Quora に「英語学習はオワコンでしょうか?」という質問が寄せられている(参照)。「あと 5年もしたら会議で日本語喋ったら勝手に相手の言語に翻訳されて、メールも送信ボタン押したら勝手に翻訳されると思うのでこれからビジネス英語を学ぶ意欲が湧きません」というのである。

昨日の記事で「くずし字」が AI によって瞬時に現代の文字に変わるというプログラムに関して肯定的に述べている私としては、質問者の気持ちがわからないではない。しかしながら、「英語学習がオワコン」と言ってしまうのは短絡的すぎるとも思うのである。
ちなみに昨日の記事には案の定、らむねさんからコメントがついた。本文中からリンクする 1月 5日付記事に彼が付けてくれた「AI に古文書を解読させる試み」紹介コメントへの私のレスに関して、実にソフトに「撤回と謝罪」を要求してくれたものだ。この時の私のレスはこんなものだった。
それにしても、人の書いた文字を人が読めずに AI に頼るというのは、なんだかムカつきますね ^^;)
いやはや、「10ヶ月経ったら、言うことが違ってしまってるじゃないか」と言われても仕方がないことで、お恥ずかしい。しかしながら、言い訳がましいかもしれないが、この「AI に頼る」ことへの「ムカつき」感覚は、私個人としては、決して解消してしまっているわけではないのだ。
それは、昨日の記事でも次のように書いていることで、少々察していただきたい。
「古文は草書体で読んでこそ本物」という実感や、草書体の趣ある美しさを大切にしたいという思いは、私としても十分にわかる。
そうなのだ。不肖私としても、古文は草書体で読みたいという思いには、十分に共感してしまうのである。しかしながら、私自身が決してスラスラと読めるわけではないし、さらに広範な層への訴求というコンセプトを重視すれば、AI で古文を読む試みを否定してはならない。
ここで冒頭の Quora の質問の件戻るが、「会議での発言が瞬時に相手の言語に翻訳されて伝わる」という世の中が来るというのは、私も「そうだろうな」と思うし、そんな時代はかなり近いだろう。いわば「AI 同時通訳システム」だ。
しかしながら、だからといってビジネス英語を学ばなくてもいいということにはならないだろう。それは、言葉というものは翻訳されたとたんに別のニュアンスをもってしまうことが往々にしてあるからだ。勿論、ビジネス英語に関してはそうした要素は最小限に抑えたいところではあるが。
私の 10月 7日付の記事は「写真はイメージです/言葉は雰囲気です」というものだが、まことにも、言葉というのは良かれ悪しかれ「雰囲気」の要素が強く、無視できない。文学作品でも、別の翻訳で読むと印象がかなり変わってしまうことまであるのだから。
やはりリアルのコミュニケーションというのは、翻訳を介さずに同じ言語で丁々発止する方がいい。翻訳を通すのはどうもかったるいし、ピンボケになってしまいがちというのは、私も何度か経験したことがあるからね。
で、ここで 5度目の「しかしながら」という接続詞を使いたくなってしまう(今日の記事は「しかしながら」(however)のオンパレードで、歯切れの悪いことおびただしい)のだが、私は AI による同時通訳は決して否定しないのである。
それは古文書を AI で読むのと同様に、「セカンド・チョイス」として歓迎しておきたいのだ。誰もが英語で上手にコミュニケーションできるわけではないという現実があるのだから、それは当然である。
さらに付け加えれば、日本語のほかに英語を学ぶことのメリットもあると言わなければならない。他言語を学ぶことで母国語での思考とは別の視点による考え方ができて、「思考の重層性」が獲得できる。上手に使いこなせば、人間としての「厚み」みたいなものも身につくだろう。
まあ、ここで言う「他言語」は別に英語でなくてもいいのだが、事実上、最も汎用性のある言語は英語ということで納得していただきたい。
で、古文書を変体仮名ですらすら読むことのメリットも、似た感じではある。ただ、そのメリットは現状では 0.01%の日本人しか実現していないというのだから、その意味では、古文書 AI 翻訳のメリットは、英語の AI 翻訳と比べても圧倒的に大きかろう。
余談だが、もし変体仮名が今の世にも現役で生きていて、新聞が昔の「瓦版」みたいなものだったら、日本語は断トツで「世界一習得困難な言語」の座に君臨していることだろう。なにしろ、こんなだから(下の画像は「地震速報」みたいなものの一部拡大図で、全体像は こちら)。

見出しは「大坂つなみ」(これ、「大阪」という表記じゃなかった頃の瓦版)。全体として漢字は読みやすいのだが、かなは手強いよね。
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