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2021年11月27日

「正し過ぎること」の危うさ

昨日、原付バイクの自賠責保険更新でバイク店に行き、店主と「今年も何もしないうちに 1年が終わってしまうね」と、お約束みたいな話題になった。ただ、去年と今年はコロナ禍のせいで、「何もしないうちに感」がとりわけ強い。

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「近頃、妙な暴力事件が多いのは、閉じ籠もってばかりで心を病んでしまうやつが多いからですよ、きっと」と、彼は言う。「私だってたまには外に出て、自然の中を思う存分走らないと、気が変になっちゃいそうですもん」

私もこれには同感だ。それで今年の 3月、とうとう我慢しきれなくなって、無理矢理に飛騨への旅を決行したほどなのだから(参照 1参照 2)。

とくに昨日は愛知県弥富市の中学校で、3年生の男子生徒が同じ学年の生徒に包丁で腹を刺されるというショッキングな事件(参照)があったばかりのことでもあり、「心を病んでしまう」というのが実感として迫る。

事件翌日には、加害者の生徒は被害者との間にトラブルがあったと供述していると報じられた。「いじめ」にあっていたというのだから、聞き捨てならない。

バイク店の店主との話では、「いじめる方が一方的に悪くて、いじめられる方がひたすらかわいそうという見方は、ちょっと違ってることもあるかもね」という話になった。そりゃもちろん、いじめる方がずっと悪いに決まっているが、本質的な問題は両者の関係性にあることが多い。

我々が注目してしまったのは、被害者の生徒が「明るいリーダー的存在」だったという点だ。部外者から見ると、ただ「暗い性格」の生徒が「明るいリーダー的存在」の生徒を恨んで刺してしまったということになるだろうが、物事というのはそんなに単純なものではない。

ここから先は今回の事件を特定して言っているわけではなく、あくまでも一般論であると慎重に断った上で書かせてもらうのだが、「明るいリーダー的存在」というのは、いつでも立派というわけではない。それは、時として「正し過ぎてしまう」ことがあるからだ。

この点に関しても、我々の見方は一致した。人は「正しい」に越したことはないが、「正し過ぎ」には十分に気をつけなければならない。さらに言えば、当人には「正し過ぎ」という自覚がない場合でも、「正しくない者」の目からは鼻持ちならないほどに「正し過ぎ」と見えてしまうこともあるのだ。

そしてここから先は再び、今回の中学校の刺殺事件に特定した話に戻らせてもらう。上に掲げた写真は、事件のあった学校側が「トラブルはなかったと認識している」と説明したストーリーに付けられたものだ。

これ、実際に発せられた言葉通りだとしたら、かなり不愉快な言い草なんじゃなかろうか。私には学校側が「責任逃れ」の道を作っているとしか思われない。

「トラブルがあったという認識はなかった」というなら、まだ許せる。特定の生徒間の問題について学校側が気付いていなかったというのは、当然あり得ることだからだ。

しかし「トラブルはなかった」というのは、傲慢なまでに「正し過ぎる」態度だよね。「自分たちの認識しなかったことは、たとえあったとしてもなかったのだ」と言わんばかりである。

そんなわけで、多くのジャーナリズムは事件のあった学校名を出さず、ただ「愛知県弥富市の中学校」とボカしているが、事件当初はちゃんと「十四中学校」という校名を出して報じていたはずだよねと、敢えてはっきり書いておこうと思う。

【12月 1日 追記】

その後の報道で、学校側の「トラブルはなかったと認識している」という発言はあっさりと覆されてしまった。生徒が 2年生時のアンケートを元に、学校側は「いじめ事案」として対応していたという事実が報道されたためである(参照)。

要するに、学校側は頬かむりをしたかったわけだよね。何しろ学校のアンケートは原則 3年の保管義務があるにも関わらず、保管されていないというのだから、意図的に「処分」してしまったと疑われてもしかたがなかろう。

「正しさ」を装うために、とんでもない「正し過ぎ」に走ってしまったわけだ。

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