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2021年7月22日

『我は海の子』という歌

ラジオ体操の第一と第二の間で、軽く首を回したりする際に、バックグラウンドでピアノが既成の曲のメロディを奏でるが、昨日はそれが『我は海の子』だった。NHK、文句の出にくいクラシックな季節感を、さりげなく採り入れたがる。

今の子供たちはこんな歌は知らないんじゃないかと思っていたが、Wikipedia によれば 2007年に「日本の歌百選」に選出されており(参照)、今でも小学校 6年生の音楽の教科書に載っているようだ(参照)。

ただ、私の頃(昭和 30年代)でも歌詞の意味をまともにわかって歌っている子なんてほとんどいなかった。クラスの 2割ぐらいは、1番の最後の部分、「我がなつかしき 住家なれ」を、「わ〜がなつか〜しき すみな〜かれ〜」なんて歌っていたし、あろうことか、教師もそれには無頓着だった。

何しろ初出は 1910年(明治43年)発行の文部省『尋常小学読本唱歌』というから、110年以上前の歌である。歌詞が基本的に古色蒼然とした文語というのも頷ける。

そもそも出だしの「我は海の子 白波の / さわぐいそべの松原に」というのでさえ、子ども時代にはきちんとわかっていなかった。私はちょっとおませだったから、「白波の」なんて聞くと歌舞伎の『白浪五人男』を連想して、「問われて名乗るもおこがましいが〜」なんて言いたくなっていたものである。

210722
白浪五人男 稲瀬川勢揃いの場

小学生の頃は「自分は海、なかんずく白波の申し子で、礒辺の松原で賑やかに騒ぎまくりながら育った」みたいな意味かと思っていた。ところが中学生ぐらいになってようやく気付いたのは、この部分、どうやら意味の区切りと曲の区切りが不自然なほど一致していないようだということである。

つまり意味としては、「我は海の子 / 白波のさわぐいそべの松原に・・・」と区切るべきで、その後の部分とつなげて、「自分は海の子であり、白波のさわぐ礒辺の松原に煙をたなびかせる粗末な家が、懐かしい住処なのだ」というようなことだとわかったのは、かなり成長してからである。

さらに、楽譜に添えられる歌詞は基本的に平仮名なので、2番目の「千里寄せくる海の氣を / 吸ひてわらべとなりにけり」は、20歳を過ぎるまで「海の木を / 梳いて〜」だと思っていた。海岸に打ち上げられる流木を燃料にするために、髪を梳くように選定していたのかなんて、無理矢理に想像していたよ。

この記事を書くに当たって、上述の Wikipedia の歌詞の項目で確認してみたところ、『我は海の子』は正式にはなんと 7番まであるとわかった。つらつら読んでみると、5番目あたりから「鐵より堅きかひなあり」「はだは赤銅さながらに」など、唐突にマッチョなイメージが強調され始める。

とくに 6番の「浪にたゞよふ氷山も/來らば來れ恐れんや / 海まき上ぐるたつまきも / 起らば起れ驚かじ」なんて、大袈裟な悪趣味というほかない。昨今に至っては温暖化で南極の氷山も減少したし、竜巻云々は逆にリアル過ぎて、メタファーとして歌うのさえ気恥ずかしいほどのナンセンスと化してしまった。

そして 7番の「いで軍艦に乘組みて / 我は護らん海の國」に至って、「ほぅら、結局これを言いたかったわけね」となる。海辺で生まれた無邪気で素朴な子も、やがて立派な軍人に育つのだという事大主義的モチーフで、これがあったからこそ明治の教科書に載ったのだろう。

この 7番は、戦後に GHQ の検閲でカットされ、最近はもっぱら 3番までしか歌われないというのも、無難な路線なのだろう。私としても、この歌は先に進むほど大仰なステロタイプの羅列でしかなくなり、芸術的価値は下がる一方だと思う。

ギリギリの 3番目にしても「不断の花のかをりあり」の「不断の花」ってどんなものだか想像もできず、私はずっと「普段の花」と思っていたぐらいだから、せいぜいこのあたりで終わらないと違和感が強まるばかりだ。正直なところ、どうしてこれが「日本の歌百選」に入っているのか理解に苦しむ。

とにかく難解でもったいぶった歌詞だから、ノー天気な替え歌もいくつかあった。最も知られているのは「我はノミの子シラミの子 / 騒ぐ背中や脇腹に」というやつだろう。元歌と韻が共通していて、秀逸のパロディである。

ああ、そういえば今日は「海の日」って祝日だったのか。

【当日 追記】

Wikipedia によれば、この歌は作詞者・作曲者ともに不詳だが、作詞者として 宮原晃一郎(1882年 - 1945年)と、芳賀矢一(1867年 - 1927年)の 2人の名が挙がっており、「最近では宮原の原作を芳賀が改作したとする説が最も信頼されている」とある。

そう考えると、冒頭に児童文学者である宮原の原作の素朴な趣が残っているが、先に進むほど、国文学者で国定教科書の編纂にも関わったという芳賀の権威主義的キャラがどんどん押し出されて、「いい加減にしろや」と言いたくなるのも、もっともなことと納得される。

 

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コメント

知らざぁ言って聞かせやしょう!

いえいえ、それこそノー天気なことを言いますが、軍艦云々の歌詞を堂々と言ってほしいモノです。
負の遺産とまでは言いませんが、唱歌と呼ばれるものに秘められた意向を、詳らかにして学ぶ姿勢も、必要じゃぁねぇか!と思う次第です。

「苫屋」こそ、ちゃんと過去の日本を知る勉強ですよねぇ。(50代/男性)

投稿: 乙痴庵 | 2021年7月22日 15:08

乙痴庵 さん:

私の考えを率直に言うと、7番目の 「軍艦云々」などは、後から芳賀矢一が加えたに違いないということで、宮原晃一郎の原詩のままだったら、多分もっと気持ちよく歌えただろうに・・・ということです。

早く言えば、芳賀矢一は余計なことをして歌の価値を下げたというか・・・ (まあ、そう断定する証拠はありませんが ^^;)

ああ、原詩がそのまま記された史料って、残ってないんだろうか。

投稿: tak | 2021年7月22日 16:03

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