいた。

いずれにしても、昨年の旅は少なすぎた。

 

 

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2021年1月18日

人は何かを隠したい時、「ポエマー」になる

昨日昼前の TBS ラジオ「安住紳一郎の日曜天国」に、久しぶりで大山顕さんがゲスト出演していた。大山さんは Wikipedia では「写真家、フリーライター 」と紹介されている(参照)が、多くのラジオ・リスナーの中では「マンションポエムの人」ということになっていると思う。

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大山さんとマンションポエムについては私も 5年近く前の「ポエマーという存在」という記事で少し書いているが、詳しくは Daily Portal Z の「マンションポエム徹底分析!」という大山さん自身の書いた記事を読めばよくわかる。

要するに「洗練の高台に、上質がそびえる」(「プラウドタワー白金台」野村不動産より)といったあの名調子」のことで、他にも「女神は、輝きの頂点に舞い降りる」「世田谷、貴人たちの庭」「代官山のロミオ&ジュリエット」などなど、過剰なまでにポエミーなコピーの数々が紹介されている。

大山さんによればマンションポエムの特徴は、「マンションの広告でありながらマンションそのものについては何一つ言わず、徹底的に『立地』のみを語る」ことだという。例えば「子ども部屋も作れる余裕の 4LDK」みたいな具体的フレーズは、まずあり得ない。

私がよく言う「雰囲気のもの」というスタイルの代表格だ。肝心の対象についてはあっさりスルーして、あまり意味があるとも思われない周辺のみをもったいぶって語る。

ここで番組パーソナリティの安住紳一郎が、「それって政治家の答弁みたいですね」と鋭いコメントを入れる。さすがの視点である。

それに応えて大山さんは、「何かを語りたいのではなく、何かを隠したい時には、大抵『ポエム』になるんです」と言う。これもまた鋭い指摘である。

具体的事実に関する言及を極力避けて、わけのわかったようなわからないような(で、結局わからない)雰囲気だけの話で済ませたい時、人は限りなく「ポエマー」になってしまうようなのである。

もっとも、政治家のほとんどは「ヘボ・ポエマー」だけどね。

【参考】

本日の記事中で用いた「ポエミー」とか「ポエマー」とかいうのは、言うまでもなくテキトーな和製英語なので、その辺りなにぶん

Yoroshiku4

 

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2021年1月17日

ソーシャルメディアに総スカンをくってるトランプ

昨日はトランプが完全に「終わっちゃってる」ことについて書いたが、それは彼が米国中のソーシャルメディアから総スカンを食ってアカウントを停止されていることでもわかる。NewSphere は「ソーシャルメディア締め出し、発言の場を失うトランプ氏」と報じている。

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トランプは Twitter が大好きだったようで、前々からあることないこと好き放題に書き込んでいた。昨日触れた「トランプは任期一杯までもつんだろうか」というほぼ 4年前の記事を書くきっかけになったのも彼の悪趣味な tweet で、こんなものだ。

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My daughter Ivanka has been treated so unfairly by @Nordstrom. She is a great person -- always pushing me to do the right thing! Terrible!

私の娘のイヴァンカはノードストロームにとても不当な仕打ちを受けた。彼女は偉大な人間で、いつも正しいことをするよう私をプッシュしてくれる! 恐ろしいことだ!

これは米国の大規模チェーン百貨店のノードストロームが、彼の娘イヴァンカの展開する(デザイナーだったというわけじゃない)アパレル・ブランド "Ivanka Trump" の取り扱いを中止したことを罵ったものだ。これを Twitter にない thumbs down sign(いわば「いいね」の反対)付で紹介した。

この背景には反トランプ派の不買運動もあるとはいえ、よくまあ、こんな感情的なイチャモンを大っぴらに書けたものだ。ちなみにこれを最初に読んだ時、トランプが「恐ろしい」と言ってるのは、イヴァンカの「プッシュ」のことだと思っちゃったのだが。

オランダのフロニンゲン大学のサイトの記事は、「この書き込みは米株式市場への影響という点では無意味だったが、心理的影響は今後あり得るかも」としている(参照)。つまりこんなことを書くのは、私企業の活動への政治的介入にほかならないということだ。

実際のところ、イヴァンカのファッション商品は「トランプ支持派のオバサンたち」が喜んで買うだけで、本来のターゲットの若いキャリア層には支持されなかったようだ(参照)。それで翌年、イヴァンカはこのブランドの中止を自ら選択している(参照)。

要するにイケてなかったんで、売れなかったわけだね。まともな神経してたら、トランプの娘の名の付いた服を着て街を歩くなんて、恥ずかしくてできない。

いずれにしてもこの程度の tweet で済んでいれば、まだそんなに大きな問題にはならなかったが、ここに至って大統領選挙が「不正選挙」だったとしつこく言い張ったり、「議会に集結せよ」と呼びかけたりということになると、これはもう見過ごせないレベルである。アカウント停止もやむを得ない。

トランプは今回の事態を「言論の自由の侵害」と言っているらしいが、言論の自由は本来、政府が国民に対して保証するものだ。Twitter をはじめとする SNS 運営企業が、トランプの連続的な問題発言が自社の方針にも公共の利益にも著しく反すると判断するのを妨げるものではない。

Twitter としても「トランプの御用メディア」と思われるのは真っ平ご免ということだろうから、ノードストロームが ”Ivanka Trump” の取り扱いを止めたのと変わらない。

 

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2021年1月16日

トランプはやっぱり、任期一杯までもたなかった

トランプの米国大統領としての任期は、公式的には 1月 20日までだが、米国国務省のサイトには 1月 11日、一時的なミステイクとされたとはいえ、かなり小気味よくも「ドナルド・J・トランプの任期は 2021年 1月 11日午後 7時 49分に終わった」と表示された(参照)。

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ちなみに私は 4年近く前の 2017年 2月 10日、つまりトランプが大統領に就任して 1か月経たない段階で、早々と「トランプは任期一杯までもつんだろうか」という記事を書いている。記事の末尾には「この大統領は任期一杯までもたないんじゃないかという気がしてきた」とまで記した。

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で、今日は何が言いたいのかというと、「ほぉら、やっぱりもたなかったでしょ!」ってことだ。あの記事は、ヒットだったよね。実質的には既に「完全に終わっちゃってる」わけだが、国務省までフェイク・ニュースとはいえ、それに追い打ちをかける形となっているのだから。

これまでの大統領だったらもっと早い段階で「敗北宣言」を出し、「実質的な終わり」を平和的に演出していたわけだが、トランプはそれを拒んで「議会乱入事件」という惨状を招いた。つまり「任期一杯までもたない」どころか、もっと酷いストーリーになってしまったのだ。

ということは、私の 4年近く前の記事は当たってはいたものの、生やさしすぎたかもしれないってことだ。「ヒット」ではあったが、「シングルヒット」程度である。

現実は時として想像を超える。

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2021年1月15日

肉を食わないと、おならが臭くない

私は肉を食わず、そのかわり魚介類は食べるというペスカテリアンの生活を久しく続けている。すると妙な話だが、おならが臭くない。

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朝日新聞の「Re ライフ.net」の記事で消化器病専門医・松井輝明さんは、おならの主成分は食事の時に食べ物と一緒に飲み込んだ空気なので、「おならは普通、あまり臭いがしません」と言う。

「そんなこと言っても、臭いものは臭いよ」という反応が多いかもしれないが、私なんかは「なるほど、空気は臭くなんかないものね。おならも臭くないのは当然じゃん」と、簡単に納得してしまう。自分のおならが何よりの「論より証拠」なので。

本来は臭いわけじゃないおならを臭くしてしまうのは、「スカトールやインドールなど、腸内でつくられた臭い物質」で、その臭い物質を作り出しているのが「ウェルシュ菌」など、いわゆる「悪玉菌」と呼ばれる腸内細菌なんだそうだ。

このウェルシュ菌の好物はタンパク質や動物性の脂だが、これらは本来、胃や小腸で分解されるので大腸まではあまり届かないという。ところが食生活が肉食中心になってしまうと、消化しきれなかった残りかすが大腸まで届き、それらが悪玉菌を活性化させる。

これは逆もまた真なりで、肉を食わなければ悪玉菌が活性化されず、その悪玉菌の作り出すスカトールやインドールなどの発生も抑えられる。それでおならも臭くならないというのは、納得できるストーリーだ。

なるほど、肉を食わないとおならが臭くないというのは、ちゃんとした科学的根拠のある話なのだね。単なる気のせいじゃなかったのだ。

ちなみに「オヤジのうんこは臭い」という定説も、私には当てはまらないようだ。「いいウンチ研究所」というサイトによれば「オナラとウンチは同じ臭さ」というから、おならが臭くなければウンチも臭くないのは当然である。妻も娘も、私の後に平気でトイレに入るからね。

「お父さんの後にトイレ入りたくな〜い!」なんて言われてメゲてしまっている人は、試しに焼き肉、牛丼ワシワシを止めてみるのはいかがだろうか。

 

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2021年1月14日

ジェンダー・ハラスメントの面倒くささ

先日ラジオを聞いていたら、リスナーからの投書で「職場で乱雑になっていた書類をきちんと整理したら、『さすがに女だから、よく細かいところに気付いたね』と褒められてしまった」というのがあった。これ、褒められて嬉しかったというのではなく、逆に憤慨しているのである。

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彼女の意識としては「細かいところに気付いて、ちゃんと効率的に整理できたのは、『女だから』じゃなく『私だから』です!」ということになる。

「さすが女だから云々」という言い方をされてそのように反応するのは、十分に自然で当然なことだと思う。もし私が彼女の同僚とか上司とかだったら、「女だから」なんて褒め方は気持ち悪くて到底できない。褒めたつもりが逆に「ジェンダー・ハラスメント」になってしまっている。

上の画像はちょっと古い記事だが 2015年 10月 29日付の「ここは昭和か!?」という記事へのリンクである。平成の時代に書かれたものだが、令和の御代になっても十分通じたりする。

この記事で紹介されているジェンダー・ハラスメントは、「女性のお茶入れ(ママ)や接待など。女性はかわいくて若くて笑っていればいいと思われている」「結婚を報告したら上司の第一声が『いつ辞めるの?』だった」「女は25までに子どもを産むべきと言われた」などなど。

ここまで露骨じゃなくても「君は愛嬌があって評判がいい」とか「君の淹れるお茶はいつもおいしい」なんてのも、案外アブナい。言うケースとタイミングによっては、言われた方はムッとくることが十分あるだろう。

ところが冒頭の例と同様、言った方は褒めたつもりで気持ちよくなっちゃっていて、「褒めて何が悪い?」と言い出すので話が面倒だ。その褒める価値感が褒められる方の価値感とケンカしてしまっているので、ちっとも褒めたことにならないのだが。

逆に女性上司に「男のくせに、なんでこんなことができないの?」なんて言われたりするのも、立派な(?)ジェンダー・ハラスメントだ。日常的な話としては、ちょっとでも重そうな荷物が届いたりすると、若い男性社員はどんなに忙しくしていようがお構いなしに呼び出されちゃうしね。

「男ならやってみろ!」なんて言い方も、私としては気持ち悪くてできないし、さらに言われたくもない。

セクシャル・ハラスメントは「セクハラ」という短縮形で言葉としても浸透しているから、社会全体としても多少は気をつけようという空気になってきている。しかしジェンダー・ハラスメントはまだ社会に認知されていないのが問題だ。「ジェンハラ」なんて言っても、日本のどこでも通じないしね。

【1月 31日 追記】

この問題について、ほぼ 15年も前にちょっと危うい記事を書いたのを思いだした。「道案内の下手な女 (性差 その3)」というものである。これを書いた時点で私は「自分がずいぶん危ういことを書いている」ということを自覚していたので、かなり回りくどい書き方をしている。

このくらいの回りくどさがないと、この問題については語れない。

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2021年1月13日

ジャニスの "PEARL" が世に出て 50年

Facebook に "50 Years of Janis Joplin's PEARL #Pearl50" という記事がある。ジャニス・ジョプリンの名アルバム "PEARL" が世に出て、なんと 50年なんだそうだ。もう半世紀も経ってしまっているのか! Facebook の記事には当然ながら、「超いいね!」を付けさせてもらった。

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このアルバムが発売されたのは 1971年 1月 11日。私が高校 3年の時で、その 2か月後には大学進学が決まり、上京している。このアルバムを買ったのはそんな頃だが、ジャニス自身は既にこの世にいなかった。

彼女は前年の 10月 4日にヘロインのキメ過ぎであの世に行ってしまっていたのだ。だからこれはジャニスの「遺作」という特別な意味をもっている。

上の画像をクリックすると Facebook の記事に飛んで、"Me and Bobby MacGee" を聞くことができる。クリス・クリストファーソンの名曲だ。(下の「追記」参照)

今、改めて聞くとジャニスの声はとても可愛らしい。そう感じるのはこちらが年を取ってしまったからかもしれない。初めて聞いた 18歳の時は、そのソウルフルなキメキメのパフォーマンスにシビれるばかりだった。

ちなみにクリス・クリストファーソン自身の歌は こちら で聞くことができる。これと比べると、ジャニスのバージョンはものすごく濃い。

(英語では意味がわからないという方は、一度 中川五郎の日本語でのパフォーマンス を聞くといい。彼の訳は「ありがとう! よくぞここまで原詩に忠実に日本語にしてくれました!」と言いたくなるほどだ)

この歌でとくに泣かせるのは次の部分(訳は私)。

I'd trade all tomorrows for a single yesterday
Hodin' Bobby's body next to mine

全ての明日を、たった 1日の昨日と交換してもいい
そばにいるボビーを抱きしめていた、その 1日と

ジャニスの "PEARL" 50周年を記念する Facebook の書き込みをクリックしてこの曲が流れるのは、世界中のジャニス・ファンの思いを代弁するからだろう。ジャニスがギンギンにナマで歌っていた あのたった 1日の昨日 が戻るなら、全ての明日を諦めてもいい。

それにしても私は今でもこのアルバムをアナログの LP で持っているが、悲しいことに再生する機器が手元にない。それで iTunes (おっと、今は "Music" というのか)で聞くしかなくなっているわけだ。

ただ、何を通して聞いても、”PEARL” はウルウルきてしまうよ。

【追記】

”Me and Bobby Macgee” という曲は、恋人だった Bobby MacGee と、米国南部のサリナスの町で別れたことを歌ったものだが、昔、「ボビー・マギーって、男なの? 女なの?」と聞かれたことがあった。答えは「歌い手のジェンダーによって変わるんだよ」ってことだ。

"Bobby" という名前は男でも女でもいけるから、クリス・クリストファーソンの作った曲をジャニスもそのまま歌うことができたのである。

ただ「そのまま」とはいえ、クリスは "I let her slip away" (彼女を放してやった)と歌い、ジャニスは "I let him slip away" (彼を放してやった)と歌っている。これによって「クロス・ジェンダー・パフォーマンス」(これについては こちら を参照)にならずに済んでいる。

 

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2021年1月12日

気付くようで気付かないちょっとしたミス

サッポロとファミマ共同開発商品 LAGER を LAGAR とするミスで発売中止」というニュースには、申し訳ないが笑わせてもらった。添えられた写真を拡大してみると、なるほど、「開拓使麦酒仕立て」の文字の左下の文字が "LAGAR" になっちゃってる。

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このニュース、配信されたのが 4日前の 8日の夜である。商品の発売開始予定日が本日の 1月 12日だったというのだから、準備万端整って「あとは数日後のスタートを待つばかり」となったギリギリのタイミングでミスに気付いたもののようだ。現場はさぞドタバタだったろう。

商品展開に当たっては会議などで何度も検討を重ね、デザイン案も関係者にしっかりと示されていただろうに、誰も気付かなかったというのだから不思議である。その昔「不思議だが本当だ」というフレーズが流行ったことがあったが、まさにそれを地で行く話だ。

ただ、販売が開始された直後に消費者にミス・スペルを指摘されたみたいなことだったりしたら、売れた商品の缶にプレミアム的な価値が生じただろう。これを「惜しい!」なんて思ってしまうのは、部外者の気楽さからだろうか。どちらにしても、残念な話である。

この種の「気付くようで気付かない」ミスは例を挙げるに事欠かない。このブログの 2018年 4月 5日付の「JR のペットボトルは、ぼってる」という記事で紹介した東京駅新幹線ホームのゴミ箱では、片方がちゃんと "Bottles" なのに、そのすぐとなりが "P.E.T. Bottels" になっちゃってる。

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この気持ち悪さに当事者が気付いていなかったのだから、日本における英語表記というのは単に「お洒落感を出すための雰囲気のモノ」でしかないというのがよくわかる。「雰囲気のモノ」だけに、誰も「言葉」として読まないのだね。

私なんか文字がありさえすればつい読んじゃうから、変な標記になっていたら、どうにも気持ち悪くなって気付いてしまうことが多い。ただ、それも日本語と英語だけで他の言葉はわからないし、フランス語なんて完全に「雰囲気のモノ」になってしまうので、自分ではコワくて使えない。

それを思うと、皆さん、よくまああんなに堂々と「雰囲気のモノ」を使いまくるよね。大した度胸と言うべきか、あるいは怖いもの知らずなのか、よくわからないが。

ちなみに "Lagar" って、他の言語でとんでもない意味になってたりしたら、話のタネとしての気の毒感がさらに増大してしまうと思い、ネットで検索してみたところ、スウェーデン語だと「法律」とか「行動」とか「機構」とかいった意味になるらしい。

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下ネタなんかにならず、このぐらいのお堅い意味で、不幸中の幸いだったね。

【1月 14日 追記】

この商品に関しては「廃棄はもったいない」などの声が寄せられたため、そのまま発売されることになったようだ(参照)。発売開始は 2月 2日からというから、運がよければ話のタネに是非入手したいものだ。

 

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2021年1月11日

年賀状の差出人名は表と表のどちらに書くか

正月に届いた年賀状を見ると、差出人の名が表に記されているものもあれば裏にあるものもある。私の場合、リアルの年賀状は宛名書きソフトで印刷するので、最近は自分の住所と名前も同時に左下の方に印刷して済ませている。

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葉書というのは宛名を書く表面の方に差出人の郵便番号を入れるフォームまであるのだから、それが当然だと思っていた。それ以外は「変化技」の類いだろう。

しかし年が明けてからというもの、これについてちょっと考え直している。こと年賀状に限っては、差出人の名前は裏(文面)に印刷する方がいいのではないかと思い至ったのだ。

というのは、年賀状は一度にどさっと届くのでそれを束にしてもち、文面の方をパラパラと見ていくことになる。すると、その文面を見るだけで誰からのものか分かる方がありがたいのだ。そうでないと、いちいち葉書を裏返して差出人を確認しなければならない。

というわけで、「年賀状の差出人名は裏側に」というのを日本の標準にすべきじゃないかと思うようになったのである。実際にはそうなっていないため、裏を見たり表を見たりで面倒なことになってしまう。

ただそうするとデザイン的に制約されたり、手書きの一言を添えるスペースが小さくなったりするということもある。これはこれで問題だ。

そこまで考えて絞り出した結論は、裏面には自分の名をデザインした小さな落款みたいなものを、ちょいと印刷すればいいんじゃないかということだ。要するに誰から来たのかわかりさえすればいいのだからね。

そういえば今年の元旦に載せたブログ用の年賀状が、たまたまそんな感じだった。これは思わぬヒットだったかもしれない。

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こんな感じで印刷し、それを受け取った人がこちらの住所まで確認したかったら、宛名面を見ればしっかり表示してあるということにすればいい。

うむ、次からはリアルの年賀状も、この「落款スタイル」でいこうと思う。

 

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2021年1月10日

「最初にきちんと結論を示す」ことの大切さ

東洋経済 ONLINE に「仕事のできない人はメールの文面がイケてない」という記事があり、是正するための第一歩は「ワンセンテンス・ワンメッセージ」を心がけることとされている。「1つの文では 1つのことを言う」というのは、グダグダと余計な要件を詰め込みすぎないってことだ。

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「そうそう、その通り!」と頷く一方で、「でもこれ、何十年も前から言われてることだよね」とも思ってしまう。この世界、案外進歩がない。「伝えることの下手な人」というのはいつの時代でも同じようにわけのわからないメールを寄こす。

私自身が受け取るメールでも、「一体、何が言いたいんだよ!」と言いたくなるのは、1つの文の中にいろいろな要素を散りばめて、結局自分でも混乱してしまっているような代物だ。

例えば「例の件の関連では、あんなような、こんなような、そしてこれこれこうしたようなこともございますので、どうぞよろしくお願いいたします」なんていうようなメールをもらっても、一体何について「よろしく」すればいいのかわからない。アクションの取りようがないのだ。

「どうやらまだ結論が出ていないみたいだから、続報を待つしかないね」と判断してしばらく静観していると、「例の件はどうなりましたでしょうか?」なんて聞いてくる。これでは「どうなったのか聞きたいのは、こっちの方です」と返事するほかない。

よく確認すると、最初のメールの「そしてこれこれこうしたようなこともございますので」という部分が、重要な結論だったなんてわかったりする。だったら余計なことは書かずに、単刀直入に伝えてもらいたかったところである。

その間の経緯をどうしても伝えたかったら、最初に結論をしっかりと書き、その後に「ご参考までに」とか断り書きを付けて添えてくれればいい。ところが初めにいろいろ余計な話をみっちりと書き、同じセンテンスの最後に重要なことをちょこっと付け足すだけだからわからなくなる。

初めに結論をはっきり書くためには、議論の経緯を自分でしっかりと把握、理解していなければならない。「あんなことも、こんなことも」とどうでもいいことばかり書きたがるのは、議論を振り出しに戻す意味しかないので、こんなやり取りが続くうちに、いつの間にか案件自体がうやむやになってしまう。

ちなみに菅総理の国会答弁は、その典型だ。ことをうやむやにしたいがために自分でもはっきり理解する気がないか、あるいはそれとは逆に、自分がはっきり理解していないのでうやむやに答えるしかないかのどちらかである。

申し訳ないが、「十分に理解しているけど、敢えてトボけている」といった感じには見受けられない。

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2021年1月 9日

大腸がんの疑いが晴れて、無罪放免

これまで隠していたというわけではないが、敢えて触れていなかったことがある。それは昨年秋に 10数年ぶりで受けた健康診断で、「大腸がんの疑いがある」と言い渡されたことだ。わずかながら血便が認められたというのである。

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私としては健康にはかなりの自信をもっていて、「健康診断で『大腸がんの疑い』なんて言われても、ほとんどは単にたまたま肛門付近から出血があっただけということだから、大丈夫だよ」なんて言っていた。決して痔というわけじゃないのだけどね。

しかし鬱陶しいことに、妻も 3人の娘も「絶対に検査を受けて!」と言い張る。上のグラフは大鵬薬品のサイト(参照)からお借りしたのだが、確かに男子は 50歳を過ぎたあたりから大腸がんが急増するらしい。がんの中ではそれほど怖いものではないというが、家族の心配する気持ちもわからないじゃない。

それで仕方なく昨年のうちに検査の予約をし、昨日の午後に大腸内視鏡検査とやらを受けたのだった。この検査はやたらと面倒くさくて、前日はほんの少量のおかゆとゼリーしか口にできず、当日は朝から 1時間半かけて下剤を 1800㎖(つまり 1升)飲んで、腸の中を空っぽにして来いというのである。

そんなわけで、昨日は空腹と脱力感と腸のゴロゴロ感でヘロヘロになりながら病院に行き、内視鏡検査を受けたのだが、これがまた強烈に痛い。あまりの痛さに耐えきれず、途中から点滴に麻酔を少々混ぜてもらってちょっとだけウトウトし、やっと切り抜けた。

後から聞いたところでは、大抵の場合は始めから麻酔をして軽く眠らせるらしい。そういえば昨年末の事前説明で「麻酔はどうしましょうか? 使わない人もたまにいるんですが」と聞かれ、「そうですね、帰りのクルマの運転もあるし、シラフで・・・」なんて、軽い気持ちで返事した覚えがある。

とはいうものの。あんなに痛いんだったら最初からはっきりそう言ってもらいたかったなあ。これから大腸内視鏡検査を受ける人がいたら、迷うことなく麻酔をオススメしておく。

眠気から醒め、約 2時間後に出た検査結果は「異常なし」。ほぉら、だから言ってただろうが。やっと無実の罪が晴れて無罪放免になったような気分だった。

というわけで、「健康体」のお墨付きをいただくために余計な時間とお金をかけ、あまつさえやたら痛い思いまでしたわけだ。ただ多少の「おみやげ」みたいなものがなかったわけじゃない。昨年の段階で「ちょっと血圧が高めなので、注意してください」と言い渡されたのだ。

私は若い頃からずっと血圧は低めだった(この件のお話しは 2005年 6月 9日の記事 参照)が、最近は年のせいか高くなっていたみたいなのである。それで年末から塩気の強い食事を避けて頑張っている。

東北生まれの血筋で本来なら塩辛いものが好きなのだが、こればかりは仕方がない。それでまあ近頃は、数値がだんだん下がってきた。体というのは正直なものである。

そんなこんなで当人としては、昨年 12月 27日の記事で書いたように、あと 10年ぐらいピンピン健康で生きた後はコロリとあの世に行こうと思っているわけなので、なにぶん

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2021年1月 8日

パジャマを着ることを巡る冒険

年明けのネット・ミーティングで公式の話が終わってから、どういう成り行きだったか「寝る時にパジャマを着るか、着ないか」という話題で盛り上がってしまった。

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この時に参加していた 10人ほどの中で「パジャマなんか着ない」というのは私一人だけで、あとは全員パジャマ、あるいは少なくともスウェットの上下など「パジャマに準ずる服」を着て寝ているらしい。これには驚いてしまった。

私は夏は当然として、真冬でも寝るときは「パンツ一丁」である。中学に入る前頃まではパジャマを着させられた記憶があるが、「なんでこんな妙ちくりんな服を着なきゃいけないんだろう?」と、今思い出しても違和感たっぷりだった。基本的に寝る時には余計なものを着たくないタイプなのである。

「風呂から出たら寝るまでの間、何を着てるわけ?」なんて聞かれたから、「パンツ一丁のまま寝ちゃうだけだよ」と答えた。風呂上がりは体が暖まっているから、わざわざ服を着るという発想がない。たまたま寝る前にこなさなければならない仕事が残っていたら、翌日に着る予定の普段着を引っかけるだけだ。

ところが世の中では、私のような者は少数派みたいなのである。「できる男は家の中でも気を抜かない!メンズパジャマおすすめ集」なんていうサイトがあるほどで、パジャマは単に着て寝るだけに留まらない重要アイテムのようなのだ。

皆の話を聞いてみると、「風呂から出たらすぐにパジャマを着てくつろぎ、やがてそのまま眠りに就き、翌朝起きてからもすぐには脱がず、朝飯を済ませ、仕事着に着替えるまで着ていることもある」というのである。これが男子の最大公約数的なものであるらしい。

そんなことだと、パジャマを着ているのは少なくとも 1日の 3分の 1ぐらいの時間になる。もしかしたら「生涯で一番長く着用するアイテムはパジャマ」ということになってしまうかもしれない。なるほど、軽くは済ませられないわけだ。

ちなみに私は風呂から出たらそのまま寝て、起きたらすぐに普段着を着るというスタイルである。最近はとくに「ステイホーム」でオンデューティウェア(仕事着)に着替える必要がないので、ほとんど普段着ばかりで済んでしまう。

「パジャマなんて、結局なくても済むじゃん」と言うと、「ヨイヨイで寝たきりになったら、嫌でも着続けることになるよ」なんて言われた。いやはや、そりゃ大変だ。

パンツ一丁で寝たい一心で、寝たきり回避を心がけよう。

 

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2021年1月 7日

酒田の地吹雪の凄さ

私の生まれた山形県酒田市は一応「雪国」ということになってはいるが、決して「しんしんと降り積もる」のではない。何しろ、雪は「上から降る」のではなく、「横から下から吹き付ける」のである。

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単なる「吹雪」ではなく「地吹雪」という言い方になるのは、体験してみればすぐに納得できる。天気としては決して大雪が降っているというわけでもないのに、地表付近だけが猛吹雪なのである。一度降った地面の雪が台風並みの暴風で舞い上がり、飛ばされるのだ。

上の写真からリンクされるのは、Mamoru Kimura さんという方の「庄内特有の地吹雪を体験ドラブ」という YouTube 動画である。道路の積雪はそれほどではないものの、昼間でも先が見えないほどの地吹雪が吹き荒れる。雪にしてみれば、呑気に積もってる暇なんてないのだ。

私は高校を卒業するまで酒田で暮らしたが、地吹雪でまったく視界の効かない朝などは、手探りで登校したこともある。学校に着くと、体の片側(風上側)は雪で真っ白だが、反対側はカラカラに乾いている。冒頭で書いたように、雪が上からではなく、横から下から吹き付けるためだ。

天気予報によれば、本日の山形県庄内地方は午後から暴風雪ということになっている。酒田での「暴風雪」というのは、要するに猛烈な「地吹雪」のことに他ならない。

「地吹雪」で思い出すのは、かなり前の話になるが結婚前の正月頃に、妻を初めて酒田に連れて行った時のことだ。

「特急いなほ」を降りる前から「今の季節の酒田で道を歩く時は、姿勢を低くして足をしっかり踏みしめるんだよ」と注意していたのだが、妻はそんなことを言われてもあまり実感がわかなかったらしい。しかし着いてすぐに、その認識の甘さを思い知ることになる。

雪の酒田に到着。列車から降りて歩き始め、駅舎から離れて猛烈な向かい風を受けた瞬間、「ア〜レ〜!」という悲鳴に振り返ると、アイスバーンの上を妻が風に流されているではないか。こうした場合には何と表現すればいいか迷うが、「流されている」以外の言葉を思いつかない。

「早くしゃがんで!」と声をかけ、手を引っ張って助けたのだが、あの光景は今でも目に焼き付いている。地吹雪の路上を人間が棒立ちのままスルスルと水平移動している姿というのは、あまりにも非日常的すぎる。

というわけで妻は今でも、「真冬の酒田は恐ろしいところだわ」としみじみ言うのである。

 

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2021年1月 6日

「牛賀状」というものには驚いた

今年は丑年ということで、我が家に届いた年賀状は会津の「赤べこ」をフィーチャーしたデザインが多かったが、中にはこんなのもあった(スタンプを使ったらしい)。私は肉を食わなくなって久しいので、ちょっとギョッとしてしまったよ。

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このデザインの賀状の差出人は、私がポリシーとして肉を食わないのを知ってるはずなんだがなあ。まあ、いずれにしても干支というのは一応縁起物なんだから、鍋にして食ってしまおうみたいな発想はいかがなものかと思う。

ところがなんとまあ、昨年末には「牛賀状」なんていうものまで訴求されていたというので、さらに驚いてしまった。「年賀状を宮崎牛で贈ろう」という企画である。

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こんなのがウチに届かなくて、本当によかったよ。当事者たちは「12年に 1度のビジネスチャンス」と捉えたのかもしれないが、ちょっと話が違いすぎだろうと思ってしまう。

そう言えば、私も一昨年の亥年の元旦にこんなデザインの年賀状を載せていた(参照)。江戸の役者絵で、「山くじら」を食わせる店の場面である。

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「山くじら」というのは、江戸時代の隠語で「猪」のこと。獣肉を食うのを忌む風潮があったため、「猪鍋」のことを遠回しに言ったものだ。まあ、クジラにしても哺乳類ではあるのだが、江戸時代の人にとっては「やたら大きな魚」ということだったのだろう。

ただ、この時は次のような断り書きを入れて、あからさまな獣肉食いのイメージをギリギリのところで避けさせてもらった。

天保 2年 11月の顔見世芝居で初代沢村訥升(後の五代目沢村宗十郎)襲名披露のものだが、演目不明。この絵の左に肝心の訥升が描かれているが、猪肉をさばいている場面のため、肉を食わない私としては、悪いけど省いた。

ただ、よく調べてみるとこの絵の左端で訥升がさばいているのは、猪肉ではなく「うなぎ」のようなのである。それで勘違いの埋め合わせとして、改めてこの時の役者絵の完全版を紹介させていただこうと思う。

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確かに左端の貼り紙には「かばやき」と書かれているし、拡大版で確認すればうなぎを串で刺して板に固定しているのがわかる。一昨年はてっきり猪肉をさばいているものと、早合点してしまったようだ。

ちなみに貼り紙の「ば」と読ませる字は、昨日の記事で触れた「そば屋」の「者」という字を崩した変体仮名(プラス濁点)と同じで、一番下の「き」と読ませる字は「起」(「記」や「妃」ではないのでご注意)を崩したもの。

というわけで、今年も変わらず「ペスカテリアン」(肉は食べないが、魚介は食べる)として生きさせてもらおうと思っている。ただ私としてはこちらに書いたように、うなぎも食わないことにしているので、そのあたり

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2021年1月 5日

草書体で書かれた古文書というもの

言うまでもないが、本日の記事のタイトルにある「古文書」は「こぶんしょ」ではなく「こもんじょ」と読んでいただきたい。

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上の写真は福井県立図書館のサイトにある「古文書入門講座」で教材に使われているものだが、ほとんどの人はまともには読めないだろう。私も正直言って、「降参〜!」となってしまう箇所が結構ある。(画像をクリックしてリンク先に飛ぶと、現代語のテキストが下に表示される)

知り合いに、亡父が生前書きためていた「自分史」を、遺言に従って自費出版の本にし、親類縁者に配ったという人がいる。ところがこの「自分史」の原稿というのが、巻紙に毛筆でしためた草書体で、かな文字もほとんど変体仮名だったので、解読に一苦労したという。

草書体とか変体仮名とかいうのは、要するに百人一首の絵札にあるようなやつだ。もっとも近頃の活字で表記されたのじゃなく、下のように伝統的なやつね。

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彼は「父の『自分史』はそのまま写真画像にして『平成の古文書』の本として配るという手もあったけど、誰も読めないんじゃしょうがないから、必死に解読して活字にしたよ」と語っていた。これには 1年近くかかったらしいが、ちゃんと解読できただけ、さすが立派なものである。

古文書解読に関しては、私も学生時代に伝統演劇史(主として歌舞伎)なんていう分野を専攻したもので、散々苦労した。何しろ草書体なんて、大学の教養課程まではまともに学んだことがなかったからね。最初に目を白黒させたのは「歌舞伎の双子(かぶきのそうし)」という古文書である。

これは「都の春の花さかり かふきをとりに・・・」というフレーズで始まる。しかし何しろ草書体で書かれた絵巻物みたいなもののコピーを、いきなり読まされるのだから始末に負えない。

初めのうちは「かふきをとりに」を「カ〜フ〜キ〜を〜、取〜り〜に〜」なんて読んでしまって「こりゃ一体何じゃ?」となっていた。正解は「歌舞伎踊りに」なのだが、げに恐ろしきは草書というもので、落語の八っぁん熊さんを決して笑えない。

日本だけではなく欧米でも、若い人はアルファベットの筆記体を読めなくなってきているらしい。ただアルファベットは 26文字しかないが、古文書のかなは 50文字だけじゃなく大変なバリエーションなので、難易度はめちゃくちゃ高い。

例えば、現代のひらがなで「ア」と読むのは「安」という漢字を崩した「あ」の一文字のみだが、古文書ではこのほかにも、「亜」「阿」「悪」「愛」など、いろいろな漢字を崩した「あ」の字がある。それぞれ、こんなようになってしまう。

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これでみんな「ア」と読めというのだから、ひどいものである。とくに「愛」を崩した変体仮名なんて、ほとんど原形をとどめていないよね。

そういえば、そば屋の看板も「楚者(そは)」を崩したつもりなのが多いから、日本中に「そば屋」ならぬ「そむ屋」が溢れることになってしまった。当ブログの 2011年 12月 4日付でも、その一つを紹介してある (参照)。

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上の写真の「は(のつもりの字)」は、完全に「む」の字になっちゃってる。今どきの看板屋さんは、軽い気持ちで「そば屋の看板の『ば』の字は『む』と書けばいいんだよね」と思っちゃってるようなのだ。本来ならば「者」という漢字を崩したもので、決して「む」じゃないんだが(「楽常 Blog」より)。

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ちなみに、現代の「そ」というひらがなは「曽」を、「む」は「武」の字を崩してできたもの。

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今日の記事はまともにテキスト化できないので、やたら画像が多くなってしまった。草書体とか変体仮名とかいうのは、かくまでに面倒くさいものなのである。

落語の『手紙無筆』に出てくる八五郎やご隠居が手紙をまともに読めないのは、マジな話で無理もないのだ。今の世の中に生まれてきて、本当によかったよ。

 

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2021年1月 4日

差出人不明の年賀状

毎年の正月、必ず 1〜2通届くのが、誰からかわからない年賀状だ。表を見ても裏を見ても、差出人の住所氏名が記されていないのである。下の写真の右側は去年、左側は今年届いた差出人不明物件だ。

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黒ベタで消してある部分は手書きのメッセージで、何となく見覚えのある筆跡のような気もするのだが、それだけでは人物の特定に至らない。これ、結構困ってしまうのだよね。

差出人不明年賀状は大抵の場合、干支の絵などが入った市販の葉書を使用しており、宛名は年賀状印刷ソフトなどを使用せず、律儀に手書きで書かれている。そしてしっかりと手書きのメッセージも添えられているので、よほど律儀な人から届いたものと推測される。

ところが宛名とメッセージを手書きしたために最後の最後で力尽きてしまったのか、肝心の自分の住所と名前を書くのを忘れてしまうようなのだ。こればかりは責めてもしょうがないが、画竜点睛を欠いてしまっていることに変わりない。

うっかり者の私としては自分がこんな失敗をしでかさないように、宛名と差出人の部分は Mac の年賀状印刷ソフト「宛名職人」でしっかりと自動印刷してしまうことにしている。ただ、手書きのメッセージだけは必ず添えるようにしているけどね。

【と、ここまで書いて中断し、2時間後に追記】

上の写真の右側、昨年の物件の差出人が突き止められた。非常に達筆な筆文字なので、今年の年賀状で同じ筆跡のものを探したところ、容易に特定できたのである。

差出人は畏れ多くも某芸事の家元のお方で、達筆なのも道理。関係先や主な弟子筋に多分 1,000通以上の賀状を出されるのだろうから、最後の方になったら自分の住所と名前を書き漏らしてしまうのも無理ないよね。逆に多くの賀状に自筆の一言を書き添えておられるというだけで恐縮してしまった。

なお、左側の今年の分はまだ特定に至っていない。

 

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2021年1月 3日

写真の「水平をとる」ということ

私は自分のもう一つのブログ「和歌ログ」で毎日歌に写真を添えているので、素人としてはずいぶん自前の写真を世の中にさらけ出している方だと思う。ほとんどは iPhone のカメラで撮っているだけだが、16年以上も続けていると年季のお陰か、ほんの少しぐらいは上達しているような気がしている。

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ありがたいことに私は仕事柄、プロのカメラマンとの付き合いが多い。彼らは「アマチュア写真では『水平をとること』さえ気をつければ、多少は『見られる写真』になりますよ」とアドバイスしてくれる。どのカメラマンもそう言うのだから、これはきっと「鉄則」みたいなことなんだろう。

「フツーの人のブログや SNS に載ってる写真は、たいてい水平のとり方が甘くて残念なものが多いんです」と彼らは言う。それはアマチュアの私からみても確かにその通りだと思う。

それだけに自分の撮る写真はかなり気をつけているつもりだが、これが結構むずかしいのだよね。上の写真は昨年「和歌ログ」に使ったものの中から選んだ 4枚だが、辛うじて何とかなってると思う。右上なんて、雲の角度が右上がりなので錯覚しがちで大変だったが。

見たところ、「水平のとれていない素人写真」には 2通りあると思う。1つは「水平なんて全然意識してない」もの。2つめは「この方がおしゃれかも」なんて下手に意識して、わざと斜めの構図にしたものだ。どちらもほとんど「無残なできばえ」に終わる。

「水平」を意識しなかったために不器用かつビミョー(あるいはビミョー以上)に斜めっちゃってるのは、誰がみても一目で「お下手な素人写真」とわかる。とくに海の写真はほとんど水平線が斜めになっていて、興醒めにも程がある。こればかりは「基本のキ」からやり直さなければ、お話にならない。

この手の写真には「縦位置」のものがやたら多い。これはスマホをそのまま片手で構えて撮るからそうなるだが、本来なら「横位置」の方が望ましい広がりのある構図でも、無残に縦に切り取られてしまっている。つまり「何も考えないで撮ってる」のがバレバレだ。

3〜4人で行った旅行先での集合写真が「縦位置」の斜め写真でまともな背景さえなかったりすると、それはもう「ガッカリ写真」以外の何ものでもない。カメラを「横位置」に構えて慎重に水平をとりさえすれば、多少は喜んでもらえるのだから、気をつけるに越したことがない。

さらに「意識的な斜め構図」というのは、実はかなり難しいもので、よほど特殊な必然性でもない限り避ける方がいいといわれる。つまりアマチュアはひたすら素直に「水平に忠実な構図」を心がけるに越したことがないようなのである。

 

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2021年1月 2日

紙の年賀状の数は大幅に減らしたいのだが

新年も 2日目。恒例の箱根駅伝をテレビ観戦しながら盛り上がった。母校のワセダは往路のゴール手前で抜かれて、シード圏内の 10位の位置を確保できなかった。やれやれ。

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ところで、年賀状の話題である。一時は 200枚近く出していたことがあり、昨年も 100枚ちょっとだったが、今年は大幅に絞り込んで、年内にこちらから出すのは 60枚に抑えていた。しかし元日に届いたのを見ると、こちらからは出していない人から 30枚近く来ている。

近頃は SNS が広まっているから、実際に紙の年賀状を出さなくても画像とテキストで新年の挨拶はできる。こうなるとよほど儀礼的な挨拶が必要な相手や、インターネットができない年寄りの親戚とか以外は、オンラインで済ませたいのだが、実際はなかなか思うに任せない。

というわけで箱根駅伝の往路を見ながら、こちらから出さなかった相手に「返事」的に出すため、改めてプリント作業をした。これからもまだ届くだろうから、今年は全部で 100枚弱ということになりそうだ。来年はできれば 80枚以内に抑えたい。

Facebook などで繋がっている相手向けはすべて、昨日の記事のような「オンライン年賀状」だけで済ませたいのだが、それが世間の常識になるまでには、まだ数年かかるのかもしれない。

 

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2021年1月 1日

【コロナ退散を祈り】新年(丑年)のご挨拶

新年あけましておめでとうございます。2021年(令和 3年)最初の記事は、最近恒例の年賀状です。今年もよろしくお願いいたします。

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(ここからいつもの調子で)

今年は丑年。12年前 2009年(平成 21年)の丑年の時は、禅の「十牛図」なんてものをモチーフにしてエラく高尚な年賀状にしてしまった。こんな感じである。

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これと比べると、今年の賀状はかなりシンプルだ。モチーフはウチの田舎の羽黒山神社の火伏せのお守り。かなり雰囲気のある牛の絵である。毎年秋になると、羽黒山の山伏が法螺貝を鳴らしながら勧進し、このお札の絵を分けて歩く。

で、面白いのはこの牛の絵のお守りを逆さまにして台所に貼っておくと、火事にならないというのだ。だから今年の賀状のデザインでは、下の逆さまの絵の方がオリジナルで、上にあるのは鏡像になっている。

今年はもろに単純な話として、新型コロナウイルスによる感染症拡大が収まることを祈らずにはいられないので、このモチーフにした。火伏せのお守りなのだから、炎を上げる火の玉のような形のウィルスにだって効き目があるかもしれないじゃないか。

というわけで、添えた和歌は「羽黒なる火伏せの牛にこの年はコロナ退散合わせ祈らむ」である。この感染症が下火になったら、気軽にあちこち旅に出たくてしょうがない。

 

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