葬儀と「清めの塩」と画一化の問題について
昨日の記事で "近頃の都市部の葬儀では、帰りに必ずと言っていいほど「お清め塩」なんてものを渡される" と書いたが、より新しい情報では「必ずと言っていいほど」というわけではなくなってきているようだ。私の中の情報が少々古くなってしまったようで、更新しなければならない。
ようやく世の中に変化が現れているらしい。上の図は「昭和セレモニー」(千葉の葬儀会社らしい)という会社のサイトから拝借したもので、とてもわかりやすい。
昨日の記事で、「清めの塩」について "「面倒な押しつけ/小さな迷惑」としか感じられない" と書いたのは、次のような理由からである。
- 「清めの塩」というのは元々は神道の考え方だから、仏教式の葬儀でそんなものを渡されるのは、「神仏混淆」の典型。
- 葬儀から帰ったら体にかけて死の穢れを払うという趣旨らしいが、これもまた「雰囲気のもの」でしかないし、個人的にはしたことがない。
- かと言って、敢えて受け取りを拒否するのも無粋だろう。
- ところが持ち帰ったところで、我が家常備の天然塩とは違うため一緒にしたくないので捨ててしまう。
- 一人一人にしてみればほんの少量だが、日本中でまとめてみればかなりの「食品ロス」になる。
- 葬儀屋が効率志向によって、いつの間にか画一的なスタンダードを作ってしまった結果に過ぎないだろう。
最後のポイントの「効率化志向による画一化」というのは面倒な問題だ。「清めの塩」に限らず、近頃ではかなり多くの分野でそんなことが目立つような気がする。一応のスタンダードがあれば便利は便利だが、それにこだわって絶対視したがる人が出てくるので厄介なのである。
例えば昨日の記事でも書いたが、葬儀で「清めの塩」が渡されないと「手抜き」扱いして、苦情をいう人なんかも出てくる。「どうしておたくは、きちんと用意しないんだ」というわけだ。直接面と向かって言わずに、陰で「あそこは気が利かない」なんて言う人はさらに鬱陶しい。
宗教というのは「多くの日本人はこだわらないが、こだわる人は死ぬほどこだわる」という分野だけに、こうした妙な現象が出てきやすい。そんなことでクレームがつくなら一律に配る方が面倒がないということで、画一化はどんどん進行する。
ところが、それでもやっぱり問題は生じる。私のような「こだわらない人」にとっては単に面倒なだけだが、「こだわる人」にとっては、「仏教式の葬儀なのにおかしい」と、クレーム対象になってしまうのだ。やはり「無闇な画一化」というのは問題が多い。
こうしたことで最も癪に障るのが、「画一的な校則」ってやつだ。この記事を読めば、私だけでなく、多くの人がムカついてしまうだろう。
さらには、こんなこともあるようだし。(信じられないが、実際にあることらしい)
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