席を譲るって、どんな種類の「恥ずかしさ」なのか?
今月 11日に "席を譲るのを「恥ずかしがる」という妙な免罪符 " という記事を書いた。この国では電車で老人に席を譲りたくても「恥ずかしい」という意識に甘えて実行に移さないことが多いと聞くのだが、私の感覚としては譲らない方がずっと「恥ずかしい」と思うという話である。
この記事を書いて 2〜3日経ち、「そうか、この 2つの『恥ずかしい』は、実は異なった意識なのだ」と気付いた。日本語では同じ「恥ずかしい」という言葉を使うのが、「周囲に対して恥ずかしい」と「良心に対して恥ずかしい」では、実はまったく別の話なのだ。
この違いを明確にするには、別の言葉で考えるといい。ここでは試しに英語でやってみよう。「英会話ハイウェイ」というサイトの "「恥ずかしい」は英語で? ネイティブが納得する正しい言い方 5選" という記事が参考になる。必要部分だけかいつまんで紹介すると、ざっとこんな感じだ。
- 人として恥ずかしいは "ashamed"
道徳的や社会的に悪いと考えられていることをして罪悪感を覚えるようなときや、見た目を恥じるときの「恥ずかしい」
I felt ashamed of myself for getting so angry in front of children.
(子供たちの前でそんなに怒ったことを私は恥ずかしく思いました)
- 恥を知れ! の恥は "shame"
Shame on you! - 恥ずかしがり屋は "shy"
I was too shy to talk to the girl.
(私は恥ずかしくてその女の子に話しかけられませんでした)
こうしてみると「周囲に対して恥ずかしい」というのは、英語でいうと「恥ずかしがり屋」に近いと思う。そう、"shy" (シャイ)なのだ。いいことをしようとしても、「無駄にシャイ」なので躊躇してしまうのである。
一方「良心に対して恥ずかしい」というのは、「人として恥ずかしい」の "ashamed" が相応しいだろう。電車内で席を譲らなかったら、より直接的に "Shame on you!" (恥を知れ!)になる。
どうやら日本人、この類いの「恥」にはかなり鈍感で「良心の呵責」みたいなことはあまり問題にされず、「シャイ」感覚の方が圧倒的に先に立ってしまうようなのだね。
日本は古くから「恥の文化」と言われてきたわけだが、この言葉はかなり慎重に取り扱わなければならないだろう。「良心に対して恥ずかしい」というのは、どちらかというと西洋的な「罪の文化」の意識に近いようなのだ。
それって「神」という絶対基準に照らし合わせて「恥ずかしい」のであって、「シャイ」だから見逃されるなんていうような甘ったれた話じゃ済まないのである。
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