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2022年2月18日

江戸の昔の蕎麦屋に、椅子とテーブルなんてなかった

Japaaan のサイトに、"時代劇は間違いだらけ?~其の二~「お銚子もう一本!」は間違い、湯屋では髪を洗わない…" という昨日付の記事がある。「面白い!」と思ったのだが、実はこれ、「其の二」とあるだけにシリーズ第二弾であるらしい。

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リンクを辿って、"時代劇は間違いだらけ?~其の一~…蕎麦屋にテーブルはないし、裁きのお白洲は外ではなかった!?" (昨年 11月 30日付)というのを見つけた。遅まきながら、まずはこちらの方を取り上げさせていただく。何事にも順序というのがあるので。

時代劇では、蕎麦屋で酒を酌み交わしながら蕎麦をすする場面が出てきたりするが、大抵は現代の蕎麦屋と同じスタイルの「椅子とテーブル」式である。ところがこの記事によると、次のようなことになる。

しかーし、テーブルとイスというものは、西洋から入ってきたものです。撮影ではいかにも日本的な色や素材を使っているので違和感なく見ることができてしまいますが、近代の日本まで無かったものです。

実際は上の浮世絵にあるように、大きな床几に座り、同じ床几の上に盆に載せて置かれた蕎麦をたぐっていたもののようなのである。蕎麦だけに「すぐそば」に置かれている。

こうしてみると、今でも蕎麦をたぐる時には蕎麦猪口を手に持つというスタイルになっている所以がわかる。そうしないと、昔だったら床几に這いつくばって食べなければならないからね。ただ、頭の上まで箸を持ち上げている上の絵は、かなり誇張されているものと思うが。

今の世の中では蕎麦猪口を手に持たず、テーブルに置いたまま覆いかぶさるような前屈みの姿勢で蕎麦をすするという、無粋なスタイル(これを称して「犬食い」という)が増えてきてしまった。こんな風になったのは、椅子とテーブル式が普及したせいだったのか。

いずれにしても、蕎麦猪口を手に持ってすするのが粋ということに変わりはないので、そのあたりどうぞよろしく。

もう一つの「意外な事実」は、「お白州は外ではなかった」というもの。確かに文中にあるように、外だったら雨の日にはやりにくくてしょうがないだろう。

下の写真は、昨年 3月に奥飛騨に行った時に訪れた国指定史跡「高山陣屋」(江戸時代の陣屋を保存した施設)で、実際に自分で写したお白州。写真をクリックすると拡大されて、案内看板に「御白州(吟味所)」と書かれているのがわかる。論より証拠で、本当に屋根の下だったのだ。

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本来は屋内だったお白州が、時代劇では屋外ということになってしまったのは、「撮影で屋内照明を準備するのが大変だから」という理由らしい。なるほど、下手に史実に即して上の写真のようなセットを造ってしまったら、照明が邪魔になって撮影アングルが極端に限られてしまうものね。

こうして見ると、時代劇ってかなり自由自在に作られているとわかる。

ちなみに余談だが、上の写真にある拷問道具は威圧のために置かれていたもので、実際にはほとんど使われなかったようだ(参照)。それを知って、なぜかホッとしてしまったよ。

 

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文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

いわゆる「時代劇」の型が出来上がったのは,幕末期から60年くらいたった大正から昭和初期の映画産業勃興の時期だったようです。
当時は旧幕時代の記憶が残っている人もまだいたわけですが,実際に時代劇の制作にあたっていた人たちのみならず,見ている方もほとんどはそんな時代の記憶のない世代だったはずです。

同じようなことは高度成長期の始まりから60年ほどたった現代にも言えることで,昭和の戦前・戦中,そして戦後でも高度成長期より以前の時代を扱ったドラマ(これも今や「時代劇」の範疇かも知れません)などを,その時代の記憶がある世代が見ると「なんだかおかしいな」とか,「当時はそんなことあるわけないよ」というようなことが結構あるのだろうと思います。

たとえば私が個人的に気になるのは,そんな時代を舞台にしたドラマの中で,当時の人たちがよほど時間のかかりそうな距離を簡単に移動したり,電話を手軽に利用しているように見える場合です。
交通機関や電話の普及の度合い,つまり当時の距離感や情報伝達手段の状況からして,ちょっとどうなの?…と思ってしまうことがあります。

投稿: nomibitoshirazu | 2022年2月19日 15:29

nomibitoshirazu さん:

おっしゃる通り、1964年の東京オリンピック以前は、今や「時代劇」の部類なのかもしれませんね。

我が家に電話というものが入ったのは、1966年頃で、私は中学生になっていました。初めて電話に出た時はちょっと緊張しましたよ (^o^)

家に 1台の電話ですから、ガールフレンドと長電話すると怒られました。

そして、羽越線(新潟〜秋田)が電化されたのは 1970年代初めのことだったと思います。それまでは蒸気機関車とディーゼル機関車(「気動車」と言ってました)の世界でしたね。

上京するには、朝早く家を出て夕方頃に上野に着いてましたから、ほぼ一日がかりという感覚でした。

絵に描いたような「隔世の感」です。

投稿: tak | 2022年2月19日 16:08

そういえば随分前(まだ昭和のころでした),テレビで見た時代劇の中で,麻布で会った知り合いに「今夜は遅いから俺のところに泊まっていきねえ」と言うセリフがあったのですが,そう言っている人物の住まいが浅草という設定だった…という記憶があります。

落語の「富久」も顔負けです。

投稿: nomibitoshirazu | 2022年2月19日 18:23

nomibitoshirazu さん:

知り合ったのがせいぜい神田あたりだったら、「富久」程度で済んだのに (^o^)

でも、相手の家が千住あたりだったら、大して変わりませんね。

投稿: tak | 2022年2月19日 22:10

電話が一家に1台の時代になる前は 数軒で共用していて 電話番号を
電話(呼)123-4567
なんて書いていた時代もありましたね。

投稿: Sam.Y | 2022年2月25日 14:58

Sam.Y さん:

電話が一家に一台どころか、各人が持つようになったなんて、ちょっと前から見ても夢みたいな話ですね。

私の実家に電話が入ったのは、1965〜6年頃だったと思います。さらに 71年に上京してからアパートの部屋に電話が入ったのは、妻と暮らし始めた 75年頃だったかな。

それまでは、公衆電話を使ってました。実家に電話するときなんかは、十円玉をジャラジャラ用意してましたね (^o^)

投稿: tak | 2022年2月25日 15:40

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