「死に目に会う」より大切なこと
東洋経済 ONLINE の先月末日付に ”「死に目に会う」を重視しすぎる日本人の大誤解 亡くなる前に「一番大切なこと」はほかにある” というタイトルの記事がある。医療法人ゆうの森理事長で、たんぽぽクリニック医師の、永井康徳氏によるものだ。
記事中に、永井氏の「死に目に会う」ことに関する講義を聞いた、父の死に目に会えなかった経験をもつ研修医の、次のような感想が紹介されている。
「永井先生の講義を聞いて、『亡くなる瞬間に誰かがみていなくていい』という言葉にハッとしました。私自身、そばにいてあげられなかったことをずっと引きずっていたのです」
私自身は、自分の父と母のどちらの死に目にも会えていないが、そのことによるトラウマ的な感慨はまったくもっていない。それは私が山形県庄内の田舎を遠く離れて関東での暮らしをしていたことと無縁ではないと思う。
母は 2007年の 5月、父はその 4年後の 2011年 10月に亡くなったが、駆けつけた時にはどちらも病院のベッドで冷たくなっていた。
身内の容態の急変を聞いて、どんなに急いで帰郷したとしても 8時間ぐらいかかってしまう頃だった(今でもそれほど変わっていないが)のだから、元々「親の死に目には会えないもの」と思っていた。
そして親も、それは当然と思ってくれていたようだ。父が死ぬ前、最後に会った時に「俺ももう長くないだろうが、死に目に会おうなんて、無理なことは考えなくていいからな」と言ってくれたのを覚えている。
永井氏は記事の中で次のように述べておられる。
私は、死を間近にした患者さんにとって、亡くなる瞬間に立ち会うことよりも、「穏やかに楽に逝けること」がもっとも大切だと思うのです。こうした考え方が広まれば日本の看取りの文化が変わり、自宅での看取りが増えていくのではないかと考えています。
まさにそうだと思う。私も今のところやたら元気とはいいながら、既に 69歳にもなったのだから、あと 10年ぐらい生きて、このブログの「10,000日連続更新」を済ませた頃には、とっととあの世に行きたいと思っている。子供たちに「死に目に間に合うように」なんて言うつもりはまったくない。
永井氏によると日本人の 8割は病院で死ぬのだそうで、この割合は圧倒的に世界一なんだそうだ。死ぬ前に入院なんかしてしまったら、病院側としてもできるだけ長く生かそうとしてしまい、余計な治療まですることになるのだろう。
私としては、病院で何本もの管を繋がれながら無理矢理生かされた挙げ句にやっと死ぬなんて、考えるだけで嫌になる。昔から諦めのいい方で、1分 1秒でも長く生きることが幸せだなんて思うのは、完全に「煩悩の産物」だと思っている。
年をとって体が衰えた曉には、ある程度のところでその衰えた体からスルリと抜け出す方が、楽で幸せというものだろう。衰えた体の中で苦痛と不自由さに耐えていろという方が、ずっと残酷だと思ってしまうのだよね。
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