大人が都合良く考えた子ども像
『たこの歌』という文部省唱歌がある。そう、あの「たこたこあがれ/かぜよくうけて/くもまであがれ/てんまであがれ」という歌詞の歌だ。
子どもの頃、「天」というのは「雲」の上にあるものだということを、この歌で学んだ。ただ、「雲」は具体的だが「天」はかなり茫洋としている。それで「天」というのは「モノ」というより抽象概念なのだということもおぼろげに理解した。もちろん「抽象概念」なんて言葉そのものは知らなかったが。
その意味で、この歌は小学校低学年だった頃の私の論理思考を養うスタート地点みたいなものになったのだが、実はあまり好きな歌じゃなかった。というのは、実際にたこ揚げをしてみると歌詞が無責任すぎるとしか思えないのである。
「風よく受けて、雲まで揚がれ、天まで揚がれ」というのは、一見すると順序だった理窟の上に成り立っているように見えるが、実際やってみると雲までなんて到底揚がらないし、ましてや抽象概念に過ぎない「天まで」なんて、テキトーにもほどがある。
かなり風の条件のいい日に勢い込んでトライすると、タコがかなり小さく見えるまで上昇して、「おぉ、やったね!」と興奮するが、無限に揚がるわけじゃない。用意した糸の長さには限界というものがあるのだ。最大の問題は「たこ」だの「風」だのよりも、「糸」だったのである。
そして私はどういうわけか、たこが揚がっている間、糸が真っ直ぐに張るわけじゃなく、途中で結構たるむものだという「目に見える事実」に新鮮な驚きを感じていた。「こんな糸にも重さってものがあるんだ。いくら風が引っ張っても、ピンとは張らないんだ。これってスゴいじゃないか!」
そしてそのビミョーなたるみ具合に、何か心の中でざわざわっとするような「危うさ」とか「哀れさ」みたいなものを見たりしていたのだが、他の誰もそんなことには頓着せず、ただひたすら糸の先端で風に揺れるたこしか見ていない。私は、それが不思議でたまらなく思えてしまうような子だった。
この「たこの歌」って、どうしてこの「もののあわれ」の部分にちっとも触れずに、ただ「ありがち」な光景しか歌わないのだろう。
「大人の作ったこどもの歌」の多くはちっともリアルじゃなく、「大人が都合良く考えた子ども像」の押しつけに過ぎないと薄々わかったのもこの頃である。続きは明日。
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