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2021年7月に作成された投稿

2021年7月31日

「理想的な気候」と「ダイナミックなカタカナ英語」

暑い。こんな中でオリンピックをやってるんだから、ご苦労なことである。まあ、私は開会前から「どうぞご勝手に」と言ってるので、無関係を決め込んでいられるが、屋外競技に出ている選手はまったくもって気の毒だ。

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この件について、日本は 2013年の IOC でのオリンピック招致のプレゼンテーション文書で大嘘をついていたとの批判が、国際的に高まっているという。(参照

そりゃそうだ。「温暖で晴れた天候が多いこの時期は、アスリートにとってベストのパフォーマンスができる理想的な気候」(With many days of mild and sunny weather, this period provides an ideal climate for athletes to perform their best.)なんて、当たり前の感性ではとても言えない。

ちなみに IOC 総会での関係者のプレゼンは絵に描いたようなカタカナ英語のオンパレード(参照)で、滝川クリステルのフランス語はさすがに上手だが(参照)、「お・も・て・な・し」なんていうのは「裏ばかり」ってことかと、思い出すさえ気色悪い(参照:「おもてなし」には、やっぱり裏があった)。

福島の原発の状況を "under control" (制御下にある)とほざいた安倍晋三(当時の首相)は、もっとヒドい(参照)。

表情だけは根拠不明の得意満面さだが、そのスピーチとなると「小学生を相手にしてるみたい」と言いたくなるほどのことさらな単語区切りの上に、その「カタカナ英語」がかなり舌っ足らずのため(この人、母国語も舌足らずで滑舌が悪いし)、「二重の幼稚さ」が印象付けられる。

とにかく最初の一言、"Mr. President" のつもりで「ミスター・プレゼント」なんて言ってるので、8年前のニュースでものっけからコケたのを思い出してしまったよ。

さらに東京について、”one of the safest cities in the world" (世界で最も安全な都市の一つ)と言いたかったんだろうが、どういうわけか、やたらと、区切り、ながら、”one of the, safest, sixties, in the world" (世界で、最も安全な、60年代の、一つ)なんて言ってる。

まあ、多くの出席者はイヤフォンで自国語による同時通訳を聞いてるから、満場がコケずには済んだようだが。

この関連で、当時の都知事で「ダイナミックなカタカナ」(末尾の「注釈」参照)による招致プレゼンをしていた猪瀬直樹という男が後にテレ朝系「大下容子ワイド!スクランブル」 に出演した時の模様を、スポーツ報知が 2019年 10月 30日付で伝えている(参照)。これ、しっかりとむし返しておこう。

杉村氏が「マイルド・サニーじゃないんじゃないかって気もする。それは後ろめたい気持ちはない?」などと聞くと「マイルド・サニーって書いてあるの? ハハハッ…それはそのくらいプレゼンテーションはそんなもんでしょ」と返していた。

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いやはや、テキトーなものである。そばにいたら、どつくよ。

さらに言わせてもらえば、真夏の東京が殺人的な暑さであることは、何も今年に始まったことじゃない。かなり前から世界の常識なのだから、ほとんどの IOC 委員たちにしても知らないはずがないではないか。

プレゼン資料の大嘘が何事もなくスルーされちゃってるのだから、まさに徹頭徹尾「おもてなしで裏ばかり」(つまり損得勘定)というわけだ。日本が「大嘘つき」というだけでなく、それをすらりと受けた IOC 全体が欺瞞的だったのだと言わなければならないだろう。

始まってしまってから「苛酷な暑さ」なんて言い出すのは、率直に言えば「今さら感」ありありだ。

【注釈】

猪瀬直樹のプレゼンを、つい「ダイナミックなカタカナ」と表現してしまったのは、プレゼンテーション・スピーチがまさにそんな感じだったからである。

まず東京という都市について語ろうとして、”Tokyo is the city that is Dynamic..." と言い出したのっけ(開始 7〜8秒あたり)から、「ダイナミック!」(「ミッ」にアクセント)なんて言いつつわざとらしく拳まで振り上げたりしておいでだ。

これ、本来のアクセントは、「ダイミック」(「ナ」にアクセント)ね。でもまあ、安倍前首相の「ミスター・プレゼント」も含めて、「プレゼンテーションなんだから、そんなもん」か。

 

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2021年7月30日

「謝らない謝罪」それは「遠回りな開き直り」

Newsweek 日本版の ”「謝らない謝罪」が日本で蔓延している” という記事に共感した。「その言葉への違和感」として望月優大氏の書いたものである。

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多くの読者は、見出しを見ただけで何のことだかすぐにわかるだろう。そう、例の「誤解を生じさせてしまったことについてはお詫びする」とか、「誤解を与えたのであれば申し訳ない」とかいう(かなり都合良すぎる)決まり文句のお話だ。

世間はとくに最近、この類いの妙なアポロジーに溢れていて、私もかなり気になっていたところである。記事によれば、英語には "non-apology" ("non-apology apology" とも)という言葉があり、オックスフォード大学が運営する辞書サイト "LEXICO" では、次のように説明されている(参照)。

謝罪の形式を取りながら、問題行為や混乱発生に関する責任を認めることや悔悟の念の表明にはなっていない声明(tak-shonai 訳)

つまり、形だけは謝罪のように見えても、言外に「俺、別に悪くないもんね」と語っている詭弁的なコメントを指す。

そのココロは、「そんなつもりはなかったのに、お前らが面倒なことをゴチャゴチャ言いやがるんで、鬱陶しいから一応形だけは謝っといたるわ」ということだ。これ、要するに「遠回りな開き直り」である。

森喜朗が 2月に東京五輪・パラリンピック大会会長を辞任した際の以下のような「〜けれども」「〜だが」の連続する戯言(参照)は、ただでさえみっともない non-apoiogy の中でも最低の部類と言っておく。

まあこれは解釈の仕方だと思うんですけれども、そういうとまた悪口を書かれますけれども、私は当時そういうものを言ったわけじゃないんだが、多少意図的な報道があったんだろうと思いますけれども。まあ女性蔑視だと、そう言われまして。

菅首相も昨年末の多人数での会食についてツッコまれ「国民の誤解を招くという意味では、真摯に反省している」なんて言っている(参照)。しかしコトは「誤解」の余地なんてない「単純事実」なのだから「詭弁」というにもお粗末すぎで、実際はちっとも反省にも謝罪にもなっていない。

この他にも「そういう意味で言ったわけじゃないんですが・・・」とか「差別的意図はなかったんですが・・・」とか言うのは、こうしたコメントの枕詞のようなものだが、ちょっと心理学を囓った者なら、「そういう意味だったんだよ!」「本音がポロリと出たんだよ!」とツッコミたくなるに違いない。

フロイト心理学が広く認知されている米国では、ちょっとした言い間違いやトチりに深層心理内の本音がひょっこり顔を出すということは、知識層の常識みたいになっている。だから「そんなつもりじゃなかった」という言い訳で切り抜けるのは、米国ではもはや困難だ。

つまり彼らの問題発言は、「誤解を生じた」なんてことではなく「本音が図星でバレた」ということに他ならない。形だけの謝罪で済まされることではなく、本気で詫びて反省しなければならないところなのだ。

それができずに「些細な問題」で済ませている限り、彼らの本音はいつまでも醜悪なまま残るし、以後は巧妙にとぼけようとするだけに、ますます始末に負えない。

 

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2021年7月29日

漫才は二人でなければならないか?

やしろぶ」というかなりおもしろいサイトがあり、この中の最新記事が ”国語辞典たちが「漫才」に課すムダ条件、「二人」” である。ほとんどの国語辞典が漫才は「二人」で行う芸能としていることに対して、徹底的に疑問を述べたものだ。

なるほど、昭和のレツゴー三匹、かしまし娘、チャンバラトリオから、1980年代(この頃も昭和といえば昭和か)のトリオ・ザ・テクノ(いやはや・・・)等々に至るまで、三人の漫才芸にはこと欠かない。ただ個人的には、これらの「トリオ芸」は「漫才」の範疇からはみ出すのではないかと思ってきたのだが。

折しもまさにそのトリオ・ザ・テクノのちょっと前頃に大学院にまで進んで古典芸能なんていうゼニにもならない研究をしていた不肖私めとしては、「漫才が二人なのは当然じゃん!」と思ってしまうのだ。というのは、現代の漫才は伝統芸能「萬歳」の系譜を引いているからである。

萬歳は基本的に「太夫」(たゆう)と「才蔵」(さいぞう)の二人一組で演じられる芸能である。それで、その系譜を引きつつ寄席芸能となった「漫才」も当然ながら二人一組なのだ。これ、日本の常識である。

我が故郷、庄内の地でも、私が小学校に入る前(半世紀以上前!)は正月になると萬歳が門付けに廻って来たもので(あれは「秋田萬歳」だったのかなあ?)、幼い私は大喜びで見ていた。ただどういうわけか、あまり教育にはよろしくないと思われていたようで、夢中で見ていると大人に叱られたりもした。

その頃は「大黒舞」(庄内弁では「でっごぐめ」という)なんてのもあったなあ。今では「〽︎ 明けの方から福大黒、舞い込んだなァ・・・」って歌の方が民謡のスタンダードとして有名になってしまっているが。

と、こんな風に考えているうちに、不意に「ありゃ、萬歳は必ずしも二人一組とは限らなかったりして・・・」などと、ここまでの流れからするとかなり「不都合な真実」を思い出してしまった。それでググってみて動画部門の最上位に出てきたのが、なんともはや、上の三河万歳の動画である。

これ、太夫が一人に、才蔵が二人の三人構成で演じられている。このパターンはあくまでも変則ではあるが、実際にはそれほど珍しくもないのだよね。門付け芸としては大抵二人一組だが、神社での奉納や、少々改まってのパフォーマンスとなると、ご丁寧に才蔵を複数にしてしまうことがあるのだ。

Wikipedia にも、「萬歳は太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)の 2人が 1組となるものが基本となるが、門(かど)付けではなく座敷などで披露されるものは 3人以上から、多いもので十数人の組となる」とある(参照)。ただ私は「十数人」の萬歳なんて見たことがないけどね。

というわけで、寄席の「トリオ芸」というのも、才蔵が二人バージョンの萬歳みたいな「派生パターン」と考えていいのかもしれないと思い至った次第である。やしろぶさん、常識外れ扱いしかけてごめん。

 

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2021年7月28日

ウィルスとマスク着用の、かなり面倒なお話

Gigazine の昨日付に 「新型コロナワクチンを接種したらマスクをしなくても OK なのか?」という記事がある。元記事は "Should fully immunized people wear masks indoors? An infectious disease physician weighs in" という記事だ。

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元記事の見出しは訳すと「きちんと予防接種した人は屋内でマスクを着用すべきか? 感染症専門医が意見を述べる」というもので、この疑問にカリフォルニア大学サンフランシスコ校の薬学教授、Peter Chin-Hong 氏が答えている。

私は 7月 23日付の ”ユニクロ「エアリズムマスク」で夏を乗り切るか“ という記事で、「日本全体のワクチン接種率が高くなって、マスク着用をうるさく言われなくなるのを待つだけだ」「次の夏前にはマスクから解放されたい」 なんて書いているが、実はこれ、よく調べるとかなり面倒な話のようなのだ。

昨年初め頃、アメリカ疾病予防管理センター(CDC)は、「病気の場合はマスクを着用し、病気でない場合は病気の人を看病していない限りマスクを着用する必要はない」としていたし、世界保健機関(WHO)に至っては「ガーゼやコットンなどの布製マスクの使用は推奨されない」なんて言っていた(参照)。

WHO は昨年 3月に出した文書でも「マスクの効果は大したことがない」みたいなことを書いていて(参照)、私としても「WHO って、かなり乱暴なこと言うなあ」と思った記憶がある。しかしその後は米国でも何度も指針が更新され、だんだん着用の方向に向いてきた。

その後はワクチン接種が進むにつれて文言上はちょっと緩み、今年 3月 9日、CDCは「新型コロナウイルスワクチンの接種を受けた人同士ならば、マスクを着用せずに屋内で過ごすことが可能」とするガイドラインを公開。これ、我が家の現状でもある。

しかし新規感染者数が再び増加し始めると、7月 15日にはロサンゼルス郡が、ワクチンの接種状況に関わらずマスクを着用することを求める決定を下すなど、マスク着用を促す動きが再び活発化。まさに「行ったり来たり」で訳がわからない。

今回の Gigazine の記事で Peter Chin-Hong 氏は、「アメリカ国内での COVID-19 による入院者数と死亡者数が管理可能であり、医療崩壊に陥っていない限りは、新型コロナウイルスワクチンの接種者に対してマスクの着用を義務づける必要はないでしょう」と締めくくっている。

ところが一方で、ワクチン接種が済んだ人でもマスク着用は続けるべきだとの主張もある。ワクチンを接種しても自身が感染・発症しにくくなるだけで、ウィルスを媒介する可能性は残っているというのがその理由で、日本の厚労省はこの立場のようだ(参照)。

実証的な見地からの話はなかなかよくわからないが、見えてきたことはメンタリティとして、「日本人はマスクに抵抗がないが、西欧人は着用したがらない」ということだ。日本は一貫して「マスクしましょう」で進んできているが、米国は何かプラス要因さえあれば「しなくていい」と言いたがる。

これだけは傾向として確実に言えそうなので、マスクに関する情報は、このバイアスを意識して聞く必要があると思う。

 

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2021年7月27日

「君が代斉唱」という表現を巡る冒険

東京オリンピックが始まっているが、私は「どうぞご勝手に」と言っていることもあって、ほとんど関知していない。ただ、無人島で暮らしてるわけじゃないので、何らかの形で情報は入ってきて、付き合うともなく付き合わされている。

開会式の「君が代斉唱」が MISIA だったというのは、翌日になって初めて知った。それは毎日新聞の「毎日ことば」というサイトで "国歌を「斉唱」か「独唱」か" という記事を読んだからである。なるほど、しっかり言葉にこだわれば、あれは「独唱」であって「斉唱」じゃないよね。

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というわけで毎日新聞的には、「歌手のM I S I Aさんが国歌を斉唱した」の「斉唱した」の部分を、「歌った」と校正している。おそらく「独唱」と表現するのはことさら過ぎると判断したのだろう。

念のため改めて説明すると、こんな感じになる。

合唱 複数のパートに分かれて歌うこと。ハーモニーなどの効果が発生する(コーラス)
重唱 各パートが 1人ずつの場合は、重唱と言う
パートが 2つの場合は二重唱(デュエット)
3つの場合は三重唱(トリオ)
4つの場合は四重唱(クァルテット)
斉唱 2人以上で同一のメロディを歌うこと(ユニゾン)
独唱 1人で歌うこと(ソロ)

で、『君が代』は原則的に全員が同じメロディを歌うので、「合唱」にはなりようがない。2人以上の複数で歌ったら「斉唱」、1人だと「独唱」という、2パターンしかない。

10年ぐらい前だと「君が代合唱」なんていう表記がよく見かけられ、当ブログでも 2010年 8月 7日付の "「君が代合唱」って?" という記事で批判的に触れた。ただ、さすがに最近はこの誤表記はかなり減っている。

ところが今回の MISIA のパフォーマンス(ソロ)は、至る所で「君が代斉唱」と表記されてしまっていて、例えば こちらのページでも、見出しに「MISIA の国歌斉唱は賛否両論」とある。

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これ、いろいろな行事で、参加者全員で歌う『君が代斉唱』という言い方が定番になっているので、独唱の場合でもつい舌や筆が滑ってしまうのだろう。そのあたり私としては理解できなくもないし、大した実害もないので、ことさらに目くじら立てようとは思わない。

というのは、今回の場合でも、MISIA のソロに合わせて参加者が自然に小さく口ずさんだりしたら、それは結果的に「斉唱」みたいなことになるからでもある。別に「黙って聞け」と言われてるわけでもないだろうしね。もっとも、NHK の動画を見ても、そのあたりビミョーでよく聞こえないが。

ちなみに 2年前のサッカー試合での平原綾香のパフォーマンスは、 ”平原綾香 国歌独唱” というタイトルで YouTube に登録されているが、再生してみると、彼女がリードを取る形になって開会式参加者が自然に歌い始めている。で、図らずも結果的に「斉唱」になったわけだ。

ただ、この時の平原綾香の歌は通常より 4度も下で歌われているので、一緒に「斉唱」するにも「低すぎ感ありあり」で、さぞかし歌いにくかっただろうと思う。今回の MISIA のパフォーマンスも、ちょっとビミョーではあるが、通常より半音低い(最初の音が C#)。

最近の女性はアルトの人が多いようで、通常のキー(D で始まる)だと高すぎてしまうのかなあ。絶対音感がある人には、ちょっとむずがゆいかもしれない。

 

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2021年7月26日

年を取ると年を忘れる?

7月 14日付の「女性が男性より長生きするのは」という記事でも触れたが、65歳を過ぎてからというもの、自分の年齢を明確に意識しないで生きてきてしまっている。実は今日が誕生日で、指折り数えれば 69歳になってしまったのだが、「それって、どこのどなたのお話?」みたいな感覚でしかないのだ。

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これ、ひとつには「数字が極端に苦手」というためでもあると思う。このことに関しては、"「数字数式認識障害」とでも言いたくなるほど、数字に弱いのだよ" (2011年 7月 13日付)、"苦手なのは「数学」じゃなく、「数字」なのだった" (2018年 5月 17日付)という 2本の記事に書いている。

とにかく、3つ以上の数は「たくさん」と言うほかないという原始人ほどじゃないが、どうやら 60代半ば辺りから、一桁めの数はとりとめがなさすぎて、どうでもよくなってしまったようなのだ。何ともはや、テキトーなお話である。

これ、来年に「70歳」という区切りを迎えればリセットされて、もう一度明確化されるだろうとは思っている。ただし、もしかしたら自分が 70歳以上という事実が途方もなさ過ぎて(要するに内心で認めたくなくて)、逆にますます混迷の度が深まるかもしれず、油断がならない。

お陰様で見かけだけは結構若作りで、髪の毛も黒いままなので、14日の記事で書いたように「50歳代の連中に平気でタメ口をきかれる」とか「本当の年がバレた途端にやたら恐縮されたりする」なんてことになっている。もっとも本人が年を忘れてるのだから、周囲が相応に見てくれないのも当たり前か。

ただ近頃、時々疲れてストレスが溜まった時など、こめかみのあたりに白髪が 2〜3本現れることがあり、「おお、これで年相応に見てもらえて、面倒が減る!」と思ったりする。ところがしばらく経つとまた黒くなって振り出しに戻るので、なかなか先に進めない。

白髪のメカニズムって、本当にどうなってるんだろう。

とまあ、こんなようなどうでもいいことを考えながら、今年もなんとか夏の暑さを乗り切ろうと思っているので、今後ともどうぞ

Yoroshiku4

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2021年7月25日

庄内弁から見えてくる、日本的発想の「自他」

テレビをほとんど見ない私は、2年ちょっと前の 2019年 6月 19日に放送された「秘密のケンミン SHOW」という番組で、庄内弁が取り上げられていた(参照)なんてことを今頃になって知った。というわけで、ずいぶん寝ぼけた話だが、ここで(おもむろに)語らせていただこうと思う。

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話題となったのは、「わぁだば ただばし いしぇこぐはげ でって まんず はかはかでゅー」という庄内弁らしい。当然ながら私には初見でスラスラ入ってきて、「んだが〜、ほいだば よいでねのぅ〜」(意味は記事末尾参照)なんて言いたくなったわけだが、わからない人にはほとんど未知の外国語だろう。

現代の日本語(つまり「共通語」)に翻訳するには、こんな感じの表を介するのがいいと思う。

庄内弁の原語 中間段階の説明 共通語
わぁだば 我であれば、我といえば
「わぁ」は「一人称」というより、「自分」の意
お前ってば
ただばし ただ + ばっかし(ばかり)  ただ、いつも
いしぇこぐ いきおい(威勢?)こく 深い考えもなく、あくせく事に当たる
〜はげ 「〜さげ」とも言う
関西弁「〜さかい」の訛り
〜から
でって 「全体」の訛り まったくもって
まんず 「まず」の訛り まず、とにかく
はかはかでゅ〜 「はかはか」(オノマトペ)という はらはらする

というわけでこれは、「お前って、いつもあくせく突っ走るだけだから、まったくもって、はらはらするよ」というような意味になる。庄内弁独特のニュアンスまで完璧に再現するのは無理だけどね。

そしてここで注目すべきなのは、「わぁだば」の「わぁ(我)」という言葉である。これに関して、「テレビドガンチ」というサイトの ”「でって まんず はかはかでゅ」という日本人にわからない日本語” のページには、次のようにある。

まずさいしょの「わ」は二人称、「あなた」の意味だそうだ。筆者の妻は津軽出身で、この話をしたら「ええー?」と驚いた。津軽弁では「わ」は一人称、「わたし」の意味で正反対。日本人の直感としても「わ」はすぐ「わたし」につながるので、どちらかで言えば一人称と思いそうだ。だが庄内弁では「わ」は二人称。ほら、日本語離れしている。

端的に言わせてもらうが、これは日本語の原点に関する理解が足りないことによる「完全な誤解」だ。なまじ庄内弁と近い津軽弁話者だけに「わ」の使い方の違いに注目したのだろうが、この場合の「わ」は、たまたま二人称的に受け取るのが自然というに過ぎず、常に二人称になるというわけではない。

上の表でも触れたように「わ = 我」は、西欧語的発想の「一人称」というより、強いて言えばニュートラルな「自分」ということである。文脈によって一人称的になったり二人称的になったりする。これは推測だが、津軽弁だって実はそうなんじゃないかなあ。

例えば「我が身を振り返りなさい」は当然ながら「(あなたは)自分のことを反省しなさい」ということである。「(後ろにいる)私のことを振り返って見なさい」なんて受け取ったら、トンチンカンもいいところだ。

庄内弁でも「てげですっが?」(手伝いしようか)と声をかけられて、「わぁでさいる」(我でされる = 自分でできる)と応えたら、一人称的になる。日本語を西欧的発想で決めつけてはいけないってことだ。

近世以前の日本の中心地である関西の河内弁でも、「やぃ ワレ!」は「おい、お前!」 である(参照)。さらに「自分、どないすんねん?」(お前はどうするの?)なんて言い方もあるしね。

上述のコメント筆者の、「わ」は一人称と思い込んでいる妻は、河内弁で腰を抜かさなければならない。仮に「わ」と「ワレ」は別なんて思うようでは、日本語感覚がなさ過ぎる。

つまり「我」という日本語は、元々一人称とか二人称とかいう概念の枠外にある言葉なのだ。別の言い方をすれば、日本的発想の原点では、「自他の区別」が重要じゃないのである。隣が田植えを始めたら自分も始めればいいし、均質性の濃い社会だから、ことさら区別してもしょうがない。

下記の例をみるまでもなく、現代日本語でも「私は」という主語が省かれるなんてのはごくフツーだ。要するに話の流れの中でわかればいいのであって、初めから自他の相違を明確に意識する西欧的発想との根本的違いは、ここにあると見ていい。

フツーの日本語: 今朝は 6時に起きた。
フツーの英語:  I woke up at six this morning.

そんなわけで私の場合、共通語と庄内弁のかなりディープな「バイリンガル」である上に、英語もそこそここなせる(bi-and-half-lingual?)というのは、同じことでも多様な視点から考察できるという点で、とても有用なことだと思っている。

最後にちょっと触れておくが、最近の若い庄内人はこうしたディープな庄内弁を理解できなくなってしまっているようで、とても残念だ。庄内弁に限らず方言というのは、単に「田舎の言葉」というだけじゃなく、意識の深いところでの比較文化的考察力を養うのにとても役立つのにね。

【種明かし:「んだが〜、ほいだば よいでねのぅ〜」の意味】

んだが〜: そうか〜
ほいだば: そうならば
よいでねのぅ: 容易でないのぅ

通しで「そうか、そりゃ 大変だねぇ」という感じの、ごくフツーの相槌。これに「もっけだのぅ」が付いたりもする。。

 

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2021年7月24日

「ジョン万次郎英語」というもの

昔、知り合いに「英語で『今、何時ですか?』と聞きたい時は、『掘った芋いじるな』と言えば通じるんだってね!」と言われ、即座に「通じないよ。そんなもん!」と返事したことがある。

ところがこの類いの話は、世間では「ジョン万次郎英語」と称され、意外にもマジで語り継がれているらしい。太平洋で漂流して米国に渡り、幕末から明治にかけて日本と米国の橋渡し的役割を果たしたといわれる、あのジョン万次郎の英語という意味だ。

米国に渡ってからの彼は、耳から聞こえるままの英語をそのままカタカナにして覚えていったと伝えられる。「英語の超裏技勉強法」というサイトの「ジョン万次郎の発音法」によれば、こんな感じだ。

「America - メリカ」「Japan - チャパン」
「cat - キャア」「cold - コオル」
「girl − ゲエル」「lip − レップ」
「man − メアン」「net − ネ」
「night − ナイ」「railroad − レーロー」
「river − レバ」「wind - ウィン」

なるほど、確かに「ど」が付くほどのカタカナ英語よりは実際の発音に近いだろう。

とくに「Japan - チャパン」はある意味秀逸で、最初の ”Ja" にはアクセントがないから、「ジャ」よりビミョーに軽い「チャ」と思う方が面倒がないよね。ただ、ここから入って妙にとらわれちゃうと、文字にした時につい ”Chapan” なんて書いてしまい、中国との間に余計な軋轢を生じそうだが。

単語の連なりとして見れば、"Let it be" はフツー 「レット・イット・ビー」じゃなく「レリビー」となる。そして問題の「What time is it now? - 掘った芋いじるな」は、その延長線上の一例とされているらしい。

しかし断言させてもらうけれど、フツーの日本語流の平板口調で「掘った芋いじるな」と言っても、相手は「???」になるだけである。ネタバレした後なら、「強いてそう聞こうとすれば、聞こえないこともないかもしれないかも・・・」ぐらいにはなるだろうが。

上述の「net − ネ」を例に取れば、ただ平板に「ネ」と言っても "net" のことだなんて思ってもらえないのと同じだ。これ、「ネッ」(強調するなら「ネェッ」)ってな感じで、最後に舌を上歯茎の裏に当てた感じにすれば、確実に "net" になる。

同様に「cold - コオル」も、この「まんま」ではまず無理だ。「コゥ」と発音して、舌を上歯茎の裏に当ててすぐに離せば、立派な ”cold" になるが。

とはいえ、これは「英語耳」で対応すれば実に単純な話なのだが、「カタカナ耳」しか持っていない人には雲をつかむようなことであるらしいのだね。

このあたりのことは、冒頭の YouTube 動画「英語耳をつくる最終兵器」で、とても上手にわかりやすく説明されている。要するに「ジョン万次郎英語」というのは、「英語の音がすごく苦手」という人のために限っての「最終兵器」としてならオススメということだ。

つまり、音感があって「ちゃんと耳コピーのできる人」は、そんなものに頼らない方がいいということである。そりゃそうだろう。"Railroad" をちゃんと ”railroad" と聞き、自分の口でも ”railroad" と発音することこそが正攻法であり、初めから「レーロー」なんて廻り道を辿る必要はない。

それにそもそも、”railroad" をどうしてもカタカナで表記したいなら「レーロー」じゃなく「ゥレイゥロゥ」の方がいいと思うがなあ。いや、音感が不足してると、これだとかえって訳がわからなくなってしまうから、せいぜい「レイロゥ」程度かなあ。

最近 Quora に、"日本語で「あぶない!」と叫んだら、英語では「Have an eye!」と伝わって、意味が通じるという話を聞いたことがあるのですが、本当ですか?" という質問が挙がっていた(参照)。これに対する答えは下記のようなことで、これもかなり納得である。

と言う事は、それを叫ぶ状況だという事ですね。それだったら「叫ばれた人は何かに気が付く」でしょう。それが「気をつけて!」と言う意味合いと取るかどうかは疑問です。

要するに「あぶない!」と叫べば、叫ばれた人はハッとして立ち止まるか何かして、とりあえずその場の目的は果たされるだろうが、それは "Have an eye!" とは無関係のストーリーということだ。実際問題として、そんな風に聞こえるというのはほとんど無理だろう。

そもそもこうした場合は、Quora の回答者が指摘されているように "Watch out!" (万次郎英語的には「ウォッチ・アウト!」じゃなく、「ヮチャウ!」ね。念のため)と叫ぶのが定番で、"Have an eye!" だと「見る目を持ちなさい」みたいなことになるだろう。

というわけで、「ジョン万次郎英語」というのは「最終兵器」と言えば聞こえがいいが、そのココロは「溺れかかって苦し紛れにつかむ藁」みたいなもので、初めから積極的に頼るようなものじゃないと思うのである。

 

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2021年7月23日

ユニクロ「エアリズムマスク」で夏を乗り切るか

暑い! もういい加減に、マスクをするのは勘弁して欲しい。勝手な言い草に聞こえるかも知れないが、私は一昨日でコロナ・ワクチンを 2回接種しちゃったことだし。

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とはいえ、今どきマスクなしで人前に出たらまともに人間扱いしてもらえないから、頭がボウッとしそうになりながら、仕方なく律儀に着用している。

買い物なんかだと、まだいい。大抵のショップは店内をかなり涼しく空調していて、そんなに苦しくない。問題は企業や団体を訪問する時だ。エコ意識の高い事業所ほどエアコン設定温度は高めにしているから、会議室などではソーシャル・ディスタンスを確保しながらも、やはりしんどい。

30分以上いると頭がボウッとしてしまいそうだが、こちらとしても普段から「エコ、エコ」と言っているし、付き合いのある事業所の多くも「環境対策」を打ち出しているので、「もうちょっとエアコンを強めにしましょ!」なんて言い出すわけにいかない。これがなかなか辛いところだ。

勤め人たちはオフィスでいつもマスクしているので、案外平気な顔をしているが、フリーの立場の私は家にいる時にマスクなんてしないので、「マスク慣れ」の度合いに差がある。こんな状態が 9月後半になるまで、あと 2ヶ月も続くのだと考えると、何とか対策しなければと思う。

というわけで、ユニクロの「エアリズムマスク」というのを買ってみた。3枚セットで 990円だから、高からず安からずという絶妙な価格設定である。

購入前にユニクロのサイトに行って購入者のコメントを見ると賛否両論ではあったのだが、ものは試しと着用してみたところ、個人的には「うむ、これなら、ほかのマスクよりまだマシ」と思えた。決して「接触冷感」というほどではないが、少なくとも「ムカムカ感」は軽減される。

エアリズムでしのぎながら、あとは日本全体のワクチン接種率が高くなって、マスク着用をうるさく言われなくなるのを待つだけだ。それまでにどのくらいかかるだろう。

来年の年明け早々なんて期待していたら、その時になって失望してしまいそうだから、せいぜい次の夏前にはマスクから解放されたいものである。なにしろ昨年以後に知り合った人たちに関してはマスク着用でしか会ったことがなく、素顔をほとんど知らないのだから、早く正体を知りたいではないか。

女性の中には「マスクしてると、目元さえバッチリ化粧すればいいから楽よ」なんて言ってる人もいるので、彼女らがマスクを外しても美人なのかどうか、確かめてみたいなんていうちょっと下世話な興味もあるしね。「マスクを取ったら誰だかわからなかった」なんてことがないことを望みたい。

最後に蛇足かもしれないが、2度目のワクチン接種直後の体調を報告しておく。人によっては熱が出たり体がダルくなったりして寝込んでしまうことも珍しくないらしいが、私の場合は腕の痛みが少々残っただけで、それ以外の症状はなく、このブログも快調に更新できている。

ありがたいことである。

 

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2021年7月22日

『我は海の子』という歌

ラジオ体操の第一と第二の間で、軽く首を回したりする際に、バックグラウンドでピアノが既成の曲のメロディを奏でるが、昨日はそれが『我は海の子』だった。NHK、文句の出にくいクラシックな季節感を、さりげなく採り入れたがる。

今の子供たちはこんな歌は知らないんじゃないかと思っていたが、Wikipedia によれば 2007年に「日本の歌百選」に選出されており(参照)、今でも小学校 6年生の音楽の教科書に載っているようだ(参照)。

ただ、私の頃(昭和 30年代)でも歌詞の意味をまともにわかって歌っている子なんてほとんどいなかった。クラスの 2割ぐらいは、1番の最後の部分、「我がなつかしき 住家なれ」を、「わ〜がなつか〜しき すみな〜かれ〜」なんて歌っていたし、あろうことか、教師もそれには無頓着だった。

何しろ初出は 1910年(明治43年)発行の文部省『尋常小学読本唱歌』というから、110年以上前の歌である。歌詞が基本的に古色蒼然とした文語というのも頷ける。

そもそも出だしの「我は海の子 白波の / さわぐいそべの松原に」というのでさえ、子ども時代にはきちんとわかっていなかった。私はちょっとおませだったから、「白波の」なんて聞くと歌舞伎の『白浪五人男』を連想して、「問われて名乗るもおこがましいが〜」なんて言いたくなっていたものである。

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白浪五人男 稲瀬川勢揃いの場

小学生の頃は「自分は海、なかんずく白波の申し子で、礒辺の松原で賑やかに騒ぎまくりながら育った」みたいな意味かと思っていた。ところが中学生ぐらいになってようやく気付いたのは、この部分、どうやら意味の区切りと曲の区切りが不自然なほど一致していないようだということである。

つまり意味としては、「我は海の子 / 白波のさわぐいそべの松原に・・・」と区切るべきで、その後の部分とつなげて、「自分は海の子であり、白波のさわぐ礒辺の松原に煙をたなびかせる粗末な家が、懐かしい住処なのだ」というようなことだとわかったのは、かなり成長してからである。

さらに、楽譜に添えられる歌詞は基本的に平仮名なので、2番目の「千里寄せくる海の氣を / 吸ひてわらべとなりにけり」は、20歳を過ぎるまで「海の木を / 梳いて〜」だと思っていた。海岸に打ち上げられる流木を燃料にするために、髪を梳くように選定していたのかなんて、無理矢理に想像していたよ。

この記事を書くに当たって、上述の Wikipedia の歌詞の項目で確認してみたところ、『我は海の子』は正式にはなんと 7番まであるとわかった。つらつら読んでみると、5番目あたりから「鐵より堅きかひなあり」「はだは赤銅さながらに」など、唐突にマッチョなイメージが強調され始める。

とくに 6番の「浪にたゞよふ氷山も/來らば來れ恐れんや / 海まき上ぐるたつまきも / 起らば起れ驚かじ」なんて、大袈裟な悪趣味というほかない。昨今に至っては温暖化で南極の氷山も減少したし、竜巻云々は逆にリアル過ぎて、メタファーとして歌うのさえ気恥ずかしいほどのナンセンスと化してしまった。

そして 7番の「いで軍艦に乘組みて / 我は護らん海の國」に至って、「ほぅら、結局これを言いたかったわけね」となる。海辺で生まれた無邪気で素朴な子も、やがて立派な軍人に育つのだという事大主義的モチーフで、これがあったからこそ明治の教科書に載ったのだろう。

この 7番は、戦後に GHQ の検閲でカットされ、最近はもっぱら 3番までしか歌われないというのも、無難な路線なのだろう。私としても、この歌は先に進むほど大仰なステロタイプの羅列でしかなくなり、芸術的価値は下がる一方だと思う。

ギリギリの 3番目にしても「不断の花のかをりあり」の「不断の花」ってどんなものだか想像もできず、私はずっと「普段の花」と思っていたぐらいだから、せいぜいこのあたりで終わらないと違和感が強まるばかりだ。正直なところ、どうしてこれが「日本の歌百選」に入っているのか理解に苦しむ。

とにかく難解でもったいぶった歌詞だから、ノー天気な替え歌もいくつかあった。最も知られているのは「我はノミの子シラミの子 / 騒ぐ背中や脇腹に」というやつだろう。元歌と韻が共通していて、秀逸のパロディである。

ああ、そういえば今日は「海の日」って祝日だったのか。

【当日 追記】

Wikipedia によれば、この歌は作詞者・作曲者ともに不詳だが、作詞者として 宮原晃一郎(1882年 - 1945年)と、芳賀矢一(1867年 - 1927年)の 2人の名が挙がっており、「最近では宮原の原作を芳賀が改作したとする説が最も信頼されている」とある。

そう考えると、冒頭に児童文学者である宮原の原作の素朴な趣が残っているが、先に進むほど、国文学者で国定教科書の編纂にも関わったという芳賀の権威主義的キャラがどんどん押し出されて、「いい加減にしろや」と言いたくなるのも、もっともなことと納得される。

 

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2021年7月21日

茨城県で発揮された、恥ずかしいまでの事大主義

最近、東京オリンピックをさんざんクサす記事を連発しているが、クサしついでに、我が地元、茨城県でのお粗末過ぎるニュースについても書いてしまおう。東京 2020大会組織委員会と鹿嶋市の教育関係者が、語るも恥ずかしいほどの事大主義ぶりを発揮していたというお話だ。

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HUFFPOST の ”「コカ・コーラ社の飲料持参を」学校が五輪観戦でよびかけ。組織委は「回答を差し控える」” という記事によれば、手短にはこんなようなことだ。

鹿嶋市教委によると、市内のある学校で保護者向けに配布された文書には、大会会場に持参する飲料について、ペットボトルを持ち込む際にはできるだけコカ・コーラ社の製品を持参すること、それ以外の企業の製品は全てラベルを剥がして持ち込むことなどを呼びかける内容が記載されていた。

ちなみにコカ・コーラ社は東京 2020大会のスポンサーで、「ワールドワイドオリンピックパートナー」に位置付けられているという。

なんでまたこんな馬鹿馬鹿しい話になったのか、順を追って話を整理すると、こんなようなことになる。

  1. 7月 9日に開かれた現地説明会(大会組織委員会、市教委、会場で観戦する学校関係者が出席)で、組織委の担当者から「ペットボトルを持参する場合、コカ・コーラ社以外の企業の製品はラベルを剥がして持ち込むよう」と、口頭で説明された。

  2. それを持ち帰った市教委は、飲料メーカーの平等性、実施の際のわかりやすさという点に鑑み、「全てのペットボトルのラベルを一律で剥がすよう促す」と決定して、その旨をマニュアルに記載し、さらに 12日に開かれた参加校の管理職が集まった会議でも、そのように説明した。

  3. ところが、観戦予定の 18校のうち 1校がこの決定プロセスに同期できず、9日時点での呼びかけのまま、コカ・コーラ社の製品を優先的に持ち込むことを求めているように読み取れる文書を配布してしまった。

要するに、組織委は常識を逸脱してまでコカ・コーラ社に配慮しすぎ、それを受けた市教委は単なる見かけ上の「平等性」と「わかりやすさ」を重視しすぎて、さらに常識から外れまくったわけだ。

そしてさらに、1校だけが素っ頓狂だったために、「何じゃこりゃ!?」と、世間に広まった。これがなかったら、粛々と実施されて妙な光景が広がっていただろうが、いずれにしても最初から最後まで、どうでもいいほどお粗末なプロセスである。

市教委は「学校からはコカ・コーラの製品を推奨する意図は全くなかったと聞いているが、誤解を招く表現だった」とコメントしているらしい。推奨する意図は全くなかったものの、「組織委がうっとうしいことを言ってるけど、ここは律儀に従っておかないと、後がコワい」なんて考えたのだろう。

そして肝心の組織委は「個別のやり取りについては回答を差し控えさせていただきます」として、取材には一切答えなかったという。どういう経緯で「コカ・コーラ社以外の飲料はラベルを剥がせ」なんてくだらないことを言ってしまったのか、おそらく、組織内でも明確に把握できていないのだろう。

元々は「一応、軽く触れときましたよ」程度の話だったのが、伝わるうちにどんどん膨らんで、最後には馬鹿馬鹿しいことになるというのが、事大主義の特徴の一つである。鹿嶋市教委にしても、「はいはい、一応承りましたよ」程度で聞き流しておけばよかったのに。

このニュースでわかったのは、東京 2020 の組織委は「すべき配慮」の優先順位をつけられないほど無能ということだ。末端がペットボトルのラベルみたいな些細なことに妙なこだわりを見せる一方で、上層部は開会式音楽担当者の身体検査という当然のことをする器量を、まったく持ち合わせなかったのだから。

余談だが、このまま行けば生徒たちは一律にラベルの剥がされたペットボトルを持ち込むことになるのだろうが、スポンサーであるコカ・コーラ社はそれを見て、いろいろな意味で「はぁ?」と思うしかないよね。

【7月 26日 追記】

この件については、7月 21日付の「鹿嶋市教育委員会教育長 川村 等」名の通達で、「今般組織委員会の方針が転換され、メーカーを問わずラベルを剥がさず持ち込むことが可能となりました」と変更になったようだ(参照)。まさに馬鹿馬鹿しい騒動だったわけである。

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2021年7月20日

今回のオリンピックを象徴するようなドタバタ

Huffpost が「小山田圭吾さん、開会式楽曲担当の辞任を申し出「様々な方への配慮に欠けていたと痛感」とのニュースを伝えている。開幕直前になっての辞任の申し出なんて「配慮に欠けた」ストーリーの極致みたいなものだが、この男にしてみれば他に選択肢がなかったのだろうね。

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昨日の TBS ラジオ「アフター 6 ジャンクション」で、パーソナリティの 宇多丸 が、「この件についてはインターネット上で過去に何度も炎上していて、既に知られた話と思っていた」と語っていた。それを当人も周囲もずっとスルーし続けてきたことが問題で、自分も反省するとの発言だった。

宇多丸氏としては小山田某とは直接的に顔を合わせたことはないそうで、それならばこの問題をことさらには取り上げにくかったという事情も理解できる。ただ、当人や近い関係者が完全に何も発言してこなかったことは、やはり問題だろう。

これも TBS ラジオだが、「週間日本の空気」の 小田嶋隆氏が「(インターネットの)検索窓に(小山田なにがしの)名前を入れてポンとリターンキーを押しさえすればヤバい話が山ほど出てくるのは誰でも知ってる」と言っていた。この男の「悪さ」は、業界では結構知られたことのようなのである。

確かに、そんなような話は実際にボロボロ検索される。しかも障碍者や重病人などの弱者をいじめ、嘲笑うような話がほとんどで、「こいつ、ほんっとにサイテーだな!」と思ってしまうのだよ。

というわけで小田嶋氏は、こんなような話になる前にきちんと身体検査されなかったのは、JOC の関係者が「よっぽどメディアに暗いのか、とんでもないおじいさんなのか、それとも面倒くさいのか、見たくないのか」と呆れていた。

まさにその通りである。彼の名前を知らなかった私がこのニュースを知って最初にしたのは、「小山田」でググってみることだったからね。ちなみに、それで小沢健二とユニットを組んでいたことも初めて知った。

「こんなことなら、オリンピックの音楽も小沢健二に頼めばよかったのにね」と妻に言うと、「小沢健二はそんなの引き受けないでしょ」と返された。なるほど、そうかもしれないね。

 

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2021年7月19日

開幕前から失敗と断定されているオリンピック

昨日付の「さんざんなオリンピック」の続編みたいな話になるが、共同通信が "米紙、東京五輪「完全な失敗」 熱気から敵意に" と伝えている。こうした見出しはフツーには実施後の総括記事につくものだが、開幕前からこんな伝えられ方をすること自体が、文字通り「完全な失敗」を物語っている。

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共同通信の伝え方は、以下のようなもの

米紙ワシントン・ポスト電子版は17日、開幕を23日に控えた東京五輪について、これまでのところ「完全な失敗に見える」と指摘し、1964年の東京五輪のように日本に誇りをもたらすことは期待できないと伝えた。新型コロナウイルス流行の影響で国民に懐疑論が広がり、当初の五輪への熱気は敵意にすら変わっていると報じた。

ワシントンポストの元記事はこんな感じだ(参照)。

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見出しは「問題だらけの続編: 1964年のクラシックなオリンピックを再現しようという東京の企ては、失望に終わった」というものだ。前回の東京オリンピックの、対照的なまでに誇りに満ちた聖火台点灯の瞬間の写真が添えられており、記事は以下のように始まる。

東京発: 1964年の東京オリンピックの開催は、第二次世界大戦敗北の灰の中からの復興を示し、戦後の国際秩序への再参加を象徴するものとなった。

同紙はこの催しがその後の目覚ましい経済発展の端緒を切り開いたと解説。そして今回のオリンピックが、2011年の地震、津波、原発事故からの復活を象徴するものになるという期待があったとしている。

さらに、日本の保守派にとっては 2008年の北京オリンピックに対抗しつつ、日本の東アジアにおける失われたステイタスを取り戻し、経済的不振からの脱却にもつながるという期待があったと述べている。へえ、そんな期待まであったなんて、当の日本人の多くもほとんど意識していなかった。

今回のオリンピックへの期待が、過剰なまでの形で裏切り尽くされているというのは、保守派の思い込みが如何に勝手で過剰なものであったかを示しているだろう。

要するに、今回のオリンピックは東京で開くべきじゃなかったということだ。コロナ禍を別としても。

 

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2021年7月18日

さんざんなオリンピック

NHK が IOC バッハ会長らの歓迎パーティが始まったと報じている(参照)。ネット上でもリアルでも大反発をくらいながらの開催で、それにとどまらず、いろいろな問題がダメ押し的なまでに持ち上がって、今回のオリンピックはさんざんだ。

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私は既に 5月 3日に "東京オリンピック開催、「どうぞご勝手に」" と書き、その翌日にご丁寧にも確認記事として "改めて「東京オリンピックは他人事」と確認しておく" なんて書いている。さらに 6月 23日には " 東京オリンピックにはもう、匙を投げた" と再確認までしている。

ところがその後になって、「無観客化」だの、開会式の音楽を担当する小山田某の「いじめ問題」など、「これでもか」といわんばかりのゴタゴタが続いて、さすがの私も「オリンピックのイメージって、こんなにまで落ちてしまうのか」と呆れてしまっている。

IOC のバッハ会長は何やら「ぼったくり男爵」なんて言われているらしいが、これ、米国ワシントンポストの Sally Jenkins というコラムニストが、今年 5月 5日付の記事で "Von Ripper-off, a.k.a. IOC President Thomas Bach" と書いたのが発端らしい(参照)。

この "a.k.a" というのは "also known as" または ”as known as" (「〜としても知られる」とか「またの名を〜」とかいう意味)の略で、「IOC 会長、トマス・バッハとしても知られる Von Ripper-off" というのだから、なかなか言えてる。

"Von" というのは元々は「貴族の」という意味で、「男爵」は "baron" だが、日本では「ほら吹き男爵」からの連想もあって、「ぼったくり男爵」と言う方がしっくり来るのだろう。ちなみに、彼は別に貴族階級出身というわけではないらしい。

開会式での音楽担当を務める小山田某の「いじめ問題」というのは、私は初めのうちは「何かあるらしいな」程度にしか思っていなかったが、「小山田圭吾さんの “いじめ自慢” 記事は「間違った行為」。ロッキング・オン・ジャパン編集長が謝罪」 という記事を読んで呆れてしまった。

これ、「いじめ問題」というより、まさに「いじめ自慢問題」というべきで、自分の陰惨ないじめ体験を雑誌のインタビューで得意げに語っているという時点で、こいつ「最低野郎」である。組織委は「続投に理解を」なんて言っているらしいが、少なくとも私の理解の範囲は超えている。

というようなわけで、オリンピックというのは今回の開催を機に幻想部分が剥ぎ取られて、しっかりとイメージを落としてしまったと言っていいだろう。

 

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2021年7月17日

アイスコーヒーは、今や外国でも飲まれてるらしい

2日続けてのコーヒー・ネタで恐縮だが、私はつい最近まで「アイスコーヒーなんて飲むのは日本人だけで、外国にはそんなものない」と思い込んでいた。ところが実はこれ、情報としては既に化石同様になっているようで、今の世の中、頭の中身のの更新を怠っていると、とんだ恥をかくことになる。

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私は 2004年にシカゴに行って以来、外国には行っていない。その代わり、この間に日本国内は全都道府県制覇したが、いずれにしても 17年間ドメスティックな人である。そして 2004年頃までは、欧米のコーヒーショップではアイスコーヒーなんて、少なくとも一般的じゃなかった。

というわけで、私は「アイスコーヒーは、日本独特の飲み物」と思い込んでいたのだが、こちらのページ によれば、海外でも西暦 2000年頃からアイスコーヒーが出現し始め、今ではごくフツーに飲まれているようなのである。ということは、2004年なら、よく探せばあったのかもしれない。

ただ、私が頻繁に欧米と香港あたりに出張していた前世紀(つまり 20世紀)までは、日本以外ではアイスコーヒーなんて見当たらなかった。これは自信を持って言い切らせてもらう。

海外出張で一人ではメシも食えないようなオッサンの食事に、浮世の義理で付き合ってあげて、「飲み物は何にします?」と聞き、「アイスコーヒー」なんて言われたら、「ここは日本じゃないのでアイスコーヒーはありませんから、別のものにしてください」なんてフツーに言っていたものだ。

ああ、こんなこと言ってると、自分が「前世紀の遺物」みたいな気がしてきた。世の中の移り変わりは本当に激しい。

アイスコーヒーの発祥については「日本発」という説(参照)が主流だが、「北アフリカ発」という説(参照)もあって、このあたりはよく確認できない。ただ、「アイスコーヒー」と言ってフツーにイメージできるような形のものは、日本発というのが妥当だと思う。

私は個人的には「コーヒーはホット」という主義で、アイスコーヒーは飲む気がしない。デスクに置いたコーヒーカップの中身が、仕事に没頭しているうちに冷めて生ぬるくなってしまうことはよくあるのだが、生ぬるくてもアイスコーヒーよりはずっといい。

ちなみに、欧米でもフランスではアイスコーヒーはあまり好まれないらしい。私はフランス人とは気の合った例しがほとんどないのだが、この点に関してだけは共鳴し合えそうだ。

 

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2021年7月16日

コーヒーのかすを再利用してみようと思う

コーヒー好きの私は 1日に 3杯ぐらいのコーヒーを豆から挽いて飲み、その跡にはコーヒーかすが残る。これまでは庭のハーブ畑に蒔いて肥料にしたりしていたのだが、このほど、いろいろな活用法の書かれたページを見つけた(参照)。肥料のほかに、消臭剤、虫よけにもなるんだそうだ。

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消臭剤として使うなんて、乾かして袋に入れたりするのが面倒なんじゃないかと思っていたが、そのままマグカップに入れて部屋に置くだけでいいんだそうだ。とくにアンモニア臭を吸うので、トイレの脱臭にぴったりだという。

かびやすいので 2〜3日で交換する必要があるらしいが、毎日飲んで供給には事欠かないので、何の問題もない。むしろ消臭剤に使った後の処理が気になるほどだ。

これは生ゴミの臭いも吸うので、生ゴミ箱に捨てるといいらしい。なんだ、それならいつもしていることだ。道理で、ウチの生ゴミはあまり匂わないわけだ。今後は生ゴミ箱に入れる前に、トイレの消臭剤としての役目を果たしてもらおう。

これを乾燥して使うと、冷蔵庫の脱臭にもいいらしい。また、洗剤代わりにスポンジに付けて洗うと、油汚れも取れやすいという。これは知らなかった。

そして目の覚める思いがしたのは、庭に撒くと雑草除去に効くというのである。カフェインやポリフェノールには植物の発育を妨げる効果があるらしい。

それじゃ、これまで肥料として撒いていたのはどうなんだということになるが、土に混ぜて発酵させると肥料になるという。ただ、発酵にはかなりの日数がかかるらしいので、取りあえず、雑草の生えて欲しくないエリアに集中的に撒こうと思う。

さらに、ネコよけにも使えるという。最近近所に野良猫が住み着いて、玄関前にウンチしたりするので迷惑していたが、今後は玄関周辺にさりげなく撒いておこう。

いい情報を得た。

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2021年7月15日

日本語の固有名詞をローマ字表記する場合のむず痒さ

昔の仕事上の先輩に「堀江さん」という人がいて、名刺には氏名のローマ字表記もしてあるのだが、外国人、とくに米国人には絶対に「ホリエ」と読んでもらえないとこぼしていた。「あいつらどういうわけか、俺のこと『ホーリー』だと思ってるんだよなあ」と言うのである。

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堀江さんには気の毒だが、それは無理もない。日本人の多くはローマ字表記さえしておけば、外国人にもちゃんと読んでもらえると思っているが、それは勝手な思い込みに過ぎないのだ。そもそも "Horie" と書かれていたら、私だってつい「ホゥリー」と読みたくなってしまう。

「入江さん」なら ”Irie" で「アイリー」だし、女性の名前で「文恵さん」なら "Fumie" で 「フューミー」だ。

米国人に「ホリエ」に近い発音で呼んでもらいたければ、例えば "Horryeigh" みたいな苦しい表記ならイケるかもしれない。私の名乗っている「庄内」も、思い切って ”Show night" ぐらいにしてしまえば「ショウナイ」に聞こえるはずなのだが、これではいくら何でも英語の意味が邪魔しすぎるよね。

そんなわけで、上に掲げた道路標識の画像だが、「東陽/Toyo」ならまともに読んでもらえても、「永代通り/Eitai-dori」は苦しい。「イーテイ・ドゥライ」なんて読まれそうだ。

ましてや「東砂/Higashisuna」「清洲橋/Kiyosubashi」なんて、魔法の呪文だ。クルマを運転している時にいきなりこんな綴りが出てきたら、日本人の私でもすらりとは読めない。ましてや漢字とセットなのだから、西洋人には「東洋の神秘」みたいに感じられるだろう。

さらに面倒くさい問題は、"Horryeigh" で、英米人には「ホリエィ」ぐらいに読んでもらえても、フランス人やブラジル人には妙な読み方をされてしまうに違いないことだ。とにかく、ローマ字で表記してしまえば外国人にもちゃんと読んでもらえるなんてことは、幻想と思う方がいい。

その昔、一緒に合気道を習っていた生まれも育ちもニューヨークのユダヤ人、ピーターは、「日本に住んで何年経っても、日本人が『マクドナルド』と言うのを聞くとムズムズ(itchy)する」と言っていた。堀江さんの「ホーリー」は、その裏返しみたいなものだろう。

【笑止なれど、念のため】

【追記】

上の道路標識の画像に関してだが、ローマ字のフォントが横に詰まりすぎで読みにくさに輪をかけている。日本製のフォント(「HGPゴシック」みたいな)みたいだが、せめて century みたいなフォントなら、無闇に目眩しなくて済むと思う。

 

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2021年7月14日

女性が男性より長生きするのは

Gigazine に「女性が男性より長生きする理由とは?」という記事がある。元記事は科学系メディアの Live Science の "Why do women tend to outlive men?" なので、結構科学的なアプローチでまとめられている。

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第一に指摘されているのは、女性ホルモンのエストロゲンと、男性ホルモンの一種であるテストステロンの相違だ。エストロゲンは心臓病などから体を保護する働きがあり、テストステロンは乳がんや子宮頸がん、前立腺がんなど、複数の病気の発症リスクを高めるという。

男性は乳がんや子宮頸がんなどには縁がないが、前立腺がんの発症リスクが高まるのはは問題だ。このほかにテストステロンは「危険な行動を引き起こしたり、高い攻撃性と関連」しているという。なるほど、男性のライフスタイル(俗に言う「男らしさ」?)の方が生存に関わるリスクが大きいわけだ。

この記事にある男女の平均寿命の表を見ると、昭和 35年(1960年)で男性 65.32歳、女性 70.19歳、令和元年(2019年)で男性 81.41歳、女性 87.45歳となっている。

1960年代だったら、私なんか死んでいても不思議じゃない。なるほど、この時代を反映する漫画『サザエさん』で、父の波平さんが、当時のサラリーマンの定年前(つまり 50代)のくせに、あんなに頭の禿げたジイさんぽい容貌で描かれているのも道理だ。

ちなみに私と妻の父母の場合は、どちらも父の方が長生きで、とくに妻の父は 90歳近い今も存命だ(参照)。このパターンは私の代で打ち切りたいので、妻にはいつも「私の方が先に死ぬから、後はよろしくね」と言っているのだが、妻は「それだと、力仕事を頼めないから困る」なんて勝手なことを言っている。

ちなみに私は今月の 26日が誕生日で、計算してみると 69歳になるというので、自分で驚いてしまっている。還暦を過ぎてからというもの、自分の年齢を具体的に意識したことがないので、まだせいぜい 65〜66歳のような気がしていたが、月日の経つのは早いものである。

ただ私の場合、見かけだけは妙に若いので、50歳代の連中に平気でタメ口をきかれる。本当の年がバレた途端にやたら恐縮されたりするのだが、そんなのは別にいいんだけどね。

 

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2021年7月13日

2年やらなかったら、大抵のことは忘れてしまうので

"「2年連続で祇園祭が中止になると技術継承ができなくなるので今年は鉾を建てる」という話を聞いたとき、最初は「え、たった2年で技術継承できなくなるん?」と思ったけど・・・" という佐々宮智志さん(ゲームデザイナー)の tweet (参照)が話題だ。町内会でも同じ現象が発生しているらしい。

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この tweet に続いて、次のように書かれている。

地元の町内会は役員を 2年ごとに交代し、交代時には各役員の仕事内容を新役員に引き継ぐんだけど、ここ 2年は町内会の行事が全て中止になったせいで、旧役員は自分の仕事内容をほとんど把握していないらしい。

これ、多くの町内会とか、それに類した組織で発生していることだろう。私の住んでいる地域では町内会役員は毎年交代になるが、昨年度の役員はただペーパーで「本年度の〇〇行事は、コロナ禍に鑑み中止とさせていただきます」との知らせを回していただけだったはずだ。

そして今年度も同様にほとんどの行事が中止なので、来年度の新役員は行政との間の形式的なやり取り以外は、何をすればいいのかほとんどわからなくなっているだろう。考えようによっては、「これまで惰性だけで続けていた無意味な町内会行事は、ちょうどいいから廃止」とすればいいかも知れない。

継承がどうしても必要なことなら、大々的でなくても伝えるために必要な最小限の規模で実施すればいいし、そうでないものはバッサリと止めてしまえばいい。

その意味で「コロナ前/コロナ後」という現象が生じて、世の中の鬱陶しいばかりの形式的な行事はあっさり消滅ということになるだろう。無理に復活させようとしても、2年やらなかったら大抵のことは忘れてしまうので不可能だ。元々大喜びでやっていたことでもないのだし。

これ、「隠れたコロナ効果」と言えるかも知れない。

 

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2021年7月12日

「ナンバープレート隠し」という商品カテゴリー

下の写真は、今日クルマを運転していて信号で停止した時、目の前に停まっていたトラックのナンバープレートである。妙に奥まった場所で極端に斜め上向きな上に、わざとらしいほど汚れているので、写真では一応控えめに目隠しを入れておいたが、実際にはそんなもの必要ないぐらいに見えにくい。

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クルマを運転していると、ナンバープレートが見えにくいような取り付け方をしているトラックが、まったく珍しくないほど多いことに気付く。「よくまあ、そこまで凝った取り付け方をするものだなあ!」と感心するほどのものまである。

ネット検索してみると、何と「ナンバープレート隠し」という商品カテゴリーまである(参照 1参照 2)。さすがに個別の商品は「ナンバープレートフレーム」とか「ナンバープレートカバー」とかいう名称で販売されているが、とりあえず、そんなような需要は確実にあるもののようなのだ。

自動車のナンバープレートの取り付け方に関しては、カバーの取り付けや角度、折り曲げなどが問題になっている。ただ実際の道交法においては、「見やすいように表示しなければならない」とあるものの、なかなか規制し切れていないようだ(参照)。

なにしろ Wikipedia の「日本のナンバープレート」の該当項目(取り付け方法の規制自動車ナンバープレートのカバー等規制)を読むだけでも、ややこしくて嫌になる。これでは警察も杓子定規的なまでの厳格な対処はしにくいだろう。

ただ、私としては単に「ナンバープレートを見えにくく取り付けるのはダメ!」と、口うるさいオバサンみたいなことを言いたいわけではい。こんなに手間と金をかけてまでナンバープレートを「姑息に」隠したがるのはなぜかという、ドライバー心理の方に興味がある。

調べてみたところ、決して伊達や酔狂というわけではなく、「オービス(自動速度違反取締装置)にクルマのナンバーを撮影されないよう」というのが最大の理由のようだ(参照)。つまり、日常的に速度違反をしなければ仕事にならないという、トラックドライバーのシリアスな労働環境が見えてくる。

要するに、構造的な問題なのだね。単に「けしからん!」と憤っていさえすればいいわけではないようなのだ。

 

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2021年7月11日

「音姫」のジェンダー不平等というよくわからないお話

清水潔さんというジャーナリストが下のような tweet をしておられる(参照)。添えられた写真は TOTO の「音姫」というもので、本体正面に「手をかざすと 25秒水の流れる音がします」という説明が表示されている。

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そういえば、これに類似したものをどこかの男性用トイレで見たことがあって、試したら確かに水の音がしていた。結局は「それがどうした」というだけのことで、これがほとんどの女子トイレに付いてるなんて、想像すらしなかった。

念のために妻に聞いてみると、「古い JR の駅のトイレみたいなところでは付いてないけど、ウォッシュレット式のトイレだったらほぼ付いてるわよ。私はほとんど使わないけど」という。いやはや、世の中、案外知らないことばかりである。

というわけで私がこれについて tweet するとしたら、どうしても視点が逆になる。「女子トイレのほぼ全てに、この手のものが付いているというジェンダー不平等を、男性のほとんどは知らない」と書くしかない。

ただ私としては、「ジェンダー平等のために男子トイレにも付けろ」なんていう発想は全然ない。この程度の「不平等」なら、個人的には全然気にならないし、解消したとしても「悪平等」みたいな気がするかもしれない。

日本という国は本当に「東洋の神秘の国」である。

 

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2021年7月10日

和歌ログのココログへの移植、とりあえず完了

私のもう一つのブログ ”Wakalog” (和歌ログ)の、ココログへの移植がとりあえず完了した。和歌ログは毎日更新という点で言えばこの ”Today's Crack” よりやや早く始まっているので、17年以上 2つのブログを毎日更新しているというのは、我ながらびっくりものである。

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和歌ログは元々は「楽天ブログ」(参照)で 2003年の 12月 2日に始めており、その後に私の Nifty で管理しているサイト(参照)に移転し、さらにこのココログが 2つのブログを同時に持てるということになったので、”Today's Crack” と統一的に管理することにしたという経緯がある。

そんなわけで、一応すべての和歌はココログに移植しておいたのだが、添えられた写真までは自動では移動しきれなかった。そして残った数ヶ月分を手動でコツコツと移動し続け、最後まで残っていた 2008年 11月の 1〜10日分の移動をこのほど終えて、めでたく完了となったわけだ。

上の写真は、2008年 7月 10日、つまり 13年前の今日のもの。「枯れ枝に留まる烏は利発にて阿呆の我を阿呆とぞ呼ぶ」という歌と写真が載せられている。かなり本気で歌を詠んでいた頃で、最近の歌よりサエているかもしれない。

そういえば 12月 2日は和歌ログを開始した日という意味で、2018年まではずっと「和歌ログ記念日」として記念の歌を詠んでいた(参照)が、過去 2年はそれを忘れてしまっている。

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これは痛恨のことなので、今年の 12月 2日はきちんとこの習慣を復活させようと思っている。

 

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2021年7月 9日

北陸、信州への旅から帰った

7日の朝に出発したクルマでの北陸、信州への旅から、本日 3時過ぎに戻った。当初の目論見では信濃路をゆっくり楽しんで夜遅くに帰り着けばいいと思っていたのだが、土砂降りじゃないとはいえ雨が降ったり止んだりの不安定な天気だったので、一般道をゆっくり辿って帰ってきた。

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晴れ男の私にしては珍しいほど天気がぐずついたが、仕事の内容上、屋外の写真が必要なタイミングではしっかりと上がってくれたので、ギリギリ面目が保たれた。そういえば前に信州で仕事をした時も天気が大変だった記憶があるので、自分のブログを辿ってみたところ、13年前に行っているのだった。

2008年 6月 22〜24日という梅雨時で、自分の書いた記事を読むと、やはり天気にはあまり恵まれていない。ただ、この時は 1日で済む仕事のために贅沢して二泊三日の旅程を組んでいたようで、ずいぶん楽しんだ記憶が蘇ってきた。

初日に善光寺参りをした時には、しっかりと雨が上がっている(参照)が、翌日は長野県内に大雨洪水警報が発令されるほどの大雨になっていた。ただそれでもしっかりと戸隠神社と諏訪神社を廻っていて、アメリカ人ヒッチハイカーのアイザック君を拾って信州蕎麦を食わせたりしている(参照)。

そして仕事の本番の 3日目はしっかりと晴れて、必要な写真はバッチリと撮れたし、木曽街道の宿場巡りもしている(参照)。まあ、晴れ男の面目は果たされたと言っていいだろう。

今回の旅も、アルプスの景色がほとんど見えなかったことと、初日のホテルの印象(参照)を除けば、コロナ禍の中では、楽しい旅ができたと言っていい。必要なタイミングではしっかりと雨が止むというのも、いつものことだしね。

ただ、前回は 二泊三日のうちの 1日(というか、半日)だけが仕事という余裕たっぷりの旅だったが、今回は仕事が 2つ入っていたし、北陸と信州との移動もあったから、時間がタイトだったのが残念だ。信州は何度行ってもいいところだから、次はまた、余裕のあるスケジュールで訪れてみたい。

説明しそびれていたが、今日の写真は千曲川を渡る橋から撮った風景。天気さえ良ければ絶景のはずなのに。

 

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2021年7月 8日

「なんだかなあ感」漂った APA ホテルの一夜

2泊 3日の富山、長野出張の第一夜は、APA ホテル。私は 4年前 1月の記事に書いたようなわけで、このホテルは前々からできるだけ避けているのだが、クルマで来ているので、直前に駐車場の広そうなホテルを検索したらここしかなさそうだったため、つい予約してしまったのである。

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フロントの女の子が新米らしく、チェックインで余計な手間を取ってようやく部屋に入ると、デスク上のラックに写真のような本が並んでいる。"Apple Town" というのはこのホテルの雑誌らしいが、Mac、iPhone、Apple Watch のユーザーである私としては、ちょっと複雑な気分である。

手前にある『理論 近現代史学 本当の日本の歴史』というのは、「社会時評エッセイ 2020-2021  誇れる日本 日本復活への提言」なんてサブタイトルが付いていて、なんだかスゴい「理論」のようだし、右側のはアパグループ代表 元谷外志雄という人の写真が表紙で、ちょっとアブナそうな印象すらある。

つい怖いもの見たさで ”Apple Town” という雑誌を開いてみると、冒頭記事は「アパグループ創業 50周年記念」と、上の写真左下の本の出版記念パーティの特集記事だ。下のように、ここで祝辞を述べた人の写真も載っていて、まあ、いかにもそれらしい顔ぶれである。

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左下、ウェディングドレス・デザイナーの桂由美さんは話してみればいい人なので、こんなパーティなんかに出なくてもいいのにと思ってしまうが、まあ、だいぶお歳でもあるし、いいか。例の桜田義孝衆議院議員も祝辞を述べたようだが、セリフ間違えずに言えただろうかと心配になる。

さらに言えば部屋のトイレの水の勢いも弱すぎて難儀するしで、設備的にも雰囲気的にも、「なんだかなあ感」の漂う一夜だった。夜が明けて朝食会場で提供されていたコーヒーも、はっきり言ってめっちゃマズかったし。

というわけで悪いけど、このホテルはできるだけ避けようと改めて思った次第である。

 

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2021年7月 7日

「枝豆」は確かに「大豆」ではあるのだが

枝豆のおいしい季節になりつつある。ビールのつまみに枝豆なんか出されると、私は最近めっきり酒量が減ったので、枝豆ばかりパクパク食べて、あっという間に食べきってしまう。

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ちなみに、私が「枝豆は大豆である」と知ったのは、20代後半のことだった。これはフツーに知らない人が多く、tenki.jp のサイトにも "「枝豆」が成長すると何になる? 答えは「大豆」です" (2020/06/30 付)というウンチク・ページがあるほどだ。

13年前の記事にもちらっと書いているが、インド人を含む数人の友人とビールを飲んでいた時のことである。このインド人、つまみに出された枝豆が大変に気に入ってしまったようで、こんなような会話になった(元は英語だが、日本語に翻訳しておく)。

「このおいしい豆は、一体何だ?」
「エダマメ」
「いや、僕が聞きたいのは、英語で何て言うかってことなんだ」
「そんなの知らないよ。寿司が “スシ“ で、すき焼きが "スキヤーキ" なんだから、エダマメも "エッダマーミィ” でいいじゃん」

ところが、彼はそれでは納得しない。「英語でもちゃんとした言葉があるはずだ」と言い張るので、私は仕方なくバッグからコンパクトな豆本タイプの「英和/和英辞書」を取り出した。当時は英語を多用する仕事をしていたので、この辞書は必携品だったのである。今ならスマホで十分足りるが。

で、その辞書で "edamame" を引いてみたところ、ごく素っ気なく ”immatured soy beans" とあるではないか。これには思わず「はぁ !?」と叫ぶほど驚いてしまった。

「どうだ? 英語で何というか、わかったか?」
「英語で何というか以上のことを初めて知って、びっくりしてるところだよ。これって『未熟な大豆』なんだってさ!」

これはその場にいた友人全員も初めて知ったらしく、その話で大いに盛り上がってしまった。「大豆はすべて未熟なうちに食いたい」なんて言い出すやつまでいたほどである。

「すべて未熟なうちに食う」というのはさすがに暴論で、それじゃ味噌、醤油が世の中から消えてしまう。後日よく調べると、そこはそれ、枝豆は枝豆専用の品種改良がなされているようなのだ。上述の tenki.jp のページにも次のようにある。

近年は、大豆として収穫しない枝豆専用の品種で栽培するのがメジャーです。枝豆専用の品種は実に 400種類以上。収穫適期が短いので他府県に出回ることが少ないため、多くの地方品種があるようです。

なるほど、私の田舎でしか食えない「だだちゃ豆」(私は「日本一おいしい枝豆」と思っている)も、その一つだったのか。あそこまでいったら、さすがに「未熟な大豆」なんかでは済ませられないよね。

ああ、久しぶりで里帰りしてみたい。だだちゃ豆を食うためだけでいいから。

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2021年7月 6日

電気に妻を殺させろ?

下の画像は、英国の Willesden Electricity Department (「ウィルズデン電器事業部」とでも言えばいいのかな?)の 1936年頃の広告ステッカーである。「掃除機などの電気器具をを活用して、妻の家事労働の負担を軽くしてあげましょう」というメッセージだ。

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このステッカーの宣伝コピーは、以下のようなもの。

Gentlemen!
Don't let Hard Work Kill Your Wife...

Let ELECTRICITY Do it.

直訳すれば、「紳士諸君、重労働をしてあなたの妻を殺させるな。電気にそれをさせなさい」ということになる。これは 2通りの解釈が成り立つとして、昔から有名なものであるらしい。

好意的に読み取れば、「過重な家事は、あなたの妻の寿命を縮めるから、電気機器にそうした家事をやらせなさい」というメッセージとなる。しかし、私のような「アスペルガー症候群」一歩手前の人間は文字通りの解釈に走ってしまうので、次のような意味に受け取りがちだ。

「重労働に妻を殺させるな。電気にそれ(妻殺し)をさせなさい」

コピーの最後の "it" というのを、「過重な労働」ではなく「妻を殺すこと」と解釈する方が、構文的にはずっと自然なのだからしかたがない。この場合の「電気」といえば「電気椅子」みたいなものが頭に浮かび、元々からして英国っぽいジョーク混じりなのかもしれないなんて想像までしてしまう。

まあ、こうした「言葉の詮索」から離れるとしても、前世紀初頭は英国の家庭でも妻が家事労働に忙殺されていたようだと想像できるのである。ステッカーの左上には、ベッドでコーヒーを啜りながらのんびりと新聞を読む夫の姿が描かれているのに。

欧米諸国では「男女平等」なんて昔から実現されていたみたいな言い方をする向きもあるが、実際にはこの程度のレベルだったようなのだ。ちゃんとした「男女平等」は、不断の反省と努力がないと達成されないのだよね。

 

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2021年7月 5日

土石流と「避難指示」の問題

一昨日は仕事に追われていたので、ニュースはラジオで聞き流していただけで、例の熱海の土石流のニュースもほとんどピンときていなかった。昨日になってテレビで初めて動画を見て、「これはヒドいことだ!」と驚いてしまったわけだ。

巻き込まれて亡くなった人も少なくないというので、当初は「どうして避難しなかったんだろう?」と思っていた。私の住んでいる区域は今は改善されたが、以前は洪水危険区域だったので、昭和 62年(1986年)の小貝川洪水の時は、一家で高台の避難所に移って無事だったということがある(参照)。

その時は発令された「避難勧告」に従ったのだが、実際に避難したのは地域住民の 3割にも達しなかったと思う。ほとんどは家に残ったままで床下/床上浸水に遭い、翌朝はどこにも出られなくなって、ボートで救助されていた。

そんなわけで、強制力のない「避難勧告」ではあまり意味をなさないということを行政も理解したようで、現在はこの項目はなくなって、「避難指示」に統一されている。それで私は今回、「避難指示」にも従わず、土石流に巻き込まれた人がいたのだと思っていたのである。

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ところが昨日、ネット上のニュースで確認すると、被害区域では「避難指示」は出されていなかったというではないか(参照)。そんなことだと、熱海市の責任問題に発展する可能性もあるだろう。

あるいは「避難指示」というのは大きな強制力があるので、出す方は必要以上に慎重になってしまうのかもしれない。避難を強制しながら、結果的にはそれほどの被害がなかったとなると、「過剰反応」とのそしりが出かねないと懼れるのだろう。

もし「避難勧告」というのが残っていたとしたら、今回のような場合でも早い段階で出されていた可能性がある。その方がよかったかもしれないが、ただ、それでは強制力がなくて従う人が少ないということで、議論は振り出しに戻ってしまう。

こんな話でゴタゴタしてしまうのは、人間は「避難勧告」程度ではなかなか実際の避難行動に移りにくいもののようだからである。地域の世話役をしたような人の体験を聞いても、「避難勧告が出たので、避難してください」と言っても、素直に従う人はごく少なかったという。

「わしゃ、この土地に 70年住んでいるけど、そんなに危険なまでの洪水なんかになったことがない!」なんて言って、なかなか腰を上げてくれないのだそうだ。日本人の多くは、ほんの数滴の雨が降っただけで傘をさすくせに(参照)、洪水の危険が迫っても逃げたがらないという不思議な人たちである。

日本の気象は変わってしまったと言わざるを得ない。過去 70年間にわたって洪水なんかにならなかったとしても、今では土石流にまでなってしまうことがあるのだ。

行政には、迷わず早めの段階で「避難指示」を発令してくれることを望むばかりである。それには避難場所の確保などの問題も生じるらしいが、普段からそうした対応の準備をしておいてもらいたいものだ。

 

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2021年7月 4日

『おてもやん』の歌詞は、実は凄みがある

いろいろな都合で郷里の熊本に帰っていた妻の親友が、このほどまた関東で暮らすことになり、このコロナ禍が収まったら久しぶりに会う約束をして楽しみにしている。熊本と言えば私も出張で何度も行っているが、「おてもやん」という民謡を思い出してしまうのだ。

熊本市内には「おてもやん像」というのがあって、私も 14年前の出張の時に写真に撮り、下のように和歌ログの記事にしている(参照)。

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これ、改めて検索してみると一つだけではなく、市内のあちこちにあるらしい(参照)。おてもやんは、それだけ市民に親しまれているのだろう。

『おてもやん』という歌は印象的なので、最初の方は私も歌うことができるが、かなり濃い肥後弁なので意味となるとよくわかっていなかった。それでこの際だからと調べてみたところ、意外なことまでわかったのである。

ググった結果行き当たったのは、"『おてもやん』は熊本民謡として愛されている! 歌詞の意味が深い?" というページ。一面的な紹介に留まらず、諸説ある部分などはきちんと広く説明してあるので、信頼できると思う。

まずこの歌についてだが、元々は『熊本甚句』という花柳界のお座敷歌だったという。『おてもやん』というタイトルは、そもそも固有名詞(女性の名前)と一般名詞(「下働きの女性」を意味する「テマ」が訛った)の 2つの節が有力らしいが、一般名詞としても肥後の女性全般を指すとの説もあるらしい。

固有名詞としてみると、富永登茂(とみながとも 1855~1935)という女性がモデルであるらしく、この場合は訛って「チモ」と言われることが多いという。それがまた「おてもやん」になったというわけである。

詳しいことはリンク先を読んでいただければわかるが、最も驚いたのは「嫁入りしたこつぁしたばってん/ご亭どんが ぐじゃっぺだるけん/まあだ 杯ゃせんだった」という部分だ。

私は「嫁入りしたことはしたが、亭主がグジャグジャ面倒なことを言うから、三々九度の杯はまだ交わしてない」ぐらいの意味かと思っていたのだが、「ぐじゃっぺ」というのは「痘痕(あばた)で酷い」ということらしい。

亭主の顔に天然痘の痕があって不細工だから、正式には杯をかわしていないというのだから、下手すると差別問題になりかねない歌詞である。というわけでこの部分は、テキトーに流して歌う方が無難なのだろう。

いやはや、思っていたよりずっと凄みのある歌詞である。

 

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2021年7月 3日

雨が降っても、滅多に傘をささない私

先日、妻がラジオを聞きながら笑っているので、何がおかしいのか聞いたところ、番組リスナーからの投稿でおもしろいのがあったのだという。

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どんなのかというと、「先日、外出した妻から電話があり、『雨が降り出したから、迎えに来て』というので、言われた通りに迎えに行ったところ、『何しに来たの!?』と怒られました。ふと気付くと、手ぶらでしっとりと濡れた俺がいました」というものだったのだそうだ。

「雨が降っても傘をさす発想がないのは、まるであなたみたい」と妻は言う。なるほど、そのリスナーは電話で頼まれた言葉通り、「単に(手ぶらで)迎えに行っただけ」ということだったみたいなのである。

さらに言えば、そのリスナーさん、傘をさす発想がないというだけでなく、言われた言葉を文字通りにしか受け取れない「アスペルガー気味」なところも、私とよく似ている。その奥さんもそのところをちゃんと理解して、念のため「傘を持って迎えに来て」と頼めばよかったのにね。

確かに妻が言うように、私は雨が降っても滅多に傘を差すことがない。つくばの田舎暮らしなので、晴れれば自転車で行くことがあっても、雨が降れば大抵はクルマででかける。クルマを降りたら「訪問先の入り口まで走りさえすればいい」と思っているので、傘なんて使う気になれないのだ。

この 2日間、この辺りでもかなりの雨降りだが、昨日妻に頼まれてスーパーに買い物にでかけた時も、ついに傘は使わなかった。クルマから降りて傘を広げているうちにもどうせ濡れるのだから、店先まで走る方が面倒がないではないか。

そうかと思うと、ほんの一滴降ったかどうかというような場合でも、律儀に傘をささなければ気が済まないという人もいる。それどころか、自転車に乗っていても傘をさしてしまうという人もいる。さらにさらに、晴れていても日傘を差してママチャリに乗るオバサンまでいるのだから、世の中信じられない。

傘をさす、ささないは自由だけれど、命が惜しかったら、あるいは怪我をしたくなかったら、自転車に乗って傘をさすのだけはやめようね(参照)。

 

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2021年7月 2日

何かと気がかりな中国の動向 2

昨日の記事の続きである。中国共産党は今日、創立 100周年の記念式典を開いて、主席の習近平が、「台湾統一は歴史的任務」とか「(米国などの)説教は受け付けない」とかの演説をしたらしい(参照)。まあ、「言いたい放題」である。

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習近平の演説の映像を見ると、我が国の首相なんかよりずっと存在感があって、躍進中の大企業の社長と低迷する中小企業の係長ぐらいの差がある。今の中国の勢いと、日本の低迷を象徴的に表しているというか、こればかりはもう、素直に認めざるを得ないよね。

ただ、中国の覇権主義がこのまま順調に拡大発展するのかといえば、それは疑問だと思っている。中国共産党のこれまでの歩みをみても、毛沢東の文革路線の反動のように鄧小平の開放路線に移り、さらにその反動で習近平のゴリゴリ路線になっている。次の時代にそのまた反動が顕在化しない保証はどこにもない。

中国は少なくとも都会においては、経済発展の恩恵に浴する国民が増えているようだ。ただ、経済的に豊かになれば次は「自由」を求めるというのが人間の自然な欲望である。国外に旅行して既に諸外国の自由な雰囲気を味わってしまった層は、今後も諾々と強硬路線に従うとは思われない。

習近平の本日の演説にある「偉そうな説教は受け付けない」というのは、そうした「影響力」に脅威を感じていることの裏返しである。西側が常に一定の圧力をかけ続けることが必要であることは言うまでもないが、内部からの「多様性の展開」こそが、中国の今後の変化を決定づけるだろう。

ということは、決して「説教」なんか垂れる必要もなく、「自由な人間として魅力を感じる文化」を発信し続けていくことが重要だと思うのだよね。私は「文化は結局のところ政治に勝つ」と信じているから、楽観的すぎると思われるかもしれないが、こう主張する他ないのである。

 

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2021年7月 1日

何かと気がかりな中国の動向 1

NewSphire に「一党独裁の繁栄はこのまま続くのか? 中国共産党100周年」という記事がある。私も先月 26日付の "コロナ・ワクチンと、中国の「妙に覇権的な振る舞い」" という記事で「近頃、中国という国は何かと問題だよね」と書いており、本当に気にかかるところである。

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私は日本海側の貿易港がある山形県酒田市で生まれて育ったので、高校生の頃までは街中でロシア人とすれ違うことがよくあった。ロシア人が街の商店街で買い物をする姿もよくみかけていた。今は中国人の方が多くなっているだろうし、東京の街中でも中国人の姿は珍しくない。

さらに昔はよく香港に出張していたので、香港の人たちが中国に対して感じている脅威を、ほんの少しではあるが共有していたようなところもある。そんなわけで、中国の動向は気になってしまうのだ。

NewSphire の記事は中華人民共和国の歴史を、次のような 3段階でまとめている。

  1. 毛沢東の時代(建国初期〜文化大革命)

    ほとんどの中国人が共産党の支配を熱烈に歓迎していたが、マルクス主義や毛沢東主義を理解している人はほとんどおらず、支持されたのは平和と復興への約束だった。

    偉大な指導者だったはずの毛沢東は、朝鮮戦争、大躍進政策、文化大革命で多くの国民の命と経済を犠牲にした。

  2. 鄧小平の時代(開放路線)

    文革で失脚していた鄧小平が 1978年に復活し、改革開放路線に舵を切った結果、経済は大きく成長し、党の人気も一時的に回復したが、インフレと汚職を招き、中国人は西側の政治的価値観を知ることになった。

  3. 習近平の時代(党内保守派による独裁体制の強化)

    1989年の天安門事件以来、党内の保守派の力が強まり独裁指導体制が再強化された。

    以後、力強い経済成長と同時にイデオロギーが緩みかけていたところに登場した習近平が、党の特権や権力を大幅に強化しつつも、中国を経済大国へと導いた。

というわけで、米シンクタンクの大西洋評議会のフレデリック・ケンプ CEO は、CNBCへの寄稿記事で中国が「歴史上最も成功した権威主義国家になった」としていると紹介されている。「最も成功した権威主義国家」というのは、言い得て妙である。

問題は、中国がこのまま「権威主義的国家」の様相を強め、私が先月 26日の記事で触れた「妙に覇権的な振る舞い」を強めていくのかどうかである。このまま強めていくようだと、周辺の我々の危惧はどんどん強まらざるを得ない。

以下、長くなるので、続きは明日に。

 

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