日本文化、「無理心中」までは美化してないがなあ
Sirabee に 【デーブ・スペクター、市川猿之助の事件で ”心中” 文化に苦言 「美化してきた」】という記事がある。ただ、タイトルには「”心中” 文化に苦言」とあるが、実際には "無理心中" について語っている。この混乱が、記事を最後までわかりにくくしている。
記事中の文言としては、次のようなことになっている。
するとデーブは、「ずっと反省しなければならないのは、文学や文化的に(日本に)無理心中を美化してきたのがあった」と割って入るようにコメント。
この言い方、かなり危険であると言うほかない。日本には確かに「心中」を美化する文化があったし、そもそも今回のニュースは、歌舞伎という「心中」を美化しまくってきた世界でのできごとである。
歌舞伎には「心中物」というジャンルがあるほどで、代表作は『曽根崎心中』、『心中天網島』といった近松物。これ以外でも歌舞伎の世界では、悲恋のカップルというのは大抵心中するお約束になっていると言っていいぐらいである。
ただし、美化されてきた「心中」というのは、この世で添い遂げられない男女が「死んであの世で・・・」という思いで、身も蓋もない言い方をすれば「合意の上で」一緒に自殺または嘱託殺人することである。無理心中(合意のない心中)が美化されているというのは、ちょっと話が違う。
その意味ではデーブ・スペクターの言い方は誤りで、中途半端な日本理解(あるいは日本語理解)に基づいたものと言っていい。さらにこの記事そのものが稚拙で、理解不足を感じさせる文章となっている。例えば、上述の部分に続く以下のくだりだ。
日本における心中の文化的位置付けを指摘すると、「今はやってないにしても、未だに温情刑を前提にして、無理心中のことを…弁護側がそれを使うのではないでしょうか?」と、裁判になった場合は情状酌量の材料に用いるのではと予想した。
まず、デーブ・スペクターのコメント引用の部分、文章として最悪だ。「今はやっていないにしても、未だに温情刑を前提にして・・・」というのは論理的にメチャクチャで、とくに「未だに・・・」という表記は、してはならない誤りである。
そしてせっかくコメント内容を補った文の末尾での「予想した」というのは、私がときどき批判的に取り上げる稚拙極まりない表現だ(参照)。
それに続く以下の文章は、論理の混乱をさらに如実に物語っている。デーブもライターも、「無理心中」と「心中」の区別が付いていないのだと判断するほかない。
デーブが「無理心中で、量刑が短くなるってのをよく聞きますけど」とさらに質問すると、細野氏は「自殺の幇助だとしても、執行猶予つくってのはそうですね」と法定刑が軽いことを認めている。
そもそも「無理心中」は「一緒に死ぬ」という合意がないのだから「自殺の幇助」というのもあり得ず、あるとしたら「殺人」である。端的に言えば、「無理心中」なら「殺人罪」で、いわゆる「心中」なら「自殺幇助罪」か「同意殺人罪」になる。
要するに「心中」と「無理心中」をきちんと区別せずに、徹頭徹尾一緒くたに語っているのが、この記事の混乱の源だ。
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