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2021年11月14日

日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」らしい

毎日新聞のサイトに "日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」 国際研究チームが発表" という記事がある。ドイツなどの国際研究チームが発表し、10日(日本時間11日)の英科学誌『ネイチャー』に掲載されたのだそうだ。

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発表によれば「日本語の元となる言語を最初に話したのは、約 9,000年前に中国東北地方の西遼河(せいりょうが)流域に住んでいたキビ・アワ栽培の農耕民だった」とされている。この結論の精度が高いとみられるのは、研究チームが以下のような手法を用いていたためだ。

98言語の農業に関連した語彙(ごい)や古人骨の DNA 解析、考古学のデータベースという各学問分野の膨大な資料を組み合わせることにより、従来なかった精度と信頼度でトランスユーラシア言語の共通の祖先の居住地や分散ルート、時期を分析した。

ちなみに「トランスユーラシア言語」というのは、日本語(琉球語を含む)、韓国語、モンゴル語、ツングース語、トルコ語などユーラシア大陸に広範に広がる言語を総称して言っているらしい。かなり希有壮大なプロジェクトで、私なんかちょっと心が躍る。

日本語の元となる言語は、約 3,000年前に「日琉(にちりゅう)語族」として、水田稲作農耕を伴って朝鮮半島から九州北部に到達した人たちによってもたらされたという。これにより、元々の縄文人が話していた言葉と置き換わった。

そして古い言語は「アイヌ語」として孤立して残ったという。そうか、アイヌ語は縄文語を色濃く残している言語だったのか。私の父は生前、アイヌ語オタクと言われるほど熱心に勉強していたが、縄文気質があったのかもしれない。

沖縄に伝わるにはさらに時間がかかり、「11世紀ごろに始まるグスク時代に九州から多くの本土日本人が農耕と琉球語を持って移住し、それ以前の言語と置き換わったと推定できる」とされている。なるほど、それで沖縄には独特の言葉が現在も残っているわけなのだね

上に掲げた「日琉言語の日本列島への到達」という地図を見ると、北九州は遙か昔から大陸との文化交流の窓口だったことがわかる。そして文化の中心が徐々に近畿に移ったのは、北九州が「文化交流の窓口」であると同時に、「侵略の危険性の高い地域」であったからとも言われる。

明治以前まで日本の中心として機能していた京都を含む近畿は、「山城国」というだけあって、リスクの小さい地域と認識されたのだろう。何しろ後に「元寇」なんてことも現実にあったわけだから、脅威は現実的だったのだ。

こうしてみると私の生まれた東北は、長らく「文化果つる地」だったのだね。他から訪れた人が庄内弁を聞いて「一言もわからない」と言うのも道理である(参照 1参照 2)。

毎日新聞は記事中で「日本語(琉球語を含む)」と言っているのだが、無茶を言わせてもらうとすれば、「日本語(琉球語、庄内弁、津軽弁を含む)」と書いてもらいたかったほどだ。ああ、それから上述の「参照 1 」で触れたように、鹿児島弁もかなりすごいな(参照 3)。

「日本語と庄内弁のバイリンガル」である私は、今となっては重層的な思考ができるという意味で、潜在的な「文化的優位」にあると自認して、いい気持ちになっていいのかもしれない。さらに英語も多少イケるから、「バイ・アンド・ハーフ・リンガル」なんて自称しようかな。

今回の研究チームのリーダー、マーティン・ロッベエツ (Martine Robbeets)教授は「すべての言語、文化、および人々の歴史に長期間の相互作用と混合があった」と語っているという。どんな大国でも、完全に独立したナショナル・アイデンティティなんてものがあるってわけじゃないのだ。

そして「言語と文化の相互作用と混合」は、地理的空間や歴史の中だけでなく、今この時を生きている個人の中にもあるのだから、かなりおもしろいよね。

【参照: Origins of ‘Transeurasian’ languages traced to Neolithic millet farmers

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