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2022年2月に作成された投稿

2022年2月28日

「ピンキリ」と「シカト」の語源

 戦争の話をシリアスに書いた翌日にこんな話題で恐縮だが、日本のカード・ゲームに「花札」というのがある。江戸時代からもっぱら賭博に用いられたということで、イメージはあまりよくないものの、私は花札のデザインというのは、日本における秀逸なポップ・カルチャーだと思っている。

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ポップ・カルチャーだけに、いろいろな俗語とも関係している。今日は「ピンキリ」と「シカト」に触れてみようと思う。

花札は「花カルタ」とも言い、「カルタ(carta)」というのはポルトガル語で「札、カード」を指す(英語なら "card")。日本のカードゲームは総じて安土桃山時代にポルトガルの宣教師によって伝えられたというのが定説なので、ポルトガルとの関連が深いのは間違いない。

「ピンキリ」というのは、「ピンからキリまで」(「一から十まで」「最上から最低まで」の意)の短縮形。

この「ピン」は、ポルトガル語の「ピンタ(pinta)」 から来ているという。「ピンタ」は英語なら "point" で「点」という意味だが、サイコロで「1」を表すのが「点一つ」なので、「1 、つまり、ものごとの始まり」を表すようにもなったらしい。「ピン」の説明は、これで難なくついた。

問題は「キリ」である。これには「『キリ』はカルタの 12枚目をポルトガル語で "cruz" ということから来ていて、『最終』を意味する」とか、「歌舞伎で最終幕を「切り幕」と言うように、『切り』は『最後』を表す」など、いろいろな説がある。

魅力的なのは「花札で最後の『師走』(12月)を表すのが『桐』の図柄だから」という説だ。つい「それで決まり!」と言いたくなりそうだが、よく考えればそれだと、むしろ「松から桐まで」で「マツキリ」にならなければいけないので、やっぱりこじつけなのだろう。

というわけで、「ピンキリ」という言葉は、花札ととても近い関係があるものの、直接的に花札が語源となったわけじゃないということに落ちつきそうだ。個人的にはとても残念な気分なのだが。

一方、「シカト」の方はもろに単純だ。花札で「神無月(10月)」を表す鹿がそっぽを向いているので、「知らんぷりをする、とぼける、無視する」とかいう意味で使われるようになったという。これはかなり確かな説である。

ただ、「若者言葉」として使われ始めたわけでは決してない。「語源由来辞典」には次のようにある(参照)。

警視庁刑事部による『警察隠語類集』(1956年)には、「しかとう とぼける。花札のモミヂの鹿は十でありその鹿が横を向いているところから」とあり、この頃はまだ「シカト」ではなく「しかとう」で、賭博師の隠語であったことがわかる。
その数年後には不良少年の間で使われるようになり、「しかとう」から「シカト」に変化した。

へえ、元は「しかとう」だったのだね。調べてみるものである。これで「シカト」の語源が確実に花札であることが、よりはっきりした。

ちなみに花札の「桐」の上にいる鳥は「鳳凰」で、「松」のタン札に書いてあるのは「あのよろし」じゃなくて「あかよろし」(「2文字めは「可」の変体仮名)なので、そのあたり、どうぞ

Yoro5

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2022年2月27日

戦争では誰も勝たない(Nobody wins a war)再び

2003年 3月 18日、このブログで「戦争では誰も勝たない」という記事を書いた。この年、イラク戦争の始まったのが 2日後の 3月 20日だから、きな臭さが極限にまで達していた頃の記事だ。あれから 19年近くたった今、この話をまた持ち出さなければならないなんて、ある意味悲しいことである。

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2003年からさらに 20年遡った 1983年 10月 23日(日曜日)、中東はレバノンの首都ベイルートで、爆弾を満載したゲリラのトラックが米軍基地に突っ込むという大きなテロ事件があった。いわゆる「ベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件」である。

この時 31歳だった私は、たまたまニューヨーク出張の 2日目で、時差ボケまなこで朝イチの仕事を終え、昼過ぎに戻ったホテルの部屋のテレビ・ニュースでこの事件を知った。そしてたまたま一緒に同じニュースを見ていたホテル・メイドのオバチャンから、とても味のあるフレーズを聞いたのである。

彼女は部屋のメイクをしながら「ベトナム戦争の日々には戻りたくない」と嘆き、続いて「戦争では誰も勝たないのよ」と呟いた。この "Nobody wins a war" という言葉こそが、この年のニューヨークで得た最大の収穫で、40年近く経った今でもはっきりと覚えている。

この時のことは、私のメイン・サイトである「知のヴァーリトゥード」の中の「知の関節技」に、まさに『戦争では誰も勝たない』というタイトルのショート・ショートとして書いているので、よろしければお読みいただきたい(上の画像のクリックでも読める)。

もう一度繰り返す。「戦争では誰も勝たない」のである。

後に 21世紀となってから、これをそのままタイトルとした "Nobody Wins A War" という曲まで作られている。 Raheem DeVaughn によるご機嫌なソウル・ミュージックで、2010年のレコーディングだ。(詞は  こちら

別バージョンもある。カリブの歌姫(誰が何と言っても「姫」なのだ)、Singing Sandra のご機嫌なパフォーマンスだ。そしてこの Sandra、なんと 1983年に私にこのフレーズを伝えてくれたホテル・メイドのおばちゃんとそっくりなのである。

この歌のメッセージ、プーチンにも聞かせてやりたいぐらいのものだ。

 

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2022年2月26日

NO WAR IN UKRAINE!

Today, I have to say nothing but "NO WAR!" 

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NO WAR IN UKRAINE, STOP PUTIN!

NO WAR IN UKRAINE, STOP PUTIN!

NO WAR IN UKRAINE, STOP PUTIN!

I'm with the people long for world peace.

 

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2022年2月25日

「マイコン」と「ワープロ」と「パソコン」

Daily Potal Z にライター&イラストレーターの 北村ヂン さんが「約 40年前のマイコンを買ったけど、何に使ったらいいか頭を抱えた」という記事を書いている。

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機種は NEC の PC-6001mkII のようで、Wikipedia には「1983年 7月 1日に発売された、PC-6001の上位互換の後継機」とある(参照)から、正確には「40年前」じゃなく、39年前のようだが。ちなみにマイクロソフトが「日本語 MS-DOS」を供給し始めたのがこの 1983年だった(参照)。

ただ、この PC-6001mkII というのは、後に日本の「パソコン」の代名詞みたいになった PC-9800 シリーズとは違い、MS-DOS ではなく、独自 OS で動くものだったようだ。いわゆる「マイコン」から「パソコン」に移る分水嶺の一歩手前の代物と言っていいだろう。

北村さんはこの「マイコン」と向き合って、「今の Mac や Windows とはまったく違う、人間に優しくない使い勝手で頭を抱えました」と書かれている。今からほんの 30年数前までは、PC の世界は「西部開拓時代」みたいなものだったわけだ。

そしてこの頃 30代に突入したばかりの私はといえば、なんと、まだデジタルの世界に足を踏み入れていなかったのである。当時の私は英文で記事を書くなんて仕事をしていたので、会社では「タイプライター」を使っていた。辛うじて電動式だったが。

ただ、さすがにこれにはうんざりしてしまい、1987年頃にようやく「ワープロ」というものを買った。富士通の OASYS Lite From7 という機種で、下の写真のように今見るとほとんど骨董品だが、アナログの「タイプライター」と比べたら天国みたいに便利に感じたものだ。

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ただ当時、まだ日本社会はデジタル機器にほとんど理解がなく、会社は買ってくれなかったので自腹で誂えた。私はもっぱら英文を作成するために「日本語ワープロ」を買った(「パソコン」よりずっと安かったので)という、世にも珍しい種族だった。

その後、Winsows 3.1 が日本でも使えるようになったのをきっかけに、1993年頃ついに PC に乗り換えた。この頃、私は既に 40歳で、今なら「何て遅い PC デビュー!」なんて言われそうだが、「当時の 40代のオッサンにしては、かなりススんでたんだ!」と言わせてもらう。

日本のフツーのオフィスで「各自のデスクの上に PC が乗っかってる」という光景が当然になったのは、Windows XP がリリースされた 2001年を過ぎてからのことだと思う。それまでは「手書きと FAX」に頼るアナログな世界だったのだ。

北村さんの記事をきっかけにして、自分がさながら「生きた歴史」であることに気付いたよ。今 40代後半の「団塊の世代ジュニア」は、20代頃からフツーにインターネットを使ってきただろうが、その親の「団塊の世代」にデジタル音痴が多いのは、無理もない話のようだ。

 

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2022年2月24日

「膳」と「ちゃぶ台」と「ステテコ」を巡る冒険

2月 18日に「江戸の昔の蕎麦屋に、椅子とテーブルなんてなかった」という記事を書いている時から気にかかっていたのが、日本式の食事スタイルについてである。下の写真は Pinterest から拝借した懐かしき昭和の食事風景(参照)だが、お父さんのステテコ姿とお母さんのパーマ髪が妙に印象的だ。

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18日の記事では蕎麦をたぐる時には蕎麦猪口を手に持つと書いているが、よく考えれば日本の食事で食器を手に持つのは、蕎麦を食う時だけに限らない。飯を食うときには茶碗を持ち上げて箸を使うし、汁も汁椀を持ち上げ、直接口を付けてすする。いわゆる「洋食」では決して見られない作法だ。

今は日本でも「椅子とテーブル」を使った食事がフツーになっているが、それ以前は上の写真のような「ちゃぶ台」が主流だった。ただしこの「ちゃぶ台」が登場したのは明治以後のことで、それ以前はもっぱら「膳」を使っていた。Wikipadia には次のように記されている(参照)。

貴族社会では同じ階級のものが同一食卓を囲む場合があったが、武士が強い支配力を持つようになると上下の人間関係がより重要視されるようになり、ほぼ全ての社会において膳を使用した食事が行われはじめた。

「膳」にもいろいろあり、「親子の住まい方教室」というサイトの「お膳の始まり」というページを見ると、結構なバラエティである。

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このサイトでは「お膳を使った食事」というページに、「膳」というものが日本独特の食事スタイルの形成に大きな役割を果たしたことが詳しく書かれている。食事作法以前の問題として、食事の場所、順番、並ぶ順などで家の中の人間の上下関係が明確になる。「膳」は封建社会の価値感そのものだ。

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というわけで「膳」というのは、形の上だけでなく、コンセプトからして円卓とはまったく違う発想なのだ。さらに言えば、「膳」を使うと茶碗を持ち上げるのはごく自然の成り行きだ。そうしないともろに這いつくばって、文字通りの「犬食い」になってしまうので。

この「膳」に替わって「ちゃぶ台」が普及するには、明治という「文明開化」の時代を待たなければならなかったのだろう。さらに一番上の写真のような六畳間での「家族団らん」の象徴となるまでには、昭和、しかも戦後の時代を待たなければならなかったのかもしれない。

ちなみに Wikipedia の「ちゃぶ台」のページは、その語源についての解説から始まっていて、「卓袱台のほか、茶袱台、茶部台、食机」などの当て字があるという。さらに「岩手県、富山県、岐阜県、滋賀県、鳥取県、島根県、愛媛県などの一部では飯台と呼称される場合がある」と書かれている(参照)。

ちなみに「飯台」の読みは、「めしだい」ではなく「はんだい」。私の生まれた山形県庄内では訛って「はんでん」なんて言っていたが、今どきはいくら庄内でも、若い人には通じないだろう。昭和は既に遠い昔の物語で、ほとんどフォークロアの世界に入っている。

さらに写真をよく見ると、「昭和のちゃぶ台」はかなり低い。ソフトウェアとしての家族の座る位置は見かけ上で民主化されても、ハードウェアとしての「高さ」は相変わらず「膳」のスタンダードを引きずっていたようなのだ。Wikipedia にも次のように書かれている(参照)。

高さは 15 cmから 24 cmくらいが一般的であったが、これは時代を経る毎に高くなり、現在は 30 cm前後のものが一般化している。

というわけで、明治期に登場した「ちゃぶ台」は、平成以後の御代ではお父さんのステテコ姿やお母さんのパーマ髪と歩調を揃えるかのように、急ピッチで姿を消しつつあるようなのである(参照)。

 

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2022年2月23日

我が故郷、庄内の「雪除け」

今年の冬は間違いなく「厳冬」である。つくばの里でも、年明けから 2度ほど雪が積もった。下の写真は私のもう一つのブログ、「和歌ログ」で使ったものである。(1月 7日2月 11日

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この土地に引っ越して来た 40年前頃から 20年間ぐらいなら、このくらいの積雪は毎年あったが段々少なくなって、とくにここ数年はほとんど積もることがなく、物置にある雪かきスコップも活躍の場がなかった。朝にまともに雪かきをしたのは本当に久しぶりのことだった。

ただ、この辺りの「雪かき」なんて、まだまだ生やさしい。私の生まれた庄内は、雪の深さだけをとれば北陸の豪雪地帯ほどではないにしても、なにしろ猛烈な地吹雪が吹き荒れるので、吹きだまりでは屋根まで届くほどになったりもする。

というわけで、言葉そのものも「雪かき」なんてものでは済まず、「雪除け(ゆきのけ)」(実際の庄内弁発音は「ゆぎのげ」、さらに極めると「よぎのげ」)と言う。人の通る部分の雪をスコップで「どっこいしょ」とすくい、邪魔にならないところに放り投げるのだが、かなりの重労働である。

下の動画は、庄内で地域おこしに取り組む COCOSATO 代表、阿部彩人さんが YouTube にアップしてくれた、酒田市八郷地区の「雪除け」の様子である。

自治会館に出入りできるようにしているもののようだが、会館の裏手は屋根から落ちる雪も重なって軒まで届くほどの積もり方だ。本当にご苦労様である。

というわけで、私個人としてはつくば周辺の雪なんて積もったうちに入らないぐらいに思っているのだが、仙台生まれの妻はちょっと降っただけで「大雪」だと思ってしまうらしい。いずれにしても来月に入れば春らしくなるというので、月の変わるのを楽しみにしている。

 

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2022年2月22日

テキサスのスタバ店員の Good Job

HUFFPOST が "スタバ店員、18歳の女性客を救うために「粋な心遣い」" という記事を紹介している。元記事は、米国 ABC の "Starbucks barista helps protect high school girl approached by stranger" (スタバのバリスタが見知らぬ男にちょっかいかけられた女子高生を救う)というニュース。

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これは、この記事に登場する女子高生の母親、Brandy Roberson さんが 2月 18日に Facebook に投稿したことがきっかけで話題になった話である。ただ、この投稿自体はアクセスが殺到し過ぎたためか、Facebook 上では現在閲覧できなくなっているようだ。

記事によれば投稿の前夜、彼女の娘がテキサス州コーパス・クリスティ市のスタバで一人で勉強していた時、見知らぬ男が近付いて話しかけ始めた。彼女は決して怯えていたわけではなかったが、その時、スタバの店員が上の写真の文字が書かれたカップを手渡してくれた。

Are you okay? Do you want us to intervene? If you do, take the lid off the cup.

(大丈夫ですか? 割って入ってもらいたいですか? もしそう望むなら、このカップの蓋を取って知らせてください)

これを読んで息を呑むように見上げると、店員全員が彼女を見守ってくれていたという。話しかけてきた男は、彼女と店員の間に意思疎通ができてしまったことに気付くと、すぐに友だちのいる自分の席に戻った。

スタバの店員たちには、”Good job!" と言ってあげたくなるニュースである。Brandy さんの Facebook への投稿には店員への感謝の言葉がハートマーク付きで述べられ、すごい数の「いいね」とコメントが付いている。(下の画像は HUFFPOST から拝借したものだが、今は閲覧できないようだ)

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ちなみにちょっと余計な話だが、この投稿のハートマークはライトグリーンになっている。ピンクや赤のハートマークって、やたらに使わないのが国際標準みたいなのだね。

 

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2022年2月21日

日本酒のイメージの変遷

昨日、日本の酒器(「銚子」と「徳利」)について書いた勢いのせいか、今日は "日本盛と BEAMS JAPAN によるコラボロジェクト「にほんしゅき」の第 2弾アイテムが登場!" というニュースに目が止まった。

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日本盛と BEAMS JAPAN がコラボするというのだが、「イラストレーター・白根ゆたんぽさんによる描き下ろしの女の子」をモチーフにしているんだそうだ。日本酒のイメージも、ずいぶん変わったものである。

それにしても、この記事の「コラボロジェクト」というのは、「コラボレーション」と「プロジェクト」を組み合わせた造語なのかなあ。ただ、そのあたりの説明が記事中に一言もないし語感も決して良くないので、「プ」の字が抜けたチョンボなんじゃないかと心配になってしまう。

酒といえば、私はこれまでにも何度か触れているが、昔はほとんど毎日飲んでいた。このブログも飲みながら書くことが多かったほどである。

それが、最近はほとんど飲まなくなってしまった。決して禁酒したわけじゃなく、その気になればいつでも飲めるのだが、なかなか「その気」にならない。だから四合瓶が半年以上もったりしてしまう。

昨日の記事についた ハマッコー さんのコメントに、私は次のような返信を書いた。

いずれにしても、酒は神事などの儀式との関係が深いようです。それで、いろいろ面倒な酒器が介在するのですね。

単なる世俗の楽しみとして気軽に飲むようになったのは、鎌倉時代以後とみていいようで、それから明治になって「銚子」が「徳利」のレベルまで零落したのでしょうね。

神に供えるものだった酒が、どんどん「楽しみ」のために飲まれるようになったのは、「直来」(なおらい、ただ本来のかな表記は「なほらい」)で、神への供え物を人間が戴くという習慣によるのだろう。しまいには「直来」の方が主目的になったりもしてしまった。

1252年には鎌倉幕府が「沽酒の禁」というお触れを出して酒の売買を禁止しているが、これは酒の飲み過ぎで問題を起こす武士が増えたためとも言われている(参照)。この時代の兼好法師が、都のあちこちで酒乱の姿が見られることを『徒然草』の中で何度か嘆いているほどだ。

こんなように、鎌倉時代からどんどんと酒が世俗化し、ついに明治時代になって、神事における酒器であった「銚子」が、飲み屋の徳利をも指すようになったというわけだ。この頃、酒の上での「本音」が「建て前」をはっきりと凌駕してしまったのだろう。

日本盛と BEAMS JAPAN のコラボが、落ちかけていた日本酒のイメージを再構築してくれるようだと嬉しい。

【2月 22日 追記】

私が酒を飲まなくなったのは、10年近く前からのようだ。2013年 2月 25日の " 世の中の「酒離れ」の最先端を走る" という記事でそのあたりのことを書いている。

 

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2022年2月20日

「銚子」と「徳利」の長い旅路

いきなりなまめかしい画像で恐縮だが、今日は一昨日に取り上げた ”時代劇は間違いだらけ?~其の一~…蕎麦屋にテーブルはないし、裁きのお白洲は外ではなかった!?” の続編、"時代劇は間違いだらけ?~其の二~「お銚子もう一本!」は間違い、湯屋では髪を洗わない…" を考察させてもらう。

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この記事は、時代劇に出てくる「お銚子もう一本!」というセリフは間違いと言っているわけなのだが、こう言っちゃ何だが、記述が冗漫でわかりにくい。そこでこのブログ記事で簡潔にまとめ直させていただく。(画像は元記事より援用)

まず前提として、現代では「徳利」のことを「銚子」とも言うが、江戸時代においてはこの 2つは別物だった。江戸時代なら本来は「徳利もう一本!」と言わなければならず、「お銚子もう一本」と言ったら、別のものが出てきてしまっただろう。

というわけで、酒器の歴史の話になる。太古から平安時代に至るまでは、酒を飲む時は土器(かわらけ)を使っていたが、平安時代初期から「銚子」と「堤子(ひさげ)」が登場する。

【2月21日 追記】

下の写真は月桂冠のサイトより拝借した、古い形の「銚子」(手前)と「堤子」(奥)。

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平安時代は、酒を樽から「堤子」に移し、次いで「銚子」に移していた。つまり「堤子」と「銚子」はワンセットと考えていい。

ところが江戸時代前記(16世紀)から、蓋付きの「堤子」が登場し、こちらの方を「銚子」と呼ぶようになった。「蓋付き堤子」が「本来の銚子」の役割と名前を奪った結果、面倒なプロセスが省略されたわけだ。

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「堤子」は音読みで「ていし」なので「銚子」(旧仮名で「てうし」)と一緒にしてしまいやすかったのだろう。上の金色の「銚子」は、この「蓋付き堤子」の最も新しい発展形(結婚式の三三九度用?)とみてよさそうだ。

一方「徳利」の話に移るが、本来のサイズは現代の「一合徳利」のようなものではなく、醤油や酒を貯蔵するための、1升から 3升のサイズの大きな瓶のようなものだったらしい。

そしてこれとは別の系統で、神棚に酒を供えるための「瓶子(へいし)」というものがある。下の写真の奥にある 2本がそれで(手前は水器)、現代でも神事に使われている。

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で、ややこしいことに、室町時代にはこの「瓶子」を「とくり」とも呼ぶようになった。既にある大きな瓶と同じ呼び方なので、ややこしいが仕方がない。で、この「瓶子」が「とくり」と呼び慣わされるうちに、江戸時代には下の写真のような、いわゆる「一合徳利」に変化していたようなのである。

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で、この「一合徳利」と「銚子」が、「酒を注ぐ」という用途が同じということで、明治以後になって初めて混同され、「徳利」を「銚子」とも呼ぶようになったというのだから、思えば長い旅路である。というわけで、酒場での「お銚子もう一本!」という言い方は、明治以後でなければあり得ないってわけだ。

元記事は「ちろり」というものにも言及しているが、煩雑になるのでここでは省く。それにしても、「元記事はなんでこんなにわかりにくいんだろう?」と思い、改めて読み返してみたところ、1ページ目の次の記述がガンなのだとわかった。

ではなぜ銚子を徳利と呼ぶようになってしまったのでしょうか。
酒器の変遷をたどりましょう。

これ、話が逆だよね。そもそもこの記事は、「江戸時代に『徳利」と称していたものを、明治以後に『銚子』とも呼ぶようになってしまった」という流れの解説が主眼なのに、途中にこんな記述があるせいで一度に混乱してしまう。まったく、話の筋道をひっくり返さないでもらいたいものだ。

そして元記事は、髪は風呂屋ではなく庭先のたらいで洗っていたという話に続くのだが、もう疲れたので、これでおしまい。

 

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2022年2月19日

私の 3回目はモデルナなんだそうだが

今月 3日の記事にも書いたように自治体からコロナ・ワクチン接種の通知が届いていて、私は 3月 3日に 3度目の接種を受けることになった。図らずも 3並びで、めでたいことである。

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このほど初めて知ったことなのだが、3回目以降の接種を「ブースター接種」と言うらしい。私としてはエレクトリック・ギターの音や歪みを増幅させる機器を「ブースター」ということには馴染んでいるが、ワクチンの効果を増幅させるのも「ブースター」なのだね。

で、これも既に今月 3日の記事に書いたのだが、私の 過去 2回の接種はファイザー製のワクチンで、3回目はモデルナ製になるのだという。私としては「別にどっちでもいいわ」と思ってきたが、世の中にはワクチンのブランド(と言っていいのかな?)が変わるのをことさら気にする人がいるらしい。

その手の人って「俺はホンダのクルマに決めてる」とか「資生堂よりカネボウがいいわ」とかいう人と共通しているような気がするのだが、まあ、これは余談としておこう。

この関連で NHK が昨日。「ワクチン交互接種 有効性と副反応のデータ 国の研究班が初公表」というニュースを流していたらしい。ちなみに別のメーカーのワクチンを接種することを、「交互接種」と呼び慣わすというのは、このニュースで初めて知った。

これまで 3回のワクチン接種を受けた人のデータを見ると、2回目までがファイザーで 3回目がモデルナだったという人は、抗体の値が 67.9倍に上昇してるんだそうだ。3回ともファイザーだった人の場合の 54.1倍に比べると、単純に言えば「効き目がいい」ってことになるようだ。

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「だったら、いいじゃん」で済ませようと思ったのだが、ニュースにはさらに続きがあった。副反応に関するデータである。「38度以上の発熱」「けん怠感」「頭痛」の 3項目を見ると、3項目ともに 3回目はモデルナというケースで発生頻度が高いということになっている。

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とくに「38度以上の発熱」に関しては、3回ともファイザーだったというケースの 2倍以上の発生頻度になってるじゃないか。しかも、ほぼ半数の人が経験している。

つまり、「よく効くけど、副反応もキツい」という二律背反的なことになるようなのである。「けん怠感」が 8割近いというのは、かなり「気のせい要因」が大きいとも想像されるのだが。

個人的には過去 2回の接種でも副反応が出たという気はしていないから、とりあえず今度も大丈夫のつもりではいる。熱に関しては、ここ 20年以上(あるいはもしかして 30年以上かな?)も高熱を出したことがないので、それってどんな感覚かということさえ、とんと忘れてしまっているし。

だから多少の熱が出たとしても、測りさえしなければ「あれ、なんだろう?」程度で済んでしまうかも知れない。まあ、この類いのことでは騒ぎ立てるだけ面倒だから、呑気にやり過ごすことにしよう。

 

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2022年2月18日

江戸の昔の蕎麦屋に、椅子とテーブルなんてなかった

Japaaan のサイトに、"時代劇は間違いだらけ?~其の二~「お銚子もう一本!」は間違い、湯屋では髪を洗わない…" という昨日付の記事がある。「面白い!」と思ったのだが、実はこれ、「其の二」とあるだけにシリーズ第二弾であるらしい。

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リンクを辿って、"時代劇は間違いだらけ?~其の一~…蕎麦屋にテーブルはないし、裁きのお白洲は外ではなかった!?" (昨年 11月 30日付)というのを見つけた。遅まきながら、まずはこちらの方を取り上げさせていただく。何事にも順序というのがあるので。

時代劇では、蕎麦屋で酒を酌み交わしながら蕎麦をすする場面が出てきたりするが、大抵は現代の蕎麦屋と同じスタイルの「椅子とテーブル」式である。ところがこの記事によると、次のようなことになる。

しかーし、テーブルとイスというものは、西洋から入ってきたものです。撮影ではいかにも日本的な色や素材を使っているので違和感なく見ることができてしまいますが、近代の日本まで無かったものです。

実際は上の浮世絵にあるように、大きな床几に座り、同じ床几の上に盆に載せて置かれた蕎麦をたぐっていたもののようなのである。蕎麦だけに「すぐそば」に置かれている。

こうしてみると、今でも蕎麦をたぐる時には蕎麦猪口を手に持つというスタイルになっている所以がわかる。そうしないと、昔だったら床几に這いつくばって食べなければならないからね。ただ、頭の上まで箸を持ち上げている上の絵は、かなり誇張されているものと思うが。

今の世の中では蕎麦猪口を手に持たず、テーブルに置いたまま覆いかぶさるような前屈みの姿勢で蕎麦をすするという、無粋なスタイル(これを称して「犬食い」という)が増えてきてしまった。こんな風になったのは、椅子とテーブル式が普及したせいだったのか。

いずれにしても、蕎麦猪口を手に持ってすするのが粋ということに変わりはないので、そのあたりどうぞよろしく。

もう一つの「意外な事実」は、「お白州は外ではなかった」というもの。確かに文中にあるように、外だったら雨の日にはやりにくくてしょうがないだろう。

下の写真は、昨年 3月に奥飛騨に行った時に訪れた国指定史跡「高山陣屋」(江戸時代の陣屋を保存した施設)で、実際に自分で写したお白州。写真をクリックすると拡大されて、案内看板に「御白州(吟味所)」と書かれているのがわかる。論より証拠で、本当に屋根の下だったのだ。

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本来は屋内だったお白州が、時代劇では屋外ということになってしまったのは、「撮影で屋内照明を準備するのが大変だから」という理由らしい。なるほど、下手に史実に即して上の写真のようなセットを造ってしまったら、照明が邪魔になって撮影アングルが極端に限られてしまうものね。

こうして見ると、時代劇ってかなり自由自在に作られているとわかる。

ちなみに余談だが、上の写真にある拷問道具は威圧のために置かれていたもので、実際にはほとんど使われなかったようだ(参照)。それを知って、なぜかホッとしてしまったよ。

 

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2022年2月17日

「日本語上手ですね」と「英語上手ですね」

文春オンラインに、韓国出身・大阪府在住のラッパー Moment Joon 氏の著書『日本移民日記』(岩波書店)よりの抜粋記事が載っている。初回は【 「日本はどれぐらいですか?」「日本語上手ですね」…日本で生活する “外国人” が  “善意の言葉” をかけられて感じる “複雑な気持ち” の正体】というものだ。

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彼は、日本に来た当初は「日本語上手ですね」と言われると嬉しかったが、6、7年経つと変わってきたという。大抵の場合はまず日本に何年住んでいるかを聞かれ、「7年目です」などと答えると、次に決まって「へえ、そうなんですね。日本語上手ですね」などの反応が返ってくるという。

彼はこのパターンを「アンキャニー・バレー」(uncanny valley: 「不気味の谷」現象)という言葉を使って説明している。例えばロボットの外見が人間に似ていると好感を持つが、あまりにリアルに似すぎていると「不気味さ」を感じてしまうというような現象だ。

「ネイティブ並の日本語駆使者たちは、自分たちが『日本語のアンキャニー・バレー』に入っていると感じている人が多い」と、彼は言う。日本人の多くは、日本語がテキトーに上手な外国人には好感を持つが、あまりに上手すぎると、ある種の気まずさを感じるようなのだ。

彼はさらにこう続ける。

「日本語のアンキャニー・バレー」に落ちている人々なら、「日本語上手ですね」の代わりに「◯◯さんは心が日本人だから」は少なくとも 1回は聞いたことがあるはずです。

(中略)

「◯◯さんは心が日本人」は異質なものを「われわれと同じもの」にしちゃって安心したい気持ちを表しているかもしれません。

なるほど、彼がこう感じてしまう気持ちは理解できる。というのは、私も 11年前に "「日本人より日本人らしい」って、どういうこっちゃ" という記事で、学生時代に親しかった、日本の古典文学に精通したドイツ人留学生のことについて書いたことがあるからだ。

半世紀近く前の日本社会に、日本語を(古語に至るまで)ほとんど不自由なく操る希有なドイツ人として存在していた彼は、いつも「日本人より日本人らしい」と褒められていた。これは今日の日本社会で日本語を駆使する Joon 氏の言う「心が日本人だから」以上のニュアンスだと思う。

私は当時、こうした失礼な決まり文句を絶対に使わなかった。それは、相手の大切にしているであろうネイティブなバックグラウンドを、「捨ててしまえ」と言うに等しいと思っていたからである。

実際のところ、彼も「日本人より日本人らしい」と言われる度に居心地の悪さを感じていたようで、ある時、私にこう言った。

「日本人が僕に対して『日本人より日本人らしい』というのは、心の中で『ガイジンなのに』と思ってるからだよね。日本人って、自分たちの文化が『ガイジン』には理解されるはずがないと思ってるんじゃないかなあ。自分たちは特別って思ってるよね」

外国人が「心が日本人だから」とか「日本人より日本人らしい」なんて言われたら、そんなふうに感じない方がおかしい。ただ、その感覚は多くの日本人の理解の範疇を越えているようなのである。何しろ日本人同士では「君は心が米国人だね」なんて、褒め言葉みたいに使ってるケースだってあるし。

Joon 氏は、「英語が達者な人が『あなたの心はイギリス人ですね』とか言われたという話は、今まで聞いたことがありません」と書いている。なるほど、国際語になってしまった英語は、英語を母国語としない国で生まれた人間でもかなり達者に操ることぐらい、珍しいことでもなんでもないからね。

ところで私は、米国人に "You speak good English" (英語上手ですね)と褒められたことが何度かある。初めのうちは単純に嬉しがっていたが、ある時、そこには「英語の下手さでは定評のある日本人にしては」という暗黙の前提があるのかもしれないと気付いて、素直には喜べなくなってしまった。

 

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2022年2月16日

ファストフードを避ける最大の理由は「罪悪感」

Gigazine に "人々がファストフードを避ける最も大きな理由は不健康だからではなく「罪悪感」" という記事がある。なお、この記事で報じられた調査は、「ファストフード」の範囲を「ハンバーガーとフライドポテト」に絞ったものということを念頭において読み進めてもらいたい。

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この記事では、調査対象を、週に2~3回ファストフードを食べる「常連消費者」と、2週に 1回未満しか食べない「非常連消費者」に分け、その回答を分析したとしている。

ところが、常連消費者がファストフードを避ける最大の理由は「食品安全上の懸念」とわかったという記述に続く、以下の文がおかしすぎる。

これに対して、非常連消費者がファストフードを避ける理由には、「時間がない」「旅行中」「家に食べ物がない」「ストレスを抱えている」などといった偶発的な状況下にあることが挙がりましたが・・・(以下略)

これ、とんでもなく矛盾した表現である。「時間がない」「旅行中」「家に食べ物がない」「ストレスを抱えている」といったことは、非常連消費者が「ファストフードを避ける理由」にならないじゃないか。むしろ「仕方なくファストフードを食べてしまう理由」と言う方がしっくりくる。

あまりにもおかしすぎるので、"sience allert" というサイトにある "The Main Reason People Avoid Fast Food May Not Be Unhealthiness, Study Finds" という元記事にあたってみたところ、やはり誤訳であることがわかった。元記事の文章は以下の通り。

The first factor was their reported tendency to consume fast food in 'accidental situations' somewhat beyond their control – such as in moments of time pressure, when traveling, running out of food at home, or in times of stress. 

ざっと訳すと、「彼らが意のままにならない状況においてファストフードを食べてしまう主な理由は、時間的プレッシャー、旅行中、家に食べ物がなくなった、時間ストレスなどだ」ということになる。ほぅら、やっぱり完全に誤訳だよね。

こんなふうに意味が反対になってしまうまでの誤訳が文中に現れると、話が混乱してしまい、その先まで読み進む気がしなくなってしまう。本当に気をつけてもらいたい。

ここでようやく本題に戻るが、非常連消費者がファストフードを避ける最大の理由は、ファストフードを食べることに「罪悪感」を覚えてしまうことと、避けることによって「達成感」が得られることのようだというのである。うむ、これ、何となくわかる気がする。

私自身、肉食を全面的に止めるずっと前からハンバーガーは避けてきたが、仕方なく食べてしまったりすると、自分自身の「食」に関するポリシーに反してしまったことによる「罪の意識」みたいなものを感じていた。そして食べずに切り抜けると、「やったね!」なんて思っていたものである。

「食」の志向というのは、論理的というより観念的な要素の方が大きいようなのだね。

 

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2022年2月15日

今年 2月前半の寒さを「和歌ログ」で検証

今年の 2月前半は寒い。本当に寒い。下の写真は私のもう一つのブログ「和歌ログ」の 2月 11日付(参照)のものだが、裏の土手が雪で真っ白に染まっている。

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「和歌ログ」では、詠む歌のほぼ 8割以上を「春の歌」「夏の歌」「秋の歌」「冬の歌」と、季節ごとに分けている。8割以上というのは、残る 2割近くを「旅の歌」とか「街の歌」、「徒然の歌」などとすることがあるからだ。

で、例年は 立春を境に、それまでの「冬の歌」から「春の歌」に切り替わることが多いのだが、今年は昨日の 14日になってようやく「春の歌」とした(参照)。それまでは寒風が吹いて寒々しく、到底「春の歌」なんてことで詠む気になれなかったからである。

私が和歌ログを始めたのは  2003年の 12月だが、季節ごとに分け始めたのは 2004年の 6月からである。そこで翌 2005年以後の 2月の歌をすべて調べてみた。

まず、最近の 5年間(2017年から昨年まで)では、2017年、2018年、2019年、2021年は 2月 4日を境に「春の歌」としている。残る 2020年は、2月 4日に一度は「春の歌」として詠んでいるが、翌 5日に「冬の歌」に戻り、その翌日の 6日から再び「春の歌」になっている。

さらに 2005年から今年までの 17年間トータルでは、ほぼ 7割の 12回は 2月 4日が「春の歌」となっていた(2020年を含む)。ちなみに 2014年の 2月 4日は雪だったが、それほどの寒さではなかったので「春の雪」ということにしてしまったようだ(参照)。

17年間のうち、2月 4日に切り替わらななかったのは 5回のみで、切り替わった日付は以下の通り。

2015年: 2月 6日
2013年: 2月 7日
2010年: 2月 17日
2006年: 2月 8日
2005年: 2月 9日

こうしてみると、12年前の 2010年 2月半ばまでは厳冬の様相だったようだ(参照)。寅年って、寒くなるのかしらん。

2005年は 2月 9日と遅くなったように見えるが、この年の 2月初旬、私は珍しく風邪気味だったようだ。そして 5、6日が「徒然の歌」、7日が「旅の歌」(風邪を押して岐阜に出張している)、8日が「街の歌」となっているので、変わり目としては曖昧になってしまっている(参照)。

いずれにしても、これまでは立春を境にかなり意識的に  2月 4日以後を「春の歌」とする傾向が強かったとはいえ、実際にもそれをきっかけに、まずまず春を感じさせる陽気に変わっていたようなのである。

ということは私の実感としては、今年は春の来るのが例年より 10日ほど遅いということだ。天気予報によれば、来週までは寒い日が多く、再来週になってから急に暖かくなるという。ということは、2月下旬になって初めて胸を張って名実ともに「春」と言えることになるようなのだ。

今年は日本海側でも大雪だったし、ここ、つくばの地でも 12年ぶりの厳冬と言っていいのだろう。

 

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2022年2月14日

「同定」・・・名前を知ることの大切さ

ペレ出版の本に『図鑑を見ても名前がわからないのはなぜか?』というのがあり、著者の須黒達巳氏が出版元のサイトでその解説を書かれている(参照)。これがなかなかおもしろい。

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生きものの種を確定させることを、専門用語で「同定」というのだそうだ。ところがこの「同定」というのはなかなか難しい。図鑑とにらめっこしても、似たようなのが多くてなかなか特定に、いや、同定に至らない。

著者の須黒氏は、「勤務先の敷地内で昆虫とクモ800種以上を同定してきた、同定大好き」な人だそうで、そうした自分をこんな風に表現している。

これはもう、ある種病的なほどに「とにかくこいつの名前を知りたい」という衝動が湧いてきます。まさに「君の名は。」です。

そしてこの本は、「なぜうまく同定できないのか」「どういうプロセスで同定ができるようになるのか」を真剣に考えて書かれたものということである。

この「同定」ということに関しては、私ももう一つのブログ「和歌ログ」で、裏の川にやってくる水鳥たちを歌に詠み込みたくて、鳥類図鑑で名前を調べたりするのだが、なかなか難しく感じている。例えば「カモ」と一口に言っても、カルガモ、マガモ、コガモ、ヨシガモなど、細かく言えばキリがない。

しっかりと同定できれば、自分の読んだ歌に責任も持てるし、愛着も湧く。しかし、「多分、マガモなんだろうなあ」程度だと、「間違ってても、責めないでね」みたいに、ちょっとおずおずと詠んでしまうことになり、確信的になれないのだ。

これ、生き物の名前だけとも限らない。須黒氏が「名を知らぬものは、視界に入っても『景色の一部』として処理されます」と書かれているように、自分の周囲と意識的な繋がりがもてないのである。

旅をしている時でも、間近に見える山の名前がわかればその土地との結びつきが強まるが、「単なる山」と思っている限りは、通り過ぎれば終わりである。今どきは故郷の山々の名前さえおぼつかない人が少なくないようだが、それってかなり残念なことだと思う。

自分の生まれた土地との結びつきが希薄というのは、人生そのものも薄くなってしまうような気がするしてしまう。そんなわけで、生物だけでなく、いろいろなものの「名前を知る」ということは、対象に自覚的にアプローチする重要な一歩なのだね。

例えば自動車マニアは内外の車種にやたら詳しいし、グルメ同士の会話には私の知らない食い物の名前(ほとんどがカタカナ)がぞろぞろ出てくる。私はこの 2つの分野はからきしダメなので、「すげえなあ」と思うほかないのだが。

 

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2022年2月13日

"What is this place?" という映画のセリフ

「小太郎ぶろぐ」というブログに"「ここは一体なんなんだ?」という、映画お決まりなセリフだけを集めたマッシュアップ" という記事があるので行ってみたところ、下の YouTube 動画が紹介されていた。

何と言っても、ダイアナ・ロスの "Do You Know Where You're Going To" (自分がどこに行くのか知ってる?)で始まるというのが洒落ている。そしてこの後に、数え切れないほどの ”What is this place?" (ここは一体何なんだ?)が紹介されるというわけだ。

とにかく、約 1分半にわたって数々の映画の ”What is this place?" というセリフが次々に続く。同じセリフでも、それぞれの映画と場面によってずいぶん違うニュアンスになるものだと関心する。

ちなみに ”What is this place?" と ”Where is this place?" (ここはどこなんだ?)の違いというのが、ネット上の複数のページで紹介されている。この 2つの質問文の違いが最も解りやすく説明されているのは、"what is this place?" Vs "where is this place?" というページだと思う。

これ、英語のページなのだが、こんな風に説明されている。

The question What is this place? will get answers like "It's a supermarket", "It's a temple", etc.
The question Where is this place? will get answers like "It's the Bullring shopping-centre in Birmingham", "It's the Church of St Giles in Winchester", etc.

So you can ask either question, depending on what (or how much detail) you want to know.

What is this place? (ここは何なんだ?)という質問への答えは、「スーパーマーケットです」「寺院です」など。
Where is this place? (ここはどこなんだ?)への答えは、「バーミンガムのブルリング・ショッピング・センターです」「ウィンチェスターのセントジャイルス教会です」など。

何を(あるいはどの程度詳しく)知りたいかによって、どちらの質問もできます。

なるほどね。とても実際的でわかりやすい解答だ。

 

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2022年2月12日

"Anime" (アニメ)は英語にもなっているようだ

note というサイトに "「ジャパニメーション」とは何だったのか? その起源と終焉" という記事があって、米国では 1980年代に日本のアニメを ”Japanimation" と呼んでいたが、現在はほとんど ”anime" という言葉に置き換わっていると伝えている。"Anime" は米国でも通じるようなのだ。

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「本当かいな?」と思ってググってみたところ、"anime" というキーワードでは日本のサイトばかりが上位に検索されるものの、キーワードを "anime movies" に変えてみると、結構多くの米国発のページが見つかる。上の "Top 16 Upcoming Anime Movies in 2022" というのもその一つだ。

もっとも、米国における  "anime" は、アニメーション全般を指す言葉ではない。上述の記事の筆者、数土直志氏は次のように伝えている。

日本で使われる「アニメ」はアニメーション全体の略語で、ディズニーやヨーロッパの作品も含みます。しかし英語で「Animation」を略すると「Anime」でなく「Anima=アニマ」です。ここからも「アニメ(Anime)」が、米国人にとって造語であることはわかります。

この段階で「アニメ」には
日本=アニメーション全体を示す略語
米国=アニメーション全体から日本アニメを区別して使用する名称
との差異が生まれます。

私なんかは、アニメは英語で ”cartoon" というものと思っていたが、改めて調べてみると、この言葉には子どもっぽいイメージが付きまとうようだ。”Cartoon” をキーワードとして画像検索すると下の画像みたいなことになってしまうので、ちょっと違う。

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というわけで、サブカルチャーとしての「日本アニメ」には差別化された名称が必要だったようなのだね。それで「日本では『アニメ』と呼んでるみたいだ」という情報が伝わって、そのまま ”anime" と呼ぶのがクールに思われたんだろう。

それにしても 1980年代から(一説には 70年代からともされる)今日に至るまで、40年以上も継続して米国に注目されているというのだから、単なる一過性のブームというわけにはいかず、日本のサブカルチャーもなかなか捨てたもんじゃない。私としてもジブリものなんかは評価してるし。

ただ、”anime" という単語を「アニメ」と発音することは、米国人には難しいはずだ。Weblio で調べてみたところ、「アニメイ」という発音になっている(参照)ようだが、聞きようによっては「エヌメイ」とも聞こえ、実際にはそう言った方が通じやすいかもしれない(参照)。

そしていわゆる「アニメ・オタク」のことは "anime buff" というらしく、この名前の Facebook ページまである(参照)。

 

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2022年2月11日

北京オリンピックへの反感

北京オリンピックの視聴率がかなり低いらしい。SAKISIRU というニュース・サイトが "北京冬季オリンピック中継、「テレビ史上最低」視聴率が海外メディアで話題に" というタイトルで取り上げられている。

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日本での開会式の視聴率は「21・3%(ビデオリサーチ、関東地区)と、4年前の平昌オリンピックより 10ポイント近くもダウンした」とある。ちなみに私は「4年前の平昌オリンピック」にしてもあまり注目していなかったばかりでなく、ほとんど記憶にも残っていないほどだ。

「平昌」を「ピョンチャン」と読むことすら知らなかったほどで、申し訳ないことにしばらくの間、「平壌」(ピョンヤン)との区別も曖昧だった(参照)。どうやら、「オリンピックそのもの」への興味がなくなってしまったようなのである。

冒頭で紹介した記事も、サブタイトルに "地上波放送の限界、商業五輪の「曲がり角」指摘も" とあり、オリンピックが昔のような「夢」とか「ロマン」を感じさせるものではなくなったのだろう。ただでさえオリンピックへの興味が失せていることに加えて、開催地が北京というのだからなおさらだ。

このあたりのことについて SAKISIRU は、次のように辛辣に報じている。

懸案の人権問題でも IOC のバッハ会長自らテニス選手の彭帥さんと仲良く観戦し、中国政府の宣伝に加担する「茶番劇」が繰り広げられるようでは、コロナ禍の厳寒を過ごす日本の人々の気持ちをかつてないほど冷え込ませるばかりだ。

この件について SAKISIRU はさらに "五輪は中国に乗っ取られている? IOC広報部長「彭帥さん問題について我々は判断できない」" という別記事で、この茶番性を詳しく報じている。

私としても、中国に乗っ取られ気味のオリンピックに結構反感を持ってしまっていて、「そんなもん、見るもんか」と思っている。まさにオリンピックは「曲がり角」を越えてしまったんじゃなかろうか。

ちなみにネット界隈では、"「北京」は「ベイジン」と読むべきで、「ペキン」なんて言っても、世界のどこでも通じない" というような話が盛り上がっている(参照)。しかし「ペキン」では世界のどこでも通じないというのは言い過ぎだ。

それは 1963年のハリウッド映画『北京の 55日』の原題が ”55 Days At Peking” であることを持ち出すだけで十分だろう。米国の Baby Boomers たちには "Peking" で十分通じるはずだ。

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それについては、2019年 6月 10日付の「北京がベイジンであることと、東京がトンジンであること」という記事で触れているので

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2022年2月10日

博多ラーメンの「臭み」の正体とは?

みんなの経済新聞」というサイトがあり、日本各地の経済情報を伝えていて、なかなかおもしろい。始まりはあの「シブヤ経済新聞」であるらしい。

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このネットワークの中の「高田馬場経済新聞」が、今年 1月 18日付で ”「博多ラーメンはなぜ臭いのか」 高田馬場のラーメン店主が追求、スープから枯草菌” というニュースを伝えている。ちなみに「枯草菌」の読み方は「かれくさきん」ではなく「こそうきん」であると、 Wikipedia で確認した(参照)。

私は 2018年 8月 24日から 26日まで、二泊三日で佐賀と博多に出張したが、その際に「 博多の繁華街に漂う生臭さの正体」(26日付)という記事の中で次のように書いている。

佐賀の街を歩いていた時から、何となく生臭いというか、もっとひどい形容をしてしまえば「ウンコ臭い」というか、あまりいい感じではない臭いがすると思っていたのだが、博多に移動して、その臭いの元がはっきりと特定できた。九州のラーメンは博多ラーメンを筆頭に「豚骨スープ」が多いため、ラーメン屋からその独特の臭いが漂っているのである。

この時はラーメン屋の「豚骨スープ」が臭いの元としているのだが、さらにその元を辿ると「豚骨そのもの」というわけではないようなのだ。「高田馬場経済新聞」は、そのあたりのことに詳しく触れている。

記事によれば、スープに「豚の頭を使っているので、口に餌に含まれる枯草菌が残っていたと考えられる」というのである。餌に枯草菌が含まれており、それを食べた豚の口の中に残るというのだ。なるほど、豚は歯を磨かないからね。そしてこの枯草菌こそが、あの臭いの元らしいのである。

私は 2018年の記事で「あまりいい感じではない臭い」と書いているが、世の中には「あの臭い」を出したくて苦心するラーメン屋さんも少なくないのだね。もしかして私も肉食から離れていなかったら、「臭い博多ラーメン」に惹かれていたかもしれない。

ちなみに枯草菌というのは、納豆菌とも共通する種類の細菌だという。なるほど、独特の臭みがあるわけだが、最近の納豆の臭いはかなりおとなしくなった気がする。とはいえ、納豆に慣れない外国人はそれでも驚いてしまうようだが。

 

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2022年2月 9日

悪徳業者による「屋根修理詐欺」にご注意

昨日、我が家の玄関のベルが「ピンポン!」と鳴ったので出てみると、若い兄ちゃんが立っている。「明日から向こうの道の住宅工事で、トラックが道に停まってご迷惑をおかけするかも知れませんので、ご挨拶に来ました」と、もっともらしいことを言う。

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近所でリフォーム工事をしているので、「ああ、そこの角のお宅?」と聞くと、「あ、あぁ、そうです、そうです」なんて、なんだか不自然な言い方をする。ただ、それについては 2週間も前に業者がタオル(工事店の名前入り)持参で挨拶に来てるんだがなあ。

やや不審には思ったが、細かい点でゴチャゴチャ言ってもしょうがない。「これまで通り、ちゃんと端っこに停まってくれれば何の問題もないですよ」と返事した。

ところが、話はそれで終わらない。続いてこんなことを言い出した。

「ところで、ご近所の方が言ってたんですが、お宅の屋根が壊れているみたいなので、ちゃんと点検しましょうか?」

近所の誰だか知らないが、直接我が家に言えばいいのに、どうしてこんな兄ちゃんに言うのだと不思議に思っていると、「ちょっと表に出て確認してみてください」と誘い出す。

「一体どこが壊れてるっていうのよ?」と聞くと、「あそこです。あのテッペンのところです」と指さす。ところが壊れてるようには見えないので、「全然こわれてないじゃん」と言うほかない。

「いや、素人目にはわからなくても、我々、屋根屋の目線で見るとわかるんです。それにしても、ヒドいことになってますね。一体いつからあんな状態なんですか?」

「だから、『壊れてない』って言ってるじゃないか。あんた、一体何が言いたいわけ?」

「そうですね。素人目にはわからないでしょうから、よろしければウチの専門スタッフが屋根に登って写真を撮らせていただきます。その写真をご覧になればわかりますよ。いずれにしても早めに修理される方がいいです」

ここまで来て、「こりゃ、アヤシ過ぎ」と思うほかなくなった。下手に屋根に登らせたりしたら、故意に破損させて、その写真を撮ってしまうに違いない。

「いや、そんな必要ないよ。とにかく勝手に屋根に登ったりしないでね」と言って家に戻ろうとすると、向こうはアセって「ちょっと、ちょっと、もう少し話を聞いてください!」なんて言う。

「いや、もう聞きたくないから、サヨナラ」と言って、さっさと家に戻ったのだった。そもそも「素人目にはわからない」破損を「ご近所の方が言ってた」なんて、論理が破綻しすぎてる。そんな話にこれ以上付き合ったら、ロクなことにならない。

念のため、「屋根屋 修理 詐欺」のキーワードでググってみると、上の画像をクリックすればわかるように、どっさりと関連情報がヒットした。そのどっさりある中から、とりあえず「屋根修理の詐欺に騙されるな!代表的な手口と被害を防ぐ5つの対策」というのを読むだけで十分だろう。

アポイントもなしに突然訪問して、「屋根が壊れてます」と強引に修理の契約を取り、法外な費用を請求してくるという例がくさるほどあるらしい。とにかく、頼みもしないのに「お宅の屋根が壊れてます」なんて言ってくるやつに、まともな業者はいない。

それにしても、最近は手口がさらに巧妙になってきているようだ。直接的には「近所の工事でトラックが停まってご迷惑をおかけします」なんてもっともらしい話を糸口にし、その後で「そういえば、お客さんの家の屋根に問題が・・・」なんて本題に入るようになっているのだね。

いずれにしても、こうした話にはくれぐれもご注意を。

 

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2022年2月 8日

「ピザハット」は「ピザの帽子」じゃないので

先日、郵便受けにピザハットのチラシが入っていた。私は数年前から肉食を絶っているのでピザはお呼びじゃないと思っていたが、近頃ではミート・フリーの「具だくさん緑黄色ベジピザ」というのがあるらしい。これなら、注文してみてもいい。

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ただ、今日は「ピザそのもの」の話ではない。私のことだから、相も変わらず「言葉ネタ」である。

郵便受けから取り出したチラシを見て、何気なく「ピザハットって、『ピザの帽子』と思ってる人が案外多いんだよね」(参照)と呟くと、妻が驚いて「えっ、そうじゃなかったの?」と言うのである。他ならぬ自分の妻までそう勘違いしてる一人だったと知って、こっちの方が驚いた。

「帽子じゃないよ。発音が違うし、ロゴを見れば間違えるはずないじゃん。ほら、"Hat" じゃなくて ”Hut" でしょ」

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「本当だ。でも、普通はそこまで注目しないわよ。日本人の 80%以上は多分、帽子だと思ってるよ。そもそも "hut" なんて単語、知らないし」

「”Hut" は『小屋』だよ(参照)。ドイツ語だと『ヒュッテ』(hütte)になると言えばわかるでしょ。誰でも知ってるレベルの単語なんじゃないかなあ」

「いや、そんなの普通の日本人は知らないわよ。なんなら調べてご覧なさいよ」

というわけでググってみると、 Weblio に「レベル: 4、英検: 2級以上の単語、学校レベル: 高校3年以上の水準、TOEIC L&Rスコア: 470点以上の単語、大学入試: 難関大対策レベル」(参照)なんてある。いやはや、こんな単純な単語が「難関大対策レベル」だなんて、ちっとも知らなかった。

ただ、妻だって私と同じ年にワセダの第一文学部に合格してるんだから、知ってても不思議じゃないんだがなあ。

しかし妻は委細構わず勢い込む。「そうでしょう! それにこのロゴマークを見たら、帽子以外の何ものにも見えないじゃない」

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「うぅむ、確かにこれじゃあ帽子と思ってもしかたないかもしれんなあ。しかし、本当は何の形を表してるんだろう? ピザ皿をひっくり返したところかなあ。いや、ピザ皿ってこんな形してないし、これじゃあお猪口をひっくり返した形だよね」

埒があかないのでこれもググってみると、何と「1号店である店舗の赤い屋根をイメージしたロゴ」(参照)なんだそうだ。いやはや、そんなの、改めて説明してもらわないとわからないよね。

それにしても、このロゴマークを作ったデザイナーは、やがて日本市場に進出して「帽子」と思い込まれるなんて、思いもよらなかったんだろう。この世の中に "cup/cap" "cut/cat" はちゃんと区別できるのに、"hut/hat" は区別できない人たちでできた国があるなんて、想像すらしていなかっただろうからね。

 

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2022年2月 7日

コロナと花粉症

2日連続でのオミクロン株ネタで恐縮。NHK が "花粉症 オミクロン株と症状共通 「花粉症の人は早めの受診を」" と呼びかけていて、毎年この季節になるとスギ花粉症に悩まされる身としては、まったく難儀な話になっている。

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この問題に関しては、昨年の今頃も「花粉症には難儀な季節」というタイトルで書いているのだが、またしてもこの季節が巡ってきてしまったというわけだ。あれよあれよという間に時が経つように感じられるが、これって年のせいばかりじゃないだろう。

この 2年以上、外出が控えられてまともな活動ができないので、生活にメリハリが感じられない。毎日ダラダラと同じようなリズムで過ごしてしまうので、時の経つのが無駄に早いような気がしてしまうのだ。

さらに昨今大問題になっているオミクロン株の症状が、スギ花粉症とかなり共通しているというので、ますます鬱陶しいことになっている。上の画像で紹介されている日本耳鼻咽喉科頭頸部外科学会のサイトの「新型コロナウイルス感染症流行中の花粉症対策について」というページには次のようにある。

オミクロン株に感染した場合の症状は、鼻水が73%、くしゃみが60%で、従来株に比べ嗅覚障害や発熱が少ないことが報告されています。また、オミクロン株感染の過半数で倦怠感を自覚しますが、花粉症でも半数近くの方に倦怠感の自覚症状があります。

いやはや、「鼻水、くしゃみ、倦怠感」と言ったら、私が毎年うんざりしてしまう花粉症と一緒じゃないか。幸いにと言うか何というか、今年はこの寒さのせいでまだ花粉症の症状は目立っていないが、今のうちからマスクをしっかり使って花粉対策をしないと、コロナ感染を疑われそうでコワい。

それにしても、早くオミクロン株の時期が過ぎて落ちついてもらいたいなあ。

 

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2022年2月 6日

「オミクロン株」の重症化リスクが低いというのは?

新型コロナ オミクロン株の感染者が重症化しにくいのはなぜか?」という記事がある。感染症専門医の忽那賢志氏さんが書かれたものだ。蛇足だが、このかなり難読なお名前は「くつなさとし」さんとお読みするらしい(参照)。

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世の中では「オミクロン株の特徴は、感染力は強いが、感染しても重症化しにくいこと」とされている。それで「だったら、オミクロン株なんて、単なる風邪みたいなものじゃん」とか「ワクチンなんて接種しなくても結果は同じ」とか言い出す人も現れている。

しかし、ことはそう単純なわけじゃない。忽那さんは「それぞれの流行における重症度を考える上では、主流となる変異株の病原性だけでなく、その時期の集団の免疫を考える必要があります」と指摘している。

過去の第 4波、第 5波の流行時は、ワクチン接種率がまだそれほど高くなかったため、感染者の重症化率、致死率が比較的高かった。一方、今回のオミクロン株による第 6波の状況下では、ワクチン接種率はかなり高まっている。

ただ、2度のワクチン接種から半年近く経っているケースが多いため、感染そのものを防ぐ力はかなり低下しているが、重症化を防ぐ力はまだ保たれているらしい。それでワクチン接種者も感染するケースが増えてはいるが、重症化率、致死率は格段に低くなっていると見ることができるわけだ。

なるほど、そう考えると話の辻褄が合う。つまり「感染しても重症化しにくい」というのがオミクロン株そのものの性質と単純に考えるのは、早計かもしれないということだ。その関連で、私も先月 20日付でチェコの女性のケースを紹介している(参照)。

このチェコの女性はワクチン接種を拒否していたのだが、免疫を獲得して「衛生パス」というものを取得するために、ワクチン接種済みの夫と息子が感染していたオミクロン株に故意に罹患した。そして夫と息子は軽症で済んだのに、自身は死亡してしまったというのである。

というわけで今月 3日の記事で書いたように、我が家にもワクチン追加接種の通知が届いているので、ここは素直に応じて 3度目の接種を受けようと思う。本当は注射って嫌いなんだけどね。

 

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2022年2月 5日

”February” の発音を巡る冒険

昨日が立春で、ということは既に春になっているはずなのだが、それは暦の上だけのことで実際にはまだまだ寒い。天気予報によれば来週は一段と冷え込むとのことで、2月というのは中旬を過ぎなければ本当の春にならないもののようだ。

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ところで Quora に、英語の "February" (2月)の発音に関する質問があるのを見つけた。"「b」の次に来る「r」は発音しないのが正しいと説明しているのがいくつかあります。 本当にそれが正しい英語の発音なのでしょうか?" というものだ。

これには 4件の回答がついていて、いずれも "r" の発音は入れない方が普通だとしている。ただ、入れるのが間違いというわけではなく、「どちらもあり」ということのようだ。

つまり無理にカタカナで書き表せば、「フェブラリー」ではなく「フェブアリー」(あるいは「フェビュアリー」)みたいになる方が一般的というわけだ。Merriam-Webster の ”February" の項目でも、"r" を入れない発音の方が先に示されている(参照)。

リンク先に飛ぶと、実際に音声で聞くこともできるが、かなりビミョーなので、よく聞かないと違いがわからないかもしれない。

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驚いて改めて自分で発音してみると、確かに「フェブラリー」と聞こえるような発音はしていないことに気付いた。文字表記の "February" に引きずられて "b" のあとに "r" を入れているような気がしていたが、それは「気がしていた」だけのことで、実際は無意識のうちに「フツーの」発音をしていたようだ。

試しにきちんと意識して(「きちんと」と言っていいのかどうかわからないが)"r" を入れて発音してみると、結構まどろっこしくて言いにくい。入れたようなつもりで自然に発音すると、実は入れていないということになるようなのだ。

ただこれは米国式の発音であり、英国式は "r" を入れるとの指摘もある。試しに下の 2つの動画で、1年の各月の発音を聞き比べるのもおもしろい。(上が米国式で、下が英国式)

一番特徴的なのは、"September" や ”October" の最後の ”er" の発音で、米国式は "r" を発音するので、いわゆる「巻き舌式」になる。"February" の ”b” の後の ”r” は発音しないのにね。

ちなみに私の発音はかなり米国式なんだと、再確認してしまった。これ、アメリカン・ミュージックで育った結果なんだろうと思う。

 

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2022年2月 4日

石原慎太郎に関しては、これでおしまい

ABEMA TIMES に【石原慎太郎氏の死去当日の “批判的ツイート” は “死者に鞭打つ行為” なのか…宇垣美里「多少は時間を置いたとしても、向き合わなければ」】という昨日付の記事がある。ほかでもない。1日に逝去した石原慎太郎に関するものだ。

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記事によれば、”「亡くなった当日に鞭打つな」「お悔やみの言葉が必要だ」といった声が相次いでいる” という。「すごいなあ!」と言うほかない。

私としては彼の死が報じられた時、「もう過去の人だし、とくに書く気はないわ」と思っていた。なにしろほぼ 15年前(彼の都知事時代)の 2007年 3月 7日付で「石原慎太郎は、これで終わりということで」という記事を書いているほどだから。

ただ、この時の記事では「そろそろお役目ご苦労さんの時である。次の選挙ではしっかりと落選して、縁側で猫でも撫でていてもらいたい。もう 75歳なんだから」なんて書いているのだが、実際にはそれからほぼ 5年後の 2012年 10月まで都知事の座にいたのだから、びっくりだ。

というわけで、それからはあまり彼について書く気はなくなっていたのだが、2011年 3月 11日に発生した東日本大震災の 5日後に、さすがに彼の発言にむかっときてしまって「石原都知事の「天罰」「我欲」という言いがかり」という記事を書いている。

これは震災の 3日後、報道陣に「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を 1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と発言したというニュースを受けたものだ(参照)。

今回、彼の死後に相次いで発表された批判的コメントについて「死者に鞭打つ行為」は謹むべきだなんていう雰囲気論が盛り上がったようだが、この時の当人の発言はそんなレベルじゃない。自らの行為の報いは、死んでからでも返ってくるのである。

本日付の「駅前糸脈」の記事に次のようにある(参照)が、私は全面的に同感である。

石原慎太郎のファンでも研究者でもなく平均的な知見しかないが、気質的に氏は我が儘で尊大なところがあり、親分はできても子分はできない人だったと思う。保守的と言われるが、所謂保守とは違うような気がしている。好き嫌いと格好良さで動いたように見える。

ということで、きょうのところはおしまい。本当におしまい。

 

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2022年2月 3日

ワクチン追加接種(3回目)の知らせが届いた

市からワクチン追加接種(3回目)の知らせが届いた。1回目は昨年 6月 24日で 2回目は 7月 21日だったから、もう半年以上前になるのだね。前の 2回はファイザー製のものだったようだが、今回はモデルナ社製のものになるという。

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コロナ・ワクチンは接種から半年経つと感染予防効果がかなり低下してしまうらしい。去年接種したときはそんなこととはちっとも知らされなかったが、いずれにしても 3回目の追加接種で効果が一時的に回復するとされている(参照)。

ということは、春以後にコロナの感染拡大が収まれば、かなり安心していられることになるのかもしれない。とはいえさらに感染力の強い変異株が出てきたら、また面倒くさいことにならないとも限らないが。

ただ、1月 28日付の記事で引用した、感染症が専門の矢野邦夫医師の言葉を借りれば、感染力は強まっても重症化率はオミクロン株よりも下がる可能性が高いみたいなので、夏になればマスクはしなくてもよくなるかもしれない。個人的には本当にそうなってもらいたいものだ。

本当に「第 7波」なんてものが来ないように祈るのみである。

 

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2022年2月 2日

アベノマスクは「金食い虫」

西日本新聞に本日付で「アベノマスク配送料 10億円? 廃棄なら 6千万円  政府試算」という記事がある。アベノマスクというのは、どうこうにもにもかなりの「金食い虫」のようなのだ。

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記事は次のように書かれている。

政府の新型コロナウイルス対策で約 8000万枚の大量在庫が問題になった布製「アベノマスク」について、配布希望の殺到により、配送料が 10億円に上るとの試算があることが 1日、政府関係者への取材で分かった。配布せずに全て廃棄した場合は 6000万円程度の費用で済んだとみられる。

政府関係者は「日本人的な感覚では『廃棄の方が安いから捨てよう』とはならない。ちゃんと使ってもらえれば経済効果もある」と主張しているという。しかしこんなちっちゃいマスクを「ちゃんと使う」ことによる経済効果ってどんなものなのか、具体的に説明してもらいたいものだ。

このアベノマスクというもの、我が家にも一昨年の 6月 5日に届いたが、その翌日の記事に「実際に使おうという気になれない」と書いている(参照)。当時のアンケートでも 75%以上が使わないと答えていたようだし、我が家でもあれからずっと、引き出しの奥にしまいっぱなしだ。

ずいぶん無駄なことをしたものだが、さらにまだ大量の在庫があって保管料が馬鹿にならないと報じられたのは記憶に新しい。この批判を避けるために改めて配布希望を募ったところ、2億 8000万枚の希望があったという。

これに関しては、やはり西日本新聞の 1月 29日付の記事によると、応募できるのは「介護施設等」「自治体」「個人」となっているようだ(参照)。ざっくばらんに言えば。「誰でもいいからもらってくれ」と呼びかけたわけなのだね。

世の中、「タダでもらえるモノなら何でももらっとこう」という人が多いのかとも思ったが、記事によると希望枚数が自動的に水増しされて登録されるらしいから、本当に 2億 8000万枚もの希望があったのかどうかはわからない。ただ、下手に念入りに調べたらさらに金がかかるだろうから、もういいけど。

いずれにしても結論は、「アベノマスク」の配布は「余計なお世話」だったばかりでなく、後々になるまで「金食い虫」として結構な無駄遣いにつながったということだ。

【参照記事】
「アベノマスク」という愚策をやってしまう体質(2020年 8月 26日付)
政府の愚策エビデンスとしての「アベノマスク」 (2021年 12月 22日付)

 

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2022年2月 1日

またしても「旅の虫」が騒ぐ

昨年末頃、コロナの勢いがやや落ちていたため、私も 11月(参照 12)、12月(参照)、そして今年の 1月(参照)と、久しぶりで 3ヶ月連続して西日本に出張できていた。ところが今回のオミクロン株による「第 6波」のせいで、またしても出張見合わせになってしまっている。

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私は一昨年の 6月 2日付でも書いているように、「旅に出ないとカラダがもたない」という因果な体質である。つい先月、熊本まで出かけたばかりだというのに、この先またしばらくどこにも行けないかと思うと、体の中の「旅の虫」が騒いでしまうのだ。

上のグラフは 1月 13日付の配信で、本日最終更新されたという但し書き付きの Yahoo ニュース(参照)から拝借したものだが、今回の「第 6波」は、過去のものとはケタが違う。年末の小康状態が嘘のように、とんでもない急角度で感染者数が増加している。

このグラフでこれまでの感染の波をみると、感染が急拡大し始めてから収まるまではほぼ 3ヶ月はかかるというのが見て取れる。ということは、今回の「第 6波」は 1月から始まって 3月末か 4月初め頃まで続くとみていいかもしれない。桜が散るまでは気が抜けないということだ。

ところで私は先月 28日付で、「7月以降、マスクしなくてもよくなることを期待」と書いている。テレビ静岡のニュースに登場した感染症専門の矢野邦夫医師が次のように語っていることによるものだ。

オミクロン株は重症化率が減っている。オミクロンの次にさらに感染力の強い変異株がでるかもしれないが、重症化率がもっと下がる。こういったウイルスは感染した人が軽症または無症状で出歩くことで感染者を作ることができる。

3度目のワクチン接種が進み、さらにオミクロン株の蔓延が一段落したら、安心して旅に出られるようになることを期待するほかない。あるいはその前に「旅の虫」が騒ぎすぎるようだったら、また昨年 3月のように(参照)、できるだけ人と接しない自前のクルマでの旅をするしかないかもしれないね。

人と接しないと旅の醍醐味も半減するが、その分、風土と接するという別の面白みがあったりする。

 

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