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2021年8月16日

「愛国心」が「絶望」のフィルターを通過すると

東洋経済 ONLINE に "米国人記者が見た「特攻」と裏にある愛国の危うさ なぜ無駄死にすることが美徳となったのか" という記事がある。書いたのはマーティン・ファクラー(Martin Fackler)というジャーナリスト。

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私はこの記事のタイトルの "「特攻」と裏にある愛国の危うさ" という表現に妙に惹かれた。それは父から聞いた戦時中の思い出話に重なるところがあるからである。

「特攻」と、その裏にある「愛国心」とを結ぶ媒介は、記事中に述べられている次のような心理だったのだろう。

権力を握っていた当時の軍上層部にとっては、兵士たちは自分たちが自由に使っていい資源のような存在に映った。だからこそ無駄死にすることが美徳とされ、やがては強制されていった。

ただ、これは「権力を握っていた当時の軍上層部」の側の論理である。翻って実際にゼロ戦に乗り、砲弾をかいくぐって敵艦に突っ込む方の身になったら、これではたまったものではない。なのになぜ、特攻隊の若者たちはそんな無茶な任務に抵抗なく就くことができたのか。

私の父は 17歳の歳に終戦を迎えたが、それまでは志願して日本海軍に所属していた。酒田中学(旧制)時代に易者に見てもらったところ「お前は若死にする」と言われたので、「どうせ死ぬなら空で死のう」と決心して海軍に志願したのだという。

「ところが、空で死のうと思ったのに、行ってみたら飛行機なんて 1機も残ってなかったんだよ」と、父は語っていた。そんなわけで、「いずれ上陸してくるだろう敵軍に、爆弾を背中に担いで匍匐前進の特攻をかけるための訓練ばかりさせられていた」

つまり、空で死ぬはずが地べたにへばりついて死ぬことになってしまったわけだ。ただ、実際にそれをする前に終戦になったため、若死にするはずが、平均寿命より上の 83歳まで生き延び、おかげで私という息子が生まれて、後にこんなブログなんて書いている。易者の言うことなんて当てにならない。

父が「空で死ぬため」に海軍に志願したのは、「愛国心」と「絶望」の交錯する心理からだったようだが、「絶望」が 7割以上だったかも知れない。10代半ばにして「空で死のう」(「戦闘機に乗ってお国に尽くそう」ではない)と決心するには、かなりの「絶望」がなければならなかったはずだ。

「愛国心」が「絶望」のフィルターを通過すると、どんな無茶なことでもできる。特攻隊に志願することだって当たり前にできたわけだ。

当時の為政者たちは、若者たちにまともな希望なんて与えていなかったとわかる。

 

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

アタクシの場合、祖父が日中戦争で肩に銃弾受けなかったら、生まれてこなかったと思います。(負傷兵でそのあとの戦争には出てません)
当時の情報の流通量を思うと、村の偉い人から「行け!」言われたら、それが既定路線になっていたでしょうし。

アタクシは既に若者ではございませんが、お上からは「死にに行け」とは言われないものの、「死んでも構わない」部類にされたと思ってます。
生きてるウチは税金納めて、死にそうになったら頼る医療も頼れない現状。
ワクチン接種もやっと目処が立った、零細企業従業者50代。

レジスタンスを気取る気もないし、せいぜい先細った年金を頼って、140歳くらいまで生き長らえようと思ってます。
(まぁたいがいヤケクソです)

投稿: 乙痴庵 | 2021年8月16日 17:43

乙痴庵 さん:

本当に、戦争というのはかなりいろいろな運命の分かれ道になってしまうようですね。考えさせられます。

>せいぜい先細った年金を頼って、140歳くらいまで生き長らえようと思ってます。

それだけ生きたら、しっかり元取ってお釣りがきますね (^o^)

投稿: tak | 2021年8月16日 18:37

「お前たちの中には特攻隊に志願するものはおらんのか」と居並ぶ兵士たちに上官が言うと、しばらくの間沈黙が流れやがて一人の兵士が「はい」と言って手を挙げると次から次へ手が上がり全員が「志願」したそうです。志願は名ばかりです。

出撃前に一日だけ帰郷した兵士は布団の中で嗚咽していたようです。

出撃前には菊の御紋入りのチョコレートバー(実はヒロポン入り)を供され、異常な高揚感をもって敵艦に突撃していきました。ヒロポン入りの「沢の鶴」もあったようです。
https://nordot.app/798767547706327040
(昨晩の NHK で詳しく放送されてました)(ヒロポンは飲むと疲労がポンと消えることから命名されたようです。勤労学徒にも与えられていたようです)

特攻隊を作った大西滝次郎中将は、「多くの兵士を死に追いやった俺がこれ以上生き延びる訳にはいかん」と言って終戦の翌日に切腹してます。しかし多くの上官は「俺も最後の一機で行く」と言いながら終戦後も生きながらえました。

兵士を自由に使える使い捨ての武器のように扱った狂気の戦争でした。

因みに私の叔父はインパール作戦に従事し戦う前に命を落としました(戦士ではなく病死か餓死です)
指揮官の牟田口廉也中将は、前線からの「武器も食料も水もない、これ以上の進軍は無理だ」と撤退の指示を待ちましたが「帝国陸軍たるものは武器、食料、水がなくとも戦って勝ってくるものだ」といい撤退を許しませんでした。
結局、六万人の兵士の内四万人が病死、餓死しました。

牟田口廉也中将は300キロ後方のビルマの避暑地にある作戦本部で日本から呼び寄せた複数の芸者をあげて毎夜どんちゃん騒ぎをしていたそうです。
https://bunshun.jp/articles/-/39659
兵士を蟻のように扱った狂気の指揮官は1966年までのうのうと生き延びました。

投稿: ハマッコー | 2021年8月16日 19:06

ハマッコー さん:

コメントありがとうございます。

ご紹介のリンク先、読んでいるだけで胸くそが悪いほど腹が立ちました。

こんな連中に率いられた戦争だったと知れば、「何が聖戦だ!」と言いたくなります。

投稿: tak | 2021年8月16日 20:34

なんか私の祖父と通じるところが多々ありビックリです。

祖父も終戦時たしか17歳(誕生日を忘れました)。そして1941年、14歳で海軍特別年少兵1期生なのです。私たち孫に語ってくれたのは、
・戦艦陸奥に乗っていたことがある。
・鹿児島から陸攻に乗って沖縄に物資を落っことした(パイロットでは無いと思います)。
ということ。聞いた当時はわからなかったのですが戦史を学ぶにつれとんでもないことだとわかりました。

1、当時戦艦陸奥は「陸奥と長門は日本の誇り」とまで呼ばれた世界ビッグ7に数えられる大戦艦であること。
2、その陸奥は1943年に爆発事故で沈没していること。
3、「沖縄に物資を落っことす」とはつまり沖縄に着陸できないということで、すなわち戦争末期沖縄戦の真っ最中であり、沖縄周辺にはアメリカ軍の数十の空母と1000にも及ぶ海軍機がひしめき、「行って帰ってくる」だけでそうとう困難であること。
4、そもそも「海軍特別年少兵」は、単に戦況の悪化で若くして徴兵されたものではなく、将来に備えて幹部を育てる「海軍の青田買い」とも言える制度で、志願者から厳しく選抜されたエリート集団であること(事実祖父は勉強も運動もなんでも得意だったと大叔母から聞きました)。
5、しかし戦況の悪化により、現実は前線で「使い勝手の良い若年兵」として扱われ、1期生の戦没者は84%であること。

わずか16%、祖父が生き抜いてくれたおかげで、母が生まれ私が生まれた、そんな奇跡を感じたものです。
祖父は横須賀生まれなので、おそらく日ごろ目にする立派な海軍さんへのあこがれで志願したのかと思います(14歳の男の子ですから)。

参考
http://burari2161.fc2web.com/kaiguntokunenhei.html

投稿: らむね | 2021年8月16日 20:56

らむね さん:

確かに、年若くして軍隊に志願して入隊したのは、当時の「エリート」であったらしいです。

そのエリートを「消耗品」としてしか扱えなかったのは、当時の指導部のビジョンのなさとしか言いようがありません。

日本は負けるべくして戦争に負けたのですね。

投稿: tak | 2021年8月16日 21:30

初めてコメントさせていただきます。

私の父は戦争中に旧制酒田中学を卒業しましたが,卒業時に陸軍特別幹部候補生(特幹)を志願しようとしたところ,担任の先生から「ちゃんとお母さんに相談したのか? お母さんがいいと言ったらあらためて申し出なさい」といってすぐには受け付けてくれなかったそうです。母親(私の祖母)がいいと言わなかったので結局志願はあきらめて卒業後に徴兵検査を受けて一兵卒として中国戦線に従軍しましたが,父は後年「自分が戦争で死なずに済んだのはあの先生のおかげだ」と言っていました。父が他界したとき,同級生だった方にこの話をしたところ,「自分も予科練を志願しようとしたらこの先生に同じようなことを言われた」とおっしゃっていました(この方は結局予科練に入ったそうですが)。当時は表立ってはっきりと「志願するな」とはとても言えなかったわけですが,このような形で再考を促そうとしていた教師もいたということですね。
今になって考えてみれば特幹も予科練も消耗品としての飛行機乗りを掻き集める手段となっていたわけですが,父の時代の少年たちが競って志願しようとしたのはやはりヒロイックな(悲壮なといった方が適当でしょうか)使命感に突き動かされていたからではないでしょうか。当時は学校もメディアも地域の有力者もこぞってそれを煽り立てており,私の両親も「そのころはとにかくみんなそういう雰囲気だった」と言っておりました。私の母は一人娘でしたが,中には「男の子のいない家は非国民だ」という者もあったそうで,母自身も「自分が男でないことに悔しい思いをしたこともあった」とも言っていました。
世の大人,とりわけ指導的な立場にある者は,無責任に青少年の使命感・悲壮感を煽るようなことはすべきではないと思います。
長々と失礼いたしました。

投稿: nomibitoshirazu | 2021年8月17日 16:17

nomibitoshirazu さん:

コメントありがとうございます。

私の父は、nomibitoshirazu さんの父君のほんの少しだけ後輩だったのかと思われます。

ほんのわずかの時間差ですが、私の父が志願した頃には、戦局はかなり悪い方に向かっていると感じられていたようですね。

いずれにしても、父の時には、その担任の先生のようなもののわかった人が近くにいなかったようです。それでも生きて帰れたのは幸いでした。

投稿: tak | 2021年8月17日 20:26

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