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2021年10月に作成された投稿

2021年10月31日

自民党 甘利幹事長の「誇大妄想」がスゴ過ぎて・・・

国会ウォッチャーさんの tweet が話題だ。自民党甘利幹事長の、神奈川県綾瀬市内での街頭演説動画付きである(参照)。

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文言の細部は多少省略してあるが、言っていることはほとんど上の画像にもある通りである。

「私はこの日本をしっかり率いて行ってるという自負があります。私がいなければ日本が立ち行かないという自負だってあります」

「でもそれを共有してるのはごく一部の人です。経済界は全員わかっていますよ。そして関係官界もわかってますよ。行政は。そしてアカデミア、優秀な教授陣は全部わかってますよ」

「でも世の中の人はほとんど分かっていないんです」

この自意識過剰はスゴいものだと言わなければならない。公衆の面前でこんなことを恥ずかしげもなく演説するなんて「誇大妄想」の領域に入っていると言ってももよく、しかもかなり深刻なほどのレベルなんじゃなかろうか。

彼の「誇大妄想」を、「経済界の全員」も「関係官界」も「優秀な教授陣」も全部わかって共有していると言い、その一方で「世の中の人はほどんどわかっていない」というのだから、ものすごい論理である。「世の中の人」のほとんどはバカだと言わんばかりだ。

その「世の中の人」の一人である私としては、「そんなことわかっていなくて、本当によかった!」と胸を撫で下ろしたいほどだ。こんなのが「わかる」なんて言ったら、家族や友人が心配する。

ついでに Yahoo Japan ニュース の "甘利幹事長まさかの落選危機で錯乱状態!「私がいなくなれば大変なことになる」と絶叫演説" というニュースも読んでみたが、やっぱりスゴい。

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こんなようなことになっているらしい。

経済安全保障に話が及ぶと「私は未来を見通せる」と言いだし、「その私がいなくなれば大変なことになる」「未来は変わっちゃう」と訴えた。最後は「私の手の中には日本の未来が入っている」「私の妨害をしたら、これは国家の行く末を妨害しているのと同じことなのであります!」と絶叫。ほとんど錯乱状態だ。

なんとまあ、日本の政権与党の幹事長という人の頭の中って、こんな感じなのだね。マジで政権交代してもらうしかないと思ってしまったよ。

 

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2021年10月30日

外来語の表記「テン/ティン/テイン」問題

昨日、ラジオを聞いていたら、ファッション関係の専門家らしい女性が出てきて、「靴下と SDGs」という、ちょっともっともらしく聞こるが、よく考えると「で、一体何が言いたいの?」という話を始めた。

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「SDGs」というのは最近の流行りみたいで、この言葉を使いさえすれば「賢い人」みたいに聞こえるってことのようだ。ただ彼女は、「S はサステナブル」だとは言ったものの、残りの D と Gs に関してはスルーしていたのだが。

もちろんこれは ”Sustainable Development Goals” のことで、和訳すれば「持続可能な開発目標」となるのだが、それはまあいい。ここで問題にしたいのは、外来カタカナ言葉の発音だ。

彼女はこのカタカナ言葉を「サステブル」(「ナ」にアクセント」)と発音していた。これって、かなり奇異に聞こえて耳障りである。

私としては元の言葉は ”sustain" (カタカナで書けば「サステイン」: 維持する、支える、持続させる)なのだから、外来語としても「サステイナブル」(「テ」にアクセント)と発音してもらいたいところだ(上の画像の『コトバンク』参照)。ところが今どきは、これをちゃんと発音する人が少ない。

仕方がないから「サスナブル」(「テ」にアクセント)なら、まだ見逃そう。しかし「サステブル」(「ナ」にアクセント)では、「それ何?」となってしまうじゃないか。「お前、元の英語知らないだろ」とまで直接言ったら嫌みだから、控えておくが。

この問題について、「待てよ、前にもこんなようなことを書いた覚えがあるな」と思って自分のブログを検索してみたところ、以下の 3つの記事が見つかった。

「サステナブル」「エンターティナー」「プロテイン」(2021年 5月 18日)
「エンタテインメント」という言葉を巡る冒険(2014年 9月 8日)
「エンタテインメント」という言葉を巡る冒険 その 2(2014年 9月 9日)

我ながらこの種の問題には、よっぽどこだわってしまう性分なのだね。ちなみに今年 5月の記事では、「サステナブル」が定着したのは、AKB 48 が 2019年に歌った『サステナブル』が重要な役割を果たしたようだと書いている。アイドルの影響力って、『日本大百科全書』(ニッポニカ)をも上回るのだね。

ついでだから、英語で "-tain" と綴る単語が外来語として取り入れられた場合の日本語表記と発音に関して、ちょっと例を挙げてみよう。

curtain - カーテン
captain - キャプテン
mountain - マウンテン
Great Britain - グレート・ブリテン
stainless - ステンレス

とまあ、大抵は 発音が「テ」に置き換わっており、"sustainable" が「サステナブル」になるのは、この原則に沿っているようにも見える。ただ、「カーテン」「キャプテン」「マウンテン」「ブリテン」は、元の発音からそれほどかけ離れているわけじゃないからいいが、「サステナブル」は気になるなあ。

”T" の発音以外だと、"Rain" は「レイン」、"main" は「メイン」と、二重母音を維持するが、"brain" は「ブレーン」、"chain" は「チェーン」、 "training" は「トレーニング」と、単に長音になるだけ。"-ain" のカタカナ発音は、かなり例外が多くてウザい。

ただ、"entertainment"  は例外中の例外だ。映画 ”That's Entertainment" が邦題「ザッツ・エンタテインメント」として公開されて以来、「エンタテインメント」が主流として定着しているように思われる。

ただし、この映画以前は「エンターティメント」なんて言っていた時期もあったようだし、YouTube で公開されているこの映画のテーマ・ミュージックのタイトルは「ザッツ・エンターテイメント」なんてことになっていて、ちょっと笑ってしまう。表記の揺れは、簡単には収まらないのだね。

さらに "entertainer" という言葉は「エンターティナー」になって、この揺れの大きさを証明している。私なんかがフツーに「エンタテイナー」と言うと、「エンターティナー」の訛りと思われてしまうらしい。いやはや。

そうかと思うと、前にも触れたが "protein" (英語の発音は「プロゥティン」に近い)は「プロテイン」と、モロにローマ字読みだ。そう言えば "cocain" (コゥケイン)も「コカイン」とローマ字読みになるが、この類いの外来語はドイツ語由来("protein" "kokain")なのかなあ。よく知らんけど。

ちなみに発音はだいぶ違うが、今が旬の "halloween" は、日本では「ロウィン」(「ハ」にアクセント)に収束しつつあるようだ。Wikipedia の項目も「ハロウィン」となっていて(参照)、「ハロウィン、あるいはハロウィーン(英: Halloween または Hallowe'en)とは・・・」の書き出しで始まる。

本来の発音は「ハロウィーン」(「ウィ」にアクセント)に近いが、すっかり日本語化しちゃったんだということで見逃しておこう。もっとも、「ハローウィン」(「ロー」にアクセント)なんて言われると、やっぱり気持ち悪いけど。

 

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2021年10月29日

「関西・感染再拡大警戒宣言」って、要するに何なの?

「関西広域連合」ってどんな暴力団組織なのかと思ったら、さにあらず、Wikipedia によれば「関西の 8府県が地方自治法の規定に基づいて設立した特別地方公共団体」なのだそうだ(参照)。ちゃんと公式ウェブサイトまであるのだね。東北出身で関東在住の身としては、ちっとも知らなかった。

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Yahoo Japan によると、その関西広域連合が昨日、新型コロナウイルスによる感染症に関して「関西・感染再拡大警戒宣言」を出したのだそうだ。上の画像は、それに関する神戸市のお知らせである。

いやはや、来月初旬には久しぶりで関西に出張する(参照)ので楽しみにしているというのに、あまりいい話じゃないなあ。

ただ、それにしてもよくわからないことがある。というのは、本日昼の段階では、この件に関する情報はいくらググってみても、上述の Yahoo Japan のニュースしか見つからない。昨日までは、当の関西広域連合のサイトに行ってみてもそんなような情報は見つからかったのだ。

要するに昨日の夜までは、判断の材料は神戸市から発せられたものしかなかったのである。しかも情報は以下のような書き出しである。

本日、第24回関西広域連合新型コロナウイルス感染症対策本部会議において協議を行い「関西・感染再拡大警戒宣言」を発表しました。

これ、一見してわかるように「悪文」である。なにしろ主語がない。宣言を発表した主体がどの組織なのか、曖昧すぎるのだ。極端に言えば、「神戸市が関西広域連合をダシにして勝手に宣言を発した」みたいに読み取ってしまうことだってできるほどである。

今朝、改めて関西広域連合のサイトをつつき回してみたら、ようやく「関西・感染再拡大警戒宣言」という、下に画像で示しているページが見つかった。しかしこれ、情報が遅い上に、ページの作りも下手くそ過ぎだ。行間が狭すぎる上に、色もうるさいので、目がチラチラして読みにくくてしょうがない。

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文言としては一番上で紹介した神戸市の情報と同じなので、そちらで読む方が目が疲れずに済む。さらに内容的にはとくに目新しい情報は一つもないので、面倒くさいと思う方は読まなくても別に問題はない。何でまた、これが特別な「宣言」の名で発表されたのか、よくわからない。

というわけでこちらとしては、来月の関西出張に関しては「フツーに気をつけて行けばいいのね。それ以外に何か?」ということでいいのだと思うしかない。以上。

 

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2021年10月28日

ちょんまげ、ザンバラ、月代(さかやき)を巡る冒険

Japaaan のサイトに「足利尊氏?高師直?あの有名な肖像画の騎馬武者は、どうしてザンバラ髪なの?」というタイトルのページがある。示されているのは、下の騎馬武者像だ。

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この絵、歴史の教科書にも載っていて、足利尊氏とされていたのだが、実は家臣の高師直(こうのもろなお)であるという説も出てきているのだそうだ。いやはや、びっくりである。教科書を素朴に信じすぎちゃいけない。

高師直の名は歌舞伎ファンにはお馴染みで、『仮名手本忠臣蔵』で敵役の吉良上野介が『太平記』の悪役の、高師直として登場する。これは江戸時代の実話だった赤穂浪士討ち入り事件を、幕府に配慮して、時代考証なんてどうでもいいとばかりに無理矢理に足利時代のストーリーとして語っているためだ。

実在の高師直はとても勇壮な武将だったらしいが、『太平記』ではどういうわけか女好きのゲスじじいとして描かれている。そして歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』にもその嫌らしいイメージそのままの敵役として登場するので、とにかく「嫌われ役」の典型だ。

高師直がこんなにも酷いヒール扱いされたのは、庶民に人気の高い楠木正成を破ったためとも言われるが、とにかく実際の高師直が気の毒になるほどである。本当に本当に、一方的なものの見方というのはアブナい。

話を最初に戻すが、この騎馬武者像が足利尊氏なのか高師直はこの際置いておくとして、なにゆえにザンバラ髪で描かれているのかというのが、そもそもの Japaaan の記事のテーマだ。絵をよく見れば、同じザンバラでも髷を結い直せないほどの短さである。

この記事によれば、このザンバラ髪は、"もう「二度と髷を結わない」決死の覚悟で髪を断ち切った跡" ということのようなのだ。次のように書いてある。

建武 2年(1335年)11月、朝廷から謀叛の疑いをかけられた尊氏は赦免を求めて断髪、恭順の意を示すものの許されず、やむなく叛旗を翻しました。

その時、御家人たちも決死の覚悟を共にするべく髪を一束切(いっそくぎり)にしたと言います。

(中略)

一束切とは、髻(もとどり。髪の根元)を握りこぶし一束(ひとつか。一掴み)分のところで髪をバッサリ切ること、または切った髪型を言い、再び結うのが難しいことから、基本的に死を覚悟した時の決意表明となります。

ついでに、この記事には兜(かぶと)の形状の変化と月代(さかやき)についても解説してある。

平安から鎌倉時代の兜というのは、天辺の穴に髷(およびそれを覆う烏帽子)を通すことで頭に固定していたのだが、この穴から矢を通されるということで弱点になっていた。そこで時代が下るにつれて紐で固定するようになり、天辺の穴もふさがれていった。

兜の天辺の穴は「八幡座」と呼ばれ、「刀剣ワールド」のこちらのページに詳しく解説してある。被る時は、下図のようになったらしい。

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ただ、天辺の穴が小さくなると髷を結っていては兜を被りにくいというので、髷をほどいて装着するようになった。それが鎌倉時代末期のことなので、この武者像の髪が短いということを別とすれば、ザンバラなのは不思議ではないようなのだ。

そしてさらに時代が下ると、兜の穴がふさがれると頭が蒸れるというので、頭のてっぺんの髪を剃る月代スタイルが普及する。一番上の絵は、そうなるちょっと前の武士の姿なので、月代を剃っていない。(生え際がだいぶ後退してはいるが)

いやはや、この記事を読むまではそんなこととはちっとも知らなかった。そういえば、室町時代以前の武士というのは月代がないというイメージだったりするのは、そういうことだったのか。

ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という明治初年の価値感からは、ずいぶん遠いところにあるお話である。

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2021年10月27日

日本語を読めない日本人って、ザラにいるから

下の画像は、東洋経済の 2018年 12月 26日付 "衝撃!「日本語が読めない日本人」は案外いる" という記事の冒頭だ。"AI に仕事を奪われる、中学生以下の大人たち" というサブタイトル付きである。

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なんでまた、こんな 3年近く前の記事を持ち出したのかというと、私の今月 23日付「人は案外、字を読まない(ましてや英語だとなおさら)」という記事との関連でググられてしまったからだ。

この記事は、次のように始まる。

次の2つの文が表す内容は、「同じ」でしょうか、「異なる」でしょうか。

「幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた」

「1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた」

当然、「異なる」が正解です。しかし全国の中学生857人の正答率は、なんと57%。「2択問題」の正答率は当てずっぽうでも50%になることを考えれば、驚異的な低さと言えます。

私としてはこんなのを読んだら、2番目の文の後半に至った瞬間に「おいおい勘弁してくれよ。主語が違っちゃってるだろ!」となるのがフツーと思ってしまうが、何と、全国の中学生のほとんど 2人に 1人はフツーじゃないらしい。いやはや、困ったことだよね。

この記事の 4ページ目の "偏差値と「読めなさ」の強い関連性" という項目では、「生徒の学力を向上させるには、数学の問題を解いたり、歴史上の出来事や年表を暗記したり、化学式や数学の公式を暗記したりするだけではなく、教科書を読む力を高めることも重要である可能性」が示されている。

そういえば私は 2013年 4月 8日付の「学校の授業は、セレモニーのようなもの」で、「小学校の授業というものをまじめに受けたことがない」と書いている。年度初めに教科書が配られるとすぐに読み終えてほとんど理解してしまうので、授業はまどろっこしい「後追い」に過ぎず、退屈でたまらなかったのだ。

この「読むと同時に理解する」というのは、小学生の私にとっては当たり前すぎることだったのだが、後々になって、必ずしも当たり前というわけじゃないと気付いた。同じ文字情報に接しても、それがさっと頭に入るやつと、全然入らないやつがいるという事実を、何度も目の当たりにしたからである。

これ、もっと根本的なレベルで言うと、「文字さえあれば自動的に読んで理解しちゃう」やつと、「文字があってもまともに読めないままスルーしちゃう」やつがいるってことだ。

私は上述の今月 23日付の記事で、「日本語だと読んでも、英語だと完全スルー」という層が多いということを言っているのだが、現実はもっと厳しくて、「日本語でも、うやむやのうちにスルー」という層が結構多いようなのである。

ということは、「ここにちゃんと書いてあるのに、何でわかんないんだよ!」なんて言ってキレたりしちゃいけないってことだ。「書いてあるのにわからない人」に求められたら、ちゃんと彼らの身になって、「あっ、そうだったのか!」と納得してもらえるように、上手に説明しなきゃいけない。

それはある意味、インテリの義務だとまで思う。難しいことを難しい言い回しで述べるのは比較的楽だが、そこから一歩進んで、やさしい言い回しや馴染みやすい譬え話でも説明できるようになることが、人類愛というものだろう。そのあたり、なにぶん

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2021年10月26日

「団塊の世代の尻尾」を巡る冒険

昨日は「現在の数少ない高校生以下の世代は、上に巨大な重石を二段重ねで乗っけられているようなものだ」と書いた(参照)。二段重ねの重石とは、もちろん「団塊の世代」と「団塊の世代ジュニア」で、団塊の世代のやや下の世代である私が 23歳の生意気盛りだった頃の人口ピラミッドはこんな具合だった。

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これは 1975年のものだが、25歳〜29歳の層の人口が際立って多く、その下にちょっとしたへこみがあるが、一番下に既に「団塊の世代ジュニア」が現れかけていて、まあ「人口ピラミッド」というにあまり違和感のない形をしていた。

「団塊の世代」というのは、Wikipedia によれば「第二次世界大戦直後の1947年(昭和22年)〜1949年(昭和24年)に生まれて、文化的な面や思想的な面で共通している戦後世代のこと」とある(参照)。いわゆる「ベビー・ブーマーズ」である。

上に示した人口ピラミッドでいえば、25〜29歳と 30〜34歳の 2つの領域に跨がっている。まあ、いずれにしても結構な人口になるわけで、まさに「団塊」というに相応しい。

私は 1952年生まれで、上の図でいえば「20〜24歳」に属していた。一見してわかるように、同世代人口がガクンと減り始めたという世代である。それで私なんかは昔から、「団塊の世代の尻尾」と自称していて、すぐ上の世代の圧倒的な「数の力」をかなり鬱陶しく感じていた。

私が「団塊の世代の尻尾」という言葉を初めて使ったのは、2016年 8月 2日付の ”「団塊の世代の尻尾」の都知事が生まれることについて" という記事においてだと思う。小池百合子さんが都知事に当選した時の記事だ。彼女は 1952年 7月 15日生まれというから、私より 11日だけ早く生まれた同世代である。

「団塊の世代の尻尾」という世代論に関しては、上記の記事で思い切り書いてしまったので、リンク先に飛んで読んでもらえればいいと思う。ここで敢えてギリギリ要約してしまうと、我々は「団塊の世代」が「行け行けドンドン」的に動いて荒らしまくった結果の「後始末」ばっかりしてきたということだ。

彼らが数の力で次々にいろいろな「ブーム」を形成してしまうので、それらに関して「ちょっと違うんじゃないの?」と思ってしまう私なんかは、いつも「マイナーな存在」として動かざるを得なかった。つまり常に「時代の主流」にはちょっと距離を置いてしまう運命にあるわけだ。

このブログにしても、そんな色合いが強いと自覚している。それでアクセス数も 1日当たり 700〜1,000 ぐらいのレベルで、それ以上にはなかなか増えない宿命にあるが、まあ、急にキャラを変えるわけにもいかないので、このまま続けて行くほかない。

ちなみに、5年前に書いた ”「団塊の世代の尻尾」の都知事” の小池さんだが、長く政治の世界にいるうちに、尻尾の特質を薄めてしまいつつあるように見受けられる。今回の東京オリンピック推進の姿勢を見て、「この人、やっぱりこうなっちゃうんだなあ」と思ってしまったよ。

 

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2021年10月25日

老後の資金なんて、元々ないのが当たり前になる

『老後の資金がありません』という映画が、公開前からやたら話題になっているが、原作は垣谷美雨という人による小説で、中公文庫で読めるらしい(参照)。

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小説の主人公はこれから老後を迎える 53歳の後藤篤子という女性で、これを映画では天海祐希が演じているようだ。53歳といっても、原作が世に出たのは 2015年で、この年の人口ピラミッドをみると、こんな具合だ(参照)。

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この頃の 50代といえば、団塊の世代と団塊の世代ジュニアのほぼ中間ですぼまっている部分で、同世代人口の比較的少ない年齢層とわかる。上下の圧倒的な数の世代に挟まれて、しわ寄せを食いやすい存在だ。

老後の資金に限らず、いろいろな面で気苦労が多くなってしまう。映画では草笛光子の演じる義母の振る舞いに困惑し通しになるらしいが、まあ、そんなような宿命にある世代なのかもしれない。

いずれにしても、「人口ピラミッド」なんて言われているが、実際の形は下に行くほどつぼまっていて、今の 10代の幅なんて団塊の世代の半分強しかない。近所を歩いても「じいさんばあさん」ばかり目立つわけである。というわけで、2020年の人口ピラミッドは、2015年の時点でこんな具合に予測されていた。

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現在の数少ない高校生以下の世代は、上に巨大な重石を二段重ねで乗っけられているようなものだ。今は「団塊の世代ジュニア」が現役バリバリで世の中を支えているからまだいいが、あと 20〜30年したら、人口ピラミッドが「人口逆ピラミッド」なんて言われてしまいそうだ。

これじゃあ、若い世代が老人の生活を支えろと言ってもムリなわけで、それぞれが「老後の資金」を蓄えておくしかない。ところが日本人の多くは現在の生活に精一杯で、貯金なんてしている余裕がないという。「老後の資金がありません」なんて、当たり前のことになる。

私としても来年は 70歳だというのに、何だかんだと言いながら細々と仕事を続けている。まあ、個人事業主で気に入った仕事しかしないというわがままを通してるからいいが。

しばらくは元気で働いて、時が来たら後の世代に迷惑をかけないようにポックリと逝ってしまうのが一番いいのかも知れないね。取りあえず、それまではあっけらかんと生きていくことにしよう。

 

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2021年10月24日

街に人もクルマも増えている

下の写真は、一昨日の金曜日、『和歌ログ』で使った写真だ。急に冷え込んで「雨止まぬ帰宅ラッシュの国道で車内暖房のスイッチを押す」なんていう歌を詠んでいる。

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写真で見るように、国道の下り方向がかなり混んでいて、赤信号の手前に信号待ちの長い列ができ、そこに至るまでもかなり前からノロノロ運転になっていた。こんなに混雑するようになったのは久しぶりのような気がする。

コロナ禍が少し収まりつつあるため緊急事態宣言が解除され、実際に出社しての仕事をするようになった企業が多いのだろう。テレワークもすっかり定着するまでには至らなかったようだ。

昨日の土曜日は、ショッピングセンターで買い物をしたが、あんなに家族連れの多い光景を久しぶりに見る気がした。個人的には、子どもを人混みの中に連れ出すのはまだリスクが大きい気がするのだが、子どもの方でも家に閉じ籠もりきりの状態に耐えられなくなっているで、難しいところだろう。

さらに今日は所用で常磐高速道を使ったのだが、渋滞とまではならないまでもかなり交通量が増えていた。日曜日で天気も良かったので、幸楽に出かけた人も多かったのだろう。これまでとは大きな違いだ。

コロナ・ワクチンの接種率はようやくかなり高くなってきているが、若年層ではまだまだ低い。もし第 6波なんて言われるほどのリバウンドで感染者が増えるとしたら、30代以下の若い層だろう。用心するに越したことはない。

私は来月半ばに大阪に出張することが決まったが、大阪府のコロナ感染者数は近頃ずっと東京を上回っている。大阪人は喋るのが好きな上に声も大きいから感染が広がりやすいなんて言う人もいるが、それは冗談としても、用心はしなければならないだろう。

ワクチンの 2回接種を済ませたとはいえ、絶対に安全というわけではないというのが鬱陶しい。

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2021年10月23日

人は案外、字を読まない(ましてや英語だとなおさら)

下の画像は、2019年 7月 17日付の「ファンタスティック過ぎる英語教材」という記事で紹介したものだ。i-smile という英語教材会社が、2年前頃にネット上で大々的に展開した広告の(参照)一コマなのだが、昨日の記事で蒸し返して思い出したので、敢えて別記事として深掘りしてみたい。

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この広告のマンガに登場の若い女の子は、海外旅行の入国手続きで "Have a nice day." と言われて「幅ないっすね」に聞こえ(フツー、そうは聞こえないよね)、何か悪口を言われたのかと悩んでしまうほど英語ができなかったという設定である。そこで一念発起して、i-smile の教材で勉強を始める。

そして何と、「たった 2ヶ月で英語ペラペラ」になり(あり得ないよね)、街で "Exusse me. I want to go to Asakusa." と、妙にこなれない英語で話しかけてきた外国人に、自信満々で応える。それが上の画像である

"Even a train can go on a bus, but where do you go?" (列車さえもバスに乗って行けますが、あなたはどこに行きますか?)というのだから、まことにもって「ファンタスティック過ぎる英語」と言うほかない。おまけに「話せるようになれたんです」という日本語もおかしいし。

このマンガ、i-smile 側としても私がブログで槍玉に挙げたことを伝え聞いたか、ようやく "Oh, my God!" とアセったらしく、慌てて修正したようだ。私の記事にも、約 9ヶ月後の 4月 30日付として、次のように追記している。

書き忘れていたが、私がこの記事を発表して暫くすると、問題の広告の女の子のセリフが ”You can take a bus or train to go to Asakusa." に変更されていた。

いくらこっそり修正してても、私が証拠物件として保存した上の画像が残ってるので、トボけ切ることはできないのだがね。

ただ、今日の話で強調したいのは、この「デタラメ英語」そのものではない。どういうことかというと、"Even a train can go on a bus, but where do you go?" でググってみても、ご覧の通り、私の過去記事 1本しか検索されないってことだ。これには驚いた。

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(これ、Even a train can go on a bus, but where do you go? だけでググると、類推検索でいろいろなページが表示されてしまうので、両側に " " を付けるのをお忘れなく。念のため)

さらに Twitter 内で検索してみても見つからない(参照)。(ただし、遅ればせながら今後話題になることがあれば、それなりの検索結果が表示されるだろうけど)

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英会話教材会社ともあろうものがこんなファンタスティック過ぎる英語を、少なくとも 1ヶ月以上(実際には多分、3ヶ月以上)にわたり、大々的にネット上に晒していたのだから、Twitter で突っつかれて大炎上していたとしても不思議じゃない。しかし実際は、そんなことには全然ならなかったのである。

ということは、あれだけ派手なネット広告だったにも関わらず、このメチャクチャな英語に気付く人はほとんどいなかったってわけだ。要するに人って、案外字を読まないのだね。ましてや英語だとなおさらで、ほとんどまともに読まずに「雰囲気のもの」としてスルーしてしまうようなのだ。

Twitter でことさらな炎上劇を作りたがるユーザーは少なくないと見受けるのだが、そんなわけで、彼らもコンテンツに英語が入ると、格好の炎上ネタでもそれに気付くことすらないのだね。ずいぶんドメスティックな存在みたいなのである。

このことによる教訓は、以下のことである。

かなりビミョーでアブナいことを言いたい場合は、日本語でなく英語で書いておけば、余計な炎上は確実に避けて通れる。

ただし、ほとんど読んでもらえないことも確実ではあるのだが。

 

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2021年10月22日

やっぱり「聞き流すだけ」じゃ、ダメだったみたい

"石川遼でおなじみ、英会話教材「スピードラーニング」が事業終了していた 理由は「諸般の事情」” というニュースが飛び込んできた。この手の英会話教材については、過去に何度か書いてクサした記憶があるが、それにしても「諸般の事情」とは笑ってしまうね。

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自分のブログ内をちょっとググってみただけで、以下の 5本の記事が見つかった。いずれも「胡散臭い」と決めつけるトーンで書いている。

「聞き流すだけ」 という英会話教材を巡る冒険(2012年 3月 14日)
「聞き流すだけ」というおとぎ話(2015年 3月 24日)
東京オリンピックと、英会話熱と、当たり前すぎるお話(2015年 8月 9日)
パソコン教室と、「聞き流す英会話」(2017年 1月 18日)
例の「聞き流す英会話」の CM に関する素朴な疑問(2017年 1月 19日)

スピードラーニング以外の似たような教材に関しては、なんと 9年も前からクサしている。私ってば、こうした類いの教材をよっぽど信用していないようで、一昨年辺りからは「ファンタジー」と決めつけている。

たった 90日で 「英語がペラペラ」 になるなんて(2009年 2月 27日)
ファンタスティック過ぎる英語教材(2019年 7月 17日)
英会話教材はさらなるファンタジー化を遂げている(2019年 7月 29日)

ちなみに、スピードラーニングを実際使っていたという人の tweet を見つけた。こんなようなものである。

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「毎日 5分聞けば片言ぐらいは喋れるようになります」とあるが、この教材は「毎月 3,800円(税別)からの定額制学習プログラム」というのだから、「片言ぐらい」の英語を喋るためとしては、コスパ悪すぎるんじゃないかなあ。

このあたりのことについては、上述の パソコン教室と、「聞き流す英会話」 という記事で以下のように述べている。

パソコン教室に通っても添付ファイルすら送れない知人が最近、「スピードラーニングをやってみようかと思っている」なんて言い出したので、「そんなものやっても、せいぜい道案内ぐらいしかできないと思いますよ」と答えておいた。

すると彼は、「いやいや、道案内できるようになるだけでも立派なものじゃないですか」なんてことを言う。

「その程度は、中学生英語でいけるはずなんですけどね」と言うと、黙り込んでしまった。

うぅむ、また余計なことを言ってしまったかな。

というわけで、日本では大学を出ても「英語の道案内」程度のことがファンタジーみたいなのである。ファンタジーの教材がファンタジーなのも、仕方がない。

 

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2021年10月21日

久しぶりで旅ができそう

久しぶりの出張が決まった。来月中旬に大阪に行くことになったのである。東海道新幹線に乗るのが 1年 4ヶ月ぶりになると気付いて、我ながら驚いている。

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ここ 20年ぐらいは、月に 2〜3度は日本各地に出かける仕事が入っていたのだが、コロナ禍のせいで激減し、昨年 1月からの出張を振り返ると、関東圏で日帰りした以外では下に示した10回だけだ。平均すると例年の 5分の 1 以下の頻度である。

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このほか 3月に、「旅の禁断症状」を和らげるためにプライベートで飛騨に旅している(参照)が、これを含めても今年に入ってからは 10ヶ月でわずか 4回。 フツーなら「結構行ってるじゃん!」と言われそうだが、風来坊の私としては、こんなにまで旅が少ないのは高校を出てから初めてだと思う。

それにコロナ禍に配慮して、たまに出張に出てもほとんど寄り道もせずに帰るから、まったく味気ない。昨年 3月末の網走出張で「せっかくこの季節に来たんだから、このまま帰すわけに行かない」と強く勧められ、流氷見物をした(参照 1参照 2)のが唯一の例外である。

ここに来てコロナ禍がやや下火になったので、ようやくまともに「旅らしい旅」ができそうな雰囲気になった。とはいえ、今回はたかだか 2泊 3日ぐらいのちゃっちいものではあるが。

今度の旅では、大阪での仕事の本番の前後どちらかに、京都にでも立ち寄って秋の古都を味わってみようと思う。京都はこれまで何十回も行って見るべきところは見尽くしてしまっている気もするが、見落としてしまっているスポットがあるかもしれない。

さて、どんなところに行こうか。楽しみ、楽しみ。

 

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2021年10月20日

私が依然として「Apple 信者」になり切れないのは

BBC ニュースによると、Apple は中国で ”Quran Majeed” というコーラン・アプリを取り下げたのだそうだ(参照)。これ、コーランを多言語(日本語には対応していない)で読んだり聞いたりできるもので、"Essential app for all Muslims"(全てのイスラム教徒必須のアプリ)と紹介されている(参照)。

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Apple は、この措置は中国政府からの要請によるものだとしているが、中国政府は直接にはこれについて声明を発表しておらず、BBC の取材にも答えていないという。ただ、最近の新疆ウィグル自治区のイスラム教徒に対する迫害と人権侵害と無関係とは考えられない。

私はムスリムではないが、こんなニュースを聞くと「中国に生まれなくてよかった」と単純に思う。中国では信教の自由が表向きは保障されているが、各論ではこんなことになる。いろいろな方面で「無茶な各論」が出てくるのだから、このようなブログを書いても迫害されるだろう。

Apple はこの件に関してはうやむやな態度に終始しているという。最高経営責任者の Tim Cook は米国の政治家の偽善的な発言などは厳しく批判するが、中国に関してはかなり生ぬるい。これは、中国がアップルにとって、生産・販売の両面で重要マーケットとなっているからとみられる。

自分自身について言えば、私は iMac、MacBook、iPhone、iPad、Apple Watch を使っている。傍目には典型的な「アップル信者」に見えても仕方がないが、自分でそう言い切ることには、今でも抵抗がある。

6年半前の「アップル信者になり切れない私」という記事で私は、Apple 製品の仕様に完全には馴染みきっていないことを告白している。しかしその 4年半後の追記では、この面についてもかなり馴染んだことを報告し、"「Apple 信者」に近付いてしまった" なんてことを書いた。

ただ、それでも「まだ今イチ、なり切れていない」としているのは、残念なことに、企業姿勢としてこんなことがあるためでもあるのだよね。

 

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2021年10月19日

葬儀と「清めの塩」と画一化の問題について

昨日の記事で "近頃の都市部の葬儀では、帰りに必ずと言っていいほど「お清め塩」なんてものを渡される" と書いたが、より新しい情報では「必ずと言っていいほど」というわけではなくなってきているようだ。私の中の情報が少々古くなってしまったようで、更新しなければならない。

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ようやく世の中に変化が現れているらしい。上の図は「昭和セレモニー」(千葉の葬儀会社らしい)という会社のサイトから拝借したもので、とてもわかりやすい。

昨日の記事で、「清めの塩」について "「面倒な押しつけ/小さな迷惑」としか感じられない" と書いたのは、次のような理由からである。

  • 「清めの塩」というのは元々は神道の考え方だから、仏教式の葬儀でそんなものを渡されるのは、「神仏混淆」の典型。
  • 葬儀から帰ったら体にかけて死の穢れを払うという趣旨らしいが、これもまた「雰囲気のもの」でしかないし、個人的にはしたことがない。
  • かと言って、敢えて受け取りを拒否するのも無粋だろう。
  • ところが持ち帰ったところで、我が家常備の天然塩とは違うため一緒にしたくないので捨ててしまう。
  • 一人一人にしてみればほんの少量だが、日本中でまとめてみればかなりの「食品ロス」になる。
  • 葬儀屋が効率志向によって、いつの間にか画一的なスタンダードを作ってしまった結果に過ぎないだろう。

最後のポイントの「効率化志向による画一化」というのは面倒な問題だ。「清めの塩」に限らず、近頃ではかなり多くの分野でそんなことが目立つような気がする。一応のスタンダードがあれば便利は便利だが、それにこだわって絶対視したがる人が出てくるので厄介なのである。

例えば昨日の記事でも書いたが、葬儀で「清めの塩」が渡されないと「手抜き」扱いして、苦情をいう人なんかも出てくる。「どうしておたくは、きちんと用意しないんだ」というわけだ。直接面と向かって言わずに、陰で「あそこは気が利かない」なんて言う人はさらに鬱陶しい。

宗教というのは「多くの日本人はこだわらないが、こだわる人は死ぬほどこだわる」という分野だけに、こうした妙な現象が出てきやすい。そんなことでクレームがつくなら一律に配る方が面倒がないということで、画一化はどんどん進行する。

ところが、それでもやっぱり問題は生じる。私のような「こだわらない人」にとっては単に面倒なだけだが、「こだわる人」にとっては、「仏教式の葬儀なのにおかしい」と、クレーム対象になってしまうのだ。やはり「無闇な画一化」というのは問題が多い。

こうしたことで最も癪に障るのが、「画一的な校則」ってやつだ。この記事を読めば、私だけでなく、多くの人がムカついてしまうだろう。

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さらには、こんなこともあるようだし。(信じられないが、実際にあることらしい)

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2021年10月18日

「スピテロ」というのがあるらしい

きよみ@社労士さんという方が、「スピテロは禁止」という tweet をしておいでだ(参照)。一体何のことかと思ったら、どうやら「スピリチャル・テロリズム」の省略形らしい。最近あちこちの神社の境内で、塩で円を描いて何やらしたがるのが増えているようなのだ。

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きよみさんによれば「塩の結界の中に入って浄化〜」みたいなことをしたがるのがいるらしいが、その痕跡は他人からみたら気色悪いだけのものになってしまう。「普通に境内は汚れるし、掃除が大変だし、勘弁してくれ〜」と言いたくなるのもわかる。

どうしてもこうした「浄化儀式」みたいなことをしたければ自分の家でやればいいのだろうが、世の中の思い込みの激しいカルティックな人は、元々からして十分な「結界」である神社の境内に「さらなる結界」を作ってでも、何やら特別なことをしたがるのだろう。ご苦労なことである。

「塩のもつ浄化力」というのは、古くからの信仰に根ざす考え方ではある。元々は神道の考え方で、神社本庁のサイトの「清め塩について」というページには、「塩の力に祓いの願いを託すことは、祖先から受け継がれた英知なのです」と書かれている。

近頃の都市部の葬儀では、帰りに必ずと言っていいほど「お清め塩」なんてものを渡される。仏教式の葬儀でそんなものを渡されるのは、「神仏混淆」の典型のような気がするが、葬儀屋さんとしては必須の作業で、あれを用意しておかないと「手抜き」扱いされてしまうんだろうね。

葬儀から帰ったら体にかけて死の穢れを払うという趣旨らしいが、これもまた「雰囲気のもの」で、私としてはそんなのしたことがない。かと言って敢えて受け取り拒否するのも無粋だろうし、持ち帰ったところで我が家常備の天然塩とは違うので一緒にしたくないしで、結局捨ててしまう。

いわば「面倒な押しつけ/小さな迷惑」としか感じられないのだよね。一人一人にしてみればほんの少量だが、まとめてみればかなりの「食品ロス」でもある。

まあ、「スピテロ」というほどのことじゃないが、あれって、葬儀屋さんが効率志向によっていつの間にかスタンダードを作ってしまったんだろうね。

話が逸れかかったが、そんなわけで「塩の浄化力」という考え方は理解するとしても、神社の境内でのべつこんなことをするのが流行ってしまったら塩害になるだろう。樹木が枯れるなんてことになったら、完全に「スピテロ」だ。

良い子はこんなの、止めとこうね。

 

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2021年10月17日

「こよなく〜」の「こよ」って何だ?

先日某所で「日本人がこよなく愛する秋晴れの空」というキャプション付きのきれいな写真を目にして、「いや、秋晴れの空を愛するのは日本人に限らないだろう」と思ってしまった。そして同時に「そういえば、『こよなく』の『こよ』って、一体何だ?」と、とてつもなく気になってしまったのである。

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「こよなく」という語を Weblio で引いてみると、上のようなことになった(参照)。同じ小学館の辞書でも、品詞の解説の仕方がビミョーに違う。

『デジタル大辞泉』:副詞(形容詞「こよなし」の連用形から)

『精選版 日本国語大辞典』: 形容詞「こよなし」の連用形。現在では副詞的に用いられる

というわけで、「こよなし」(現代語的には「こよない」)という形容詞が元であり、単純に「『こよ』というものがないほどに」というような意味ではないと確認できた。そりゃそうだよね。それではと、語源の視点から調べてみたところ「広辞苑 無料検索」というページでこんな説明があった(参照)。

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なるほど、「越ゆなし」(越えるものがない)から来ているのか。ようやく納得である。しかしことはそれでは済まない。なんとこんなページにも行き当たった。

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語源に関して "「越ゆるもの無し」とも「此より勝るもの無し」とも言われ・・・" とあるのは、広辞苑と共通するからいいが、この説明に続く文がかなり奮っている。こんな具合である。

日本は古来、比較対象を明確に見据えることをせぬ「絶対文化圏」につき、「こよなし」も比較級というより絶対最上級的ツキヌケ独善讃辞の色彩が濃い。

おぉ 、「絶対最上級的ツキヌケ独善賛辞」と来たか。 こりゃまたすごい! "Far more than everyting in the world" (この世のすべてのものより遙かにスゴい)みたいな恐ろしいまでのことを、日本人は「こよなし」のたった四文字でさらりと言ってきたわけなのだね。

いやはや、そんなにヘビーな言葉だったとは知らなんだ。となると、秋晴れの空を「こよなく」というほど愛するのは、やっぱり日本人しかいないのかもしれない。私のイチャモンの付け所が間違っていたようだ。

しかしよく考えると、秋の青空だの、紅葉だの、複数のものをノー天気に「こよなく - 越ゆるものなく」愛するというのは、論理的にはあってはならないと言わなければならない。このあたり委細構わずどんどんやっちゃうのは、やはり日本人の「雰囲気志向」ゆえなのだろう。

最近、いろいろなことにかこつけて「雰囲気」の力のスゴさに言及している(例えば昨日の記事や、10日前の「写真はイメージです/言葉は雰囲気です」など)が、「こよなく」の場合も、「大切なのは、文字通りの意味より雰囲気」という原則が遺憾なく発揮されている。

ちなみに、上述の「絶対文化圏」というのは、ググってみても特定的な言い方としては「父権絶対文化圏」とか「上の言うことは絶対文化圏」とかいう言い方しか見当たらないが、これも「雰囲気的な絶対」と受け取っておく方が無難そうなので、そのあたり、どうぞ

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2021年10月16日

"Dappi" というツイ垢と、「雰囲気」のトレンド

Twitter に "Dappi" というアカウントがあると知らないわけではなかったが、どうやらうんざりするような tweet しかしていないみたいなので、あまり意識していなかった。ところが最近になって、ずいぶんなニュースになってしまっているじゃないか。世の中、奇々怪々である。

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まあ、かいつまんだところは LITERAX の「ネトウヨ Dappi 運営との取引を報じられた自民党ダミー法人の実名! 岸田首相、甘利幹事長が代表、いまも自民党から年間 4000万円」という記事を読めばわかるので、内容はここでは敢えて触れない。噛み砕いて書くすら不愉快で馬鹿馬鹿しいし。

ちなみに Twitter で Dappi のプロフィル・ページを見ると、「16.7万」ものフォロワーがいるというので驚いた。そして中には、こんなにも見当外れなまでに熱心なのもいる。

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「政治家の発言の生の映像を見たいのです」ってのは、言葉センスのなさに笑ってしまうが、これには、国会の審議中継サイトの URL を記して「10年分見られます。存分にどうぞ」とか「NHKで中継してますけど(笑)」とかいう「正常な人」のレスが付いている。それでも意に介する様子はないのだよね。

思えば私の学生時代(1970年代)の初めの頃は左翼的学生運動の盛んな時期で、とくに日共/民青さえも「欺瞞的」と否定する「全共闘」系がやたら目立っていた。

ワセダの、とくに文学部キャンパスの場合は、いわゆる「全共闘」とは一線を画している(らしい)「革マル」の世界だったが、とにかく大学に通っているだけでやたら議論をふっかけられたりして、否が応でも関わらざるを得ないほどだった。今とは隔世の感がある。

ただ、私は彼らの言うことを目の当たりにして、その「恥ずかしげもなく単純すぎる頭の構造」に呆れるばかりだった。彼らの論理は、自分の領域内だけでは見事なまでに完結しているのだが、初めから他の要素を「ナンセンス」としてシャットアウトしているのだから、それも当然だ。

さらに言えば、全共闘や革マルの下っ端の方は、自分たちが何を言っているのかすら理解していなかった。ひたすら「雰囲気」だけで突っ走っているだけだったと思う。(まさに「雰囲気」ほど強いものはない)

そして月日は巡り、今の「ネトウヨ」も、構図的にはそれと同様だとわかる。右と左が裏返っただけで、「頭の構造の単純さ」及び「下っ端の方のモノのわかってなさ加減」は、ちっとも変わらないという印象なのだ。

要するに、「今の雰囲気」のトレンドが右に向いているというだけのことなのだろうね。やれやれ。

 

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2021年10月15日

大人が都合良く考えた子ども像 (その 2)

昨日付の「大人が都合良く考えた子ども像」という記事の続きである。今日書くのは中学生の頃の、作文コンクールについての記憶だ。

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私は小学校低学年の頃から学級新聞作りに積極的に関わり、記事もほとんど自分で書いていたほどだから、文章を書くのは得意としていた。ところが不思議なことに、年に何度かある「作文コンクール」みたいなものでは、一度も入選したことがなかったのである。

とくに文章が上手とも思われないクラスメートの作文が、市や県などの主催するコンクールで時々入賞するのだが、私はそうした賞には不思議なほど無縁だった。これはもう、「性が(賞が?)合わない」と言うほかない。

ある日、市の作文コンクールだったかで入選した同級生の作品を読んでみたのだが、率直に言って「何だよ、これは!」と思うしかなかった。とくに上手な文章でもなんでもないし、そもそも普段の彼の態度からしたら「偽善そのもの」の「いい子ぶりっ子過ぎ」と言うほかない代物だったのである。

「こんな歯の浮くようなことを恥ずかしげもなく書くと、作文コンクールで入賞しちゃうわけね!」と思うほかなかったのを憶えている。これについては 2006年 5月 16日の「作文も演技さ!」という記事でも書いているが、要するに「国語教育」というのは「道徳教育」なのだと薄々悟ってしまった。

そこで「ものは試し」とばかり、中学時代のちょっと大きな作文コンクールで、自分でも気恥ずかしくなるほどの「優等生的作文」を書いてみた。すると何と言うことか、あっさり「金賞」を獲得してしまったのである。

これはもう「嬉しい」というようなものじゃない。むしろ「作文コンクールなんて、この程度のものだったのかよ!」と、予想していたこととはいえ、がっかりしたのだった。

ところが翌週の全校朝礼で、私は皆の前で「金賞受賞の喜び」を発表することになってしまった。いやはや、勘弁してもらいたかったね。

そこで私は自分への正直さを取り戻すためにも、「ぶりっ子コメント」は一切排除することに決めた。当日は「今回は試しに『心にもないこと』を書いてみたら、こんな賞をもらってしまい、自分でも変な気分です」というようなことを言ったところ、教職員会のどえらい不興を買ってしまったらしい。

というわけで、「大人の期待する『良い子』の姿」を作文するなんて、とてもたやすいことだったのである。しかし私としては、そんな安易なことで点数を稼ぐのは「気分悪過ぎ」だったので、金輪際止めとこうと思ったのだった。

そんなことでチヤホヤされるよりは、それまで通りに「悪童」でいる方がずっと居心地がよかったのである。

 

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2021年10月14日

大人が都合良く考えた子ども像

『たこの歌』という文部省唱歌がある。そう、あの「たこたこあがれ/かぜよくうけて/くもまであがれ/てんまであがれ」という歌詞の歌だ。

子どもの頃、「天」というのは「雲」の上にあるものだということを、この歌で学んだ。ただ、「雲」は具体的だが「天」はかなり茫洋としている。それで「天」というのは「モノ」というより抽象概念なのだということもおぼろげに理解した。もちろん「抽象概念」なんて言葉そのものは知らなかったが。

その意味で、この歌は小学校低学年だった頃の私の論理思考を養うスタート地点みたいなものになったのだが、実はあまり好きな歌じゃなかった。というのは、実際にたこ揚げをしてみると歌詞が無責任すぎるとしか思えないのである。

「風よく受けて、雲まで揚がれ、天まで揚がれ」というのは、一見すると順序だった理窟の上に成り立っているように見えるが、実際やってみると雲までなんて到底揚がらないし、ましてや抽象概念に過ぎない「天まで」なんて、テキトーにもほどがある。

かなり風の条件のいい日に勢い込んでトライすると、タコがかなり小さく見えるまで上昇して、「おぉ、やったね!」と興奮するが、無限に揚がるわけじゃない。用意した糸の長さには限界というものがあるのだ。最大の問題は「たこ」だの「風」だのよりも、「糸」だったのである。

そして私はどういうわけか、たこが揚がっている間、糸が真っ直ぐに張るわけじゃなく、途中で結構たるむものだという「目に見える事実」に新鮮な驚きを感じていた。「こんな糸にも重さってものがあるんだ。いくら風が引っ張っても、ピンとは張らないんだ。これってスゴいじゃないか!」

そしてそのビミョーなたるみ具合に、何か心の中でざわざわっとするような「危うさ」とか「哀れさ」みたいなものを見たりしていたのだが、他の誰もそんなことには頓着せず、ただひたすら糸の先端で風に揺れるたこしか見ていない。私は、それが不思議でたまらなく思えてしまうような子だった。

この「たこの歌」って、どうしてこの「もののあわれ」の部分にちっとも触れずに、ただ「ありがち」な光景しか歌わないのだろう。

「大人の作ったこどもの歌」の多くはちっともリアルじゃなく、「大人が都合良く考えた子ども像」の押しつけに過ぎないと薄々わかったのもこの頃である。続きは明日。

 

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2021年10月13日

サラリーマンと「社畜」

"品川駅の広告「今日の仕事は、楽しみですか。」に批判殺到 → 1日で取り下げ、掲載元が謝罪" というニュースには、「ははぁ、そうですか」という感想しか抱かなかったが、ITmedia ビジネス ONLINE に、それについての解説のような記事が載っている。

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"「今日の仕事は、楽しみですか」になぜイラっとしたのか 「仕事が苦痛」な日本人の病" というタイトルの、窪田順生氏による記事である。「日本人の病」というだけあり、例によって「日本人論」みたいな趣になっている。

その内容はリンク先に飛んで読めばわかるが、煎じ詰めて言うと、日本人は仕事に関して「人は金のためだけに働いているわけではない」という精神的な思い入れがありすぎるのが問題なのだという。それは「カルト宗教のような独自の信仰」とまで化しているのだそうだ。

なるほど、そう言われてみればそんな気もしないでもないが、私は個人的には、会社勤め時代は「給料のため」と割り切っていたから、そんな「カルト宗教」にハマったことは一度もない。金のための仕事で関わる案件が、たまたまおもしろいものであれば、それは「儲けもの」という感覚だった。

不思議なもので、そうした意識でいると、そりゃあ「仕事が楽しくてたまらない」というわけではないが、ことさらなまでに「苦痛」というほどには感じなくて済む。それは独立事業主となった今でも基本的に変わらない。とくに最近は、イヤな仕事は受けないという贅沢の味も覚えたし。

ちなみに品川駅のこのコンコースは、人呼んで「社畜回廊」ということになっているのだそうだ(参照)。ちょっとスゴい言い方だね。

さらに「ちなみに」という言葉で続けることになるが、加藤公一(はむかず)さんという方が、次のように tweet している (参照)。

ふと気になって「社畜」って英訳するとどうなるんだろう、livestock salarymanかな?と思ってググってみたら、Wikipediaの説明によるとsalarymanだけでほぼ社畜の意味だった。

https://en.wikipedia.org/wiki/Salaryman

どれどれと思ってリンク先に飛ぶと、こんな風な書き出しだ。

The term salaryman (サラリーマン, sararīman) refers to any salaried worker. In Japanese popular culture, this is embodied by a white-collar worker who shows overriding loyalty and commitment to the corporation within which he is employed.

【和訳】
サラリーマンという言葉はすべての月給をもらう労働者のことを指す。日本で広く行き渡った文化においては、自分が雇用されている企業に過度の忠誠心と献身を示すホワイトカラー労働者によって顕現されている。

これ、日本人によって多少自虐的に書かれているような気がするが、つい「なるほどね」と納得してしまいそうだ。

 

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2021年10月12日

夫婦別姓反対派の「みんな一緒」志向

ふゆひー さんが、「かつあげ」という穏やかではないハンドル・ネームの方の tweet を取り上げ、 "バカだね。「自分たちではなく、他の夫婦が別姓にすることで、あなたに不利益はありますか?」という質問なのに" とレスしておいでだ(参照)。

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一体どういうことなのかと元スレを辿ると、そもそもは「大人の小学校」を運営する田村淳の、「自分達ではなく、他の夫婦が別姓にすることで、あなたに不利益がありますか?」という tweet への回答(というつもりらしきもの)に対するレスのようなのである。

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で、その答えというのがこんなものだ。

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なるほど、質問の意味をまるで理解せず、「世間一般の話」を強引に「我が家」と置き換えて反対している。私が最初に見た時点でなんと 1,001件もの「いいね」が付いていた。

さらに、「かつあげ」氏はこの質問に答えるためにわざわざこんなようなイラストを描いたのだろうかとも驚いたが、おそらく一度描いたものをいろいろなケースで使い回しているのだろうね。この場合は「見当外れ」というほかないが。

というわけで、この「かつあげ」氏は自分が夫婦別姓にする気は毛頭ないのだろうが、ほかの夫婦が別姓にして、その結果表札が 5枚になったりするのを見るだけでもイヤということのようなのだ。

その家の孫が「我が家っていったい何家なの?」と戸惑うに違いないと勝手に想像し、それによって生じる「ムカつき感」が「自分の不利益」とまで感じてしまうのだろう。ずいぶん律儀なことである。

そんなわけで、夫婦別姓反対派というのは「みんな一緒」でないと気が済まないという志向性が強いようだと察してしまった。多分これ、考え過ぎじゃないだろうと思う。

今さら言うまでもないが、夫婦別姓というのは「夫婦別姓を原則にしよう」という主張じゃなく、「別姓もあっていい」と言っているだけなのである。それに対して「みんな一緒」志向によって反対しているのだから、私には「余計なお世話」としか思えない。

「みんな一緒」の価値感を強制されるのは、私としては息苦しいとしか感じられないんだがなあ。そもそも自分の家を「〇〇家」と認識できなければ「不利益」が生じるなんてことはないしね。

どうしても「〇〇家」と名乗って認識したければ、その主旨による「系図」みたいなものを私的に作ればいい。明治以前の庶民の苗字感覚って、そうしたものだったらしいし。

私なんぞは逆に、「系図作ってみたら、いろいろな苗字の先祖がいて楽しい」なんて感じてしまうだろうというタイプである。

【10月 13日 追記】

上図の「我が家っていったい何家なの?」と言っている石田直人君は、どうしても「〇〇家」と認識したいのなら、とりあえず「石田家」ということにすればいいだけの話じゃないかと思う。自分が「石田姓」を名乗っていることでもあるし、迷うことは何もない。

父系の流れにこだわりたがるから戸惑うのであって、その気になれば母系の方にいくらでも辿れるし、それによる「不利益」なんて何も生じない。(別に「利益」もないが)

 

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2021年10月11日

ロシアとの平和を保つための「おしっこ」規制

ロシアとの平和を保つというのは、「おしっこ」まで規制しなければならないほど難しいことのようだ。The Moscow Times の「ノルウェー北東部のグレンセ・ヤコブセルフ(Grense Jakobselv)という村に新しい観光スポットがあるという」という記事(参照)で、それをしみじみ感じた。

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ロシアとの国境を流れる川沿いに ”NO PEEING TOWARD RUSSIA"(ロシアに向かってのおしっこはダメよ)という立て札があり、違反すると罰金を科される可能性もあるという。看板がなければどうということのないごくフツーの「田舎の川」なのだが、これが観光スポットになっているらしい。

実際問題として、ロシアに向かっておしっこして罰金を科せられたなんて人はまだ一人もいないらしいが、おもしろいのは、この看板が(誰かはわからないものの)ノルウェー人の手によって立てられたということだ。そりゃそうだ。ノルウェー側の岸に立っているのだから。

ということは、ロシア側がことさら無粋なまでの要求をしているというわけではなく、これはノルウェー側の一方的な「自主規制」の産物とわかる。ただ「罰金」なんていうからにはそれなりの法的根拠があるはずで、それに関しては次のように紹介されている。

ノルウェーには国境に関する規則を定めた特別法があります。1950年に制定されたこの法律には、「国境沿いで隣国やその当局者に向けて攻撃的な行為をしてはならない」という条文があり、これに違反すると罰金または3カ月以下の懲役刑が科せられるとのこと。

記事ではさらに続けて「2016年にロシアとの国境に向けて石を投げたノルウェー人 4人が国境警備隊と警察により逮捕された」とある。「おしっこ」が「攻撃的な行為」なのかどうかはビミョーだが、3000クローネ(約 4万円)以上の罰金刑になる可能性があるらしい。

この国境は「ロシアがまだ戦争をしたことがない唯一の隣国であるノルウェーとの平和の象徴」と呼ばれることもあるために、特別視されているらしい。それにしてもロシアと戦争しないためには、こんな自主規制まで必要だったとはね。

ちなみに、このニュースは Gigazine の "ノルウェーには「ロシアに向けておしっこするのが禁止された川がある」" という記事で知った。ただ、こちらの方の見出の下のメイン写真は、元記事とは別のこんなようなことになっている。

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もしかしたら Gigazine の編集部は、元の写真の看板が英語なので(”pee - おしっこする" という俗語は、日本では意外なほど知られていないし)、日本向けには避けたのかもしれない。結果としては、「英語を避けて、お下品を採用」ということになってしまったが。

【同日 追記】

先ほど気付いたのだが、立て札は ”NO PEEING TOWARD RUSSIA" で、前置詞が "toward" だが、The Moscow Times の見出しでは、"Don't Pee On Russia" と、前置詞が "on" になっている。

動名詞の場合とモロに動詞の場合で、前置詞が使い分けられるのだろうかと思ったが、どうやらそうした文法的なものじゃないらしい。"Pee toward 〜" は「〜に向かっておしっこする」という意味だが、"pee on 〜" は「〜におしっこをかける」ということのようだ。

とはいえ、厳密な国境線は川の流れの真ん中らしいから、ロシアにおしっこを「かける」ためには、相当の勢いと追い風の助けが必要だろう。

以上、お粗末さま。

 

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2021年10月10日

英語学習/くずし字解読 と AI 翻訳

Quora に「英語学習はオワコンでしょうか?」という質問が寄せられている(参照)。「あと 5年もしたら会議で日本語喋ったら勝手に相手の言語に翻訳されて、メールも送信ボタン押したら勝手に翻訳されると思うのでこれからビジネス英語を学ぶ意欲が湧きません」というのである。

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昨日の記事で「くずし字」が AI によって瞬時に現代の文字に変わるというプログラムに関して肯定的に述べている私としては、質問者の気持ちがわからないではない。しかしながら、「英語学習がオワコン」と言ってしまうのは短絡的すぎるとも思うのである。

ちなみに昨日の記事には案の定、らむねさんからコメントがついた。本文中からリンクする 1月 5日付記事に彼が付けてくれた「AI に古文書を解読させる試み」紹介コメントへの私のレスに関して、実にソフトに「撤回と謝罪」を要求してくれたものだ。この時の私のレスはこんなものだった。

それにしても、人の書いた文字を人が読めずに AI に頼るというのは、なんだかムカつきますね ^^;)

いやはや、「10ヶ月経ったら、言うことが違ってしまってるじゃないか」と言われても仕方がないことで、お恥ずかしい。しかしながら、言い訳がましいかもしれないが、この「AI に頼る」ことへの「ムカつき」感覚は、私個人としては、決して解消してしまっているわけではないのだ。

それは、昨日の記事でも次のように書いていることで、少々察していただきたい。

「古文は草書体で読んでこそ本物」という実感や、草書体の趣ある美しさを大切にしたいという思いは、私としても十分にわかる。

そうなのだ。不肖私としても、古文は草書体で読みたいという思いには、十分に共感してしまうのである。しかしながら、私自身が決してスラスラと読めるわけではないし、さらに広範な層への訴求というコンセプトを重視すれば、AI で古文を読む試みを否定してはならない。

ここで冒頭の Quora の質問の件戻るが、「会議での発言が瞬時に相手の言語に翻訳されて伝わる」という世の中が来るというのは、私も「そうだろうな」と思うし、そんな時代はかなり近いだろう。いわば「AI 同時通訳システム」だ。

しかしながら、だからといってビジネス英語を学ばなくてもいいということにはならないだろう。それは、言葉というものは翻訳されたとたんに別のニュアンスをもってしまうことが往々にしてあるからだ。勿論、ビジネス英語に関してはそうした要素は最小限に抑えたいところではあるが。

私の 10月 7日付の記事は「写真はイメージです/言葉は雰囲気です」というものだが、まことにも、言葉というのは良かれ悪しかれ「雰囲気」の要素が強く、無視できない。文学作品でも、別の翻訳で読むと印象がかなり変わってしまうことまであるのだから。

やはりリアルのコミュニケーションというのは、翻訳を介さずに同じ言語で丁々発止する方がいい。翻訳を通すのはどうもかったるいし、ピンボケになってしまいがちというのは、私も何度か経験したことがあるからね。

で、ここで 5度目の「しかしながら」という接続詞を使いたくなってしまう(今日の記事は「しかしながら」(however)のオンパレードで、歯切れの悪いことおびただしい)のだが、私は AI による同時通訳は決して否定しないのである。

それは古文書を AI で読むのと同様に、「セカンド・チョイス」として歓迎しておきたいのだ。誰もが英語で上手にコミュニケーションできるわけではないという現実があるのだから、それは当然である。

さらに付け加えれば、日本語のほかに英語を学ぶことのメリットもあると言わなければならない。他言語を学ぶことで母国語での思考とは別の視点による考え方ができて、「思考の重層性」が獲得できる。上手に使いこなせば、人間としての「厚み」みたいなものも身につくだろう。

まあ、ここで言う「他言語」は別に英語でなくてもいいのだが、事実上、最も汎用性のある言語は英語ということで納得していただきたい。

で、古文書を変体仮名ですらすら読むことのメリットも、似た感じではある。ただ、そのメリットは現状では 0.01%の日本人しか実現していないというのだから、その意味では、古文書 AI 翻訳のメリットは、英語の AI 翻訳と比べても圧倒的に大きかろう。

余談だが、もし変体仮名が今の世にも現役で生きていて、新聞が昔の「瓦版」みたいなものだったら、日本語は断トツで「世界一習得困難な言語」の座に君臨していることだろう。なにしろ、こんなだから(下の画像は「地震速報」みたいなものの一部拡大図で、全体像は こちら)。

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見出しは「大坂つなみ」(これ、「大阪」という表記じゃなかった頃の瓦版)。全体として漢字は読みやすいのだが、かなは手強いよね。

 

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2021年10月 9日

文語体と草書体(くずし字)における「文化革命」

十三年半前のことなれど、このブログの記事を文語体にて書きしことあり。「ATOK の文語モード試しみむとて」といふ記事なりき。下の画像よりのリンクも可なり。

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いきなりの擬古文調で戸惑われたかもしれないが、私は「和歌ログ」などという文語体の和歌を詠むブログも毎日更新しているので、ほんのたまにはこんなことも生じる。ちなみに画像右側の「くずし字」は、「毛筆は悪筆なれど今様に QWERTY にて古語の歌詠む」という歌である。

なんでまた唐突にこんなテーマで書き始めたのかというと、"源氏物語が好きすぎて AI くずし字認識に挑戦でグーグル入社  タイ出身女性が語る「前人未到の人生」" という記事にかなり感動してしまったからである。これは素晴らしいニュースだ。

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彼女は日本の古典文学が好きすぎて、タイから単身留学した。上の写真は Zoom でのインタビューの時のものなのだろうが、源氏物語絵巻の背景からもかなりの「本物」と見受けられる

しかし彼女は来日してワセダの大学院で学んだものの、最初は草書体(いわゆる「くずし字」「変体仮名」)が読めないために「F」の成績を取って泣いたこともあるという。そこで一念発起してかな文字を草書体で書く書道を習い、ものにしたというのだから、かなりの根性だ。

かく言う私も、同じ大学で草書体に苦労した経験があるので、彼女のことは他人事と思えない(今年 1月 5日付の「草書体で書かれた古文書というもの」という記事参照)。ただ、日本語が母国語ではない彼女の努力は私どころのものではなかっただろう。

そして彼女は今、「AI くずし字認識」というプログラムに挑戦し、Google に入社するという。

記事によれば、「現在、くずし字をきちんと読める人は日本の人口のたった約 0.01%、約数千人しかしない」のだそうだ。だとすると、「多少は読める」という程度の私は、せいぜい数万人ぐらいのうちの 1人なのだろう。

それでも日本人の 0.1%ぐらいの比率なのか。これって、英字新聞を読める日本人の数よりずっと少ないだろう。てことは、英字新聞と古文書の両方を、とつおいつながら読める(正直言って、英字新聞を読む方がずっと楽だが)私って、結構スゴいじゃないか!(と、我ながらびっくり)。

それほどまでに難しい「くずし字読み」を AI によって広めることができるというのは、まさに「文化革命」という気がする。

しかし彼女はインタビューの中で、「『AIによるくずし字認識は望ましくない』『こんな研究は良くない』という国文学研究者が何人かいました。古典文学を広めようと頑張っているのに、自分が所属する分野の人たちに反対されるのはつらいです」と語っている。うぅむ、これは結構厄介な問題だ。

こうした「何人かの国文学研究者」というのは日本人の中の 0.01% という「特殊権益」(あるいは「密かな楽しみ」)を、自分たちの狭いサークルの中で占有したいなんて思ってるんじゃあるまいか。

「古文は草書体で読んでこそ本物」という実感や、草書体の趣ある美しさを大切にしたいという思いは、私としても十分にわかる。しかし時代の要請の AI 認識を否定するというのは、ある意味で「選民思想」に通じる考え方だとまで思う。そうした意識が「古典嫌い」を育ててしまうのだよ、きっと。

というわけで、彼女の試みに精一杯の拍手を送り、応援したい。いつの日か、Google のサイトで古文書の画像をアップすると、瞬時に現代の文字に置き換わるなんていうサービスが始まることを期待して。

 

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2021年10月 8日

昨夜の地震で思い出したことなど

昨日の「和歌ログ」を更新した直後に強い地震に見舞われ、収まってから「この和歌をアップロードした直後に、震度 5弱の地震が起きてちょっと焦った」なんて「追記」を書いている。「ちょっと焦った」程度で済んだのは妙に「地震慣れ」してしまっているためで、あまりいいこととも思えない。

ここ茨城県南西部は、一時は「地震の巣」と言われたほどよく揺れる地域で、その頃からの慣れのせいで震度 4 程度なら落ちついてやり過ごせるし、昨日の「震度 5弱」も十分に許容範囲だ。しかし 10年前の東日本大震災ぐらいの揺れ(この辺りは震度 6弱)だと、さすがにかなり恐ろしく感じた。

この時のことは 2011年 3月 11日付「和歌ログ」に写真入りで、下のように詳しく書いている。

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それで今回は、既に半世紀以上も前のこととなった 1964年の新潟地震の時の話をしてみたいと思う。それに関しては 2007年 3月 15日付「私の木造校舎体験」という記事でこんな風に書いている。

私は小学校から高校まで、ずっと今にも崩れ落ちそうな木造校舎で学んだ。小学校は築 60年という、本当に、いつ天井が落ちて来ても不思議じゃない建物だった。実際、どの天井も微妙な弧を描いていて、柱から離れた真ん中ほど下に垂れ下がっていた。

(中略)

そんな校舎だから、小学校 6年の時の新潟地震で倒壊しなかったのが不思議なほどである。それでも揺れている最中は、天井板の隙間から 60年の歴史ある埃がもうもうと舞い落ちてきて、地獄絵図のような有様を現出した。

ただ、この記事では敢えて触れなかった事実が一つある。それは昼過ぎの地震発生時、悪童だった私(自分自身の名誉のために書き添えておくが、学業成績の方は常に断然トップだった)は、廊下に立たされていたということだ。

給食時に悪童どもがワイワイ賑やかなのはいつものことだったが、その日は担任の女性教師が給食時に席を外していたので、いつも以上に賑やかだったようだ。それを他の教師に指摘されたらしい彼女はとても腹を立て、5時間目の最初に「給食の時に騒いでいた子は、廊下に立っていなさい!」と言い放った。

十分に身に覚えのあった私は、迷うことなくすぐに「はぁい」と応じ、自らスタスタ歩いて廊下に出た。悪童ではあったが、同時に馬鹿正直と言っていいほど素直な子でもあったのである。

ところが、一緒に騒いでいたほかの 10人近くの同級生は皆シラを切り、誰一人として後に続いてこない。結局廊下で手持ち無沙汰に立つことになったのは、私一人だけだった。

「はぁ?」の後にクエスチョン・マークがさらに 3つぐらい付きそうな感覚で、「何だよ、お前ら、意気地がねえなあ!」と言いたくなったのを覚えている。

そして問題の新潟地震が発生したのは、私が廊下に立った 4〜5分後だった。教室の中で教師が「みんな、机の下に隠れなさい!」と叫ぶのが聞こえたが、廊下にいる私には隠れる机がない。揺れに振り回されて廊下の窓枠にしがみついた後、やっとの思いで教室に飛び込み、空いていた机の下に潜り込んだ。

今にも崩れ落ちそうなおんぼろ木造校舎のこととて、まさに生きた心地がせず、かなりの恐怖体験として記憶に焼き付いている。しかも廊下で立ったまま揺れに翻弄される経験なんてしたのは私だけだったのだから、その衝撃は同級生たちよりずっとシリアスだったと思う。

この時、私は子供心にかなり忸怩たる思いにとらわれていた。何しろ「お前だけを悪者にはしない」とか言って一緒に廊下に立つような義侠心のある正直者は、クラスに一人もいなかったのだから。

私が「他人を信じすぎちゃいけない。人は自分の行為の責任をとりたがらず、さらに平気で友を見捨てるものだ」と学んだのは、まさにこの日だったと思う。地震の恐怖と相まって、かなり強烈なまでの「学習体験」だった。

 

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2021年10月 7日

写真はイメージです/言葉は雰囲気です

栗の美味しい季節になった。クルマで長距離運転して口寂しくなった時などのために、パッケージに小分けされたゆで栗を買ってきて重宝しているが、気になるのは、パッケージに印刷された「写真はイメージです」という言葉である。

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この言葉、ありとあらゆるパッケージや広告に使用されている気がするのだが、私としては「写真がイメージなのは当たり前じゃん!」としか思えない。バリエーションとして「画像はイメージです」なんていうのもあるが、画像がイメージなのもさらに当たり前である。

ちなみに "image" という単語を「英ナビ」で調べると、「表象、心像,イメージ、画像,写真,映像;彫像,偶像・・・」なんて出てくる(参照)から、意地悪く読めば「写真は写真です/画像は画像です」ということにしかならない。ナンセンスの極みみたいな文言である。

私はその昔、ワセダで「芸術学」なんて学問を専攻していて、「写真論/映像論」は「イメージ論」として学んだ。そんなわけでこの文言に関する「なんじゃこりゃ?」感は、人一倍強い気がするのである。

そして今日に至ってふと思いついて、「写真はイメージです」というキーワードでググってみたところ、同じような感覚の人が少なくないと確認でき(参照)、ちょっと安心した。そりゃそうだ。これを「変な言い方」と思わない方がおかしいだろう。

調べてみると、この文言はどうやら消費者からのクレームを防止するための「苦し紛れ」みたいなものとわかった。Quora には、スイスタジオ代表の渡辺剛さんという方の次のような説明が出ている(参照)。

この一文を入れていないと、「チラシのようなキレイなモデルのようになれると思ったのに(怒)」みたいなお叱りをうけてしまうであろう事が日本市場では予測できます。

いやはや、「そりゃ消費者がおバカすぎだろ!」と言いたくなるが、商品そのものの写真撮影の予算も時間もないときは、フォトストックの中から使うこともあるらしく「大体こんな感じですよ」ということになるらしい。要するに、次のような言外の意味をそれとなく表現しているもののようだ。

「写真はイメージです。(よって、まったく写真の通りに仕上がることの保証はできません。広告はあくまでもイメージアップ用です。嘘ではありませんが、大体こんな感じになりますよ、でもそうでないケースもあるかもしれませんねって感じです)」

というわけで、「写真は単なるイメージでありまして、そしてこの文言自体も単なる『雰囲気のもの』なのであります」ということのようなのだ。私は「雰囲気のもの」という言葉をよく使う(参照 1参照 2)が、これ、かなり便利な、まさに「雰囲気のもの」そのものの文言である。

ちなみに、クレーム防止策としての英語圏での決まり文句は、実際の英米人からの回答で、以下の例のようになると示されている(参照)。

Product image for illustration purposes only. Actual product may vary.
(商品写真の目的は単に例を示しているだけ。実際の商品はいろいろ)

This photo is a simulation.
(この写真は模擬的なものです)

This photo is for illustrative purposes.
(この写真は例を示すという目的)

さすがに英語は「雰囲気のもの」以上の具体性があるようだが、そのまま日本語に置き換えてしまうと「雰囲気を損ねる」と捉えられてしまうのだろうね。それで日本では、具体性より「雰囲気」に頼ってしまうのだろう。

【同日 追記】

「雰囲気」を「ふいんき」と読む人が増えているが、正しくは「ふんいき」なのでよろしく。とはいえ、この誤読が将来定着してしまいそうだという話を、3年半前の "「雰囲気」の読みが「ふいんき」で定着するのは 2035年頃" という記事で触れているので、併せてお読み頂きたい(ただし、日付にご注意)。

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2021年10月 6日

「横浜ヴィーガンラーメンプロジェクト」に拍手

私は肉食を絶って久しい。高校時代の同級生で医者になっている友人から「肉も食わないと体をこわすよ」なんて言われたことがあるが、全然そんなこともなく、至って健康である。たったひとつの難点と言えば、好きなラーメンを気軽に食えなくなったことぐらいのものだ。

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今年 2月 21日付の「肉の入ってないラーメンを食べさせてくれる店」で書いたように、ノーミートのラーメンを食べようと思っても、それに応えてくれる店は本当に少ないのである。とくに私のよく行くエリアではなかなか希少な存在でしかない。

出張などの帰りには東京駅か上野駅にある「T's たんたん」でありつくのが楽しみだったが、最近はコロナ禍のせいで旅が減り、なかなか立ち寄れない。こうなると、肉を使わないラーメンを提供してくれる店がどこの地域にもフツーにあるという状況になることを望むばかりである。

そんなことを思っているものだから、IDEAS FOR GOOD というサイトの "「横浜ヴィーガンラーメンプロジェクト」植物性・地産地消・食品ロス削減を同時に実現へ" という記事に目が止まり、思わず拍手を送りたくなった。これは快挙である。

このプロジェクトの発起人は、RCE 横浜若者連盟の村上柚芽香(むらかみゆめか)さんと中田裕斗(なかだゆうと)さんという若者であるらしい。村上さんが研究のために訪れた北欧では、ビュッフェ形式のレストランでヴィーガン・メニューの方に長い列ができるほどだったことにインスパイアされたようだ。

うぅむ、日本では肉料理に長い列ができて野菜料理はスイスイなので、「北欧は大変だな」なんて逆に複雑な思いになってしまいそうだが、いずれにしても、ヴィーガン料理がフツーに食べられるというのは羨ましい限りである。それを日本でも実現したいというのだから、「エラい!」と褒めてさせてもらう。

さらに地元横浜産の食材を用い、出汁がらや野菜の茎なども廃棄せずにトッピングに使うなどして、地産地消と食品ロスの削減にもアプローチしているというのだから、さらに「エラい!」。つくばの地からも応援したい。

こうした取り組みが、日本中に広まってくれないかなあ。

 

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2021年10月 5日

「いらち」って、関西方言と言い切っていいの?

昨日の記事で「麻生さんは結構いらちみたいだから・・・」と書いて、念のため「いらち」という言葉から Weblio 辞書にリンクを張らせてもらった。リンク先を Weblio にしたのは、"動詞「いらつ」の連用形の名詞化" と、極めて適切な説明が 3つの辞書から引用してあったからである。

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ただ「いらち」でググってみると以下のように、この言葉を「関西方言」としているページが目立つ。

大阪人、ホンマに「いらち」? とことん調査隊(冒頭で"「いらち」とは関西地方の方言" としている)

関西人の皆様、「いらち」は標準語ではありません 全国調査の結果→約半数が「使わない」

笑える国語辞典「いらち」の項(関西地方の方言としている)

【関西弁】どういう意味なのかわかりにくい関西の言葉ランキング(2020年調査)TOP20!(「いらち」は 13位にランクインしている)

ほかにも「『いらち』は関西方言」としているページはあまたあるが、この「関西方言」ということに私はかなり反発してしまうのである。「関西方言」というより、「古来よりの標準語」である上方言葉を、ほかの地域ではこなしきれなかったということなんじゃあるまいか。

なにしろ現在の「標準語」とされているのは、明治以降に新首都東京の「山の手言葉」を基本として作られたものであって、それ以前は東国の「江戸言葉」でしかなかった。その「江戸言葉」の中に、「いらち」という単語が見当たらなかったので、「いわゆる標準語」から外れてしまったのである。

「いらち」は、同じ「関西弁」と称される中でも「いちびり」や「めばちこ」などの俗語とは違い、「苛つ(いらつ)」という正しい日本語(既に「古語」と化してはいるが)の連用形の名詞化という、はっきりとした根拠のある言葉なのである。これを「関西方言」として片付けるのは、あまりにも忍びない。

ちなみに上述の "大阪人、ホンマに「いらち」? とことん調査隊" という日本経済新聞の記事は、次のような記述で締めくくられている。

梅田駅の外に出ると広い横断歩道があり、大阪府民がいらちとの評判を世の中に広めた有名な待ち時間表示付き信号がある。ここが表示付き信号の発祥かは分からなかったが、青信号に変わり大勢が速足で渡り始める姿をみていると、大阪府民はやはりいらちだと感じた。

というわけで、「いらち」という言葉は大阪人の気質と切り離しては語られない。これは「いら」と、やや「ち」をやや強調する関西特有のアクセント(東京人はどうしても「いらち」と、平板で発音してしまう)とともに、標準語に取り入れられにくい要素なのだろう。

典型的な江戸弁の場合は「いらち」ではなく、「気が短い」というのだろう。「てやんでぇ、俺ぁ、江戸っ子で気が短けえんでぇ!」ということになる。しかしこれ、「いらち」と似たようなものなのかもしれないが、ニュアンスには大きな違いがある。

「いらち」というのは、やや自嘲的なニュアンスを含む奥行きあるが、「気が短い」というのは、ただひたすら単純で、軽薄なまでに外向きである。このあたりからして、東西の気質と文化の違いは大きいと言うべきだろう。

 

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麻生さん、黙って座ってるのがよほどツラかったようだ

"戦後最長の財務相在任「長いに決まっとる」 麻生氏が最後の会見" という毎日新聞の記事に、悪いけど笑わせてもらった。第二次安倍政権発足時から「戦後最長」の 8年 9カ月にわたって財務相を務め、最後の記者会見を行った麻生太郎氏のコメントがなかなかふるっている。

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在任期間が戦後最長というのは単純事実だからまあいいとして、「長いに決まっとる」というのは何を言いたいのか意味不明で、さらに次のように語ったという。

麻生氏は「あんた朝の 9時から 5時までずっと質問もないのに 2カ月間座っている自信があるか? 新聞記者なんかできねえだろう。じーっと質問もないのに 2月、3月、予算委員会に座っている。やってごらん自分で」などと話し、国会出席回数が多く激務だったことをにじませた。

「朝の 9時から 5時までずっと質問もないのに 2カ月間座っている自信があるか?」と聞かれても、「座ってるだけなら、誰でもできる」と言うしかない。なにしろ「質問もないのに」と自分で言ってるのだから。

ただ、新聞記者は大臣ほどヒマじゃないから、ずっと座っているわけにはいかない。それに麻生さんは結構いらちみたいだから、ただじっと座っているのはよほどツラかったんだろうね。ほんのたまに質問があったとしても、出来合いの答弁原稿を読めばいいだけで、おもしろくもなんともないし。

ただ、世の中にはせっかく官僚に作ってもらった日本語の原稿をまともに読めない(参照)首相もいるのだから、上には上が(下には下?)があるわけだが。

というわけで、この記者会見のコメントは、「ただじっと座ってるのは退屈でたまらなかった。なんなら、お前らやってみろ! 死ぬほど長く感じるから」と言いたかっただけなのかもしれないね。

はいはい、よっぽどツラかったんでしょう。ご苦労様でした。

 

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2021年10月 4日

ピーラー(皮剥き)から哲学に至る道

「野菜のピーラー(皮剥き)」についての tweet(参照)がちょっとした話題だ。ジャガイモの新芽をとるのが、なぜか両側に付いているというのである。これの種明かしが秀逸で、私も笑わせてもらった。

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この器具の名前は「ピーラー」というのだが、新芽をとるための部分は「新芽取り」というのだそうだ。ここまで言えば、察しのいい人は「なるほどね!」と膝を打つと思うが、念のため最後まで言わせてもらうと、「新芽取り — シンメトリ(対称形)」ということで、左右対称で当然というわけだ。

なるほど、これは秀逸な洒落である。ただ、実際のところは右利きでも左利きでも使いやすいようになっているだけなんだろうけどね。

ところで「非対称」は「アシメトリ」だが、うまく洒落で対応できる日本語はなさそうだ。残念。あまり残念なので無理矢理に調べてみたところ「足目」という正体不明の言葉が見つかった。「世界大百科事典内の足目の言及」という注釈付きで、次のようにある。

【ガウタマ】より
…50‐150年ころの人。別名アクシャパーダ(足目)。ゴータマともいう。…

「ゴータマ(ガウタマ)・シッダルタ」のお釈迦様とは別人だが、天竺の人には違いなく、「アクシャバータ」というのを中国語で書き表すと「足目」になるらしい。ただ、これだけではチンプンカンプンなので、さらに「ガウタマ」で調べると、こんなふうに出てきた(参照)。

アクシャパーダ・ガウタマ - ニヤーヤ学派の祖で、『ニヤーヤ・スートラ』の作者とされる人物。

お恥ずかしいことに「ニヤーヤ学派」というのは「どっかで聞いたことがあるかも」程度なので、これも Wikipedia に頼ってみると、こう書かれている(参照)。

ニヤーヤ学派(ニヤーヤがくは、梵: Naiyāyika)はインド哲学の学派。現代では六派哲学の1つに数えられる。ニヤーヤは理論(あるいは論理的考察)を意味し、インド論理学として代表的なものであり、論理の追求による解脱を目指す。

で、足目先生の『ニヤーヤ・スートラ』は、この学派の根本テキストであるという。さらに「六派哲学」となると完全に初耳なので Wikipedia で調べると、こんな具合である(参照)。

六派哲学(ろっぱてつがく、梵: Ṣad-darśana [シャッド・ダルシャナ])はダルシャナ(darśana、日本ではインド哲学と訳す)のうち、ヴェーダの権威を認める6つの有力な正統学派の総称。インドでは最も正統的な古典的ダルシャナとされてきた。

ほほう、すごいものだったのだ。ちなみに「ヴェーダ」というのは、ヒンドゥー教の聖典のことらしい。

さらにいろいろリンクを辿ると、東京中野区の哲学堂公園にある三祖苑というスポットには、哲学の三祖「中国の黄帝、インドの足目仙人、ギリシアのタレス」の石碑が祀られている。上でつい「足目先生」と書いてしまったが、それどころじゃなく「仙人」とまで言われるお人だったのだね。

この分野では釈迦、ソクラテス、キリスト以降しか知らなかった(孔子はちょっと苦手)私としては、「世の中知らないことだらけ!」と、浅学の身を思い知ってしまったよ。そしてそれ以前への端緒が、洒落みたいな話から開かれることもあるのだね。まさに「アシメトリ(足目取り?)」の様相でおもしろい。

先月 6日の記事で、昔はよく江古田の日大芸術学部に顔を出していたと書いたが、ワセダから江古田まで行くのに、中野から池袋行きの都営バスに乗ると、途中に「哲学堂」というバス停があった。それでこの名前には馴染んではいたのだが、降りたことは一度もない。

今度、向こうの方に行くことがあったら、ついでに寄り道してみたくなった。

 

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2021年10月 3日

「ピュアな食生活」と、そのリスクみたいなこと

東洋経済 ONLINE に "「添加物と無縁な生活」 は許されないという現実 「普通のサンドイッチ」 で胃腸がパニック?" という記事がある。このところ「質素生活」についてずっとおもしろいレポートをしてくれている(参照)稲垣えみ子さんが書かれたものだ。

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この記事、とても共感しながら読ませてもらった。というのは、私も稲垣さん同様、一時はかなりピュアな「マクロビオティック」志向をしていたことがあって、食品添加物などとは無縁な生活をした経験があるからだ。

ところがこの稲垣さんもいつの頃からか、「ピュアな健康志向」が少しゆるんできたという。それは「自然食品店で何もかも買うというのは、私にとっては『ピュアすぎる』行動なのだ」という感覚からのようだ。稲垣さんはこんなふうに書いている。

だんだんエスカレートしてくると、普通に売っている食品や、普通の食品を普通に食べてる人が、なんだか「ダメなもの」「ダメな人」のように見えてきてしまうのである。周りはすべて汚れていて、自分だけはピュア。そんな選民思想のようなものにとらわれ始めた。

これはヤバい。かなりヤバい。私もそんなような感じになりかけたことがあるから、とてもよくわかる。というわけで、最近では私の食生活も同様に少しゆるんでいる。

「ピュアな自然食品」にあまりとらわれなくなると、かなり気持ちが楽になる。とはいいながら、やはり自分で食べるものは「添加物 OK、何でもこい!」とはなるわけがない。食品を買う時に必ずパッケージをひっくり返して添加物をチェックするのは、ずっと変わらない。

稲垣さんも結局のところ、「毎日、玄米飯、味噌汁、ぬか漬けですよ」というのだから、フツーの人と比べればかなりピュアな食生活をし続けていることになる。そして私もかなりそれに近い。とくに狙いすぎているわけでもないのに、自然に「ピュアな食生活」が身についてしまっているのだ。

その結果、稲垣さんは大手コーヒーチェーンの野菜サンドなんかを食べるだけで、お腹の調子がおかしくなってしまうらしい。胃腸が「えー! なにこれ! キイテナイヨ!」と言い出して、うまく消化できなくなるのだそうだ。これもよくわかる。私の場合は、外食で腹具合が悪くなったりすることはないけど。

というわけで、稲垣さんは「『ピュアな食生活』は自然食品店に通わずとも、質素な暮らしをしていればものすごくフツーに手に入る」としつつも、それが行き過ぎると、「友達と楽しく食事に出かけた後で、倒れて寝込むということにもなりかねない」と、少しだけ警鐘を鳴らしているわけだ。

ちなみに、上の写真に出ているのは、「100年ものの梅干し」だそうだ。うぅ〜、食べてみたい。

 

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2021年10月 2日

「台風一過」という四文字熟語への違和感

下の写真は今朝の 6時過ぎの東の空。昨日の夕方から夜半までは台風 16号の影響でかなりの風雨だったが、やがて静かになり、日が昇り始めるとご覧のような快晴だった。川面に波もなく、鏡のように朝日が映っている。

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朝のラジオではキャスターたちが判で押したように「関東地方は『台風一過の青空』が広がっています」と言っている。まあ、そう言いたくなるのも無理もない。ほかにどう言ったらいいんだというほどの「台風一過」ぶりである。

ところでこの言葉、子どもの頃は決まって「台風一家の青空」なんて書くやつがいて、「バカだなあ、それは昔からある言葉で『台風一過』と書くんだよ」と嗤われていたものだ。ただ私としては、これには少なからぬ違和感を覚えていたのである。

というのは、どの放送を聞いても「たいふうっかの青空」と、「っか」の方にだけアクセントをおいて発音する人が多かったからだ(ちなみに、今も多い)。「台風一過」なら、「たいっか」と、2箇所にアクセントをおいてもらいたいものだと、ずっと思ってきた。

思うにこの「台風一過」という四文字熟語、日本語としてまだこなれ切っていないんじゃあるまいか。いにしえの昔からそう言い習わしてきたわけじゃないんだし。

何しろ「台風」という言葉が生まれたのは、明治時代のこととされ、英語の ”typhoon" を取り入れる際にその音を生かして気象用語の「台風」となったと言われている。元々は中国語の「大風」のようだが、それがダイレクトに取り入れられたのではなく、英語を介したものというのが定説だ。

さらにこの「台風」という気象用語が一般にも知られて定着したのは、どうやら大正を経過して昭和初期になってからのことらしい。徳島県立文書館のサイトに『初めて名前が付いた台風 “室戸台風”』というページがあり、次のように書かれている。

「台風」という言葉自体も、それが定着するまでには色々な呼び名があり、その言葉が定着したのは 室戸台風襲来の数年前、昭和初期と言われています。

なんだ、ということは、日本人が「台風」という言葉をフツーに使うようになってから、まだ 100年経っていないんじゃないか。言葉としては新参者もいいところだ。

ということは、「台風一過」という四文字熟語が生まれたのは少なくとも昭和初期より後ということになるので、さらに新参者の言葉である。誰が言い始めたのかは今となっては知るよしもないが、何となく「ことさら感」のあるもったいぶった言い方だ。

ちなみに「一過」という言葉は『大辞林』には次のようにある。

いっか — くわ【一過】

① さっと通り過ぎること。「台風 —」
② 一度ざっと目を通すこと。
③ ほんの僅かの間。「— ばかりでほんのうわきといふものだ/洒落本/夜鄽行灯」

つまり「台風一過」というのは「一つの台風が(一度)過ぎてしまった」というような一般的な認識とはビミョーに違って、言葉そのものとしては「台風がさっと通り過ぎた」ということを言うようなのだ。ふぅむ、なるほどね。

これ、結構な被害を蒙った地域の人にしてみれば「決して『さっと通り過ぎた』というわけじゃないよ」と言いたくなるかもしれないが、まあ、何しろ新参者の言葉なので、しっくりくるという段階にまで至っていないのだね。「台風一過の青空」という決まり文句以外にあまり使い途がないのも道理だ。

というわけで、この言葉に関する私の違和感もむべなるかなと納得した次第である。

 

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2021年10月 1日

「論功行賞」って、年末の流行語大賞までもつか?

岸田新総裁が決まって、毎日新聞は "「自民党新人事 「論功行賞」の色濃く 高市氏と河野氏明暗分ける" と伝えている。今回のキーワードは「論功行賞」で決まりのようだが、年末の流行語大賞までもつかどうか、ビミョーなところだ。そもそも、おもしろくも何ともない話なので。

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幹事長に就任するのは甘利明氏だそうだが、これ、全然新鮮味を感じさせないどころか、旧来の自民党体質を引きずるための人事としか思われないよね。で、案の定、さっそくこの人の 5年前の金銭授受問題が蒸し返されている(参照)。

さらに政調会長に高市早苗氏、総務会長に福田達夫氏が起用されるらしい。高市氏に関しては、「決選投票で互いに協力する『1・3位連合』を形成して岸田氏当選に貢献」なんて書かれていて、まさに笑ってしまうほど露骨だ。

ただし、彼女の「論功行賞」の中身については、昨日の記事で書いたように「はぁ?」と言いたくなる要素も多い。この「1・3位連合」って案外ユルかったというか、急作りのデタラメな要素が多かったに違いない。

彼女が少しでも恥を知るなら、「私が得た議員票の 114票から、決選投票では少なくないほどの造反が出ちゃって、お恥ずかしい」と頭を下げてもいいぐらいのものだと言っておく。これ、指摘する人が少ないけど、「勝てば官軍」で細かい話はどうでもよくなるのかなあ。

それからもう一つ「はぁ?」と言いたくなるのが、「新内閣発足後」という但し書き付きだが「麻生氏が副総裁に就任」という話だ。本当にもう、いい加減にしてくれんかなあ。

というわけで、新鮮味を打ち出すことより内輪の論功行賞を優先させた自民党が、次の総選挙で大幅に票を減らすことを期待したい。ただ、これまでの菅首相より「岸田首相の方がずっとマシ」なんて受け取られて、票が減らなかったりしたらイヤだなあ。比較対象がひどすぎると、判断がおかしくなってしまう。

率直に言えば、岸田内閣が年末の流行語大賞までもたずに、「論功行賞」という言葉もろとも消え去ってしまうぐらいがちょうどいいとまで思うのだが、そりゃちょっとせかしすぎか。まあ、来年の夏ぐらいでもいい。

【10月 2日 追記】

私の「高市早苗嫌い」は、このブログを読んでくれている方々には既に薄々どころかはっきりと知られていると思うのだが、一応「本当に嫌ってるんだからね」と念を押すために、昨日の記事のらむねさんのコメントへのレスを以下に再録させていただくことにする。

それにしても高市さんは、ジジイどもに取り入るのが上手なんでしょうね。私は個人的には、昨日の記事のコメントにも書いたように、気持ち悪く感じてしまうんですが。

もし目の前に現れたら、席を外しちゃいたくなりますね ^^;)

というぐらいのもので、彼女の右翼的政治姿勢とともに、原子力政策に関してもイラついている。それに関しては、2013年 6月 20日付 "政治家の 「失言」 という宿業" という記事を参照いただきたい。

 

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