『猫じゃ猫じゃ』を巡る冒険
漱石の『吾輩は猫である』を完読したのは、小学校 6年生の時だった。昼休みに毎日図書室に通い、長編だけにかれこれ 1ヶ月ぐらいかかって読み終えた。最後の場面は猫が水瓶に落ちて死ぬのだが、その描写が猫なりにかなり哲学的なもので(参照)、私の死生観にかなりの影響を与えてくれたと思う。
ただ、今日は何も「死の哲学」を語ろうというわけじゃない。テーマは『猫じゃ猫じゃ』である。漱石の「猫」が最後に水瓶に落ちて死ぬのは猫のくせにビールを飲んで酔っ払ったからなのだが、その酔っ払った感覚の描写は以下のようなものだ。
次第にからだが暖かになる。眼のふちがぼうっとする。耳がほてる。歌が歌いたくなる。猫じゃ猫じゃが踊り度くなる。主人も迷亭も独仙も糞を食らえと云う気になる。
私はこの『猫じゃ猫じゃ』というのが妙に気になってしまったのである。この時から 6年足らずしてワセダの第一文学部演劇学科なんてところに入り、歌舞伎をテーマにした卒論と修士論文を書くことになるだけに、12歳の子どもらしくもないものに興味津々になっちゃったのだね。
大人に聞いても「子どもがそんなもの知らなくていい」と言われるのが関の山だから、自分でいろいろ調べたところ、江戸時代末期からの俗曲とわかった。寄席の「出囃子」にも使われるというのだが、ラジオの寄席番組を聴いても、どれがそうなのかさっぱりわからない。
今なら下の動画などで、いつでも簡単に確認できるのに。(落語ファンなら聞き覚えあるでしょ)
それだけでなく、漱石の「猫」が酔っ払って踊りたくなったという踊りだって手軽に見ることができる。今の子たちは本当に幸せなものである。
これは市丸のオーケストラ付きバージョンで踊られているのだが、上の土谷利行のバージョンと比べると、良くも悪しくもずいぶん洗練されてしまっている。歌詞まで変わって、「杖付いて」という部分がカットされているし。
洗練といえば、石川さゆりのバージョンまで来るとちょっとスゴい。ここまでくれば、もはや俗曲とも言えなくなってしまう。
最後に、『猫じゃ猫じゃ』というタイトルの元になった 1番の歌詞に触れておく。
猫じゃ猫じゃとおっしゃいますが
猫が、猫が下駄はいて絞りの浴衣で来るものか
オッチョコチョイノチョイ
これ、旦那の囲っている妾に他の男ができてしまい、ちょうど旦那が来たときにその間男を隠した場面というココロである。
妾は「今の物音は、猫が逃げてったのよ」と言い訳するが、目の前に男の下駄と浴衣が残っているのでバレバレだ。最後の「オッチョコチョイノチョイ」が何度か繰り返されるので、これ、別名「オッチョコチョイ節」とも呼ばれる。
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コメント
猫じゃ猫じゃの元を知り、良い勉強になりました。
ありがとうございました。
雀と竹の関係性については、給付と社会保険増なりの…。
竹が、なんかちょっと「定額減税」言うてるけど、「恩恵を感じてね!」って言葉すら、当方の生活を脅かしやがる…。
投稿: 乙痴庵 | 2024年5月23日 02:18
乙痴庵 さん:
定額減税については、「何か言ってるみたいだなあ・・・」程度の認識です。何しろ、今でも多少の仕事はしていますが、収入は昔の半分以下なので、所得税も微々たるものですのでね (^o^)
投稿: tak | 2024年5月23日 08:26